シャラント川を見下ろす高原に、アングレームと呼ばれるフランスの町がある。2018年から2019年にかけて、ウェス・アンダーソン監督とそのプレイヤーたち(世界で最も優れた俳優たち)はこの小さな都市に降り立ちそのホテルのひとつを引き取って、『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊(The French Dispatch of the Liberty, Kansas Evening Sun)』(2021)の制作を開始した。
しかも、それは大げさな話ではない。前作の長編『グランド・ブダペスト・ホテル』(2014年)を撮影したときと同様、アンダーソン監督は文字通り、ホテル全体を自分と出演者のために借り上げたのだ。空いている部屋はすべて空室のままにした。プライベートシェフまで呼び寄せ、すべての食事を用意させた。しかし、クルーは? 彼らは高級ホテルの壁のなかには招待されなかった。他の手配をしなければならない。例えば、この映画のプロップマスター(小道具担当)のエカート・"エッキ"・フリッツ氏は、4ヵ月の撮影のあいだ、アパートを借りていた。
フリッツ氏は、メガネ(顔用とテーブル用)から時計に至るまで、画面に映る形あるものすべてを担当した。『フレンチ・ディスパッチ』は3幕の映画ではなく、みっつのパート、みっつの小作品、その名の由来となった架空の雑誌のなかのみっつの特集で構成されている。これらの「ひとつの映画のなかの小さな映画たち(オムニバス)」は、違った時代を織り込んでいるため、あらゆる種類のヴィンテージウォッチが必要とされた。それを実現するのがフリッツ氏の役目だ。
彼は今回が初めてと言うわけではない。以前、アンダーソン監督の『グランド・ブダペスト・ホテル』でアシスタント・プロップマスターを務め、スティーブン・スピルバーグ監督の過小評価されたスリラー『ブリッジ・オブ・スパイ』(2015年)ではプロップマスターとして活躍した。だから、彼は時代映画の時計の調達について、それなりに熟知している。もちろん、アンダーソン監督との仕事は、他の監督とは異なる経験だ。「彼はおそらく、一緒に仕事をするのが最も難しい監督です 」と、ベルリンの自宅からZoomでフリッツ氏は言う。「すべての監督を知ってるわけじゃないけど、そう、彼が一番大変ですよ」
通常、プロップマスターは、小道具という領域のなかである程度の権限を持っている。「これは比較的新しいプロップマスターと監督の関係でした。普通は、いわゆるショー・アンド・テル(小道具係が候補の小道具をテーブルに並べ、監督がそのなかから選ぶ)を行い、監督と時間をかけてプロセスを洗練させ、もう小道具を見せる必要がないところまでもっていきます」と、フリッツ氏は振り返る。「ウェス・アンダーソン監督は、ショー・アンド・テルをしません。私が常に彼に写真を送り、彼がそれを選択するか、私に別の手がかりを与えてくれるか、なのです」
この仕事は、1本の映画のなかで3本ぶん撮影するようなものであることに加え、オーウェン・ウィルソン、エイドリアン・ブロディ、ビル・マーレイ、ティモシー・シャラメ、エドワード・ノートン、ティルダ・スウィントン、フランシス・マクドーマンド、ジェフリー・ライトというキャストとくれば、画面に映る時計の数の多さは想像できるだろう。しかし、時計そのものが必ずしも注目されたり人気があったりしなくても、また、筋書きと関係がなくても、ほとんどの映画よりも本作が時計映画らしいと感じるのも事実だ。こうした判断は通常フリッツ氏から直接来るものだが、実は衣装デザイナーから来た。通常、衣装部門は小道具の仕事に立ち入らないようにするものだが、今回は少し違っていた。
彼は語る。「これらの決定の多くは、衣装デザイナーのミレーナ・キャノネロ氏からもたらされました。彼女はまさに衣装デザインの大御所で、『時計じかけのオレンジ』(1971年)から始まり、4つのアカデミー賞を受賞しています。私に電話をかけてきて言うんです。"時計をちょうだい。眼鏡と時計ね”って。だから、ほとんどの場合、私が時計を選び、彼女が選択することになりました。彼女が衣装との相性を見てウェスに見せると、彼がイエスかノーかを言います」
しかし、フリッツ氏がスクリーンに映し出されるものをまったくコントロールできなかったというわけではない。「映画には台本に書かれた時計も登場します。そして、書かれてあったものは、多かれ少なかれ私が選んだものです」と彼は言う。「懐中時計、ストップウォッチ、そしてサゼラックが身につけているクロノグラフの時計もあります」
ルブサン・サゼラックは、オーウェン・ウィルソン演じるフレンチ・ディスパッチの記者のひとり。彼の時計は、フリッツ氏の私物からのものだ。「私は男性用腕時計のコレクションを持っていますが、この仕事には必要なのです。1960年代のエクレール クロノグラフは、そのなかのひとつで、実はeBayで購入したもの。この映画は、その時計、そのクロノグラフから始まります」
この時計は彼所有のコレクションからのものだが、彼自身とカノネロ氏、そしてアンダーソン監督の3人の話し合いがなければ映画で使われることはなかったかもしれない。「ミレーナは60年代のロレックス デイトナとか、そういうものを提案したのです」と、フリッツ氏は振り返る。「ウェスは、"クロノグラフは必要だけど、ロレックスはちょっと.....”と言いました」
しかし、サゼラックのゴールドクロノを選ぶのは、それほど単純なことではなかった。多くの映画で見られるように、プロダクト・プレースメントの可能性が出てきたのだ。オメガが時計を提供していて、ウィルソンの腕にはまることはなかったが、最終的にそれ以外の方法で映画に登場することになった。
「オメガからの時計は、ムーンウォッチ以前のスピードマスターと60年代のシーマスター 300がありました。これらはジュネーブのオメガミュージアムから提供された時計です。ストップウォッチとふたつの懐中時計もそうでした。多くの資金提供も。でも、ウェスはそういうことでお金をもらうのが嫌いなんです。彼は広告を作っているわけではないので」
それでもフリッツ氏はアンダーソン監督に、ウィルソン用にオメガの時計を使うという選択肢を与えた。「彼に私の時計とスピードマスター、シーマスターを見せたら、ウェスは "ああ、これかな "とゴールドのエクレールを指さしたんです」
その日の撮影が終わったとき、フリッツ氏は俳優たちや監督のそばにいなかった。みんな丘の上のひっそりとしたホテルに引き揚げたのだ。そのため、アンダーソン監督の過去の作品ではロレックスで知られるウィルソン自身が、『フレンチ・ディスパッチ』の時計の選択について意見を言ったかどうかはわからないという。「ウェスがオーウェンに時計の写真を見せて、"どれか選んで"と言った可能性は高いですが、私にはわかりません」
スピーディとシーマスターは、ある意味、秘密の方法で使用された。ローバック・ライト役のジェフリー・ライトに、そしてトークショーのシークエンスでリーヴ・シュレイバーの手首に装着された。「見せるようにつけられたものではなかったし、私たちも見ていません」と彼は言う。「私たちがそれらを見ることができないように撮影されました。ウェスは伝統的なプロダクト・プレースメントをしません。まったくね」
興味深いのは、このことが従来のプロダクト・プレースメントとは異なるアプローチに門戸を開いたことだ。「ロレックスやオメガやほかのブランドによる特別な時計があれば、ウェスはそれを欲しがるでしょう。彼のためにひとつだけ、特別な時計を作るんです」。
もちろん、すべてが白黒はっきりしているわけではない。アンダーソン監督は、スクリーンにブランドを映すことを許さなかったが、例外を設けた。「彼が映画で実際に見せているブランドはひとつだけで、それはコダックです。彼は、私たちが常にコダックを見えるようにカメラを押すのです」。しかし、なぜコダックなのか?
「彼は最後のフィルム撮影者のひとりです」とフリッツ氏は語る。「彼にとってデジタルは存在せず、ただ何マイルも何マイルもフィルムがあるだけなのです。彼はすべてのシーンをカラーとモノクロの両方のフィルムで撮影しています。最初はいくつかのシーンやストーリーの一部をモノクロで撮影していましたが、そのうち"いや、全部モノクロとカラーで撮影するんだ”となりました」
では、なぜ2本のオメガの時計は、アンチ・プレースメントの立場にもかかわらず、映画に登場したのだろうか。「ミレーナは、ただ好きだから使っていたんです。ウェスはこのとき気にしていなかったんですよ。時計が本当に見えているわけではないので。プレースメントの基準を満たすほどのものではなかったので、そういう感じがしなかったわけです」
もちろん、劇中で軍曹を演じたルパート・フレンドが着用していた時計など、作品中に登場する時計は多数ある。「これは40年代の時計のクォーツのレプリカです。私はもっと高価なフランス製の時計を提案しましたが、ウェスはこの時計を選びました」
それから、1970年代共産主義時代の東ドイツで作られた、文字盤に猫の顔が描かれた非常に興味深い手巻き時計もあった。「これは私が探していたもので、運よく見つけることができました。ウェスから"子供用に特別な時計が欲しい”と頼まれたのです。これはドイツ民主共和国のRuhla社のものです。猫の目が秒針と一緒に動きます。彼に見せたら、イエスと言いました」
また、すべての時計が腕時計というわけでもない。例えば、ロンジンの懐中時計(1911年製ニエロシルバーのサボネット)は、最初のエピソードでエイドリアン・ブロディ演じる主人公の叔父が使っているものだ。「私はウェスにいくつかの懐中時計を見せました。彼が最初に選んだ時計は壊れていました。それで、代わりのものを探さなければならなかったのですが、唯一動いていた代わりの時計がこのロンジンだったのです。カメラでは後ろからしか映っていませんが」
エドワード・ノートン演じる「ザ・ショーファー」は、ダッシュボードに一風変わった時計を持っている。「OTS アルノーXL という1950年代のストップウォッチです。これは、運転手というキャラクターが使っているフランスの古い時計です。ウェスにロシアの時計やオメガを見せたら、"フランス製がいいんじゃない?"と言われて、見つけたのがこれです」
フリッツ氏はロシア製の腕時計を相当数所有しており、そのなかには『フレンチ・ディスパッチ』で使用したRaketaというブランドの腕時計も含まれている。オスカーを2度受賞しているクリストフ・ヴァルツは、1分間の登場シーンにRaketaの時計を着用している。「私は彼の時計が大好きです。『ブリッジ・オブ・スパイ』の仕事で買ったロシアの時計です。ロシアのキャラクターがたくさん出てくるので、同じ国の時計をたくさん買いました」
アンダーソン監督自身は、腕時計をしているのだろうか? 「していないと思います」とフリッツ氏は言う。「いつもジャケットを着ているから、袖の下が見えないのです。彼は"今何時だ!"とか"なんていい時計なんだ!”とか叫ぶような人ではありません」。しかし、フリッツ氏は時計好きであり、彼の選ぶ時計はハミルトンだ(そこにショックはない)。お気に入りはジャズマスター GMTだそうだ。
では、現在、そしておそらく史上最も、ハリウッドで有名なふたりの監督のもとで働くというのは、どのような感じなのだろうか? フリッツ氏によればいくつかの相違点があるという。「スピルバーグは他人のアイデアも使うし、みんなの頭も使います」と懐かしそうに語る。「彼がどうしたらいいかわからないということではありません。いいアイデアはいいという考えです」
アンダーソン監督の場合、物事はかなり前から考えられていて、共同作業の余地はほとんどない。「通常、彼は自分で描いた絵コンテと、彼と一緒に仕事をしているアーティストの絵コンテを持っています。また、映画全体のアニメーションも事前に用意します。それが映画になるんです」
これらの映画に登場する時計は、制作終了後、フリッツ氏にとって新たな意味を持つことになる。例えばサゼラックのエクレール クロノグラフのように。eBayで見つけた時計が、新たな意味を持つようになったのだ。「もちろん、今は違うものです」。そして、彼はその時計を保管しているのだろうか、それともどこかのウェス・アンダーソン美術館に収蔵されるのだろうか?「いや、ここに置いてあります」と、遠くで犬が吠えるのを聞きながら言う。「これは私のもので、これからもそうです」
『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』(オーウェン・ウィルソン、エイドリアン・ブロディ、ビル・マーレイ、ティモシー・シャラメ、エドワード・ノートン、ティルダ・スウィントン、フランシス・マクドーマンド、ジェフリー・ライト出演)は、ウェス・アンダーソンが監督、エカート・フリッツ氏が小道具を担当した作品。
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