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Buying, Selling, & Collecting ホイヤー ブラック モナコ 1970年代の闇と謎を体現した時計に迫る

2月にジェフ・スタインはホイヤー スキッパレラの台頭について書いた。 今日は、もうひとつの伝説的なホイヤーのクロノグラフの歴史(と謎)をたどる。

ヴィンテージウォッチは容易にロマンチックな気分に浸らせてくれる。これをご覧になる愛好家たちは、「スティーブ・マックイーン」モナコ クロノグラフのストーリーをご存知だろう。1970年、「キング・オブ・クール」と呼ばれたマックイーンは、ミッドナイトブルーのホイヤー モナコを着用して映画『栄光のル・マン』(Le Mans )の撮影に臨んだが、これは見事に偶然の産物だったようだ。マックイーンは1968年に『ブリット』と『華麗なる賭け』をヒットさせ、キャリアの絶頂期を迎えていた。『栄光のル・マン』は、彼がずっと作りたいと思っていた映画であり、ドライバーのマイケル・デラニーは、この最も過酷で魅力的な耐久レースで勝利を収めた。彼は自分のために優勝したのではなく、チームのポルシェが1-2フィニッシュするために英雄的な運転をしたのだった。

Steve McQueen in a white jumpsuit

 現在、時計の雑誌や専門店では、必ずと言っていいほどマックイーンと彼のモナコが目に入る。白いレーシングスーツに身を包んだハンサムなヒーローの胸にはホイヤーの赤いロゴ、腕にはブルーとホワイトのホイヤー製クロノグラフ。1971年6月に映画が公開されたとき、ハリウッドスター、ヒーロー的なドライブ、そして大胆な時計が世界中の店舗で販売され、ホイヤーにとってすべてうまくいっていたと想像するに難くない。 1971年当時、スポーツカーのハンドルを握る愛好家の誰もが「スティーブ・マックイーン」モナコを、少なくともホイヤーのクロノグラフを、身につけたいと思っていたことは容易に想像できる。

異なる現実

 しかし、こうしたロマンの層を掘り返していくと、別の事実が見えてくる。『栄光のル・マン』の撮影は混乱を極め、資産家のドン・ナンリー氏は著書『Le Mans in the Rearview Mirror』のなかで、"関係者全員にとって悲惨な経験だった "と述べている。撮影は1970年6月に開始されたが、脚本も予算もなく、主演女優もいなかった。撮影は半年後に終了したが、ナンリーによれば、ドライバーの負傷、失われた友情、壊れた仕事上の関係など、計り知れない人的コストがかかったという。1971年6月に公開されたこの映画は、映画もマックイーンの演技も酷評され、運命の転換は得られなかった。

 では、モナコ クロノグラフはどうだったのか?  映画ファンが『栄光のル・マン』を見に来ることはなくても、時計を買う人はマックイーンの映像に触発されるのでは? しかし、それもうまくいかなかった。ホイヤー社が小売店用に何千枚ものポスターや販促品を印刷したあと、マックイーンはホイヤーの小売店で自分の画像を使用することに異議を唱えたのである。ポスターはホイヤー社の倉庫に残っていたが、マックイーンは法的措置を取ると申し出た。確かにキング・オブ・クールは、映画の撮影でモナコを選んで着用したが、初期の頃のホイヤーには、時計のマーケティングに彼の画像を使用する権利はなかったのだ。

A poster for the movie Le Mans

 映画や時計の世界だけでなく、1970年代前半には、スイス製のクロノグラフが売れない状況が続いていた。リンドン・ジョンソン大統領は、ベトナム戦争と大規模な社会政策の両方に資金を投入していたが、この「銃とバター」政策による赤字が原因で、アメリカは高いインフレと失業率、低い経済成長に悩まされる「スタグフレーション」に陥った。10年の前半には、オイルショックと禁輸によりガソリン価格が350%も上昇し、失業率が急上昇した。また、ウォーターゲート事件により政治システムへの信頼が失われた。 西欧諸国では、「欧州硬化」と呼ばれる同じような現象が起きていた。スイスの時計メーカーは、スイスフランの対米ドルレートが上昇したため、さらなる困難に直面した。さらに、安価な日本製のクォーツ時計との激しい競争もあった。

A Caliber 15 Monaco watch on a red background

 1970年代初頭、ホイヤー社がモナコやその他のクロノグラフの販売に苦戦していた理由は、これらを総合するとよくわかる。同社はモナコの追加バージョンを開発し、3レジスターの手巻きモデル(1971年頃)、1つのクロノグラフ積算計のみのシンプルなモデル(1972年頃)、そして最後に2レジスターの手巻きモデル(1974年頃)を開発したが、これらの努力は無駄に終わった。

 1974年は、ホイヤーのカタログにモナコのバージョンが掲載される最後の年となった。1975年春、ホイヤーはモナコと他のいくつかのモデルが製造中止になることをディーラーに発表した。モナコ クロノグラフは、3レジスターの手巻きモデルの69.50ドルからマックイーンが着用していたリファレンス1133の自動巻きモデルの93.50ドルまでの範囲で、販売店に格安で提供された。世界初の自動巻きクロノグラフという宣伝文句で発表されてから6年、モナコは、ポルシェ917がクラッシュしてサルテサーキットでアルムコからアルムコに跳ね返るように、その命を終えたかのように思われた。

ブラックコーティングされた初の時計とクロノグラフ

 1970年代初頭、ホイヤーが自動巻きクロノグラフに力を入れていた頃、ポルシェ911を設計したF・A・"ブッツィー"・ポルシェは、独自のプロジェクトを進めていた。1960年代後半、エニカ社はブラックコーティングされたケースを採用した初の時計「シェルパOPS」を発表した。 この時計は、軍用に適した堅牢なダイバーズウォッチとして位置づけられ、ブラックケースが反射を抑え、無骨な仕上がりになっていた。 ブッツィー・ポルシェは1972年にポルシェデザイン・グループを設立し、同社の最初の製品であるクロノグラフ1は、ブラックコーティングされた時計のスタイルをミリタリーウォッチの世界からモータースポーツの世界へと広げ、まったく新しいスタイルのクロノグラフを生み出したのだ。

Two black coated watches on a black background

エニカとポルシェデザインのクロノグラフ。

 オルフィナ社が製造した新しいポルシェデザインのクロノグラフは、厚手のスラブ状スティールケースにブラックコーティングが施されていた。文字盤もブラック、3つのレジスターもブラック、そしてインナーベゼルもブラックで統一されている。この時代のポルシェ911のダッシュボードを想像して欲しい。クロノグラフ1はドライバーやナビゲーターのための追加計器であり、ホワイトのマーキングとオレンジのクロノグラフ秒針は、他の計器のスタイルにマッチしていた。ポルシェ911と同様に、クロノグラフ1はデザインに対する新しいアプローチを取り入れた。すべての要素がオブジェクトの機能に貢献し、ブラックの文字盤とケースはドライバーの視認性を高めた。

A black Breitling watch

ブラックコーティングが施されたブライトリングのクロノマチック Ref.2112。

 ポルシェデザインが発表したクロノグラフ1は数年間で5万本以上が販売されたと言われており、成功を収めたように見えた。だが他の主要なクロノグラフメーカーは、ブラックコーティングを施したクロノグラフの発売にすぐには踏み切れなかった。ブライトリングは1973年にクロノマチックシリーズにブラックコーティングを施したモデルを発表したが、その生産数は極めて少なかった。ルジュールやガレなどのブランドがポルシェデザインのクロノグラフ1のスタイルを模倣したモデルを発表したのは、それから数年後のことだ。

ホイヤー初のブラックコーティング クロノグラフ

 1975年9月、モンツァのオートドロモ・ナツィオナーレで開催されたイタリアGPで、フェラーリのドライバーであるニキ・ラウダが3位に入賞し、F1ドライバーズ選手権を獲得するとともに、フェラーリがコンストラクターズ選手権を獲得した。1964年以来、フェラーリとそのドライバーにとって初の総合優勝だった。 ホイヤーはスクーデリア・フェラーリのスポンサーであり、ホイヤーが開発した計時装置は、フィオラノのテストコースでもレースでもチームに優位性をもたらした。このフェラーリの勝利を記念して、1976年にホイヤーはモンツァと呼ばれる新しいモデルのクロノグラフを発表し、ブラックコーティングされたクロノグラフの世界に参入した。

A Heuer Monza

ホイヤー モンツァImage: Abel Court, heuertime.com

The movement of a Monza watch

ホイヤー モンツァのムーブメント。Image: Abel Court, heuertime.com

 ホイヤー モンツァは、1969年に発売された初代自動巻きカレラ(Ref.1153)のケースをベースメタルに鋳造し、表面加工を施してブラックの外観に仕上げたものだ。また、モンツァ クロノグラフをより手頃な価格で提供するために、最初のモデルでは高価なキャリバー12(12時間クロノグラフ積算計付き)ではなく、キャリバー15(30分クロノグラフ積算計付き)を搭載した。1977年のカタログには、より高級なキャリバー12を搭載したカレラとモントリオールにブラックコーティングを施したモデルが追加されており、また1977年のカタログには、キャリバー12を採用したモンツァの新バージョンも掲載されていたことから、モンツァは一定の商業的成功を収めたに違いない。他の2つのモデルよりもはるかに大量に生産されていたモンツァが、ホイヤーを代表するブラックコーティング・クロノグラフであったことは間違いない。





ブラックコートのモナコの登場

 ブラックコーティングされたクロノグラフのビジネスに参入し、最初のモデルである程度の成功を収めたホイヤーは、ブラックコーティング4番めのモデルであるモナコをラインナップに加えた。それは、製造中止となったモナコ(リファレンス74033)のケースとムーブメントの残りを利用して、SS製ケースにブラックコーティングを施し、この新しいブラックフレームに合わせて新たなスタイルの文字盤と針を製作するという容易な手法だった。

The dial of a black Heuer Monaco with a black strap in the background

Image: Abel Court, heuertime.com

 Ref.74033には、ブルーの文字盤にホワイトのレジスターを配したモデル(Ref.74033 B)と、チャコールグレーの文字盤にグレーのレジスターを配したモデル(Ref.74033 G)があった。 どちらもバルジュー社製の7740ムーブメントを搭載し、9時位置に12時間計、3時位置に30分計、6時位置に日付表示を備えている。 先のキャリバー12と同様に、Ref.74033にはランニングセコンドがなく、6時位置の日付窓が、本来ならば3つめのレジスターとして使用される場所を占めていた。

 ホイヤーは、ブラックコーティングされたモナコのために、自社の他のブラックコーティングされたクロノグラフの方式を踏襲した新しい文字盤の開発も行った。文字盤とレジスターはマットブラックで、マーカーは夜光素材で描かれた。モンツァやモントリオールでは赤のアクセントが使われていたが、ブラックコーティングのモナコでは、クロノグラフの針(時、分、秒)には鮮やかなオレンジ色の針が使われ、時分針には真っ白なものが用いられた。スクエアケースのモナコはインナーベゼルを採用していないため、それに邪魔されることなくブラックの文字盤とケースに一体感が生まれた。裏蓋、リューズ、プッシャーがSS製なのは、接触機会の多い部分にコーティングを施すと摩耗が激しくなることをデザイナーは知っていたからだろう。

A close up on the dial of a Heuer Monaco

Image: Abel Court, heuertime.com

Image: Abel Court, heuertime.com

「1969年に発売されたモナコは、すでに別の惑星のように見えたに違いありません」と、タグ・ホイヤーのヘリテージ・ディレクター、ニコラス・ビーブイック氏は語る。「大胆なまでに角張ったケース、ミックスされた仕上げ、独特のケース構造など、ブラックコーティングを施したモナコには、時計業界で支持されるまでに数年を要する革新的なアイデアが盛り込まれていました。モナコの形状、ケースと文字盤のほぼ完全なブラック仕上げ、オレンジのアクセントと真っ白な針のポップなコントラストを組み合わせることで、理論的にはステルスであるはずなのに、実際には他のどの時計よりも注目を集めることができるのです」

最もミステリアスなモナコ

 ブラックコートのモナコは、ライフサイクルのどの段階(開発、生産、流通)においても信頼できる情報がほとんどない。この時計は、ホイヤーのカタログやその他の文献には掲載されておらず、1960年代や1970年代にレーサーやその他の有名人が多くのホイヤーのクロノグラフを着用しているのを見たが、ソーシャルメディア上のウォッチスポッターがブラックコートのモナコを撮影したものはないのだ。コレクター間では、「ブラックコートのモナコ」は、ドイツをはじめとする限られた市場で、おそらく特別注文でのみ販売されたというのが定説となっている。ジャック・ホイヤー氏は、特定の地域での "ミリタリースタイル "のクロノグラフの人気を得ようとしていたと語っている。ブラックコートのモナコは、アメリカでは販売されなかったのだ。

The Heuer Monaco

Image from Phillips

 ビーブイック氏は、ブラックコートのモナコを理解しようとすればするほど、疑問が湧いてくるという。「一体いつ作られたのか? 何がきっかけで作られたのか? ブラックのケースはどのような工程で作られたのか? ホイヤーは何本作ったのか? SS製モデルが製造中止になったのち、なぜモナコがこのような形で復活したのか? この謎めいた存在感と前衛的なデザインが、ブラックコートのモナコの、今日のコレクターを惹きつけてやまない大きな魅力となっているのです」

 ブラックコート モナコの生産数や発売時期を把握することは困難だ。ビーブイック氏は次のように示唆する。「ホイヤーが何本のブラックコートモナコを生産したかを推定するのは難しいです。ヴィンテージ市場で見かける時計の数、他のモデルの現存率、そしてサプライヤーへの最低発注量を考慮すると、ホイヤーはこれらの時計を数百本は製造していたのではないかと思えますが、これは比較的少ない証拠に基づく経験的な推測に過ぎません」

ブラックコーティングのダークサイエンス

 ブラックコート モナコのもう一つの謎は、コーティングに関するものだ。1970年代のブラックコーティングされたクロノグラフは、多くのライターがPVDコーティングであったと記述しているが、この記事を作成するための調査によると、ポルシェデザインのクロノグラフ1もブラックコーティングされたモナコも、PVDを使用していないことがわかった。現在、スタジオF.A.ポルシェのデザインディレクターを務めるクリスチャン・シュワムクルグ氏は1987年からポルシェデザインに携わっており、記録を明確にしている。「1972年に発表されたクロノグラフ1にはPVDコーティングが施されていませんでしたが、それは当時、そういう技術が時計業界にはなかったからです」と彼は語る。「当時は、プラズマコーティングと呼ばれる技術が使われていました。 これはスプレー塗装に似ていますが、より頑丈で耐久性のあるものでした」。スイス時計産業のサプライヤーチェーンに属する別のコーティング専門家は、1970年代のスイス時計産業にはPVDコーティングプロセスがなかったことを認めており、また、ブラックコーティングされたモナコは、PVDコーティングプロセスから生じる外観を持っていないことを指摘している。

Black Porsche designs watch

 この時代、ブラックウォッチケースの製造には、化学的気相成長法(CVD)、ブラッククローム(酸化クロムと呼ばれることもある)、陽極酸化処理、ガルバニック処理、その他の熱による表面処理などが用いられていた。会社の記録がなく、多くのスイスのサプライヤーが解散してしまったため、どのモデルにどのような処理が施されたのか、明確な情報を得ることは非常に困難だ。

 モナコのコーティングがどのようなものであったとしても、それは耐久性があるとは言えなかった。黒のコーティングは、エッジだけでなく、ケースの広い上面や側面でも、中程度から明るいグレーに退色していることが多かったのだ。「1970年代に行われていたプロセスでは、玉ねぎの皮のようなコーティングが施されていました」と語るのは、ブラックモナコの長年のファンであり、時計ケースのコーティングに豊富な経験を持つバンフォード・ウォッチ・デパートメントの経営者であるジョージ・バンフォード氏だ。「接触することでコーティングの層が失われ、黒の素材がどんどん薄くなり、ケースの色も薄いグレーになっていきます。尖ったエッジやコーナーなどが傷ついたり欠けたりしたのではなく、ケースの上面や側面のコーティングが時間とともに薄くなっていったのです」

Heuer Monaco on a brown strap

 その結果、一部のコレクターやディーラーは、通常、PVDプロセスを使用してケースを再コーティングしている。今日使用されている蒸着という製法は、1970年代後半にホイヤーが使用していたプロセスとはまったく異なる外観と感触を生み出しているため、これらの再コーティングされたケースは簡単に見つけることができる。ホイヤーのスペシャリストであるアベル・コート氏は、これらの再コーティングされたケースをいくつか見てきたが、そういうものを見分けるのは簡単だと述べている。「最新のPVD素材と、1970年代後半にホイヤーが使用していたコーティングには、劇的な違いがあります」と彼は言う。「コーティングショップに行って、40年前に使われていたものと同じプロセスと材料を求めることはできません。あまりにも多くのことが変わってしまったからです。また、どのケースが1970年代にホイヤーのためにコーティングされたか、どのケースが再コーティングされたかを判断するための特徴があります」

ブラック モナコの台頭

 ホイヤーのヴィンテージ・クロノグラフの市場が発展し始めた今世紀最初の10年間は、ブラックコートのモナコの出所が不明瞭だった。また、アメリカでは一度も販売されていないことから、ホイヤーはこれらの時計を一度も完成させておらず、販売されているものは余った部品を組み合わせたものだと主張するコレクターもいた。また、中米などの特殊な地域からも出品されていたこともあり、火に油を注ぐ結果となった。

 2007年にジャック・ホイヤー氏が、ホイヤーがこれらの時計を製造・販売していたことを認め、特にドイツ市場での販売について言及したことで、これらの疑念は解消された。2010年12月に行われたボナムズのハスリンガー・コレクションのセールでは、ほぼ新品同様のモデルが7万4700ドルの価格で落札。

 2011年から2021年までの10年間に、主要なオークションハウスで販売されたブラックコーテッドモナコはわずか5本で、価格は最高7万3785ドル(ボナムズ、2018年6月、ロンドン)から最低4万3750ドル(クリスティーズ、2017年6月、ニューヨーク)までとなっている。ウインド・ヴィンテージのオーナーであるエリック・ウインド氏は、この数年間、ホイヤーのヴィンテージ・クロノグラフの市場に積極的に参加しており、ブラックコート モナコを次のように評価している。「ブラックコート モナコは、約10年前に市場で最も高価なヴィンテージ・ホイヤーでしたが、最初に登場したオータヴィアのRef.2446や"スキッパレラ"のRef.7754など、他の時計の価格が追い越すなか比較的横ばいで推移しています。それでも、ブラックコート モナコは最も特徴的なヴィンテージ・ホイヤーの一つであり、時代の先端を行っていました」

Image: Arno Haslinger

 他のヴィンテージウォッチと同様に、コンディションによって価格差が大きくなる可能性がある。「非常に状態の悪いものであれば3万ドル程度かもしれませんが、素晴らしい個体であれば8万ドルを達成することも夢ではありません」

 それでは、過去5年ほどの次のような販売データを考慮してみよう。
2016年5月:フィリップス(ニューヨーク)「スタート・ストップ・リセット」- 6万2500スイスフラン(約775万円)
2017年6月:クリスティーズ(ニューヨーク) - 4万3750ドル(約500万円)
2017年11月:フィリップス(ジュネーブ)、「ホイヤー パレード」 - 5万2500ドル(約600万円)
2017年11月:フィリップス (香港) - 6万800ドル(約693万円)
2018年6月:ボナムズ(ロンドン) - 7万3785ドル(約841万円)

後継機 - 今世紀の3つの黒いモナコ

 ブラックコート モナコがヴィンテージコレクター間で強い支持を得て、注目を集めるオークションで好成績を収めたことから、この時計にインスパイアされたモナコの新バージョンが登場するのは自然なことだった。以下では、2018年と2019年に限定版として販売された2つのモデルと、2021年以降に販売されるユニークな1つのモデルの、3種の人気モデルについて考えてみたい。

George Bamford watch

Image: Bamford Watch Department

バンフォード限定モデル 

 ジョージ・バンフォード氏は、長年にわたってブラックコーティングされたモナコのファンだ。だから1990年代後半にタグ・ホイヤーが復刻した「マックイーン」モナコを友人から贈られたとき、彼がケースを黒くコーティングすることを考えたのは当然だった。バンフォード氏はこれまでに何千もの時計をカスタマイズしてきたが、このタグ・ホイヤーのモナコは、彼が初めてカスタマイズした時計として記録されている。

 2018年春、バンフォードとタグ・ホイヤーは、(LVMHの兄弟会社であるゼニス、ウブロ、ブルガリとともに)カスタマイズ・パートナーシップを結んだことを記念して、オリジナルのブラックコート・モナコにインスパイアされた限定版のモナコを提供した。しかしバンフォードは、SS製のケースにコーティングを施すのではなく、より現代的な素材を用いて、モナコ クロノグラフを収める初の鍛造カーボンファイバーケースを製作した。「カーボンファイバーは、多くの産業で使用されている非常に優れた素材です」とバンフォード氏は語る。「この素材は、光の加減でケースに素晴らしい模様を描き出します」。オリジナルモデルのブラック/オレンジ/クリーム/ホワイトのカラーウェイから脱却し、レジスターとアクセントにバンフォードのシグネチャーであるアクアブルーを採用した。この時計はモナコ愛好家のあいだで人気があり、現在ではオリジナルの95万7000円(税込)を大きく上回る価格でサンプルが取引されている。

Hour Glass Limited

アワーグラス限定モデル

  2019年9月、シンガポールの小売店アワーグラス(Hour Glass)は40周年を記念して、ブラックコート モナコを反映したモナコの限定モデルを発売した。ケースはPVDコーティングされたSS製だが、文字盤はオリジナルの時計のマーカーを反映したクリーム色だ。しかし、マーカーとレジスター針は赤で、時針は1970年代のモナコやオータヴィア クロノグラフに採用されていたポリッシュ仕上げの金属製だった。また、文字盤上部の大きな「12」の文字は、オリジナルモデルとは異なり、夜光塗料を使用したバトンではなく、ポリッシュ仕上げのアラビア数字を採用している。この限定モデルは、オリジナルの6500ドル(約74万円)を上回るプレミアム価格で取引されるなど、成功を収めている。

オンリー・ウォッチモナコ

 2年に1度、11月6日にジュネーブで開催されるオークション「オンリー・ウォッチ」では、一流の時計ブランドが二度と生産されない一点ものの時計を製作する。今年、タグ・ホイヤーは、カーボンファイバーケースとカーボンファイバー製のスケルトン文字盤を用いて、「ブラックコート モナコ」へのオマージュを構想した。ペイントされたクリーム色のマーカーと鮮やかなオレンジ色の針は、ブラックコート モナコのスタイルを踏襲している。ホイヤー02ムーブメントには、チェッカーフラッグをモチーフにした10種類の手仕上げが施されており、裏蓋にはムーブメントを最大限に見せるための大きな「窓」が設けられている。また、亜鉛メッキを施した真鍮製のレジスターや、モナコやオータヴィアのクロノグラフに由来する針など、ホイヤーのヴィンテージモデルへのオマージュが込められている。このユニークなクロノグラフは愛好家から非常に高い評価を得て、タグ・ホイヤーのクロノグラフとしては過去最高の価格になることが予想されている。

1970年代のサバイバー

 スキッパレラについての私の記事では、このモデルが最近コレクター市場で成功を収めている要因として、1967年のアメリカズカップ防衛戦にまつわる興味深いバックストーリーや、1960年代の陽気なスタイルを表現した大胆で鮮やかな色などを挙げている。歴史的な出来事をきっかけに、芸術、音楽、デザインなどの文化的な動きが大きく変化することがある。スキッパレラ自体がこの時代の希望と楽観主義を反映したものだった。

 スキッパレラの10年後に製造されたブラックコート モナコの歴史を調べると、ホイヤー最後のモナコが生まれた時代とは大きく異なっていることがわかる。「悲惨指数」(失業率+インフレ率)は過去最高に達していた。また、その10年の終わりにはカーター大統領が、国の歴史上初めて将来に対して悲観的な人が楽観的な人を上回ったと表明した。歴史学者のウィリアム・グレーブナーは、エッセイ「America’s Poseidon Adventure」のなかで、1970年代末にアメリカは「実存的絶望」に陥っていたと指摘している。

 音楽や映画には、作り手や観客の気分が必ず反映される。1978年、ブルース・スプリングスティーンは『闇に吠える街』を歌い、中産階級の労働者の気質を表現した。サイゴン陥落から4年後、ベトナムでのアメリカの敗北をスクリーンに映し出したのが『地獄の黙示録』だ。ブラックコートされたモナコは、そのダークでタクティカルなスタイルと一切の装飾を排したデザインで、1970年代後半、スイス時計産業の崩壊を予感させる「クォーツクライシス」のもと、つくられたものだったのだ。

 ブラックコート モナコは、1968年に発表された遊び心のあるスキッパーでもなければ、1970年に発表された革新的な "スティーブ・マックィーン"モナコでもない。「それは、1970年代に蔓延していた暗闇と、よりよい時代の鮮やかな色彩を対比させた、完璧に近いデザインなのです」とビーブイック氏は語る。「コレクターにとっては、この時計にまつわる多くの謎が魅力の一部であり、過去・現在・未来にかかわらず彼らが時計に求めるものを見せてくれているのです」

ジェフ・スタイン氏は、ヴィンテージ・ホイヤーと現代のタグ・ホイヤーの時計を収集しており、2003年からウェブサイト「OnTheDash.com」を運営している。2016年、彼と彼のコレクションは、ベンジャミン・クライマーのTalking Watchesのエピソードで紹介された。