独立時計師やインディペンデントブランドが注目を集めている今、そのジャンルのなかでも僕にとって特別な思い入れがあるのが、ローラン・フェリエです。僕がまだこの仕事を始める前、自分のブログで時計について記事を書いていた頃に、初めてプレスプレビューに僕を招待してくれたスイスの時計ブランドが、ローラン・フェリエでした。
そのときに体験させてもらったのが、ムーブメントパーツの仕上げ工程のひとつであるブラックポリッシュ。鏡のように平滑な面をつくり上げるこの技法は、わずかな角度や圧の違いで輝きが変化してしまうほど繊細で、ほんの数ミリのパーツであっても思い通りに仕上げるのは驚くほど難しく、当時の僕にとっては完全に歯が立たない作業でした。それから年月が経ち、今回僕は初めてローラン・フェリエの工房を訪れる機会に恵まれたのです。そこで目にしたのは、彼らの腕時計がいかに丁寧に、そして情熱を込めて作られているかという現場そのものでした。
バイオグラフィー
ローラン・フェリエ氏は、祖父も父も時計職人という家系に生まれた、3代目の時計師です。幼い頃から時計作りの環境に囲まれて育ったものの、本人は機械を分解して遊ぶようなタイプではなく、むしろ時計のデザインに強く惹かれていたと語っています。
ローラン・フェリエ氏が時計学校で手がけたスクールウォッチ(卒業制作)。
卒業制作の懐中時計の時点ですでに、ムーブメントには美しい仕上げや繊細な装飾が見られた。
ジュネーブ時計学校で学び、優秀な成績を収めた彼は、卒業後、スイスの名門ブランドがごく限られた学生に声をかけるなかのひとりとしてパテック フィリップに迎えられました。複数の部署で経験を積んだのち、一時はモータースポーツの世界に情熱を注ぐため、時計業界から離れます。
しかしその後、再びパテック フィリップに戻り、ケースやダイヤルといった外装部門を担当することで、時計全体のバランスや美の調和に対する深い感覚を養っていきました。
モータースポーツに傾倒していた時代のローラン・フェリエ氏(右)とフランソワ・セルヴァナン氏(左)。
二人がル・マンに出場した際に駆っていたポルシェ935 ターボ40。
ブランド設立のきっかけとなったのは、モータースポーツ時代の仲間であり、現在も共同経営者を務めるフランソワ・セルヴァナン氏との出会いでした。1979年のル・マン24時間耐久レースでは、同じチームの一員として3位入賞を果たし、いつか時計ブランドを立ち上げようと語り合ったといいます。
それから時を経て、ローラン・フェリエ氏はパテック フィリップでデザイン・開発部門の責任者にまで上り詰め、定年退職まで残りわずか3年という時期を迎えていました。穏やかな引退を考えていた矢先、セルヴァナン氏がこう告げます。「ローラン、今が最後のチャンスだ。資金もある。君の理想の時計を作ってみないか?」――この一言が、フェリエ氏の心に火を灯しました。
ローラン・フェリエ氏(右)と息子のクリスチャン・フェリエ氏(左)。
もうひとつの大きな追い風となったのが、息子であるクリスチャン・フェリエ氏の存在です。当時、ロジェ・デュブイでムーブメントコンストラクターとして活躍していた若きエンジニアであり、父であるローラン氏もその設計能力に一目置いていました。
こうして、ムーブメント設計を担うクリスチャン、外装とデザインを統括するローラン、そして資金と経営を支えるフランソワ。三者の役割が見事にかみ合った理想的なチームが生まれ、ローラン・フェリエ氏は、自身の名を冠したブランドを立ち上げる決意を固めたのです。
ローラン・フェリエ ガレ クラシック トゥールビヨン ダブル スパイラル。
こうして2009年、ローラン・フェリエが誕生しました。翌2010年には、ふたつのヒゲゼンマイを備えたガレ クラシック トゥールビヨン ダブル スパイラルをブランド初のモデルとして発表。新鋭ブランドながら、その年のGPHG(ジュネーブ・ウォッチメイキング・グランプリ)でメンズウォッチ賞を受賞するという快挙を成し遂げました。その後も評価は高まり、現在までに通算5度のGPHG受賞を果たしています。
プラン・レ・ワットの新工場
この建物の4階全フロアがローラン・フェリエの新たな製造拠点。
ブランドの成長にともない、それまで使用していた工房が手狭となり、2025年、ローラン・フェリエは現在のジュネーブのプラン・レ・ワットに新たな工房を構えることになりました。以前の工房は、ブランド設立当初からの愛好者であり、残念ながら交通事故で亡くなったある顧客の遺族から託された一軒家を使用していたものです。その顧客がローラン・フェリエの時計を深く愛していたことを知っていた遺族が、「ぜひこの家を使ってほしい」と申し出たことがきっかけでした。
しかし、ブランドが拡大するにつれ、より高度で本格的な製造環境が求められるようになり、新工房の建設が決断されました。この新工房は、時計師たちが持てる技術を最大限に発揮できるよう、細部まで綿密に設計されています。その設計には、製造部門のチーフであるバジル・モナ氏も深く関わっており、現場の視点が反映された理想的な空間が実現されています。
ローラン・フェリエの工房で何よりも驚かされたのは、時計師一人ひとりが1本の時計を最初から最後まで担当しているという点です。プレアッセンブリー(仮組み)から本組み立て、調整、装飾に至るまで、すべての工程が一人の時計師の手によって行われているのです。職人にとってのやりがいや責任感を高めると同時に、結果として製品の品質を大きく引き上げています。また、工程全体を通して作業することで一貫性と精度が確保され、細かなニュアンスへの理解も深まっていきます。
たとえば、ある工程でネジをやや強く締めすぎたとしても、同じ時計師が他のムーブメントとの比較を通じて最適な力加減を体得できるため、経験を積むごとに完成度が高まっていくのです。さらに、この工房では通常2〜6本単位で作業が行われており、同一作業を繰り返すなかで微細な感覚の調整が可能になり、技術の熟成にもつながっています。こうした精密な作業を支えるため、あらかじめ緻密に準備されたアッセンブリーキットが用意されており、各時計師の作業テーブルには必ず詳細な作業書が備えられている点も印象的でした。
アッセンブリーキット。
テーブルには仕様書が置かれている。
加えて、ここではダブルアッセンブリー(二度組み)という手法も採用されています。まず最初に各パーツの注油が行われ、すべての歯車やルビーの石留め、テンワの調整といった工程を経て動作確認を行い、その後いったんすべてを分解。パーツを超音波洗浄機で徹底的に洗浄し、新しいオイルを注油してから本組み立てへと移ります。初回の摩擦で生じる微細な金属粉や、目に見えないレベルのチリを完全に取り除くことで、最終的な滑らかさ、耐久性、そして精度を最大限に引き出すことができるのです。
この一連のプロセスを目の当たりにして、ローラン・フェリエの時計が持つ高い品質が、こうした丁寧で妥協のない手仕事の積み重ねによって支えられていることを、あらためて実感しました。
ナチュラル脱進機を搭載したムーブメント。
特筆すべき存在として挙げたいのが、ローラン・フェリエが独自に内製しているナチュラル脱進機です。ナチュラル脱進機は、かつて天才時計師アブラアン=ルイ・ブレゲによって発明された機構です。しかし当時の製造技術では、実用化に必要な精度と耐久性を確保することが難しく、理論上の理想にとどまっていました。ローラン・フェリエはそのナチュラル脱進機をよみがえらせ、継続して生産しています。
構造は、上下2層構造のシリコン製レバーとニッケル・リン製の脱進車によって構成されており、注油を必要とせずにエネルギーを効率的に伝達できるのが最大の特徴です。この高効率な伝達により、パワーリザーブの持続時間が延びるだけでなく、振幅が終始安定し、結果として時計の高い精度維持に大きく貢献しています。
ナチュラル脱進機の部品。
とはいえ、この機構の組み立ては非常に高度な作業であるため、組み立て部門のなかでも特に熟練した職人の手によってのみ行われています。極小のパーツで構成されており、時計学校でも教わらない特殊な技術が求められます。新たに工房に加わった時計師たちは、まずベーシックなムーブメントで経験を積み、その後1〜2年をかけて、この機構を扱えるようになるまで訓練を重ねていくのだそうです。ナチュラル脱進機の存在は、ローラン・フェリエが単に美しさを追求するだけでなく、精度との両立を本気で目指すブランドであることを、あらためて深く印象づけるものでした。
部品は、仕上げを専門とする職人たちの手によって、丁寧に装飾されていきます。実は、仕上げに特化した専門部門を設けることは、創業者ローラン・フェリエ氏にとって長年の夢でもありました。
現在、工房には12名の仕上げ職人が在籍しており、それぞれが長い訓練期間を経て技術を磨き上げてきました。新たにこの部門に加わる職人は、まず基本的な研磨作業からスタートし、数年をかけてようやく入り角の仕上げのような高度な技術を任されるようになります。
工房では、ジュネーブストライプ(コート・ド・ジュネーブ)、サーキュラーサテン仕上げ、入り角の仕上げ、ブラックポリッシュ(黒鏡面仕上げ)といった伝統的な装飾技法が、すべて手作業で施されています。電動工具の使用は必要最小限にとどめられ、多くの工程でヤスリ、サンドペーパー、木製のブロックやダイヤモンドペーストなど、昔ながらの道具が使われていました。
たとえば、トゥールビヨンキャリッジの上部ブリッジの仕上げでは、まずヤスリで荒取りを行い、その後サンドペーパーや木片にダイヤモンドペーストを塗布して丁寧に磨き上げていきます。内角の鋭いラインを生み出すには、ヤスリの角度や力加減に細心の注意が必要で、わずか1箇所の処理に1時間以上を要することもあります。
こうした手作業による装飾は、単なる美しさを追求するためのものではありません。ローラン氏自身が「人の温かみを与え、時計に命を吹き込むための大切なプロセス」と語るように、そのひとつひとつが大切な工程として位置づけられているのです。
工房のなかには、職人たちの研ぎ澄まされた集中力と情熱が張り詰めた空気となって満ちており、その手で磨き上げられた面のひとつひとつが、静かに、しかし確かな輝きを放っていました。
ローラン・フェリエの2025年新作時計
見学の終盤、僕は工房の一室で静かに置かれた新作モデルたちと対面しました。ここからは、ローラン・フェリエが今年発表した新作2モデルをご紹介します。
まず目を奪われたのは、クラシック・トラベラー グローブナイトブルー。直径41mm×厚さ12.64mmの18Kホワイトゴールド製ケースにナチュラル脱進機を搭載したこのGMTモデルは、ローラン・フェリエが長年培ってきた技術と美意識が結実した一本です。
左の窓にホームタイム、右の窓に日付、そして中央の矢印針でローカルタイムを示すというシンプルで明快な構成です。プッシュボタンひとつで1時間単位の調整が可能で、日付もローカルタイムと連動して前後に動く非常に使いやすいコンプリケーションとなっています。
そして何より圧倒されるのは、そのダイヤルの美しさです。文字盤の中央部はゴールド製で、地球儀のような立体感を演出するために、わずかに丸みを帯びたフォルムに仕上げられています。5大陸と海洋は、それぞれブルーとディープブルーのシャンルヴェ・エナメルによって描かれ、宇宙から見た地球のような印象を与えます。さらに、都市の灯りを思わせる細かな光は、ゴールドのエナメルでひとつひとつ手描きされています。この中央部のダイヤルを完成させるまでには、焼成の工程を11回も繰り返す必要があるといいます。
本作の詳細は、紹介記事『ローラン・フェリエ クラシック・トラベラー グローブナイトブルー』をご覧ください。
もうひとつの新作クラシック・オート ホライゾンは、2024年のGeneva Watch Daysにあわせて発表されたセリエ アトリエシリーズのダイヤルバリエーションです。アイスブルーのダイヤルは、シルバーカラーのベースダイヤルに縦方向のサテン仕上げを施し、その上からブルーのラッカーをコーティングすることで生まれています。光を透過するラッカーが下地の質感を引き立て、澄みきった透明感と奥行きをもたらしています。
さらに、ミニッツサークルには、センターダイヤルと異なるサーキュラー仕上げが施されています。角度によって光が複雑に反射し、それぞれのパーツが異なる表情を見せることで、ダイヤル全体に奥行きと繊細な輝きを与えています。また、日付表示部分はスポーツカーのエアインテークを思わせるデザインとなっており、全体のバランスを巧みに引き締めています。
搭載されている自動巻きのCal.270.01は、スポーツ・オートに初めて搭載された自動巻きムーブメントと共通するものです。ただし、クラシックラインに合わせて、ロジウム仕上げのコート・ド・ジュネーブ装飾などが与えられています。さらに、ローラン・フェリエ氏のこだわりのひとつである、72時間のパワーリザーブが確保されます。
直径40mm、厚さ11.9mmというスペックだけを見ると、昨今の小径化トレンドの中ではやや大きく感じられるかもしれません。しかし、懐中時計に着想を得た小石のように丸みを帯びたケースデザインと、手首に沿うよう角度がつけられたラグの効果によって、実際に身につけると視覚的にも装着感のうえでも非常に心地よいサイズ感に収まっていました。
本作の詳細は、紹介記事『ローラン・フェリエ クラシック・オート ホライゾン』をご覧ください。
ローラン・フェリエのこれから
新しいダイヤルカラーについてデザイナーのマーティン氏と話し合うローラン・フェリエ氏。
ローラン・フェリエの歩みは、創業者個人の理想から始まりました。しかし今、その精神は確実に息子であるクリスチャン・フェリエ氏へと受け継がれています。現在、彼はすべての自社ムーブメントの設計を担当し、父が追い求めてきた哲学を、設計というかたちで具体的に体現しています。またスクエア・マイクロローターでは、ムーブメント設計のみならず、ケースデザインにも関与しているといいます。
そんな彼が強調していたのは、「私たちは創業以来、常にチームで時計を作ってきた」という姿勢でした。「工房にいる職人たちはもちろん、サプライヤーも重要な存在です。最初のトゥールビヨンを設計したときに協力してくれたミシェル・ナバスとエンリコ・バルバジーニのふたりは、私にとってメンターのような存在です」と語るその言葉からは、技術や思想だけでなく、人とのつながりを大切にしてきた軌跡がにじみ出ています。
そしてプラン・レ・ワットの新工房を訪れて強く印象に残ったのは、「良い時計を作るには、まず時計師が幸せでなければならない」という考えでした。その理念のもと、快適な作業環境が整えられ、時間をかけて技術が育まれ、一本一本の時計が丁寧に仕上げられていく。そこには、ローラン・フェリエが創業から15年かけて築いてきたピュアなウォッチメイキングとも言える姿勢を、これからも変わらず貫いていこうという確かな意思が感じられました。
Photographs by Kyosuke Sato and Masaharu Wada