The G-SHOCK 40th Anniversary

The G-SHOCK 40th Anniversary

The G-SHOCK 40th Anniversary

RECRYSTALLIZED SERIES

RECRYSTALLIZED SERIES

RECRYSTALLIZED SERIES

Legends Chatting About Journey & Future

Legends Chatting About Journey & Future

 2023年、G-SHOCKは誕生から40周年のアニバーサリーイヤーを迎えた。カシオではこれを顕彰するモデルを前年より発表してきたが、ファーストモデルことDW-5000Cの誕生月となるこの4月に、いよいよ周年記念の目玉となるスペシャルピースがリリースされる。それが、5年に一度──すなわち節目のタイミングに登場するDW-5000品番の直系モデルであるDW-5040PGだ。

 DW-5040PGは、RECRYSTALLIZED SERIES(リクリスタライズド シリーズ)にラインナップされる、40周年記念モデルのひとつ。初号機であるDW-5000Cのデザインはそのままに、ケースバックや尾錠、遊環といったSS製のパーツには、深層硬化処理と再結晶化を組み合わせた新しい加工技術を採用し、しかも文字盤には初代モデルの開発チームであるPROJECT TEAM “Tough”の銘を施したスペシャルな1本となっている。当時、この開発チームを率いていたのが現・カシオ計算機 社長CEO兼CHROである増田裕一氏と伊部菊雄氏。ふたりのレジェンドは、これまでの、そしてこれからのG-SHOCKをどのように見ているのだろうか。HODINKEE Japan編集長、関口 優を交えた座談会を企画し、40周年を迎えた今だからこそ話せるエピソードをうかがった。

左:シニアフェロー 伊部菊雄氏、右:社長CEO兼CHRO 増田裕一氏

 そもそもG-SHOCKは、伊部氏が作成した“一行の企画書”から生まれた時計だ。「落としても壊れない丈夫な時計」とだけ書かれたその企画書は伊部氏が自らの体験に基づいて発案したものだが、前段となる基礎実験を行わないままに提出した案が、図らずも承認されてしまったことから開発はスタートする。

 「もっとも、一行だけ書いて提出したのはそれが最初で最後。通常、企画書には基礎実験を踏まえた内容をびっしりと書き込むんです。ただ恥ずかしい話、この企画だけは基礎実験をやらない状態で提出してしまった。実験を行っていたなら、絶対に出していない企画でしたからね」(伊部氏)

「でも、この提案がいいと思ってゴーサインを出した人はいなかったと思いますよ(笑)」(増田氏)

 承認されてしまった企画をどうにかして形にするべく、会社3階のトイレから時計を落下させる実験を黙々と続けていた伊部氏に、ただひとり声を掛けたのが増田氏だった。「何をやっているんですか?」という問いかけは、実験が上手くいかず焦燥感を募らせていた伊部氏の印象に残り、このことが増田氏を「落としても壊れない丈夫な時計」の開発に誘うきっかけになったという。

 こうして、増田氏はデザイナーに声をかけていくが、当時の実験用サンプルはまだまだ大きく「こんなに大きなものはデザインできない」という声もあったのだとか。そんななか、「大きいなら大きいなりにデザインしましょう」と言って引き受けたのが、当時のデザイナー。PROJECT TEAM “Tough”が本格的なスタートを切った瞬間である。

右は当時の企画書のイメージ。通常提出していたという左の企画書の書き込みと比較すると、いかにイレギュラーなものであったかがわかる。

 「デザイナーが加わって3人でプロジェクトをスタートされたわけですが、それぞれの業務があるなかで、みなさんはこのプロジェクトにどれくらい重きを置いていたのでしょう?」(関口)

 関口の問いに対して増田氏は「プロジェクトが本格的に進み始めると、メンバーは全員、この時計の開発に力を入れていましたね」と語る。この当時、増田氏はほかの新商品スケジュールを管理していたが「G-SHOCKの開発に没頭してしまい、本来の業務が疎かになった」こともあったという。 

 「意地もあったと思います。当時、会社は開発、技術、生産、営業と部門が分かれていたのですが、カシオは半導体の進化とともに成長した会社なので発言権的には開発部門がトップだったんです。ただ、G-SHOCKにおいて重要なのは外装だったので、半導体そのものはあまり関係がない。だから、技術本部のメンバーが商品をゼロから作るんだという思いがあり、それがメンバーを没頭させたという面もありますね」(増田氏)

 「当時を振り返ると、これは私が悪いのですが、基礎実験をやっていないことを誰にも言えなかった。現状を説明できないし、したくなかったんです。そんな状況でほかのメンバーもいろいろな提案をしてくるのですが、それが辛くて、特に増田さんとはぶつかっていました」(伊部氏)

 とりわけ揉めたのが、規格だ。当初は“壊れない時計”というコンセプトから開発当時のプロダクトは“Tough(タフ)”と呼ばれていたが、企画を担当する増田氏は伊部氏に、商品として売る以上はどれくらい強いのかを明確にする必要性を熱弁したという。

  「10mから落としても壊れないことを謳おうと提案すると、伊部さんは猛反対するんです。5〜6本であれば何十回、何百回の試験を繰り返して保証はできるけれども、製品として何万本も作ったら保証できないと言うんですね。私は、それを謳えなかったら何も伝わらないじゃないか! って」

 伊部氏も「実際はそのとおりで、設計者であればきちんと規格を提示するのが当然なんです。それで私も頭にきてしまって、全業態のJIS規格を調べたのですが、衝撃に関する規格が存在しないことがわかった。それで逆に自信を持って、ふたりに『衝撃は規格できないんだ!』とわけのわからない説得をしました」という。

 だが、増田氏はこれに理解を示した。規格がないのであればと、落下時の衝撃だけではなく、あらゆる外圧に対しても強いことを示すべく、クルマに轢かせるのはもちろん、泥まみれにしたり、ディンギーにくくりつけて海中を引き回したりと、チームは考えつく限りの実験を行った。伊部氏は「ゾウに踏んでもらう案もあった」とも振り返る。

 「デザイナーが加わって3人でプロジェクトをスタートされたわけですが、それぞれの業務があるなかで、みなさんはこのプロジェクトにどれくらい重きを置いていたのでしょう?」(関口)

 関口の問いに対して増田氏は「プロジェクトが本格的に進み始めると、メンバーは全員、この時計の開発に力を入れていましたね」と語る。この当時、増田氏はほかの新商品スケジュールを管理していたが「G-SHOCKの開発に没頭してしまい、本来の業務が疎かになった」こともあったという。 

 「意地もあったと思います。当時、会社は開発、技術、生産、営業と部門が分かれていたのですが、カシオは半導体の進化とともに成長した会社なので発言権的には開発部門がトップだったんです。ただ、G-SHOCKにおいて重要なのは外装だったので、半導体そのものはあまり関係がない。だから、技術本部のメンバーが商品をゼロから作るんだという思いがあり、それがメンバーを没頭させたという面もありますね」(増田氏)

 「当時を振り返ると、これは私が悪いのですが、基礎実験をやっていないことを誰にも言えなかった。現状を説明できないし、したくなかったんです。そんな状況でほかのメンバーもいろいろな提案をしてくるのですが、それが辛くて、特に増田さんとはぶつかっていました」(伊部氏)

 とりわけ揉めたのが、規格だ。当初は“壊れない時計”というコンセプトから開発当時のプロダクトは“Tough(タフ)”と呼ばれていたが、企画を担当する増田氏は伊部氏に、商品として売る以上はどれくらい強いのかを明確にする必要性を熱弁したという。

  「10mから落としても壊れないことを謳おうと提案すると、伊部さんは猛反対するんです。5〜6本であれば何十回、何百回の試験を繰り返して保証はできるけれども、製品として何万本も作ったら保証できないと言うんですね。私は、それを謳えなかったら何も伝わらないじゃないか! って」

 伊部氏も「実際はそのとおりで、設計者であればきちんと規格を提示するのが当然なんです。それで私も頭にきてしまって、全業態のJIS規格を調べたのですが、衝撃に関する規格が存在しないことがわかった。それで逆に自信を持って、ふたりに『衝撃は規格できないんだ!』とわけのわからない説得をしました」という。

 だが、増田氏はこれに理解を示した。規格がないのであればと、落下時の衝撃だけではなく、あらゆる外圧に対しても強いことを示すべく、クルマに轢かせるのはもちろん、泥まみれにしたり、ディンギーにくくりつけて海中を引き回したりと、チームは考えつく限りの実験を行った。伊部氏は「ゾウに踏んでもらう案もあった」とも振り返る。

 紆余曲折を経て完成したG-SHOCKは1983年にデビュー。最初に販売をスタートしたアメリカで放映されたCMでは、アイスホッケーのスティックでG-SHOCKを打ちつけても壊れないことが立証され、人気を確実なものにしていく。しかしこのとき、伊部氏は規格化しなかったことの恐ろしさを痛感したという。

 「アイスホッケーのテストと日常での使用は、本来全く関係がない。しかし、日本で規格化しなかったためにこういうことが起こってしまったわけです。タフ、というイメージほど曖昧なものはないので、このアイスホッケーの話のように何でも実験できてしまうんですよ」(伊部氏)

 「完成してからも、悩みは尽きなかったのですね」という関口のコメントにうなずきつつ、伊部氏はさらに続ける。

 「完成してからの方が悩みは大きかったですね。万が一壊れても説明できないことへの不安、規格化しなかったことに対する責任をずっと感じるようになりました。その不安を払拭するのには30年近くもかかってしまいましたから」

 一方、増田氏は「着用して傷がついてもそれが勲章になる、いわばデニムのようなイメージ」をG-SHOCKに抱いていたという。

 「だからアメリカで人気が出たのはうれしかったですね。ですが、当時の日本ではまだデジタルウォッチ=安物という認識が邪魔をしていて、どうしたら日本人はG-SHOCKの価値をわかってくれるのだろうと頭を悩ませていました」

 その後、1989年ごろにはG-SHOCKが逆輸入される形で日本の店頭にも並び、ファッション感度の高い若い世代の人気を獲得していく。増田氏はG-SHOCKを“堅牢性のある男の時計”と考えていたため、ファッションアイテムとして捉えられている状況は受け容れられなかったというが、社内では「カラーバリエーションを増やした方がいい」という声も出始めた。

 「そのころの私は、男の時計だから黒なんだ! 若者に迎合できるか! という感覚がありました(笑)。でも実際、フォルムのバリエーションは増えたもののすべてのモデルが黒なので、店頭に並ぶとまるで炭が並んでいるように見えてしまっていたんです。そこでカラー展開を考え始めたのですが、単に色をつけるのは嫌で、そこに意味を持たせたかった。そこで、レゲエのカルチャーとG-SHOCKのタフさとを重ね合わせたラスタカラーのモデルを作ったのですが、これが売れたんです。それからは考え方が切り替わり、当時の時計にはなかったスケルトンやホワイトのモデルを発表していくと、自然にストリートファッションにリンクしていくようになりました」(増田氏)

 「イルカとクジラをテーマにしたコラボレーションモデルが象徴するように、90年代のG-SHOCKは社会現象と呼ばれるレベルで人気がありました。しかし、そうした現象はそもそも狙っていなかったものであり、ブランドが自由な発想を取り入れた結果なのですね」(関口)

 紆余曲折を経て完成したG-SHOCKは1983年にデビュー。最初に販売をスタートしたアメリカで放映されたCMでは、アイスホッケーのスティックでG-SHOCKを打ちつけても壊れないことが立証され、人気を確実なものにしていく。しかしこのとき、伊部氏は規格化しなかったことの恐ろしさを痛感したという。

 「アイスホッケーのテストと日常での使用は、本来全く関係がない。しかし、日本で規格化しなかったためにこういうことが起こってしまったわけです。タフ、というイメージほど曖昧なものはないので、このアイスホッケーの話のように何でも実験できてしまうんですよ」(伊部氏)

 「完成してからも、悩みは尽きなかったのですね」という関口のコメントにうなずきつつ、伊部氏はさらに続ける。

 「完成してからの方が悩みは大きかったですね。万が一壊れても説明できないことへの不安、規格化しなかったことに対する責任をずっと感じるようになりました。その不安を払拭するのには30年近くもかかってしまいましたから」

 一方、増田氏は「着用して傷がついてもそれが勲章になる、いわばデニムのようなイメージ」をG-SHOCKに抱いていたという。

 「だからアメリカで人気が出たのはうれしかったですね。ですが、当時の日本ではまだデジタルウォッチ=安物という認識が邪魔をしていて、どうしたら日本人はG-SHOCKの価値をわかってくれるのだろうと頭を悩ませていました」

 その後、1989年ごろにはG-SHOCKが逆輸入される形で日本の店頭にも並び、ファッション感度の高い若い世代の人気を獲得していく。増田氏はG-SHOCKを“堅牢性のある男の時計”と考えていたため、ファッションアイテムとして捉えられている状況は受け容れられなかったというが、社内では「カラーバリエーションを増やした方がいい」という声も出始めた。

 「そのころの私は、男の時計だから黒なんだ! 若者に迎合できるか! という感覚がありました(笑)。でも実際、フォルムのバリエーションは増えたもののすべてのモデルが黒なので、店頭に並ぶとまるで炭が並んでいるように見えてしまっていたんです。そこでカラー展開を考え始めたのですが、単に色をつけるのは嫌で、そこに意味を持たせたかった。そこで、レゲエのカルチャーとG-SHOCKのタフさとを重ね合わせたラスタカラーのモデルを作ったのですが、これが売れたんです。それからは考え方が切り替わり、当時の時計にはなかったスケルトンやホワイトのモデルを発表していくと、自然にストリートファッションにリンクしていくようになりました」(増田氏)

 「イルカとクジラをテーマにしたコラボレーションモデルが象徴するように、90年代のG-SHOCKは社会現象と呼ばれるレベルで人気がありました。しかし、そうした現象はそもそも狙っていなかったものであり、ブランドが自由な発想を取り入れた結果なのですね」(関口)

伊部氏が手に持っているのは、初期のMR-Gだ。

「発売された当初、G-SHOCKはあまり評価されていませんでした。ですが、気がついたら若い人にまで広がるようになり、今では本当によかったと思っています。というのも、売れていないときにもG-SHOCKに携わっていた人は大勢いるわけです。その人たちにようやく陽が当たる──そういう思いが強かったですね」と振り返るのは伊部氏だ。その後は「若い人たちにずっとG-SHOCKファンでいて欲しい」と考えるようになったという。そして、彼らが樹脂製モデルの次に着用できる時計としてフルメタルのG-SHOCK──MR-Gの開発が始まったのだ。

 一行の企画書からスタートし、40年のあいだに多くの困難を乗り越えながらも数々のエポックメイキングなプロダクトを打ち出してきたG-SHOCK。「この節目のタイミングで、増田さんと伊部さんは、これからのG-SHOCKに必要なものは何であると考えているのでしょうか?」という関口からの問いに対し、増田氏は「G-SHOCKは、それまでの業界にない新しい何かを掴み、新しいカテゴリーを作り出してきました」と切り出した。

 「当然、ルックスは重要な要素なのですが、それを実現させるための技術開発に注力する人がいて、一方ではデザイナーも新しいカルチャーを探し続けている。そうしたアクションを常に起こしていないと、同じ場所にとどまることになり、G-SHOCKではなくなってしまいます。新しいものを貪欲に探すことは大変だとは思いますが、関わっているすべての人がそれを自分自身に言い聞かせながら開発していく──それがG-SHOCKらしさだと思います。人気が伸びているときのG-SHOCKには、そのときどきのパーソナリティーがあるんです。ただ、規模が大きくなってくると、どうしても安定を求めてしまい、そうした独自性が薄れてくる。だからこそ、常に新しさを追い求めていく姿勢が必要になるのです。とはいえ、私はデザインには口出しはしません。事前に製品のデザインは見るのですが、個人的にピンとこなかったものが、蓋を開けてみたらものすごくヒットしたりしますからね」

「G-SHOCKにはすごく大変なところがあって、お客さまの期待値を超える商品でないとダメなんです」と伊部氏が続ける。

 「たとえば、黒いモデルが主流の時代にフルメタルが出てくるなんて誰も思わない。次にこういうモデルが出てくるだろう、という予想どおりの商品ではG-SHOCKにならないんです。期待値には確実に届いて、もう一段階上に行かなければいけないのですが、それがとにかく難しい。提案された内容に対して、これではつまらないと戻され、再考してまた提案するということを年中繰り返しているのですが、それがあるからこそ40年間続けてこられたのだと思います。G-SHOCKをやりたいという熱意を持って入った人が、考えに考え抜いた案でもようやく期待値。そこで突き返されたときに『これ以上は考えられない。限界です』ではG-SHOCKとして成立しないのです。本当は休みたいですよ(笑)。年中、新しいものを追い続けなければならず、しかも今までを超えていかなければならないので。でも休んだら、そこで終わってしまいますからね」(伊部氏)

 40周年という節目で、伊部氏から聞けた本音。その言葉を噛み締めながら、関口は次のように締め括った。 

 「そうした苦労を経て完成したプロダクトが世界で理解され、愛されるという結果に繋がっている。G-SHOCKを通じて日本人のメンタリティが評価されているようで、私もひとりのファンとしてうれしく思います」

 RECRYSTALLIZED SERIESは“進化”をテーマに、現代解釈を取り入れている。それを強調するのが、DW-5040PGの金属パーツや、フルメタルモデルのベゼルとブレスレットに見られるステンレスの再結晶化と深層硬化処理とを組み合わせた技術だ。これは、ベースとなるステンレススティールに1000℃以上の熱処理を行って結晶模様を浮き上がらせ、その後、炭素ガスを浸透させる深層硬化処理を施すことで硬質層を作り出しつつ、結晶模様を安定化させるものである。

 これまでにもMR-Gでは再結晶チタンを採用した経緯があるものの、ベース材がステンレスになったことで再結晶化の条件を探し出すことが難しくなり、一方の深層硬化処理では素材表面の硬度や硬化層の深さ、外観をそれぞれ安定させる必要が生じたため、開発には3年を要したという。こうして完成した新しいCMFザインは、G-SHOCKらしいラギッドな雰囲気を放ちつつ、最終的にかけられたTIC/IP加工によりその触感は実になめらかだ。さらに、深層硬化処理によって、表面の硬度は一般的なステンレススティールの約3倍にまで高められているという。ルックス、素材特性ともに、アニバーサリーモデルにふさわしい仕上がりになったと言えるだろう。

 この新しい素材処理技術に加えて、DW-5040PGではベゼルとストラップの素材に、現在カシオが推進しているバイオマスプラスチックを採用。環境に配慮する姿勢の“進化“も見せている。また、スクリューバックにアニバーサリーロゴ、遊環には40周年を表現した4つの星印、さらにケースの左下──つまり“40”分位置のプッシュボタンにも星印を刻印するなど、アニバーサリーを表現するデザインがさりげなく散りばめられている点にもG-SHOCKらしい遊び心が感じられる。

 RECRYSTALLIZED SERIESは“進化”をテーマに、現代解釈を取り入れている。それを強調するのが、DW-5040PGの金属パーツや、フルメタルモデルのベゼルとブレスレットに見られるステンレスの再結晶化と深層硬化処理とを組み合わせた技術だ。これは、ベースとなるステンレススティールに1000℃以上の熱処理を行って結晶模様を浮き上がらせ、その後、炭素ガスを浸透させる深層硬化処理を施すことで硬質層を作り出しつつ、結晶模様を安定化させるものである。

 これまでにもMR-Gでは再結晶チタンを採用した経緯があるものの、ベース材がステンレスになったことで再結晶化の条件を探し出すことが難しくなり、一方の深層硬化処理では素材表面の硬度や硬化層の深さ、外観をそれぞれ安定させる必要が生じたため、開発には3年を要したという。こうして完成した新しいCMFザインは、G-SHOCKらしいラギッドな雰囲気を放ちつつ、最終的にかけられたTIC/IP加工によりその触感は実になめらかだ。さらに、深層硬化処理によって、表面の硬度は一般的なステンレススティールの約3倍にまで高められているという。ルックス、素材特性ともに、アニバーサリーモデルにふさわしい仕上がりになったと言えるだろう。

 この新しい素材処理技術に加えて、DW-5040PGではベゼルとストラップの素材に、現在カシオが推進しているバイオマスプラスチックを採用。環境に配慮する姿勢の“進化“も見せている。また、スクリューバックにアニバーサリーロゴ、遊環には40周年を表現した4つの星印、さらにケースの左下──つまり“40”分位置のプッシュボタンにも星印を刻印するなど、アニバーサリーを表現するデザインがさりげなく散りばめられている点にもG-SHOCKらしい遊び心が感じられる。

 誕生から40周年の誕生月に発売される特別なモデルについて、伊部氏は「着用するみなさんを応援する時計」と位置付ける。

 「相棒というよりは、自分が頑張りたいと思ったときに、力をもらえたような気分になったり元気になれたりするような、パーソナリティーのある時計になれるといいですね。どんなことでもいい、頑張ろうとする人を応援する時計になれたら、このモデルをつける方々のお役に立てるのかなと思います。最初は3人でスタートしましたが、今は応援してくれる人たちすべてがTEAM “Tough”。だからみんなで一緒に頑張っていこうと、このモデルを手にしたときに感じて欲しいですね」