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私の“懐中時計推進計画”がここに再始動する。これまで私の記事を読んできた方なら、私が懐中時計に対して並々ならぬ愛情を抱いていることはご存じだろう。“懐中時計推進計画”とまで揶揄されるほどだ。きっと編集部の誰か、たとえばリッチなどは「懐中時計に関する記事は執筆禁止」と契約に盛り込んで欲しかったと思っているかもしれない。しかしそうはならなかった。そしてまた、今回も懐中時計の話である。最近ではこの情熱が徐々に浸透してきたようで、友人から「初めて懐中時計を買うけれど、何かアドバイスは?」と尋ねられることもある。そんな時、私はいつもこう答える――「アメリカ製のプライベートレーベルの懐中時計を探してみたらどうだろう?」と。
ハミルトン製の懐中時計に“Fred McIntyre”と刻まれた個体が、ボナムスで販売されたことがある。アメリカ人が工業製品としての時計にこれほど美しい仕上げを施していたことを知れば、「アメリカ人は美意識がなかった」とは誰も言えなくなるだろう。Photo courtesy Bonhams.
全米時計収集家協会(NAWCC)のウェブサイトには、プライベートレーベルの懐中時計について詳しい説明が掲載されている。簡単に説明すると、19世紀後半から20世紀初頭にかけてほぼすべてのアメリカの主要時計メーカー(なかにはスイスのメーカーもあった)が、一定の料金を支払えばムーブメントや文字盤に刻まれたテキストを変更するオプションを提供していたのだ。たとえばボールは当初、ハミルトン、エルジン、ウォルサムの時計に自社の名前を刻むことからスタートした(ただし、これは少し複雑なので最適な例ではないかもしれない)。また、シアーズ・ローバックのような大手小売業者はイリノイ社から時計を注文することもあった。この話のなかで特に重要なのは、地元の宝飾店が独自のプライベートレーベルウォッチを外部のブランドから購入していたという点だ。
規模の大小を問わずどの宝飾店でも、最小注文数を満たせば25~50セントの追加費用で自分の店名を文字盤に刻むことができた。ムーブメントに名前を入れる場合、ブランドによっては1ドル程度の追加料金が必要な場合もあったが、その限りではないことも多かった。これは今で言う“ダブルネーム”ウォッチの先駆けと考えればよいだろう。わずかな追加費用で宝飾店は特別で高品質な時計を提供しているように見せることができ、顧客も地元の店名が刻まれた時計を手に入れられたのだ。
私自身も、ゆかりのある都市の名前が刻まれたプライベートレーベルの懐中時計を集めるのが好きだ。ただ時計を収集するだけでなく、“宝探し”のような楽しさも味わえる。現在約12個ほどのコレクションがあるが、いまだに自分の故郷の時計を探し続けている。私の“究極の時計(グレイルウォッチ)”のひとつは“Fred McIntyre”と刻まれた懐中時計だ。彼はかつて“インディアン準州”と呼ばれていた地域で宝飾店を営んでいた人物だが、現代の視点から見るとその名称は不適切かもしれない。それでも、この時計は時代の移り変わりを象徴するひとつの証であり、非常に興味深い。そんななか、父親が“George Draeb Jeweler”という宝飾店の名前が刻まれた懐中時計のeBayリンクを送ってくれた。これはウィスコンシン州ソーヤーの宝飾店で販売されていた時計だった。
もしハミルトン社のグレード926や927を手に取る機会があれば、文字盤に美しい書体で“Fred McIntyre, South McAlester, I.T.”と刻まれていることに気づくだろう。当時の“インディアン準州”を示すものであり、これらの時計は2015年にボナムスで1750ドル(当時のレートで約21万円)で落札された。Photo courtesy Bonhams.
私の祖母は、ウィスコンシン州グリーンベイの北に位置するスタージャン・ベイで育った。この町はかつて造船業で栄え、現在でもその産業が町の経済の重要な一部を占めている。人口1万人弱のこの町は半島に位置し、ミシガン湖からグリーンベイまで船が航行できるようにする運河によって分断されている。運河の南側にあった町は1891年までソーヤー(Sawyer、WI)と呼ばれていたが、その後スタージャン・ベイに吸収された。1940年代まで、あるいは今でも一部の住民にとって南側は“ソーヤー側”と呼ばれている。そしてジョージ・ドレーブ宝飾店は長年、運河の両岸に店舗を構えていた。
私はその時計を購入しようとしたが、すでに売れてしまっていた。一時的に落胆したもののそれも束の間だった……、というのも、父がその時計をクリスマスにサプライズプレゼントしてくれたのだ。父と私はやはり考えることが同じようだ。しかし問題があった。まず時計がケースにしっかり収まっておらず、ねじ込み式のベゼルと風防がガタガタと動いていた。そのせいで、すでにヒビが入っていた繊細な文字盤がさらに傷ついてしまったのだ(こういった状態は懐中時計では珍しくない)。さらにもうひとつの問題があった――、時計が動かなかったのだ。さて、1913年にジョージ・ドレーブ(George Draeb)のために作られたこの時計をどうするか? 答えはひとつ、時計をジョージ・ドレーブ氏本人に持ち込む、だ。
ジョージ氏は比較的寡黙な人物だ。彼が目を閉じているのは、単に下を向いていただけで、写真撮影を少しでも楽にしようとする私の冗談に反応しただけなのだ。
この写真に写っているのが3代目のジョージ・ドレーブ氏だ。ただし、“ジョージ・ドレーブ3世”というわけではない。彼の家族は代ごとに名前を飛ばして受け継ぐため、彼の名前はただのジョージ・ドレーブである。話によれば、1904年のある日、ジョージ・A・ドレーブはスタージャン・ベイの通りを歩いていて、20ドル紙幣(現在の価値で約750ドル)を歩道で見つけたという。ジョージ・Aは、8年生(中学2年生)までの教育しか受けておらず、貧しい家庭で育った。しかしそのお金を自分のものにする代わりに、その通りのすべての店を訪ね歩き、落とした人を探したのだ。その誠実さに感銘を受けたのが、宝飾店主のリチャード・ヴァイトリッヒ(Richard Weitlich)である。彼はジョージを店の掃除係として雇い、ジョージはその後、店の仕事を少しずつ覚えていった。最終的にジョージは自分の店を開業し、そのビジネスは現在まで続けている。
ジョージ氏が私を店の入口で出迎えてくれたとき、その場にふさわしい懐中時計を持っていた。1913年製のイリノイ グレード69で、文字盤には“George Draeb Jewelers in Sturgeon Bay, Wis.”と刻まれていた。いわば、私がクリスマスに手に入れた時計の“姉妹時計”である。シリアルナンバーは約1万2000番ずれていたため、同じ発注ロットの時計ではなさそうだったが、それでもインタビューのスタートとしては素晴らしかった。
もうひとつの1913年製イリノイ グレード69。
ムーブメント自体は同じものだったが、ケース、ムーブメントの仕上げ、文字盤の仕様は異なっていた。この時計はウィスコンシン州スタージャン・ベイのものだった。
ジョージ氏の祖父が使っていた懐中時計には後年に付けられた懐中時計用チェーンがついており、そこには(予想どおり)“George Draeb”という名前が綴られていたのだ。
ジョージ氏は私のイリノイ製の懐中時計を手に取り、作業台でさっと確認した。この時計はコインシルバー(純銀)製のケースに収められており、彼のゴールドフィルド(金張り)ケースの時計とはその点で異なっていた。時計の問題のひとつはすぐに解決した。この時計はスイングアウトケースと呼ばれる構造で、ベゼルの下に隠しヒンジがある。誰かがムーブメントを見るためにこのケースを開けた際、ケースを閉じるときにリューズを完全に引き出さずに戻してしまったのだ。この時計は手巻き式かつレバーセット式で、ムーブメントと接続する四角い軸がある。この軸を引き出し、慎重に元に戻し、最後にリューズを押し込む際、軸とムーブメントの穴を正確に合わせる必要があるのだ。ジョージ氏はムーブメントとリューズを正しい位置に収め、傷のついたベゼルと風防を元に戻してくれた。
ジョージ・ドレーブ氏が、彼の祖父が約110年前に販売した時計を見つめる。
もうひとつの問題は、テンプの軸が折れていたことだ。これらの懐中時計は大量生産された製品だが、110年前の時計のテンプの軸を探すのは簡単ではない。もちろん新たに作ることもできるが、それにはかなりの費用がかかる。そこで最も現実的な方法として選んだのは、部品取り用のムーブメントが市場に出るのを待つという手段だった。この方法を取ったため、時計の修理が2年以上かかったというわけだ。
私の祖母はつい先日90歳の誕生日を迎えたが、幼少期に見たドレーブの店を覚えているという。その祖母もまた、スタージャン・ベイにゆかりのある別のイリノイ製プライベートレーベル懐中時計を持っている。その時計は、1905年にリチャード・ヴァイトリッヒのために作られたもので、スタージャン・ベイの店名が刻まれていた。11石のレディースサイズの時計で、ムーブメントはグレード33、ケースサイズは0サイズだ。この時計は、私の祖父から祖母への贈り物だった。祖母はスタージャン・ベイで育ったのだ。もしドレーブ家の歴史にゆかりのあるこのような時計を2本も所有することに私が少し罪悪感を覚え、売ることを申し出なかったらどうなるだろう――と思うかもしれない。しかしそんな心配は無用だ。ドレーブ家には時計が十分にあるのだから。
祖母のリチャード・ヴァイトリッヒの時計、ジョージ・ドレーブのソーヤーの時計、そしてもうひとつの1913年製リチャード・ヴァイトリッヒの時計――その3つが揃った。
ドレーブ氏の店には古い時計や懐中時計を展示するショーケースがあり、これらはドレーブ家の歴史とスタージャン・ベイとの深い関わりを物語るものだ。なかにはグリーンベイ・パッカーズのロゴ入りの時計や、ウィスコンシン時計協会の時計など、ちょっとユニークなものもある。ドレーブ氏のコレクションにはヴァイトリッヒの時計も複数含まれているが、そのなかで特に目を引いたのがもうひとつの1913年製イリノイ グレード69の懐中時計だ。この時計もスイングアウトケース仕様で、1913年に注文されたものだった。この日に私が見た時計は合計で3つ――どれも1913年に祖母が育った地域の、小さな宝飾店から注文された可能性が高い。
“George Draeb Jeweler”のイリノイ製懐中時計。私物だ。
リチャード・ヴァイトリッヒのスタージャン・ベイの時計は私の時計と同じデザインだが、ケースがスイングアウトケースのサイドワインダー仕様になっている。
残念ながら、リチャード・ヴァイトリッヒのように1800年代後半から1900年代初頭のプライベートレーベル時計を扱っていた多くの宝飾店は、アメリカの時計製造業の衰退とともに消えていった。とはいえ、現在も営業している宝飾店もある。たとえばボストンのシュリーブ・クランプ&ローや、サンフランシスコのシュリーブ&コーがその例だ。一方ですでに廃業したベイリー バンクス&ビドルのような宝飾店は、パテック フィリップとの強い関係があったことで知られている。しかし大都市以外の小さな町でも、宝飾店がプライベートレーベル時計を注文するのは珍しいことではなかった。どんなに小さな町にも(おそらく)、独自の名前を入れた時計を販売する宝飾店があったのだ。
宝飾店の数が多かったこと、そして時計メーカーが卸業者を通じてプライベートレーベルウォッチを容易に提供していたことから、今でも驚くほど多くのプライベートレーベルウォッチが市場に出ている。ただし、それらの多くは良好な状態で残っているわけではないので、購入の際は慎重に検討する必要がある。何を買おうとしているのかをしっかり確認し、その価値に見合った金額を支払う覚悟を持つことだ。いずれプライベートレーベル時計の購入ガイドを書くのも面白いかもしれない。もし、イリノイ製の個体を探してみたいと思うなら、を覗いてみてほしい。NAWCCのフォーラムにあるスレッドを覗いてみてほしい。そこには、知られているすべてのイリノイ製プライベートレーベル時計の記録が掲載されている。そのなかに幸運にも自分の故郷の名前が入った時計が見つかるかもしれない。
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