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In-Depth ドクサ T-グラフ 卓越したダイバーズウォッチが再び海中へ

船は港にいれば安全だが、船はそのために作られたのではない。

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1970年春、私が米イリノイ州ロックフォードで生まれた頃、17歳の高校生だったビル・ストーチ(BILL STORCH)がロックフォードの東140kmに位置するニュー・トライヤー高校でスキューバ講習に申し込んだ。シカゴ郊外ウィルメットのミシガン湖のほとりに位置するニュー・トライヤー高校では、興味のある生徒はPADIダイビングクラスを受けることができた。基本的な安全、技術、装備に関する講習は高校のプールで行われ、オープンウォーター講習はイリノイ州の北隣にあるウィスコンシン州の冷たく濁った湖で行われた。ビルが講習を受けたわずか4年前に、スキューバダイビングの指導団体「PADI」がシカゴで設立された。アドベンチャースポーツとしてスキューバダイビングが急成長していた当時、PADIのコースはすぐに最も人気のスキューバダイビング習得法へと成長することになる。

ドクサ T-グラフ シャークハンターを着用したビル・ストーチ、1970年頃(写真提供:ビル・ストーチ)

 亜麻色の髪の細身のレスラーだったビル・ストーチは、ライフガードのアルバイトと時々、セーリングインストラクターをしていた。スキューバダイビングの講習を受けるために基本的な装備を揃える必要があったビルは、シカゴのとあるダイビングショップ(USダイバーズの販売店)を訪れた。そこでビルはマスクとフィンを購入し、湖の冷たい水から身を守るためにインペリアル タートル社のウェットスーツを注文した。その時、レジ付近のケース内にあった巨大なスティール製ダイバーズウォッチに目を奪われた。ギザギザのベゼルで鎖帷子ブレスレットのようなものがついていた。「シャークハンター」という名前が、若かりしビルの想像力を刺激した。それは、1年前に発売されたばかりのドクサの最新ダイバークロノグラフ「T-グラフ」だった。179ドル(約1万9000円)という値段は10代のビルにとってはあまりに高価だったので、買うのは無理だとあきらめたが、店長に「今、20ドルの頭金を払って予約して、残りの支払いを終えれば手に入るよ」と言われた。

 レイアウェーという予約購入方式を覚えている人はいるだろうか? 分割で何回も支払いを行って完済したら商品を受け取れるという、クレジットカードやペイパルを利用してすぐに商品が手に入る今の時代には考えられない程忍耐力が必要な購入方式だ。ビル・ストーチは1970年に、この支払いを達成した。数ヵ月の間、ミシガン湖でセーリング講習のインストラクターとして働き、ライフガードもして、すべての支払いを終えてドクサを手に入れたのだ。その年の7月6日に、ビルはPADIの2人の創設者、ラルフ・エリクソンとジョン・クローニンがサインしたダイビングライセンスカードも手に入れた。

PADIの創設者2人のサインが入ったビル・ストーチのPADIカード。

 初めて腕時計を手に入れたときの気持ちを覚えているだろうか? 私ははっきりと覚えている。私が初めて腕時計を手に入れたのはビル・ストーチと同じ17歳の時だ。ウィスコンシン州ミルウォーキーの郊外に住んでいた私は、時間をもてあまして地元のショッピングモールをぶらぶらしていた時、宝飾店のウィンドウの中にあった大きなスティール製のダイバーズウォッチに惹きつけられた。それは赤青ベゼルと、信じられない程長いラバーストラップがついたセイコーの自動巻き腕時計だった。85ドル(約9200円)で、絶対手に入れようと思ったものだ。数ヵ月の間、草刈りやガレージのペンキ塗りなどの雑用をこなして貯金し、そして、とうとうそのセイコーの腕時計を手に入れた。その腕時計を着用していたのは高校3年生の時で、周りにそんな腕時計を着けている人は誰もいなかったので、その腕時計が私の個性の一部になった。私は「体育会系」から「夢想家」になり、冒険小説、ジェイ・ペターマンのカタログ、そして雑誌『アウトサイド』の読者になった。私はそのがっしりした腕時計を身に着けた自分が、アクションヒーローか秘密諜報員のように感じられた。以来、私が持っているすべての時計でその感覚を取り戻そうとしていると言っても過言ではない。

ミネソタ州北部バーミリオン湖の船着場で友達と一緒のビル・ストーチ。

 ストーチ家はミネソタ州北端のバーミリオン湖に小屋などを所有していて、毎年夏の数週間をそこで過ごした。ビルは1970年と71年の夏を覚えている。大学へ入る前の、大人への階段を上る前、草だらけの濁った水の中に素潜りをし、水上スキーをし、大きな湖をボートで走り回った後、日焼けした肌と色の抜けた髪の毛でイリノイ州へ戻った。

 その間ずっと、手首にはドクサがあった。誰もがどんな大人になりたいのか思い悩む人生の一時期に、ドクサは自分がどんな人間かを定義するのに役立った。ビルは中西部のビーチボーイで、ウォータースポーツ選手だった。ドクサの無減圧限界潜水時間を知らせるベゼルを使用してスキューバダイビングを学び、ミシガン湖でのヨットレースではT-グラフのミニッツカウンターを使用してレガッタのスタートまでカウントダウンした。ビルの高校時代の友人たちは、ビルがその腕時計を着用していたこと、そしてビルがどれほどその腕時計を誇りに思っていたかを覚えている。古い写真の中のビルの目には、大人へと成長する過程で増大する自信が見てとれる。何と言っても、17歳の時に、手首に巨大なダイバーズ クロノグラフ(宇宙飛行士ジーン・セルナンが持っていたのと同じ腕時計)を着けていれば、どれほどクールな気分だったろう! 私はその感覚を覚えている。

このストラップで少しは新しく見える? 50年の歴史をもつドクサが再びダイビングへ。

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 10代の若者は腕時計を乱暴に扱うが、1971年にはG-SHOCKのような頑丈な時計はなかった。ビルは苦労して手に入れたドクサをいつでもどんな時でも着用したがった。ビルはある日、家族ぐるみの友人が操縦するボートの後ろで水上スキーをしていた。「彼はどれくらいのスピードを出せばいいのか全く分かっていませんでした」とビルは振り返る。「私がスキーを外したら、ボートの後ろで裸足で水上スキーができたくらい、彼はスピードを出していました」。そしてとうとう、つかまっていることができなっくなったビルは、ボートの引き波に頭から打ち付けられた。

 「最初に『腕時計は?!』と思いました」。ビルが手首に手を伸ばすとドクサはなく、恐怖におののいた。しかし、運良くクラスプが開き、ブレスレットが広がって肘までずれ上がっていただけで、時計は無キズだった。

 ビルは1971年に高校を卒業し、大学に進学した。70年代半ばには、彼は慣れ親しんだ土地を離れ、西方のオレゴン州へ移ることに決めた。そして、オレゴン州で腕の立つ大工としての地位を築き、独立して木工ビジネスを始めた。電動工具を使い、狭い隙間に手を入れることが多い仕事の性質上、大きな腕時計の着用は適さず、ドクサは机の引き出しにしまわれた。ビルはたまにドクサを取り出してゼンマイを巻いたが、滅多に着用することはなかった。また、ビルは自己改革へと進んだ。ビルは「ビーチボーイ」から、西部の男になった。「伝説的なマウンテンマンを描いた『大いなる勇者』(編集記:ロバート・レッドフォード主演の1972年の映画)の時代で、私はマウンテンマンになりたいと思いました」

10気圧の圧力テストに合格し、使用準備は万端。

 私は昨年、ビル・ストーチのドクサ T-グラフを買い取ったとき、ドクサのシルバー文字盤のシーランブラー モデルを既に持っていた。ベゼルにメートル単位の深度表示があり、おそらく、もともと欧州市場で販売されたものだと思われる。T-グラフの買取を申し込む前に、オレゴン州コーバリスの自宅にいたビルと電話で話をした。私は伝統的な意味ではコレクターではないが、想像力、大きな夢、そしてがっちりとした腕時計がもつ目に見えないパワーに対する健全な敬意を抱く、私と同じ中西部育ちのビルの話に共鳴した。

 T-グラフは修理が必要な状態だった。いつの頃からか、滑らかに動く秒針が緩み、飛び跳ねながら時を刻んでいた。また、最後にメンテナンスに出したのはいつか思い出せないとビルは語った。古いクロノグラフは修理するのが特に難しいものだ。手巻きコラムホイール式のドクサ 287 キャリバー、実際にはエベラール 310 キャリバー(両社ともシンクロンが所有していた)に制御されたこのドクサは特にそうだ。交換部品はほぼ存在しないに等しい。私はその2つの時計を所有することになった。

ドクサ 287 キャリバー、別名エベラール 310 キャリバー。

 私はミネソタ州ミネアポリスのJBハドソン ジュエラーズで働いている地元の時計技術者、ジョシュ・ウィルクス(JOSH WILKES)に問い合わせた。世界最大規模の時計技術者育成プログラムWOSTEPでトレーニングを受けたウィルクスは果敢に修理に挑み、基本的に同じ時計2つを分解しながらそのムーブメントについて学んでいった。

 「このドクサ 287 キャリバーで最初に気付くのは、それぞれの部品のシンプルな職人的仕上げです」とウィルクスは語った。「他のエベラールの仕上げについては分かりませんが、この腕時計には『実用時計』の美学があります。いわゆる、『紳士パイロット』向けの腕時計に見られる華美な要素はありません。これは危険な条件下を想定した時計で、エネルギーをすべて機能に費やしています」

T-グラフをルーペで覗き込む時計技術者のジョシュ・ウィルクス。

 ウィルクスはCal.287を分解し、汚れを落とし、組み立て直し、潤滑剤を塗布し、調整を行った。その間、小さな問題がいくつか見つかった。巻き上げゼンマイは損傷し、地板はゼンマイの巻き上げ機構の部分で摩耗し、ガラスの風防は欠け、他にもいくつか小さな問題があった。ウィルクスは新しいクリスタル風防の製造を注文する必要があった。ドクサに使われていた風防は市販の標準タイプではなかったからだ。「本当に特殊なガラスで、とてもぶ厚く、縁は階段状で、この縁加工だけでも約4倍のコストがかかっているはずです。オリジナルのガスケットと組み合わせれば、水が入ることは絶対にありません」とウィルクスは語った。

 それでも、この50年の歴史を持つダイバーズウォッチをしてダイビングしたいと私が言ったとき、ウィルクスはたじろいだ。そして、腕時計は10気圧の圧力試験に合格したものの、キッチンシンク以上の深さの水中には沈めるべきではない理由を説明した。「わかりました、ジョシュ、良く分かりました」私はウインクして答えた。

50年の歴史を持つ2つのダイバーズウォッチ。

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 4月中旬、カリブ海南部のボネール島で、私は暖かい海水へと足を踏み入れた。片方の手首にはガーミン ディセントを着けていた。水中での心拍数の検知から、ダイビングのエントリー地点とエクジット地点をマークするGPSまで、あらゆる機能を搭載した優れもののダイビングコンピューターだ。もう一方の手首には、50年物の手巻きクロノグラフ。様々な意味で巨大なその時計が、オレンジ色のISOラバー製の厚いストラップで手首に巻きつけられていた。正直、少し不安を感じ、浮力のある空気袋から空気を排出している側の左腕は水中に潜り込むのが最後になった。以前にも氷のように冷たいヒューロン湖でのダイビング旅行にT-グラフを持って行ったことがあったのだが、その時は、水中に飛び込む前に心配になってT-グラフは船に残していった。

50年の歴史を持つT。古い腕時計のディテールは未だに際立っている。

 以前にも言ったことがあるが、ダイビングの最中に腕時計は重要ではない。私はダイビング中ずっと、左手首にあまり注意を払わないで過ごしてきた。しかし、大きなスティール製ダイバーズウォッチの着用には、ダイビング体験を広げる何か特別な魔法があるのだ。ウェットスーツの袖の上にストラップで取り付け、リューズを確認し、ベゼルを回して潜水開始時間をゼロに設定する。これは、マスクにツバで曇り止めをし、ウェットスーツのファスナーを上げ、ヒールストラップを締めるなど、75年の歴史を持つスキューバダイビングとダイバーとを結び付ける儀式のひとつだ。大げさではなく、18mの水中でオレンジ色の針が文字盤の上を周るのを見るのは本当に特別な気分だ。この時計は水中で活躍するためにある。

 「船は港にいれば安全だが、そのために船は作られたのではない」という名言がある。同じことがダイバーズウォッチにも言える。ダイバーズウォッチのデザインと目的は特殊であり、それを否定するのはもったいない。私が初めてセイコーのダイバーズウォッチを手に入れてから何年も経った後、夏の草刈りで稼いだ金額よりもはるかに高い値段のオメガ シーマスターを購入した。頑丈で水中で最高峰の精度を持つ腕時計を着用しているのに、ダイビングの仕方が分からないことが気になった。それがきっかけで、PADIダイビングコースを受講し、私はすぐにプールのコンクリート階段で時計のベゼルをキズ付けた。しかし、賽は投げられた。私はダイビングに夢中になり、すぐに腕時計を着用したダイビングが仕事になっただけでなく、私の情熱の対象となり人生を大きく変えた。いつか私は海から上がり、腕時計から離れ、シェフ、大工、マウンテンマンへと自己改革に進むかもしれない。しかし、その時まで、私は手首に古いドクサを着用した中西部のビーチボーイであり続ける。

写真:ギシャニ・ラトナヤケ(GISHANI RATNAYAKE)