本稿は2020年10月に執筆された本国版の翻訳です。
上の写真は、2011年の映画『裏切りのサーカス(原題:Tinker, Tailor, Soldier, Spy)』にてジョージ・スマイリーを演じるゲイリー・オールドマン(Gary Oldman)氏だ。本記事はスマイリー三部作と『寒い国から帰ってきたスパイ(原題:The Spy Who Came in from the Cold)』における初期の重要なプロットのネタバレが含まれているので注意。
私が子どものころ、ジェームズ・ボンドの映画に夢中になったのは自然なことだったと思う(高校2年生の悲惨な年に文学的なジェームズ・ボンドが存在することに気づき、学校の隣の図書館でボロボロのペーパーバック版を読んで乗り切った。学校は学びの場というより刑務所のような灰色の建物だったが、それはまた別の話)。ボンドが気晴らしを提供してくれた一方で、もうひとりの架空のスーパースパイ(と呼んでいいのかどうかわからないが)であるジョージ・スマイリーが、早熟で皮肉屋になった青年にとっては倫理的な不確実性と道徳的腐敗の影の領域で、欠点を持つヒーローたちが無意味に争っているような、みすぼらしい世界だということを確認するようなものだった。もちろんジョージ・スマイリーのことを指している。彼はOBE(大英帝国勲章)受賞者であり、誠実な警官が“ファニーズ”と呼ぶスパイのひうとりである。かつて非公式にMI6、正式には秘密情報局と呼ばれる組織の長を務め、スマイリーの生みの親であるジョン・ル・カレ(John Le Carré)によって皮肉を込めて“ザ・サーカス”と名付けられた。この名称は本部がケンブリッジ・サーカスにあることに由来するが、『寒い国から帰ってきたスパイ』を書いたル・カレの作品には二重の意味が込められていることが多い。
ジョージ・スマイリーがどんな腕時計をつけていたかを考えるようになったのは、時計コミュニティにいるジェイソン・ヒートン(Jason Heaton)とのメールやり取りがきっかけだった。ジェイソンは時計業界で最もボンドに近い存在だが、両者とも冒険を好む旅慣れた紳士であるという意味においてのみで、アルコール依存症やタバコ中毒、人命の価値や人間本来の尊厳を蔑ろにするようなことはしない。またジェイソンはスパイではない…少なくとも我々が知る限りでは)。ジェームズ・ボンドデーを記念したお気に入りのQ課のガジェットウォッチを紹介したことがきっかけで、スマイリーがどんな時計をつけていたかを考えるようになった。ボンドの時計は冷酷で無慈悲な実直な性格を投影しているが『007/カジノ・ロワイヤル(原題:Casino Royale)』でエヴァ・グリーン(Eva Green)氏演じるヴェスパー・リンドがMI6のエージェントについて、“元SAS隊員で、笑顔が素敵で高価な時計をつけている人たち”と描写している)、スマイリーにとってそのようなものは逆に忌避すべき対象だったと考えるのが妥当だと思う。
ジョージ・スマイリーは実際、物語のなかで注目を集めるような行動を非常に嫌う人物として描かれているが、これはスパイ活動に従事する者として自然なことである。スマイリーが“ボンドはある目的を果たしているが、あの派手な時計や高価なクルマ、機会があればすぐに暴力に訴えるようなやり方は作戦上安全とは言えない”と呟く様子が容易に想像できる。
スマイリーがどんな時計を所有していたかを考えるには、彼の架空の経歴を簡単に振り返ってみたい。スマイリーは1915年頃に生まれ、目立たない存在であったことを美徳とし、職業とした。オックスフォード大学で現代言語を学び、バロック時代のドイツ文学を専門としていた彼は、学問の世界での将来に希望が持てなかったため、家庭教師のジェベディーに勧誘されてサーカスに入ることになった。
スマイリーはその後、長期にわたる冷酷なキャリアを築く。彼はいくつかの初期のル・カレ小説に登場するが、特に『寒い国から帰ってきたスパイ』では小さな役割ながらも重要な存在である。この作品で、諜報員のひとりであるリーマスがガールフレンドに自分の正体をバラしたことを知り、リーマスが言うところの“汚くてろくでもない作戦”に彼女を組み込んだ。まあネタバレは避けるが、もしまだ読んでいないなら(ぜひ読むべきだ)、1960年代の東ベルリンでの汚くてろくでもない諜報活動がどう終わるかはおそらく想像がつくだろう。スマイリーは冷戦時代のヨーロッパを放浪し、『重力の虹』のゾーンにおけるタイロン・スロートロップのように現れては消える。しかし彼の原型はスマイリー三部作で最も明確に固まり、特に1974年の小説『裏切りのサーカス』ではサーカスに潜む“二重スパイ”を暴くことでその姿が描かれた。スマイリーは虚栄心、貪欲、不安定など人間の醜い特性を持つ人々に囲まれており、愛国心は彼らの動機のなかで最も低い位置にあるが、スマイリー自身は深く愛国的を持っており、少なくとも民主主義の理想に深くコミットしている。
スマイリーをひと言で言えば、秘密主義と思慮深さが個人的な好みであると同時に職業的な義務でもある人物だ。物理的なものに対してはあまり興味がなく、技術的なことにも特別な関心を示さない。彼はスパイ技術に付随する技術的な問題に精通している。例えばスマイリー三部作の最終作では、盗まれたネガから自分でプリントを作成する手間を惜しまず、また『裏切りのサーカス』クライマックスでは銃器の扱いにも堪能であることが描かれている。しかし、一般的に彼は肉体的に不器用とまではいかなくとも技術的な事柄やメカニズムに対する真の魅力を感じさせない、ある種抽象的な印象を与える(自動車にはほとんど興味がなく、『スマイリーと仲間たち』では、非常に危険な救出作戦の最中同僚のポルシェに乗り込む際、“なんてひどい小さなクルマだ”と本当に軽蔑した様子で叫ぶシーンがある)。また彼が個人のスタイルを示すために、時計を所有することも考えにくい。ボンドが少し粗野な魅力ときわめて男性的な魅力で注目される一方、スマイリーはその点で著しく魅力に欠けているようだ(彼の美しい妻は何度も彼に不貞を働いている)。彼は些細なことにうぬぼれが強く、帽子をかぶると滑稽に見えるため(少なくとも小説では)かぶるのを拒む。彼の服は非常に高価だが、サイズが合っておらず、そのことに気づいていないようだ(小説によると、これは仕立て屋が追加の生地代を高く請求して彼から奪おうとしたためである)。要するに、スマイリーはペン、カメラ、時計などの品質にはこだわるが、それを評価する際に自己疑念に悩まされるため、信頼できる保守的な時計に多額の金を費やすきらいがある。その時計が何年にもわたって正確な時間を提供し、問題を起こさないことを期待してしているのだろう。
ここでル・カレが描くスマイリーの姿を簡潔に紹介する。『裏切りのサーカス』の冒頭で、スマイリーは大雨が降る深夜のロンドンにて、“小柄でふっくらとしており、せいぜい中年に見える彼は、ロンドンの地味な人々のひとりに見えた。足は短く、歩き方はぎこちなく、服装は高価だが似合っておらず、ひどく濡れていた”と描写される。
では、スマイリーはどんな時計を使うのだろうか? ひとつの可能性として、学生時代には懐中時計を愛用していたことが考えられる。1930年代のオックスフォードでバロック・ドイツ文学を学ぶ学者にとっては十分にあり得ることだ。ハンドメイドの英国製懐中時計であれば高価だったが、彼の運動嫌いと控えめで規則的な生活を考えると、スティールケースのオメガのような時計が非常に適していただろう。ただスカウトされたあとは、懐中時計よりも少し扱いやすいものを求めるようになったかもしれない。スマイリーの特徴である誤った忠誠心から、できる限り長く懐中時計にこだわった可能性もあるが、1935年にドイツで始めた本格的かつ独立した現地での活動は、より使いやすい時計を必要としただろう。戦争が始まる直前、彼がチューリッヒを訪れ(彼は昔からスパイのメッカであるスイスを頻繁に訪れていた)、バーンホフ通りのベイヤー・クロノメトリーに立ち寄る姿が容易に想像できる。スマイリーはその歴史と堅実さのオーラに安心感を覚えたに違いない。
おそらく彼には少し余裕があった。扶養する家族もおらず(彼は戦後まで結婚せず、子どももいなかった)、質素な生活習慣を持っていたため、給与は貯まる一方だっただろう。腕時計という問題を1度で解決しようと考えていた彼なら、パテック フィリップを選んだ可能性は高いと思う。もしかしたらパテック フィリップの存在を知っていたかもしれず、その非常に高い品質の評判に引かれたかもしれない。私の推測では、スマイリーはイエローゴールドのRef.96 カラトラバを購入し、それを腕につけて店を出たのだろう。この時計は、その控えめさ、慎重さ、必要なときに現れ、不要なときに消える能力を備えており、完璧なスパイにとって理想的な時計であった。
そしてスマイリーは毎朝無意識にリューズを巻き上げながら、何十年にもわたってその時計にほとんど考えを巡らせなかっただろう。ただ時折、価格で騙されたのではないかと疑うことがあったかもしれないけれど。
Photo credits: Alec Guinness, BBC/Paramount Pictures/Ronald Grant/Archives/Alamy Stock Photos; Gary Oldman, Movie Store Collection, Alamy Stock Photos, and Entertainment Pictures, Alamy Stock Photos
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