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Historical Perspectives 第2次世界大戦前のニューヨークにおける、カルティエの工房にまつわる回想録

ある家族の写真から、長いこと忘れ去られていたカルティエのアトリエを垣間見ることができた。

本稿は2020年1月に執筆された本国版の翻訳です。

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 今日、カルティエのタイムピースは、スイス時計産業の中心地であるラ・ショー・ド・フォンの3万平方フィートを誇る近代的な工場で製造されている。ひとつ屋根の下で行われているのはデザインと製造だけではなく、高い評価を得ているカルティエの修復部門では、ブランドがこれまでに手がけてきたあらゆる時計の修復と修理が行われている。この施設ではおよそ170の業務が分担されており、そのすべてがカルティエの輝かしく近代的な自社製キャリバーの製造に寄与している。

カルティエ ニューヨークでの31年間を含む、アレハンドロ・フェラー(Alejandro Ferrer)のキャリアに関するメモ。

 しかしカルティエがこのニューヨークで時計やジュエリーを製造していた時代があったことを知ったら、きっと驚くことだろう(私もそうだった)。ブリューウォッチのジョナサン・フェラー(Jonathan Ferrer)氏が古い家族の写真を整理していたところ、彼の祖父であるアレハンドロ・フェラーが写った写真を見つけた。彼は1910年から1941年までの31年間、カルティエの工房で働いていたが、第2次世界大戦中に徴兵される形で同社での勤務を終えた。その写真と一緒に、2番街と3番街のあいだにある50丁目に入植していたカタルーニャ人コミュニティの20世紀初頭の暮らしぶりについて手書きの説明が添えられていた。

第2次世界大戦前のカルティエ ニューヨークの工房。

 「この地域には、スペインやフランスからやってきたカタルーニャ人ファミリーのコミュニティがあった」とフェラーは記している。「彼らのほとんどは宝石職人であり、 新しいファミリーがアメリカに向けて出航すると、彼らは仲間の職人たちに手紙を書いてニューヨークで働くことになった旨を伝えた。彼らはそれぞれにアパートを見つけ、こうして全員が同じ地域に住むことになった」。

ホープダイヤモンドを身につけた社交界の名士、エヴァリン・ウォルシュ・マクリーン(Evalyn Walsh McLean)。1911年にピエール・カルティエ(Pierre Cartier)から買い受けたもの。

 そして、「彼らの多くはパリのカルティエで働いたのち、ニューヨークの5番街にあるカルティエに就職した」と続け、自身の父であるマイケルが11歳で宝石店の見習いとなり、18歳でパリに移ってカルティエで最初の仕事を任されたと記している。

 この写真とそれに添えられた説明文は、カルティエ ニューヨークの工房をめったに考察されることのない視点から捉えた忌憚のないものである。工房で働く男たちのほとんどは、ランチを食べに家に帰れるほど近くに住んでおり、週末にはよく一緒に集まって交流していたと記されている。カルティエの5番街での事業は、ニューヨーク屈指の高級宝飾商としてだけでなく、この時代における高級品御用達店としての地位を確立した。しかし、また同時にカルティエの繁栄を支えた高級ジュエリーや時計の製作に携わり、裏方として活躍した移民コミュニティの成長の機会も提供していたのである。

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 カルティエのニューヨーク工房が開設されたのは1909年7月のことだが、それよりもはるか以前から、アメリカ人のジョン・ピアポント・モルガン(J.P. Morgan)に、コーネリアス(Cornelius)、ウィリアム・キッサム・ヴァンダービルト(W.K. Vanderbuilt)、そして通称“アスター夫人”として知られるニューヨークの著名な社交家、キャロライン・スキーマーホーン・アスター(Caroline Schermerhorn Astor)らに愛用されていた。ニューヨーカーたちからのオーダーは、カルティエによってすでに1855年には記録されている。ピエール・カルティエがニューヨーク店をオープンすると同時に、フェラー家の写真にあるように工房全体が開設された。1909年、カルティエのロンドン店とパリ店は繁盛していたが、アメリカ市場についてはまだ発展途上であった。

ピエール・カルティエ、ニューヨークにて。

 ピエール・カルティエは自ら、ウォルドーフ・アストリア、セントレジス、プラザホテルで自社の連絡先がすぐにわかるように手配した。彼の鋭い商才と、当時の活気あるアメリカ経済がもたらした幸運が重なり、カルティエは瞬く間に成功を収める。1911年にホープダイヤモンドをワシントン・ポスト紙の相続人であるエヴァリン・ウォルシュ・マクリーンに売却したことで、メディアへの露出が飛躍的に高まったことは言うまでもない。エヴァリンと夫のネッド・マクリーン(Ned McLean)はこの“呪われた”ダイヤモンドを、ピエール・カルティエから18万9000ドルで購入した。

ホープダイヤモンド。

 マクリーン女史が1936年に発表した自伝『Father Struck It Rich』のなかで、彼女はこう記している。「私は“さあ、見せてちょうだい”って待ちきれない感じでカルティエに言ったの。彼は、コンサートピアニストが訓練された指を楽器の鍵盤に当てる前にするように、少なくとも1分間は身動きせずに静かに呼吸していた。その沈黙は雄弁で、彼の思惑通り、私はこの宝石を見せてもらうことで人一倍の特権を与えられているのだと感じたわ」

ヴィンテージのカルティエ 「タンク サントレ」。このモデルが初めて発表されたのは1921年で、当時アレハンドロ・フェラーはカルティエ ニューヨークですでに11年間勤務していた。

 カルティエ自身もフロリダで冬を越してパリで夏を過ごすなど、ニューヨークの社交界に溶け込みながら、ブランドが体現するような上流階級の生活を送っていた。パリ、ニューヨーク、ロンドンのカルティエ3兄弟は、第1次世界大戦後の消費文化の隆盛によって経済活動が活発化した20世紀初頭ならではの方法で会社を成長させた。1917年にカルティエは現在カルティエ マンションとして知られる5番街653番地に引っ越したが、その後も工房は残り、大都会で活躍する職人たちのコミュニティを支え続けたのだ。

Headline image, Cartier 5th Avenue, 1920.