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In-Depth 民間機としては史上最速のスピードでニューヨークからロンドンまで飛行した男と、そのフライトを記念するブライトリング

「コンコルドは素晴らしい。荷物を探す時間が3時間も増えるのだから」 – ボブ・ホープ

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レスリー・スコット機長の時計は長年にわたって貸金庫で眠っていた。現役を退いている現在、スコットはApple Watchを着用しているが、彼を一躍有名にした記録的なフライトも含めて、パイロット人生の大半は、その後行方不明になったセイコーを身に着けて過ごしていた。だが、彼にとって一番大切なのは下の時計である。

 電池はとっくの昔に切れており、ブライトリング エアロスペース Ref.65062の特徴である2つのデジタル表示には文字が全く表示されない。ただし、これは普通のブライトリング エアロスペースではない。9時位置には標準的なマーカーの代わりに「M2」のシンボルが、3時位置にはブリティッシュ・エアウェイズのコンコルドを真横から見た機影があしらわれている。コンコルドといえば、ニューヨークからロンドンへ、他の旅客機の半分にも満たないフライト時間となる、3時間未満で飛行することで名を馳せた超音速旅客機だ。

 時計に施された「M2」のしるしは、コンコルドが大西洋をマッハ2で巡航する能力を持っていたことを示している。マッハ2はおよそ時速1350マイル(約2172km)に相当する。 

 この時計と同様に、コンコルドの機体も長年にわたって休眠している。コンコルドは2003年に運航を終了したが、現在に至るまで、コンコルドに近い速度で飛行する民間機は誕生していない。コンコルドを運航していたブリティッシュ・エアウェイズとエールフランスは、旅客数の減少とコストの上昇を理由に全機の退役を決定した。さらに、コンコルドは高いレベルの整備を必要とし、他のあらゆる機体でコンピュータが航空機関士に取って代わるなか、フライトエンジニアの搭乗を要する唯一の機体だった。全部で20機が製造され、そのうち6機はテスト機と試作機だった。商業飛行に就航したのは14機だけだった。現在、これらの機体は世界中の博物館で展示されている。 

 レスリー・スコットは1994年から2002年に引退するまで、ブリティッシュ・エアウェイズでコンコルドの機長を務めた。スコットが所有するのは、ブライトリング エアロスペースのコンコルド限定版だ。元コンコルドのパイロットで、その後ブリティッシュ・エアウェイズ コンコルドプログラムのコマーシャルオフィサーになったジョック・ロウは、1990年代後半、コンコルドのブランドを冠したエアロスペース Ref.65062を100個製造する契約をブライトリングとの間で締結した。その時計はコンコルドのパイロットと乗務員に販売されたのだ。スコットは、(後にBEAと合併してブリティッシュ・エアウェイズになった)BOACのパイロットになったその年に香港で購入した普段使い用のセイコーを補完する時計として、そのブライトリングを購入した。 

1972年にロンドン・ヒースロー空港に駐機しているBOACスーパーVC10。VC10はスコットが最初に配属された機体だ。 

 1968年のことだった。バンコクから香港へ飛行していたある夜、スコットはベトナムのダナン周辺に光る閃光の数々を3万5000フィートの高さから見下ろしたことを覚えている。夜景を照らしていたのは米軍主導の空爆だった。イギリスはこの軍事活動に参加していなかったため、その光景は余計にスコットの脳裏に焼き付いた。始まったばかりのジェットセッター時代をパイロットとして過ごした全ての思い出もまた、彼の脳裏に焼き付いている。
「私たちは、とても楽しいクルーと一緒に、異国情緒たっぷりの様々な目的地に行きました」と彼は話す。「航空会社のパイロットを務めることも、それに伴う色々なことも、特別だった時代です」 

 スコットはビッカースVC10でキャリアをスタートさせ、1974年に747、その後BAC 1-11に乗務し、1994年、遂にコンコルドに乗務することになった。スコットはコンコルドのクルーの一員だったため、ブライトリングを買うことができたのだ。

 亜音速旅客機とは一線を画す、コンコルドを操縦することに関するスコットの考えは興味深い。
「コンコルドも空中を移動する機械であることに変わりはありません。速くなっただけのことです。ただ、コンコルドを操縦するときは、今までよりさらに先を読む必要に迫られます。以前の倍以上のスピードでどんどん計画を立てていく必要があるのです」
 だが、スコットは機体の特殊性を軽視していたわけではない。彼はこう語っている。
「まるでレーシングカーのようでした。コンコルドは飛行時間が1日3時間と、非常に短かったのです。その割には、整備にかなりの時間を要しました。普通の旅客機は1日に10時間以上飛行します。コンコルドは設計限界いっぱいで運用されていました。フライトのたびに機体は限界まで追い込まれていて、それがあの飛行機の魅力の一部でもあったのです」

「脚や姿勢が窮屈になることはありません」と謳うBOAC VC10の広くなった足元の空間を宣伝する1960年代の広告。何年経ってもエコノミークラス症候群を引き起こす足元の空間の問題は解決していないようだ。世の中にはいつまでも変わらないものがある。 

 スコットが購入したブライトリングは、世界で最も高級な旅客機の乗務員にしか販売されなかったという点で、既にとてつもなく特別な逸品だが、さらにスコットは、この時計を買ったとき、1996年2月7日という日付と「2:52:59」という時間を留め金に刻印してもらうことにした。この時計は、イギリスの一流航空会社のパイロットとしての全キャリアを象徴する存在だったが、その刻印にはそれ以上の意味があった。その日付と時間こそ、スコットの34年にわたるパイロットのキャリアのハイライトなのである。 

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音速の壁の突破から記録の塗り替えへ

 1996年2月6日、スコット機長は、ロンドンのヒースロー空港からニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港へ向けて、高度6万フィートの成層圏をマッハ2で巡航していた。スコットは、飛行中に、この定例のフライトがいつもと少しだけ違うことに気付いた。異常に強い向かい風によって、コンコルドの巡航速度がほんの少し落ちていたのだ。そもそも成層圏は風が弱く、時速1350マイル(約2172km)、分速およそ23マイル(約37km)で移動しているコンコルドの飛行時間に風が大きな影響を及ぼすことはまずない。だが、この向かい風は、ある考えをスコットの頭に植え付けるほど強かった。ニューヨークに向かう便の速度を落とすほど風が強いとすれば、それが追い風になるロンドンへの帰り便は速度が速くなるかもしれない。 

高度5万6000フィート、マッハ2.00を指すマッハ計。マッハ2は対地速度で時速1522マイル(約2450km)だ。 

 少ないがチャンスはある。これほどの強い風は滅多に吹かない。普通のフライトに大きな影響を与える可能性があるジェット気流や悪天候は、コンコルドの巡航高度のはるか下の対流圏に存在する。コンコルドのフライトは、ほぼ常に驚くほどスムーズだったわけだ。大気の状態を感じるのは、離陸と着陸のときだけだった。 

 種は蒔かれた。強風が持続すれば、ロンドンに戻る翌日のフライトで、民間機の大西洋最速横断記録に挑戦できる。あれだけの追い風があれば、操縦を少し工夫するだけで、新記録も夢ではない。スコット機長はいくつかの仕掛けを密かに用意していた。最初の仕掛けが始動したのは地上だ。 

新記録を達成した1996年のフライトの乗務員。左上がスコット、右がオーチャード、手前がイーズ。 

 翌日、姿を現した乗務員の面々を見て、スコットは神が自分に微笑みかけていることを確信した。フライトエンジニアのリック・イーズはスコットの個人的な友人であり、副操縦士のティム・オーチャードはロンドンの管制官たちと理想的な関係を築いていた。幸いJFK空港は超音速機の発着便数が世界一多い空港だったため、コンコルドに慣れており、仕事がやりやすかった。JFK空港は、ブリティッシュ・エアウェイズの2便、エールフランスの2便を毎日受け入れていたのだ。

 離陸前、オーチャードは、スムーズなアプローチが出来るように、空港周辺のトラフィックを整理するようヒースロー空港の航空管制官に要請した。さらに、球面上のA点からB点への最短距離である「大円」と呼ばれる、なるべく直線に近い飛行経路を許可して欲しいという要望も伝えた。唯一の問題は、超音速で飛行しているときに発生する二重衝撃波が引き起こす人々の不安を和らげるために、コンコルドが海岸線から20マイル離れて飛ぶ必要があることだった。二重衝撃波は、連続する2回の砲撃音のように聞こえる。衝撃波の大騒音は、伝説的な航空機を誹謗中傷する人々が訴える、主な苦情のひとつだったのだ。 

「大円」は、球面上の2点を結ぶ最短経路だ。だが、様々な要因により、飛行機はいつもこの経路を飛べるわけではない。スコットの歴史的なフライトでは、可能な限りこの経路に近い航路を飛ぶことができた。 

 離陸し、なるべく早く超音速に達して、許可された直線経路を維持しながら、ヒースロー空港に限りなく近い場所で減速するのが狙いだった。車でいえば、アクセルペダルを目一杯踏み込んで車をトップスピードに乗せ、そのままの速度をキープし、ホイールをまっすぐに保ちながら、次の赤信号の数センチ手前で停止するように、ブレーキを踏むタイミングをギリギリまで遅らせるという作戦だ。車と違うのは、最速のレーシングカーでも時速231マイル(約371km)前後がスピードの上限だが、コンコルドはその約6倍の速度で飛行することだ。 

 なるべく直線に近い飛行経路が許可された。それによってナンタケット島の一部の住民が1996年2月7日、2回の衝撃音に少し驚く可能性はあったが、心配するほどの問題ではなかった。大西洋上空に出ると、コンコルドは超音速で巡航し、幸いまだそこに存在していた追い風をフルに活用することができた。 

 乗客がいつものフライトと違うと感じることはないだろうし、誰にも不安を与えたくなかったので、乗客には何も言わないことにした。また、機内サービス担当者は、その便が「速い」フライトになるため、急いで仕事をこなして、コンコルドでは通例の超ハイレベルのサービスを維持する必要がある、と言われただけだった。ニューヨークからロンドンへの民間機最速横断記録の達成に向けて、全てが順調に進んでいることが分かっていたのは、3人のパイロットだけだ。乗客や他の乗務員は何も知らなかった。 

 スコットが次の仕掛けを用意した場所はイングランドに接近する経路だ。二次衝撃波がイングランドの南岸に到達しないように、コンコルドは大気の状態の季節的な変化に応じて、冬と夏に、それぞれ異なる場所で亜音速に減速する必要があった。夏はより海岸の近くで、冬はより海岸から離れた位置で減速する。超音速で飛行している間、コンコルドは飛行機の前方に形成される空気の「壁」を常に突き破りながら前進する。その壁が円錐を形成し、その円錐が広がって地面に当たると、人々に衝撃音が聞こえる。だが、円錐は下方に広がるだけでなく、上方にも広がる。成層圏の真上にある中間圏には西から吹く気流が存在し、その穏やかな風が衝撃波の音を東へ追いやる。それを利用すれば、スコットが減速のタイミングを通常より少し遅くしても、問題ないはずだ。 

機体が加速するときは、ポンプで燃料を機体の後方へ移動させ、減速するときは前方へ移動させる。この操作は理想的な重心を維持するために行われる。 

 コンコルドには守らなければならない「速度ゲート」がある。スコットがこのフライトで、規則を破っていないことは間違いない。だが、彼は、通常は減速するはずの冬の減速ポイントを超音速で通過し、夏の減速ポイントのすぐ後で亜音速に減速するという方策に打って出た。この方法は、技術的に運航の許容範囲に収まっていた。スコットは、ちょうど高度3万フィートで機体内エンジンの逆噴射装置を作動させた。この操作により、機体は劇的に減速し、それと同時に降下率が毎分約7500フィートまで増加した。標準的な旅客機は、通常の状況では毎分約3000フィートの率で降下する。 

 コンコルドが着陸したとき、スコットは飛行時間を確認した。2時間52分59秒だった。 

 記録は塗り替えられた。スコット機長はインターホンで27人の乗客に記録達成のニュースを伝えたが、乗客にとっては普通のフライトだった。経験豊富なコンコルドの乗客でも、着陸し、時計を確認するまで、いつものフライトとの違いに気づくことはなかっただろう。

 スコットが記録を更新した後、様々なパイロットが何度も記録に挑戦したが、誰もその記録を破ることはできなかった。コンコルドが退役した今となっては、その望みが叶えられる可能性は全くない。 

最終アプローチ

 スコットは、ニューヨークのHODINKEEの本社で、コーヒーを飲みながら、この記録的なフライトの話を詳しく聞かせてくれた。彼は筋金入りの腕時計マニアではないが、優秀なパイロットであることから、当然、微細構造のエンジニアリングには興味をもっている。打ち合わせの前は、長年にわたって、ブライトリングを身に着けていなかったし、操作することもなかった。 

 スコットは記録を達成したフライトでこの時計を着用していたわけではない。そのときに着けていたのはセイコーだ。その後、彼のキャリアを決定づけることになった日付と時間を刻印して、この時計はスコットだけの特別仕様にカスタマイズされた。スコットは、貸金庫から時計を取り出してHODINKEEのオフィスに持ってきたとき、機長、時計、飛行機の全てが歴史的なフライトの出発地となったニューヨークに集結していることに気付いた。 

スコット機長が記録を打ち立てたのと同じコックピットを見学している著者(左)。記録を更新したコンコルドは、ニューヨークのイントレピッド海上航空宇宙博物館に展示されている。

 マンハッタンのウエストサイドのピア86には、機体記号G-BOADが最後部に表記されたコンコルドが展示されている。これはレスリー・スコットが記録を更新したときに操縦した飛行機と同じ機体だ。見学者は客室やコックピットを見ることができ、マドンナやエルトン・ジョンのお気に入りだった座席と同じシートに座ることもできる。私は2011年にコンコルドを見学する機会があったが、そのときコンコルドへの愛がさらに深まった。 

 だから、私はスコットに、ウエストサイドハイウェイを通るときにコンコルドを見かけて、懐かしいと思ったことはないかと尋ねた。彼は「いや、ありません。私は昔のことをあまり考えない性格なのだと思います。常に前向きに生きているので」と答えた。最近彼はフランス語を習っており、ジムに通っている。だが、時計について話をし、コンコルドの史上最速のフライトの物語を語ったことが、彼の心の琴線に触れたに違いない。 

 時計をどうする予定かと聞くと、彼はいつか孫にあげるつもりだと言っていたが、会話の途中で、新たな計画について語り出した。
「考えたんですが、この時計は何年も箱に入れっぱなしでした。もう一度時計を身に着けたいと思います!」。もちろん、彼は時計をまた動かさなければならない。でも、それは簡単なことだ。新しいバッテリーに入れ替えればいいだけのことなのだから。 

 コンコルドを再稼働させることも、これほど簡単ならいいのにとつい考えてしまった。