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Found 最も希少なG-SHOCKと生みの親、伊部菊雄氏 HODINKEE編集長ジャック・フォースターと語る

 伊部菊雄氏は、まさか自分が世界的に有名になるとは思ってもいなかったろうが、カシオのG-SHOCKを発明した人物である。彼は一見したところ、世界で最もタフな時計を開発するような人物には見えない。やや小柄で、スリムで、話し方もソフトで、眼鏡をかけている彼は、G-SHOCKが時計学的な成果と同じくらいエンジニアリングの成果であることを思い出すまでは、少し違和感を与えるかもしれない。彼は一流のエンジニアである。

※編注:本記事は2016年にHODINKEE.comで掲載されたものの翻訳です。

  伊部菊雄氏は、まさか自分が世界的に有名になるとは思ってもいなかったろうが、カシオG-SHOCKを発明した人物である。彼は一見したところ、世界で最もタフな時計を開発するような人物には見えない。やや小柄でスリムで、話し方もソフトで眼鏡をかけている彼は、G-SHOCKが時計学的な成果と同じくらいエンジニアリングの成果であることを思い出すまでは、少し違和感を与えるかもしれない。彼は一流のエンジニアである。

 G-SHOCKの歴史には興味深い話がたくさんある(ご承知のように、想像しうるあらゆる過酷な状況下でも耐えられるように設計された時計ブランドの一つ)。最近、ニューヨークのカシオ支社で伊部氏と話をした際に、それらの話を少し掘り下げて、何が言い伝えで、何が伝説で、何が真実なのかを知る機会があった。G-SHOCKにまつわる話のハイライトの多くは、筋金入りのG-SHOCKファン(全世界にG-SHOCKコレクターのコミュニティがあり、ヴィンテージのパテックやロレックスのコレクターが自身の時計について語るときと同じくらいの熱心さをもつ人たちだ)にはお馴染みのものだが、30年以上も前にG-SHOCKを立ち上げた人物から話を聞くと、G-SHOCKを世に送り出すまでにどれほどの粘り強さが必要だったのかを思い知らされる。

kikuo ibe g-shock

伊部菊雄氏。G-SHOCKの生みの親。

 まず第一に、伊部氏がG-SHOCKを思いついたのは、愛用していた機械式時計が壊れたことがきっかけだったというのは本当だ。その時計は父親からのプレゼントだったが、ある日、道を歩いているときに(事故が起きたときにはもう数年カシオに勤めていた)他の歩行者がぶつかってきて、時計のバンドが切れ歩道に落ちてしまった(伊部氏によると、キャッチしようとしたが失敗したとのこと)。針が外れたり、裏蓋が外れたり、バンドが折れたりと、時計の壊れ方としてはありとあらゆる面で壊れてしまった。伊部氏は、しかし、それがどのブランドのどのモデルの時計かは言わない。彼は何度も聞かれたそうだが、機械式であり、日本製の国産モデルであり、カシオではないことを認めた以上のことは言わないようにしている。

 伊部氏が衝撃に強い時計の試作に着手したのは1981年のこと。当時のクォーツ時計は、極薄の時計を作ることが主な目標だったそうで、過酷な衝撃にも耐えられるような液晶クォーツムーブメントが入るように試みることから始めた。1982年には「G-SHOCK」の開発も十分に進み、8人の技術者を配置してカシオの正式なプロジェクトとなった。初期の試作品はコンセプト実証モデルであり、特に身に着けられるものではなかった。

early g-shock prototype

初期のG-SHOCKの試作品は、腕時計というよりもソフトボールだ。

 伊部氏が運動場でボールを弾ませている女の子を見て、ムーブメントを衝撃から隔離するため弾力性のある物の中に入れる、というアイデアを得たのがきっかけとなり、実験がスタートした。また、試作品が、カシオの研究開発センターの上階のトイレの窓、具体的には3階の男子トイレの窓から投げて試されたということも事実である。10mの落下に耐え、電池寿命10年、10気圧(100m)の防水性能を持つ時計を作ろうというのが伊部氏の目標だった。1983年に発表されたG-SHOCKの初代モデルDW-5000は、200mの防水性能をもち、言うまでもなく10mの落下にも耐えられる性能を備えていた。伊部氏は、製造過程での試作品を車で轢いてみるなど、思いつく限りのテストをしたという。

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rare g-shock kikuo ibe

"プロジェクト チーム タフ "G-SHOCK、最もレアなG-SHOCK。

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"プロジェクト チーム タフ " G-SHOCK のスティール製スクリューダウンの裏蓋。

 今回ご紹介するG-SHOCKは、世界でも珍しい「プロジェクト チーム タフ」のG-SHOCKだ。8人の開発チームに与えられたもので、文字盤に "Project Team Tough "の文字が入っている以外は市販モデルと同じ。1983年に8本が製造されたが、現在では2本しか残っていない。伊部氏は、200個以上の試作品を保存していなかったことを悔やんでおり、「G-SHOCKの成功を知っていたら、絶対に捨てなかった」と語っている。 

metal g-shock

メタルの試作G-SHOCK2台と初の市販モデル。

 オリジナルモデルの開発以外にも、開発チームが直面した最大の課題の一つは、従来のモデルと同じタフさを保ちつつ、メタルケースを採用したG-SHOCKを作ることだったと伊部氏は語る。そのためのアイデアは、よりフォーマルな場面で着用できるG-SHOCKを作ることだった。開発の過程で技術陣に負担をかけてしまったため、モチベーションを上げるために彼は、「たわいのない嘘をついて」成功したら必ず大手雑誌の取材を受けるという約束をしていたそうだ。上の写真の試作品を見れば分かるように、物理的な試験のプロセスは相当過酷だったということは想像に難くない。より重要な課題の一つは、裏蓋を衝撃から守る方法を考え出すことだった。ウレタンモデルでは、半硬質のウレタンストラップがショックアブソーバーの役割を果たす。メタルモデルでは、ブレスレットのリンクが内側に折りたたまれるように設計され、メタルブレスレットが衝撃を吸収できるようにした。 彼のチームはついに成し遂げ、G-SHOCKは従来のウレタンアウターシェルから脱却することに成功した。上の写真の右がG-SHOCK初のメタルケースモデルMRG-100だ。

g shock hammer tone

カシオのG-SHOCK MR-G、鎚起が施されている。

 今日、最も審美的に手のかかったG-SHOCKは、MR-Gだ。当時70万円(税抜)というこのモデルは、これまでに製造されたG-SHOCKの中で最も高価な モデルであるが、このモデルために行われている手作業の量も桁違いだ(確かにG-SHOCKの基準では)。ベゼルとブレスレットのセンターリンクの装飾には、鎚起(ついき)と呼ばれる技法が用いられ、あまり知られていないが、300あるモデルの全ての鎚起の装飾は、京都の浅野美芳という一つの工房が、半年かかって完成させたものだ。

g-shock history

ここに33年分のG-SHOCKの歴史がある。

 さて、伊部菊雄氏は次に何をしたいのか? 伊部氏のお気に入りプロジェクトは、宇宙遊泳用のG-SHOCKの開発だ。G-SHOCKは、もちろん、これまで宇宙飛行士やそのクルーに宇宙船内で使用されてはきたが、伊部氏によると、放射線や磁場ではなく、宇宙船外の温度変化、つまり、NASAの言うところの華氏-250℃から250℃の温度変化に耐えられるG-SHOCKを作ることが課題だそうだ。参考までに、NASAがスピードマスターに対して行った元々の耐用実験では、160°F(71℃)で48時間、200°F(93℃)で30分という高温試験、さらに0°F(-18℃)で4時間の低温試験が課せられた。

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kikuo ibe g-shock

伊部菊雄氏の所有するG-SHOCK

 興味深いことに、33年の時を経ても、伊部氏の個人的なお気に入りのG-SHOCKは、オリジナルのDW-5000と、そのデザインから大きく変わっていない最近のモデルだ。G-SHOCKには、時計史上他にないような明確な目的がある。伊部氏によれば、G-SHOCKは、確かに彼が予想もしなかったようなポップカルチャーのアイコンになりはしたが(ちなみに、MRG-100の開発チームは実際に大手雑誌の取材を受けることができた。そしてG-SHOCKはそれ以来、数え切れないほどメディアのスポットライトを浴びたり浴びなかったりしている)、人を殺すほどではないものから実際に人を殺すかもしれない危険なものまで、何を投げつけられても耐えられるという基本的な能力があったからこそ、今日の成功があったのだと感じている。

Hammer Tone 限定モデルの詳細はこちらから、G-SHOCKは初期のTwo Watch Collectionコラムでご紹介しています。