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G-SHOCKとスウォッチ 80年代を代表する同い年の時計ブランド

ここ何十年でG-SHOCKとスウォッチは、カルト的存在からクラシックな存在へと変貌をとげ、高級時計づくりの世界に予想外に長く影を落としてきた。


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1970年代は言うまでもなく誰もが知る通り、機械式時計製造業には全般的に、そしてスイスの時計づくりにとってはとりわけ、あまり良い時代とは言えなかった。HODINKEEの元編集責任者であったジョー・トンプソン(Joe Thompson)もそこに居合わせており、クォーツ革命の苦難と試練を見事に記録にまとめた。最初にクォーツ式アナログ時計、そしてLED時計、LCD時計と急速に進む電子腕時計に対して、スイスの時計業界はほぼ完璧に為すすべがないように見えた。それらは、次々と腕時計の最先端テクノロジーとなっていっただけではなく、スイスの機械式時計に比べて格段に安価となり、加えて、桁違いに正確さを増していったのだ。少なくとも数年ほどの間、スイス時計業界全体が、スペア部品を売る会社として売却されるべきであり、勤勉なスイス人はもっと儲けのよい他のベンチャー事業に意識を向けるべきだと見られていた。あるいは少なくとも、時計づくりよりは明るい未来のある事業へと。

 もちろん、スイス時計産業は死に絶えはしなかった。代わりに、自らの立て直しを図ったのだ。1980年代初頭までに、控えめな楽観論が広がった。スイスは、最先端のクォーツ技術、特に、超薄型腕時計に精力的に投資していたのだが、機械式時計の復興の兆しも見えてきていた。1983年に、現代のスイスの時計づくりを特徴づける合併が行われた。ニコラス・G・ハイエックが、スイスの時計づくりの2大複合企業であるSSIHとASUAGを合併して、SMH(マイクロ電子工学と時計製造のスイス会社)という事業体となった。それが今日のスウォッチ グループだ。
 そしてそれと同じ1983年、2つの腕時計が登場した。それは時計製造というものを再定義し、より多くの新たな対象へと向けただけでなく、驚くことに、高級機械式時計の世界にも相対物をもつまでに至った。その2つの腕時計が、スウォッチと、カシオのG-SHOCKだった。

壊れない:G-SHOCKの誕生

オリジナル1983年版G-SHOCKのコンセプト的なテストベッド。伊部菊雄氏が試作段階の中で製作した。

 G-SHOCK誕生の話は有名だ。カシオの技術者である伊部菊雄氏が、大切にしていた家族の贈り物である機械式時計をうっかり壊してしまって狼狽し、絶対に壊れないとはいえないまでも、人体に加えられたら命取りになりかねない扱いにも確実に耐えうる腕時計を作ろうと決心したのだ。G-SHOCKの開発は、当初は伊部氏が自分の時間の中で進め、可能性のある設計を何十と試みた挙句、ついに、物理学の学生にとってのニュートンのリンゴと同じく、腕時計愛好家の間では伝説となった、ひらめきの瞬間を迎えるに至った。

 真に衝撃耐性のある時計を作るという問題で窮地に立たされていた彼はある日、公園で少女がボールを弾ませているのを見ていた。そして、腕時計のムーブメントを、弾力があって衝撃を吸収するインナーケースの中に収納するというアイデアを思いついた。こうしてG-SHOCKが誕生し、1983年に、初代モデルのDW-5000が登場した。200m防水で、 10mの高さから舗装表面上に落としても壊れない。伊部氏が、試作品のいくつかをカシオ 羽村技術センターの3階男子トイレの窓から下の駐車場へと落としていたのは、有名な話だ。今やストリートファッションの象徴となり、デイトナやパテッの1518のようにファンの熱烈な収集対象であるG-SHOCKは、トイレの窓から投げてそのベータ版テストが行われた唯一の腕時計として、今日に至るまで時計ファンたちから記憶されている。

1983年版G-SHOCK『プロジェクトチームタフ』。当初の開発チーム8名のメンバーひとりひとりに捧げられた。

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手首に着けるポップアート:スウォッチ

 スウォッチはほかでもない、スイスの時計製造業界を救った腕時計として知られている。多少 差し引いて聞く必要があるのは当然のこととして、しかし、スウォッチが単独で救ってきたのではないにしても、確かに良い働きをしたことには間違いない。カラフルで、安価で、そして最も決定的なのが収集可能である点だ。そんなスウォッチは、腕時計をそれまでにはなかったものにした。腕時計を、楽しいものにしたのだ。スウォッチのコレクターは、G-SHOCKコレクターと同様、驚くほど深くはまり込むことがある。時には何百本もの腕時計を集めてみたり。2015年の「サザビーズ香港」のオークションでは、 スウォッチ5800本以上からなる単一のコレクションが売りに出された

第1世代の1983年版スウォッチ。

スウォッチ:手の届く価格で、収集しやすく、 楽しい。

 スウォッチの構造は、高級時計製造との意外なつながりをもっている。スウォッチがデビューする数年前に、超薄型腕時計の新記録を打ち立てたクォーツ腕時計が登場した。それがコンコルドのデリリウムだった。1979年に発売されたデリリウムは、できる限り薄い腕時計を作るという問題を、独創的な方法で解決した。

初期のデリリウムのティファニー広告。このデリリウムは極めてラグジュアリーな趣向を凝らしており、価格は9000ドル(約92万2000円)から1万1000ドル(約117万6000円)であった。

 (腕時計は、ゲダリオ・グリンバーグ〈Gedalio Grinberg〉氏が所有していた米国のコンコルドブランドの下で発売された。彼が開発費として相当の額を出していたのだ)。従来のケースに従来のムーブメントを収めるのではなく、アンドレ・ベイナール(André Beyner)氏やモーリス・グリム(Maurice Grimm)氏といったエボーシュ社を陣頭指揮していた技術者たちが、裏蓋をムーブメントの地板の一部として使ったのだ。その結果、1979年には厚みが1.98mmしかない時計が完成し、デリリウム最終版であるデリリウムⅣの厚みはわずか0.98mmで、史上最も薄い腕時計となった。

ベイナール氏とグリム氏によるプロトタイプ。これが後にオーデマ ピゲ Ref.2870超薄型トゥールビヨンとなる。

 話は思わぬ展開を見せ、デリリウムの発売直後に、ベイナール氏とグリム氏がこれと同じアイデアを採用し、超薄型の自動巻き機械式 腕時計として1980年に特許を取った。この秘密のプロジェクトの名称はデリリウム・ブルガレ 、大衆向けのデリリウムという意味だ。エボーシュ社はこの特許に関して何もせず、他の誰かがそれをしたのだが、それを成し遂げたのが、オーデマ ピゲであった。ベイナール氏とグリム氏はプロトタイプをいくつか作ったが、そのうちの1本が2016年のフィリップスオークションに出品された。このプロトタイプが、1980年代の最も革命的なハイメカニズムウォッチのひとつになる。1986年版のオーデマ ピゲ Ref.2870、超薄型自動巻きのトゥールビヨンだ。厚さわずか4.8mm、輪列の下部の旋回軸が裏蓋に埋め込まれ、デリリウムの精神を引き継いだ本モデルは、スウォッチの近しい従姉妹のようなものであり、超薄型トゥールビヨンとしての世界記録を何十年か保持していた。だが、2014年にとうとうブルガリのオクト フィニッシモ トゥールビヨンにその記録を破られた

 時計のケースをムーブメントの地板の一部として使うのは、現代の超薄型時計づくりにおいても最先端の戦略となっている。世界最薄の機械式時計は、ピアジェの作った アルティプラノ アルティメート・コンセプト で、わずか2㎜の厚さしかなく、その基本的な構造原理は、AP2870、コンコルドのデリリウム、そしてそう、スウォッチと同じなのだ。

 では、G-SHOCKの精神的、かつ技術的な後継者はいるのだろうか。数多くいる。 2000年代初期に、いくつかの腕時計ブランドが、極度にメカニカルな時計とでも言うべきものを実験し始めた。超高級腕時計づくりの偉大な実践者たちのうちの1社がリシャール・ミルで、同ブランドはトゥールビヨンといった複雑機構を、それを発明したアブラアン-ルイ・ブレゲ(Abraham-Louis Breguet)氏も夢想だにしなかったであろう方向へともっていったのだが、その方向性の最も極端な例が、最大5000Gの衝撃にまで耐え得る超薄型トゥールビヨン、RM27 01 ラファエル・ナダルだ。

 RM27-01は、そうした過酷な扱いにどのようにして耐えるのだろうか。本機が極めて軽量であるという事実もいく分かは貢献している。わずか19gであり、これは平均的な腕時計ブレスレットのほんのわずかな割合を占める質量でしかない。しかし、RM 027の真のトリックは、実はムーブメントがピンと張ったケーブルの衝撃吸収システムによってケース内に吊り下げられており、ケースへの衝撃から隔離されているところにある。リシャール・ミルは他の腕時計では、「エストラマー」によるサスペンションシステムを使ったりもしている。簡単に言うと、ムーブメントをケース自体から離した状態に保つゴムのバンパーで、衝撃緩衝材の役目を果たすのだ。小売価格74万ドル(約7907万円)のRM 027をG-SHOCKの従兄弟と捉えるというのは、直感的にすんなりとはいかない。しかしどちらの腕時計も同じ基本原理に基づいており、繊細でかなりデリケートなムーブメントを、それを分離させるサスペンションシステムを介して、保護するアウターケースに収めるというものだ。そして、この20年の間に作られてきた衝撃耐性をより高く極めた機械式腕時計のいくつかも、G-SHOCKの草分け的な前例なくして想像するのは困難だ。

 ある意味G-SHOCKとスウォッチほど、その基本概念、美観、開発目的が真逆である2つの腕時計を思い浮かべるのは難しいだろう。だがしかし、どちらもいわば、1980年代の時計づくりという水の中に投げ入れられた石であり、その波紋は、それぞれの時計が占めていたオリジナルのアイデンティティを遥かに超えたところまで及びながら、今なお感じられるのだ。

 G-SHOCKとスウォッチは間違いなくどちらも、それぞれの開発者たちがおそらく決してそうなるとは考えなかったであろうほどに、ファッションを象徴する存在となり、歴史上の試金石となってきた(そしてその成功には彼らは間違いなく感謝している)。しかしどちらもまた、腕時計業界の意識を新たな可能性へと開いたのだ。MTVチャンネル、肩パッド、映画『フェリスはある朝突然に』などが全盛であった時代を持ちこたえてきた、時計づくりの全く新しい取り組み方へと。そしてどちらも今なお、今日のウォッチメイキングの進歩をインスパイアしている。