オールブラックの時計ケースはモダンさ、ステルス性、そしていわゆる“タクティクール(戦術的な装備や服装などをクールでスタイリッシュなものとして楽しむ文化)”の象徴である。これは何世紀にもわたる、豪華で光沢のある貴金属に対抗するものだ。少し大げさかもしれないが、時計のトレンドが周期的に繰り返されるなかで、ブラックの時計ケースやオールブラックの美学がその持続力を証明してきたことは間違いない。
この流れが時計業界のどこで始まったのか。ウォッチメイキングにおける多くの素材革新は、技術的な要求から生まれたのに対し、オールブラックウォッチのコンセプトは純粋に美的な観点から来ているようだ。そしてそれは1970年代に強く浸透していった。
多くの情報源によれば、最初のブラックウォッチケースは伝説的なフェルディナント・ポルシェの発想によるポルシェデザイン クロノグラフ1に起源があるとされている。しかしオン・ザ・ダッシュ(OnTheDash)のジェフ・スタイン(Jeff Stein)氏は、ホイヤーのブラックコーティングモナコに関する2021年のHODINKEEの記事に見解を述べ、異議を唱えている。どうやら、1972年に登場した象徴的なクロノグラフ1よりも前に、エニカが1960年代後半にエニカ シェルパ OPSを発表して数年先取りしていたようなのだ。
そして時は流れて現代へ。今日では、さまざまな価格帯や目的に応じて、ブランドがブラックウォッチケースを実現できる多くの製造技術や素材が存在する。今回は、ブラック仕上げを達成するために用いられるコーティングや表面処理に関する3つの主要な方法を紹介していく。後編ではこの分野における素晴らしい素材について取り上げる予定だ。
物理蒸着(PVD)
物理蒸着(Physical Vapor Deposition)は、時計業界でブラックケースを実現するために最も広く使われている方法だ。この技術はさらに具体的な複数の手法を含む広義の用語であるが、ここでは時計においてよく用いられるアークイオンプレーティングに焦点を当てる。
真空チャンバー内に、固体状態のコーティング用化合物(ジルコニウムやチタン窒化物が多い)と時計ケースを配置する。チャンバーが加熱されると、アークエネルギーが放出されて、コーティング用の化合物が気体に変化する。この気体がプラズマという状態になり、コーティングの成分にプラスの電荷が与えられるのだ。
次に、時計ケースにマイナス電圧が加えられる。真空チャンバー内で飛び交うコーティング粒子はプラスに帯電しているため、マイナス帯電したケースの表面に引き寄せられ、薄く均一なコーティングが形成される。これが冷却されれば完成だ! ブラックケースの誕生である。
時計ケースの処理において、耐久性と硬度について触れないわけにはいかない。比較のために、316Lスティールの硬度はビッカース硬度で約150HVである。多くのPVDサプライヤーのウェブサイトを見ると、一般的なPVD処理では2500〜2800HVの硬度が得られるようだ。耐久性の観点から言うと、PVDは今日取り上げる3つの処理方法のなかで最も耐久性が低い。個人的な経験では、私が所有していた多くのブラックPVDコーティングの時計は1年も経たずに摩耗が見られるようになった。これもひとつの魅力かもしれないが、時計のコンディションにこだわる人にはPVDは向かないかもしれない。それにもかかわらず、PVDは生産コストが低いためとても魅力的な選択肢となり得る。たとえばタイメックスやスウォッチのようなブランドでは、PVDコーティングされたSSケースの時計がエントリークラスの価格帯で手に入る。これにより多くの手ごろな価格の時計でブラック仕上げを楽しむことができるのだ。
近年では生産方法が大幅に改善され、大量生産を効率的に管理できるようになってきた。これによりコストの削減だけでなく、製品の一貫性や品質の向上も期待できる。「最近訪問した製造現場では、生産と結果のボリュームや一貫性を管理するための新しい技術が導入されているのを見て、とても興奮しました」と、ブリューウォッチのデザイナー兼創設者であるジョナサン・フェラー(Jonathan Ferrer)氏は語る。彼は、時計ケースのような部品を真空チャンバーに入れてプレーティング処理を行う前に必要な、数多くの準備工程を明かした。「時間のかかる課題は、すべての部品を手作業でコンポーネントツリーに配置することでした」とフェラー氏は説明する。コンポーネントツリーとは、真空チャンバー内でさまざまな部品を固定するために使われるワイヤーラックである。現在ではこの工程が完全にオートメーション化され、クリーンな環境でのスピードと精度が向上したと同氏は述べている。
最近改善されたもうひとつのプロセスはマスキングだという。これはコーティングしたくない部品の一部を覆う作業だ。以前の手作業での細かいプロセスに代わり、フェラー氏によれば「今では機械が時計のブレスレットやケースをスキャンし、シリコン溶液を注入して、コーティングや仕上げの前に部品をマスキングしてくれる」とのことだ。これにより従業員が小さな部分をひとつずつテープで覆う必要がなくなった。
ダイヤモンドライクカーボン(DLC)
では、DLCとPVDの違いは何だろうか? ブラックコーティングされた時計について話すとき、これら2つの仕上げがよく取り上げられる。しばしばDLCのほうが“優れている”と耳にすることがあるが、技術的には両者は同じ基準で比較できるものではない。DLCはコーティング材料であり、その適用方法として物理蒸着(PVD)を使用することもできる。“ダイヤモンドライクカーボン”とは、主に炭素原子で構成されたコーティング化合物を指している。
高校の化学の授業を思い出せば、同じ炭素原子で構成されていても、結晶構造が異なると構造的にまったく異なる結果を生むことがわかるだろう。たとえばグラファイト(黒鉛)の結晶構造は層状になっているため柔らかい。グラファイトの炭素原子の層は互いに強く結びついていないため、個々の層が滑り落ちやすく、まるで鉛筆で紙に書くような性質を持っている。しかしダイヤモンドの場合、炭素原子は非常に密に詰まっており、各原子が周囲の原子としっかり結びついているため、圧倒的な硬さと耐久性が生まれる。
“ダイヤモンドライクカーボン(DLC)”はコーティング材料の観点から見ると、ダイヤモンドとグラファイトの両方の有用な特性を活かした中間的な存在と考えるとよい。純粋なDLCはsp³結合の炭素原子(ダイヤモンドの構造)のみで構成されることもあるが、時計の外観仕上げに使われるDLCにはsp²結合の炭素原子(グラファイトの構造)も含まれている可能性が高い。このようにすることで、硬度を実現しながら摩擦係数を低く抑えることができる。これらの特性を組み合わせることで、より耐久性の高い表面が得られるのだ。
DLCコーティングの場合きわめて傷が付きにくい仕上げが得られ、炭素の混合比によってマットなアンスラサイトから深い光沢のブラックまで幅広い仕上げが可能である。サプライヤーのウェブサイトを見てみると、DLCコーティングの硬度は一般的に5000〜9000HVの範囲にある。参考までに、ダイヤモンドはビッカース硬度で1万HVとされている。
では、なぜすべてのブランドがDLCコーティングを使って、より高い耐久性を確保しないのか?
主な理由はコストだ。私はミラノに拠点を置くウニマティック(設立当初からDLCコーティングをデザインに取り入れている)の共同創設者のひとりであるジョバンニ・モロ(Giovanni Moro)氏に話を聞いた。ジョバンニ氏は早くからブラックアウトのトレンドに魅力を感じていたと振り返り、個人的に所有しているオメガ スピードマスターにコーティングを施すことを考えていたという。DLCによる硬度の向上は望ましいが、同品質の仕上げを標準的なPVD化合物で行う場合と比較して、コストが最大で350%も高くなることがあると指摘する。それでも、ブランドはブラックケースの製品にDLCを使用することにこだわっている。
セラマイズドチタン
最後に、現代の時計ケースで見られる表面処理のひとつにセラマイズドチタンがある。理論的には、その名のとおり両方の素材の優れた特性を兼ね備えている。セラミックの高い耐傷性と、チタンの構造的強度を維持することができるのだ。
最も有名なのはIWCの商標であるセラタニウムだろう。2017年に初登場したアクアタイマー・パーペチュアル・カレンダーで見られたものだ。しかし、セラマイズドチタンが特別な理由はそれがコーティングではなく(必ずしも)、ベース素材を指しているわけでもないという点だ。混乱しているだろうか? 詳しく説明しよう。
DLCやPVDでは、別の化合物をイオン化して時計ケースに付着させるプロセスが用いられるが、IWCのセラタニウムのような素材ではまったく別の手法が使われている。ここでは、最初に切削加工されたチタン製のウォッチケースを使用する(IWCは独自の合金を採用しており、この点については後ほど詳しく触れる)。ケース(およびリューズ、プッシャー、バックルなど)の部品処理の準備が整うと、それらは窯に入れられる。ここで高温で焼成され、錬金術とも呼べる工程が進行する。IWCによれば、この次に起こるのは“相転移(金属の表面がセラミック化されること)”であるという。このステップによりパーツは非常に均一でマットな黒色となる。その響きは魅力的だが、実際には何が起こっているのだろうか?
2002年に出願されたこの米国特許は、IWCが使用するプロセスに似た方法を示しており、その背後の仕組みが垣間見えるようだ。同特許の発明者であるエドワード・ローゼンバーグ(Edward Rosenberg)氏いわく、“黒い装飾表面を持つ金属製品を形成するプロセス”には、重量比で“約51%から70%のチタン、約3%から17%のニオブ、および残りはジルコニウム、タンタル、モリブデン、ハフニウム・ジルコニウム、クロム、またはそれらの混合物からなる金属”が必要であると述べている。これらはIWCが現在使用している独自の合金を構成していると推測されるが、詳細は誰にも分からない。
加熱の過程で、合金内のいくつかの金属が窯の酸素豊富な環境で酸化を始める。この過程で、合金からセラミックの層が成長してチタンがセラミック化される。この方法の特徴として、このセラミック層は酸化されていない下層のチタン合金と非常に強く結びつき、蒸着法と比較して剥がれにくくなる。PVDをベビーベルチーズの赤いワックスの包みと考えるなら、このセラミック化は美しいサワードウ(パン)のクラスト(パンの薄い皮の部分)が形成されるようなものだ。
私は、高級メカニカルキーボードの製作者であり、素材にも詳しい友人のライアン・ノーバウアー(Ryan Norbauer)氏とセラタニウムについて話した。彼によると、アルミニウム製のキーボードに対して非常に耐久性があり、見た目も均一なセラミック層を形成するためにマイクロアーク酸化というプロセスを試し、PVDと同じように仕上げが磨耗しないような同様の仕上げを検討していると話した。マイクロアーク酸化は、主に消費者向け電子機器で使用され、セラタニウムのプロセスに似た結果をもたらすが少し異なる方法を用いる。このプロセスでは、熱処理の代わりに、アルカリ浴に浸した金属にアーク放電を撃ち込む電気化学的な処理が行われる。これらの違いを考慮すると、エドワード・ローゼンバーグ氏の特許が注目されるのは、“化学薬品、電解質、電気、複雑な熱処理装置を必要としない”ことにある。皮肉なことに、時計業界で現代的な素材として認識されているものが、意図的によりシンプルで原始的な方法で作られていると考えられるのだ。
では、セラタニウムの硬度はどれくらいなのか。IWCはこの素材の硬度を公表していないが、形成された外層が実際にセラミックであるため、PVDのようなものと比較してはるかに耐傷性が高いと言ってよいだろう。インターネット上では、セラタニウムに傷が付いたと主張する人もいるが、多くの場合セラミックやセラミック層に見られる傷は、実際にはほかの物体から金属がケースに付着したものであり、最終的には除去できることが多いようだ。主な原因はバネ棒を外す際の工具であることが多いようだが、本当にセラミック層を貫通するような傷がついた写真を見かけたことはほとんどない。現行のセラタニウム製の時計が期待どおりの状態を保ち続けるかどうかは、今後の経過を見なければ分からない。ただ現時点では、単なるマーケティング戦略以上のものであり、実際に時計製造において目に見える利益をもたらす独自の素材であるようだ。
後編に続く。
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