本特集はHODINKEE Magazine Japan Edition Vol.8に掲載されています。
クォーツショックに見舞われたスイス時計業界の冬の時代に高級機械式時計の灯を守り続けたパテック フィリップからは、いくつもの才能が巣立った。ローラン・フェリエ氏も、そのひとり。ジュネーブ時計学校の首席だった彼は、1968年に名門メゾンに招かれ、37年間務め、2010年に自身のアトリエを設立した。
入社年と勤続年数、独立年の計算が合わないのは、入社早々に退社し、幼少期から時計と同じく情熱を傾けていたモーターレースの世界に飛び込んだから。自動車部品の販売会社を立ち上げ、週末にはレースに出るという生活を続けていたが、彼の才能を惜しんだパテック フィリップは、1974年にレース参戦を許すという条件で再びメゾンに招聘(しょうへい)した。時計師とレーサー、ふたつの夢を実現したフェリエ氏は、サーキットで運命の出会いを果たす。実業家のフランソワ・セルヴァナン氏である。彼の誘いで、友人のフランソワ・トリスコーニ氏とともに1979年にル・マン24時間耐久レースに参戦し、見事3位に入賞。「いつかまたチームを組もう」と互いの健闘をたたえ合ったフェリエ氏とセルヴァナン氏との約束は、31年後に果たされた。セルヴァナン氏が筆頭株主となり、時計ブランドのローラン・フェリエを創設したのだ。
グランドスポーツ トゥールビヨン パシュートは、ふたりの創業者のモータースポーツへの情熱から生まれた。クッション型のベゼルをセットしたバレル型ケースとブレスレットが優雅なカーブを描く一連のフォルムは、レーシングカーがモチーフ。ダイヤルカラーは、サーキットでふたりが見た朝焼けを写し取った。搭載する“エンジン”は、ダブルヘアスプリングが備わるトゥールビヨンCal.LF619.01。これはふたりが再び組んだチームの記念すべき初作である。外装も機械も最上の手仕上げが行き渡る一方、装飾的なディテールを排したのは、特別な日のための華やかな時計ではなく、日常使いに適した控えめで信頼性の高い時計を目指しているから。時計としての純粋な機能美を追求することで、ローラン・フェリエは高級時計市場で独自の地位を確立する。
最上級のデイリーユースウォッチ
純然たる時計の機能を追い求める情熱は、むろんムーブメントにも注がれる。初作でトゥールビヨンとダブルヘアスプリングの組み合わせを選択したのは、時を示すという時計本来の機能をより正確にするためだ。180度向きを変えて取り付けられたふたつのヒゲゼンマイは、互い違いに伸縮して偏心を相殺し合い、テンワの振動を安定させる。さらにトゥールビヨンキャリッジの外周に歯を切り、3番車でダイレクトドライブしているのも、特筆すべき点である。これによりトルク伝達、回転が安定し、かつ耐衝撃性能も高まる。正確で頑強、さらに80時間ものロングパワーリザーブが備わるCal.LF619.01を積むグランドスポーツのケースは、100mの高い防水性も備え、デイリーユースにまさに向く。
ダブルヘアスプリング・トゥールビヨンで鮮烈的なデビューを飾ったローラン・フェリエは、そのわずか2年後、再び時計界を驚かせた。アブラアン=ルイ・ブレゲが考案したものの、ついには実用化に至らなかったナチュラル脱進機をよみがえらせたのだ。これは並列したふたつのガンギ車が、あいだに据えたレバーを交互に打ちテンワを振動させる仕組みで、振り角が変動しづらく、高精度が得られる。またスイスレバー式と比して、ガンギ車に生じる摩擦ははるかに小さくなる。極めて優れた機構だが、ガンギ車もレバーも形が複雑で、ブレゲが生きた時代の工作機械では完成させられなかった。それをローラン・フェリエは、最先端技術で実現した。
高級機を志向する小アトリエ系のウォッチメーカーは、往々にしてシリコンパーツやLIGAプロセスに懐疑的で、嫌悪すらしている。老舗高級時計ブランドでも、同様の考えを持つ設計者は少なくない。しかしローラン・フェリエは、これらふたつの技術でナチュラル脱進機を完成させた。ガンギ車はLIGAプロセスで、レバーはシリコンで、超精密成形をかなえたのである。ダブルヘア・トゥールビヨンのガンギ車もニッケル・リン製。すなわちLIGAプロセスで作られている。新技術を積極的に取り入れる姿勢は、フェリエ氏のキャリアからきているのだろう。LIGAプロセスとシリコンは、ムーブメントを高性能にし、磁気にも強い。さらにナチュラル脱進機はオイルをほぼ必要としない。メンテナンス期間を大幅に延ばすことができ、ユーザーフレンドリーであることが、ローラン・フェリエが新技術とナチュラル脱進機を導入した理由だ。
これら初作と第2作目の独創的なムーブメントの製作を担ったのは、ローラン・フェリエ氏の息子、クリスチャン・フェリエ氏だ。彼がムーブメント開発で重要な役割を果たし、トゥールビヨンやナチュラル脱進機などの特徴的なキャリバー開発の技術面や全体設計を主導。彼が軸となり開発プロセスやアイデアの構築を進め、ラ・ファブリック・ドゥ・タンを率いるミッシェル・ナバス氏とエンリコ・バルバジーニ氏は彼のメンターとして、ローラン・フェリエ自社ムーブメント開発を支えた。
ブランドを象徴するナチュラル脱進機を搭載するCal.FBN229.01のテンプとマイクロローターのブリッジは、前出のトゥールビヨンのブリッジのデザインをうまく転用している。ゴールド製ローターは片巻き上げで、逆回転を防止するラチェットが備わるが、これはローターの摩耗を防ぐための工夫だ。また、クラシックコレクションでは伝統的なコート・ド・ジュネーブ仕上げとした。このクラシックのケースは、ブランドのファーストモデルとして生まれ、ラグやケースをつなぐラインをフェリエ氏が理想とする滑らかさにするのに苦労したという。
クラシックもグランドスポーツもダイヤルは、仕上げに凝っているが、デザイン自体はけれん味がなくシンプルで、視認性に優れる。またダイヤル側で複雑機構を誇ってもいない。控えめな美を奏でるローラン・フェリエの時計は、最上級の手仕上げによって静かに存在を主張するのだ。
Words:Norio Takagi Photographs:Jun Udagawa Styling:Eiji Ishikawa(TRS)