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Watches and Wondersの直前、1年で最も慌ただしい週の月曜日。その日すでに10件目のアポイントメントをこなしていたころ、友人のアダム・ヴィクター(Adam Victor)氏からメッセージが届いた。彼はコレクターであり、ディーラーであり、そしてTalking Watchesにも出演経験のある人物だ。
「ダヴィデ・パルメジャーニ(Davide Parmegiani)が今、街に来てるんだ。ちょっと立ち寄って挨拶してみたら? 絶対行く価値はあるよ」
予定はびっしり詰まっていて、アポイントメントの合間で割ける時間はわずか20分ほどしかなかった。それでも、アダム・ヴィクター氏のこうした話には信頼を置いている。そしてもうひとつ知っていたのは、彼が共同議長を務めるモナコ・レジェンド・オークションが、今回は過去最大級の多様性を見せる可能性があるということだ。ただ、アダムの言う「行く価値がある」の意味を本当の意味で理解したのは、ローヌ通り近くの小さなギャラリーの地下に足を踏み入れた瞬間だった。そこにはダヴィデ・パルメジャーニ氏が、新たにモナコ・レジェンド・グループの副会長に就任したコッラド・マッタレッリ(Corrado Mattarelli)氏と並んで座っていた。そして彼の手首には、ひと目でそれとわかる特別な1本が巻かれていたのだ。
ここ1年ほど、ある記事の構想を練っていた。過去10年近く市場に姿を現していないが、もし今売りに出されたら時計市場の評価を根底から変えるような5本の時計をリストアップするというものだ。つまり、過去とは比較にならないほど高値に達するであろう時計はどれか? という問いである。スティール製のパテック フィリップ Ref.1518は2016年に1100万2000スイスフラン(当時のレートで12億2000万円)で落札されており、現在ではさらに高額になることは間違いない。そのリストには、ブレゲダイヤルを備えたプラチナ製のRef.2497も入っていた。これがきっかけとなり、私はこのリファレンスの詳細な調査に乗り出した。
ほかにも、一般市場で確認されている唯一のプラチナ製Ref.2499(もう1本はパテックのミュージアムに収蔵されている)、そして4本存在するとされる“正統な”スティール製1518も対象だった。ここで言う“正統な”Ref..1518とは、なぜ市場に存在するとされているのが4本なのか、という点に関係している。実は5本目が存在する。しかしそれは、オリジナルケースを失ったムーブメントをあるディーラーがスティールケースに収め直したものだった。決して偽物ではないが、いわば“再構成品”である。悪意によるものではなく、「どうせケースがないなら…」という発想からくるものだった。しかし、パルメジャーニ氏が今回市場に出した個体はまぎれもなく本物であり、しかも驚異的な逸品であった。
これまで夢見るだけだった3本の時計について、今ではほとんどの所在を把握している。あるいは、少なくとも“もし必要になれば”(いや、好奇心以外に理由はないが)どうやってアクセスできるかくらいはわかるようになった。だが、それを実際に自分の手で扱うことになるとは思ってもみなかった。
5年前に「スティール製のRef.1518に触れる機会があると思うか?」と聞かれていたら、「まあないだろうね」と答えていただろう。当時の自分の立ち位置からは、そうした時計に手が届くルートなど存在しなかった。しかしその“ルート”はある日、ジュネーブのギャラリーのドアを開けて、地下へと階段を降りることで突然目の前に現れたのだった。今年2月、パルメジャーニ氏がスティール製のRef.1518を市場に出すと記事で紹介した。この個体の取り扱いは彼にとって3回目であり、Ref.1518全体では9回目になる。ではそんな時計をあるとき誰かに手渡されて、その人がすっと立ち去ってしまったとき……、いったいどうすればいいのか?
自分がしたことはひとつだけ。時計を手首に巻き、その場にじっと座っていた。再びこの機会が巡ってくるとは限らない。ならば、今こそその瞬間を噛み締めるべきだと思った。この体験は圧倒的だった。それはこの時計が持つ希少性や、コレクターのあいだでの評価の高さを知っていたからでもある。Ref.1518は世界で初めて量産された永久カレンダー搭載のクロノグラフであり、しかもスポーティなSS製の個体は数えるほどしか存在しない。それを身につけるという行為は、たとえ所有していなくともフェラーリ 250 GTOを運転することに等しい。それは時計の物語と、その時代にこれを所有していた人物像を思い描くことにほかならない。何枚か写真を撮ったあとでそろそろ返すべきだと感じ、パルメジャーニ氏のもとへ持って行こうとした。だが彼は、その場を離れてしまった。私の緊張を察してか、もっと自由に楽しませようとしてくれたのかもしれない。
高価な時計(いや、たとえそれが自分のものでなくともどんな時計であれ)を扱う際には、正しい作法というものがある。それはていねいに、慎重に、そして間違いのないように扱うことだ。リューズを下にして置かないこと、腕につけたままリューズを操作しないこと、そしてクロノグラフなどの機能を作動させる前には必ず許可を得ることだ。私は普段あまり時計を買う立場ではないので、感情的なアプローチを取ることが多い。ジョン・ゴールドバーガー氏が時計の風防を親指でそっとなぞるような仕草をするのを、いつも不思議に思って見ていた。まるでそのガラス越しに何かを感じ取ろうとしているかのようだ。そしてもうひとつ、独特の儀式のような瞬間がある。時計を手に取って身につけ、ふと目線をそらすのだ。隣の友人の反応をうかがうように、あるいは遠くを眺めるように。ただひとつ確かなのは、決して時計そのものを見つめないということ。
最終的にはその時計が自分に似合うかどうかを確かめたうえで、ホールマークやコンディションといった細部を確認し、ルーペを取り出すことになる。もし高額な時計を購入しようとしているのであれば、こうした点を確認するべきだ。そして可能であれば第三者の目も借りてチェックすることが重要である。それが自分にとって“高額”であろうと、誰かにとっての“高額”であろうと、金額そのものよりも大切なのは、自分が納得して購入できるかどうか、そしてその時計の状態に自信を持てるかどうかという点だ。この趣味は感情が大きく関わるものである。しかしまず感情に向き合い、そのあとで現実的な側面に目を向けることが大切だ。そうすることで、感情が冷静な判断を妨げるのを防げる。この時計についての歴史的背景やほかの現存する個体についての評価は、すでに別の記事で詳細に取り上げている。もしそういった批評的な視点を求めているのであれば、そちらを参照してもらいたい。だが私のように、ただこの瞬間を楽しんでいるだけという場合にはルーペなど必要ない。
とはいえ私にとっての“ルーペ”はカメラであり、それは常に手元にある。もちろんカメラは記者としての活動や、知識と経験を蓄積するためのツールでもある。時計の状態を後世に残すという意味でも、写真は重要だ。だが今回に限っては、日付表示の窓がシャープか丸みを帯びているか(古いダイヤルにはそうした個体もある)、インデックスが再カットされているか、文字盤がクリーニングされているか(ある程度は手が入っているようにも見える)、完璧な状態かどうか。そうした細部は気にならなかった。なぜなら私は購入者としてこれを見ていたのではなく、その瞬間の感情に浸っていたからである。
ヴィンンテージウォッチにおいては、“買主をして注意せしめよ(Caveat emptor)”の精神が常に必要である。これは8桁ドルの金額が動く時計に限らない。そしてスティール製のRef.1518ともなればその存在自体が伝説的であり、それを欲しいと思うかどうか、それを買えるかどうかは極めてシンプルな話だ。どんな見方をしても、それはきっと大金になるに違いない。だが、もうひとつ選択肢がある。このパテック フィリップがつくり出した、きわめて完璧に近い時計をただ楽しむという方法である。
軽々しく言うわけではないが、スティール製のRef.1518はほぼ完璧な存在だと思っている。なぜパテックがこのモデルをスティールでわずか4本だけ製造したのか、その理由はおそらく永遠に明らかにはならないだろう。なぜもっと作らなかったのか? だがそれが“パテックらしさ”というものだ。スティール素材は永久カレンダー搭載クロノグラフにおいては、Ref.5004Aが登場するまで再び採用されることはなかった。だが、この時計を実際に腕につけたことで、なぜ人々が同時代のユニバーサル トリコンパックスに魅了されたのかを改めて思い出した。Ref.1518ほど複雑ではなく優雅さも及ばないが、どちらにも共通する“ノスタルジー”がある。ただしRef.1518のほうがはるかに希少で、はるかに多くの歴史を背負っており、そして圧倒的な存在感を放っている。それでもこの時計を手首に巻いていると、自分がまるでそんな背景や価格、希少性など一切気にせず、ただ毎日の生活のなかで自然に着けている男であるかのような感覚になる。その感覚こそがこの時計の存在を信じられないほどカジュアルにし、驚くほど日常に溶け込ませ、そして強烈に“欲しい”と思わせるのだ。……とはいえ価格は2000万ドル(日本円で約28億円)とも言われている。この時計は果たして売れるのか?
パルメジャーニ氏によればすでにいくつかのオファーが寄せられており、なかには提示価格にかなり近いものもあったという。また、非常に好条件だが一部トレードを含む申し出もあったようだ。だがオーナーはしかるべき価格が提示されるまで待つつもりであり、パルメジャーニ氏が今後数年にわたってこの時計の販売権を独占的に保持することになっている。この時計は、いずれ誰かの手に渡ることになるだろう。そんな確信がある。
そして私に割り当てられた時間は終わった。次の予定には遅れそうだったので、パルメジャーニ氏を見つけて時計を返却した。彼はそれを受け取るやいなや、すぐ隣に座っていた友人のキャメロン・バー(Craft + Tailored、Craft + Tailoredの創業者)氏に手渡した。ほどなくして、彼もまたこの時計と“数分間”を過ごすことになる。結局のところ、これはただの“モノ”である。必要以上に大切にしすぎる理由はない。たとえそれが“究極中の究極”のグレイルであったとしても、誰もがそれを手にする機会を持つべきなのだ。それがこの時計であれ、別のものであれ。
もしあなたがパテック フィリップ Ref.1518に2000万ドルを支払う用意があるのであれば、モナコ・レジェンド・グループに問い合わせてみて欲しい。
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