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Just Because 時計製造の運命を永久に変えたかもしれない4つのif

スーパーヴィランの世界へようこそ。

人は時間を、原因が結果に至るまでの絶対的な尺度だと思い込んでいる。だが実際は、断続的、俯瞰的な観点で見ると、ぐちゃぐちゃに捻じれた時空が詰まったボール…らしきものなのだ。“10代目ドクター”,ドクター・フーより

現代の時計製造の様相は、あらゆるレベルが目まぐるしく移り変わる一方で、基本的な産業構造は、少なくともここ10年以上安定的に推移してきた。クォーツ危機は訪れたが去り、機械式時計の再興は、スウォッチグループによる業界再編と高級時計製造の世界的な若返りの促進に歩調に合わせるかのようにスイス一強時代を築いた。

 しかし、スイスの時計製造、あるいは時計製造全般、時計業界を支配するメジャーブランドの歴史を紐解くと、歴史がいくつかの時点で異なったとしても、現在の状況や環境はそれほど変わらないのではないかと疑問に思わずにはいられない。“風が吹けば桶屋が儲かる”とは昔からある格言だが(ホーマー・シンプソンズがトースター型のタイムトラベルマシンで恐竜時代に取り残された最中、蚊をたたき殺し“ちっぽけな蚊を殺したくらいじゃ未来は変わらない…よな?”と言ったのには道理がある)、より大きな史実が現在の時計業界のあり方を劇的に変化させるような影響を与えただろうか? それを検証するために想像上のタイムマシンに乗り込んで過去を巡り、何が起きたか見てみよう。


もしルイ14世がナントの勅令を廃止しなかったら?

 時計製造の中心をジュネーブに集中させることとなった決定的な要因ではないかもしれないが、それでも要因のひとつといえるのが、フランス宗教戦争終結の契機にアンリ4世が1598年に署名して以降、フランス国内のプロテスタントに多大な自由と自治を与えていた「ナントの勅令」の廃止である。これは太陽王が自らの絶対君主制を盤石なものとするために着手したことであり、結果的にフランスからほとんどのプロテスタントの信徒が国外脱出した。

 国外脱出は1500年代から既に始まっていたが、フォンテーヌブローの勅令(1685年)はフランス国内に下層階級を留め、プロテスタントはイングランド、ドイツ、そしてスイスに散っていった。とりわけジュネーブでは、歴史的に地場産業であった宝飾製造を禁ずる倹約令の成立と熟練したクロック、時計職人の流入が組み合わさり、ジュネーブ、次にジュラ山脈、ラ・ショー=ド=フォンやヌーシャテルのような都市で時計製造業の根幹が築かれた。

ルイ・キャトルズ(ルイ14世)は謙虚な人柄で、万人受けする王であった。 画シャルル・ルブラン

 さて、タイムマシンに飛び乗って、フォンテーヌブローの勅令前夜、1685年10月21日に太陽王の寝室に眩しい光と共にあなたが登場したとしよう。さっそく、怯えた君主にあなたが神の使いであると信じ込ませ(“バルカン星から来たダースベイダー”とでも自己紹介すれば良い、狼狽した王に冗談は通じないだろうから)、王権が強固になるどころか、ナント勅令の廃止は100年後の君主制の没落を招く経済的困窮に終わることを伝えるのだ。ルイ14世はそれを信じ恐れ、フォンテーヌブロー勅令に署名することを拒むに違いない。プロテスタントの居留地は存在することもなくなり、それがなければ倹約令が発令されたジュネーブは時計製造業の首都になることもないだろう。小規模な時計製造業は勃興するだろうが、国境を越えたフランスからの部品供給に依存することになり、ジュネーブではなくブザンソンこそが欧州の時計製造業の中心地となるだろう。1800年代初めの薄型時計の流行においても、フランス時計製造業の覇権は続き、ジュネーブは時計学的な存在意義を徐々に失っていくだろう。

ジュネーブ。時計ブランドの看板のないこの街の風景を想像できるだろうか?

 21世紀に戻るまで、ジュネーブは多くのことで有名な都市のままであるが―メアリー・シェリーがディオダティ荘で過ごした夏のひと時が後に長編小説『フランケンシュタイン』に結実することを含めて―産業のほとんどを銀行業、外交、高級チョコレートの製造、信じられないほど安くフェティッシュなまでのピザ文化が支配する都市なのだ。一方で、第102回グラン・サロン・アンテルナショナル・デゾルロジェール(国際時計大見本市)はパリで開催される予定で、報道関係者や小売店から早くもリッツ・ホテル以下法外な価格を吹っ掛けることに不満が漏れ伝わっているという…。


もしハンス・ウィルスドルフがロンドンに留まったら

 スイスの時計製造業がもはや存在しないという衝撃の事実を受け入れた数日後、次第にそのことに適応し、名門として知られた一族の名前が存在すらしていない事実に慣れていくことになるだろう。フランスの時計メーカーLipは今や国際的な大企業となったが、同時に聞き覚えのある会社名にも気づくことになろう。
 過去への干渉がどのようにロレックスに影響を与えたか最初に確認することだろうが、驚くべきことにほとんど影響を与えないようである―もちろん、フランス国立時計学校の広大なキャンパスを資金援助するロレックス財団と共に本拠地はブザンソンにあるのだが。あなたは既に時計製造史に与えた計り知れないほど大きな影響に心を痛め(時計教の狂信者ならフランス革命が起こらなかったことや、アメリカ合衆国がイギリス連邦の一部であるという“些細な”事実に気づくことはないだろうが)、このままにしておくべきだと考えたものの、過去を掻きまわしたいという衝動は遂に抑えきれなくなり、再び過去へ向かってロンドンでたった「今」ビジネスを始めたばかりの紳士に会いに行く。そう、その青年の名はハンス・ウィルスドルフというそうだ。

若き日のハンス・ウィルスドルフ。

 彼がロレックスをスイスではなく、ロンドンで創業したら何が起こるのかを見たいという考えほど邪悪なことはないだろう―確かに、1つよりも2つの大国で同時に発展した方が時計製造技術は計り知れないほど高められるだろう―しかし、間もなくあなたは完全犯罪という言葉の裏を知ることになるだろう。

 ウィルスドルフは王権の保護を訴えても気持ちが揺らぐような男ではない;代わりに彼の功名心と商売人としての洞察力に訴えかけるのだ。あなたは1907年ロンドンにあるウィルスドルフ&デイビスの事務所の前に突如現れるのだが、驚くべきことに冷静なロンドンっ子である彼らは自分たちの目の前のことに夢中で、タイムマシンが突然現れたことに気づいていないかのようだった―それはまるで、非現実的すぎて受け入れ難いことなので、完全に無視するかのようである。

 オフィスに滑り込み、ハンス・ウィルスドルフを前にしてロレックス サブマリーナーを見せ、“SWISS MADE”であることを指摘する。それによって別世界から来たというあなたの主張の真実を確信するウィルスドルフは、ロレックスの特異なほどの商業的成功が、瀕死にある英国の時計製造業を独力で復活させ、英国の産業全般に誇りと勢いを与え、20世紀の自国産業の活力を維持させる青写真に傾聴するだろう。ウィルスドルフはこの可能性に畏敬の念を抱き、拳で机を叩き、フランス製(あるいはスイス製は、この時空では可能性は低い)のムーブメントが時計ケース内で時を刻むことを決して許さないと誓い、彼の新しい時計会社に“Rolex”という名を与えてくれたことをあなたに感謝するのだ。あなたはタイムパラドックスと時空の循環を考えながら外に出て、警官が威圧的に“おいこら、このクルマをさっさとどけろ! 通行の邪魔じゃないか”と叫んでいるのを横目に、あなたは21世紀に帰るのだ。

“キュー天文台認定”の表記のあるサブマリーナ―を想像できるだろうか?

 悲しいかな、歴史の改変は、最初の船出から知っておくべきであったが、予想すらしない結果が待ち受けていた。ロレックスは当初は異常なほど上手くいっており、ウィルスドルフは何百万もの腕時計や置時計を第一次世界大戦期の連合国に供給する。しかし、1930年代には停滞し始め、第二次世界大戦後には会社が苦境に立たされることになる。後に判明することであるが、最も大きな問題は、アメリカ市場である―アメリカの時計製造業は、戦後巻き返しを図り、フランスは精密時計を得意とするブランドをスイス(歴史改変前の)ほど成し遂げられなかった一方で、エルジン、ハミルトン、ウォルサムに代表されるアメリカ時計産業は文字通り精密時計を代表する企業へと成長した。1970年代にクォーツ危機によって頭打ちになるまで、ロレックスは過去の栄光の影に身を潜ませることとなり、あなたが21世紀に戻ると、会社はアメリカのサプライヤーが大量生産するムーブメントを“自社製”と喧伝するほどまでに落ちぶれてしまったのを知り愕然とするのだ。一方でハミルトン サブマリーナーはオークションで狂気じみた高値を更新し、とりわけ文字盤が日に焼けた“カプチーノ”が人気なのだそうだ。


もしアブラアン-ルイ・ブレゲが実用時計の発明者だったら…

 タイムスリップの影響の大きさに心を痛め、またロレックスがスイスで収めた成功のイギリス版を再現しようとして失敗してしまったことに愕然としたあなたは、もう少し小規模なこと、つまり無害な冒険に挑戦してみることにした。今回は、超高級時計の中でも最も重要かつ不可欠な発明の一つであるトゥールビヨンについて考えてみる。歴史を変えようとするのは、あなたよりも優れた頭脳の持ち主のためのものだが、時計学における最も偉大な頭脳の持ち主の一人に会いたいという好奇心を誰も責めないだろう。それに、どうしたら失敗するというのだ?

 トゥールビヨンはアブラアン-ルイ・ブレゲによって発明されたが、その発明の経緯は不明で、改変(悪)後の歴史でも彼が発明者であることに変わりはない。フランス革命は起こらなかったものの、1700年代後半のフランスではまだかなりの政情不安があったため、ブレゲは1793年にスイスに戻り(革命家マラーと少し親しくなった頃)、そこからイギリスに一時滞在している。あなたはブレゲが1795年までにトゥールビヨンを発明していたことを思い出し、ブレゲがロンドンにいる間に、ブレゲの友人であり同僚でもあるイギリスの偉大な時計師ジョン・アーノルドを訪ねてロンドンを訪れることにする。アーノルドとブレゲは非常に親密な関係にあり(アーノルドの息子がブレゲに弟子入りしていた)、あなたはこの二人に会うことをとても楽しみにしていた。

アブラアン-ルイ・ブレゲ。時計の達人にして憂国の哲学者。

  1794年の肌寒い秋の夜、アーノルド&サン社の前に特徴的な閃光と爆発音と共に現れたあなたは、二人の紳士が、ジョージ3世の肖像画の元、キャンドルの灯の下で素晴らしいポートワインをグラスに注いでいるのを見て大喜びする。かれらの前にはいくつかの図面が見え、それはブレゲの最も重要な発明:トゥールビヨンのようだ。怪訝な様子を見せる様子のない二人の時計師の間に割って入り、二人の手を握ってぎこちなくも挨拶をし、知り合うことができたのがどんなに喜ばしいか伝える。 

  興奮したあなたは、二人にブレゲのトゥールビヨンの腕時計(Ref.5367、エクストラフラット、エナメルダイヤル)を見せ、その発明がブレゲにどれほどの名声をもたらすのかを語る。ブレゲは驚きと興味を見せ、自分の発明がこれほどまでに広がり、時計学における精度への追求に計り知れないほど貢献するだろうことに誇りを感じると告白する。あなたは笑い、実際のところ、将来的にトゥールビヨンは精度への貢献というよりは、視覚的に派手な腕時計を好む愛好家のための高価な玩具となると指摘する。この事実に打ちひしがれたブレゲは、ワイン樽を激しく殴りつけ、アーノルドのトゥールビヨンはそれでも素晴らしい発明だとする慰めにもこの師は応じない。
 彼らに加わること以外どうすることもできないあなたは、3人でオフィス裏の倉庫にあるポートワインの入った木樽をボコボコに破壊することに加担し、あなたが去るときにはアーノルドは椅子で静かにイビキをかき、ブレゲは自分の図面を物憂げに見つめる。あなたがドアを開けた後、ブレゲは顔を上げこう呟くのだ、“未来はバラ色なのだろうか?” と。

口語でも文語でも最も残酷な言葉:“そうだったかもしれないのに(ならなかった)”

 翌朝、酷い二日酔いで目が覚めパソコンに向かうと、またしても歴史がひっくり返っていることに気づく。ブレゲはトゥールビヨンを発明することはなく(アーノルドの息子ジョン・ロジャー・アーノルドが“等時性を改善するための渦巻き機構”の特許を取得したものの、実用には至らなかったそうだ)、代わりにどこにでも着用でき、耐久性の高いシンプルかつ頑丈な時計を大量生産することに身を投げ打ったのだ。あなたの訪問のトラウマが彼を100年も早く実用時計を発明するきっかけとなり、彼は時計製造で有名なのと同じくらい難解な『存在、空虚、そして商業主義』の著者としても知られる。初期のブレゲ サブマリーナーは非常に収集性が高く、オークションで日に焼けた“モカチーノ”ダイヤルが高値で取引されるそうだ。


もしニコラス・G・ハイエックに未来への帰還を見届けられたら?

 あらゆることを考慮に入れ、おそらくあなたはタイムトラベルから足を洗った方が良いだろうと判断し、時空をリセットするよう策を講じる。これは実に単純な方法で解決が可能で、タイムマシンを発明したばかりの自分自身に会いに行くだけである。ただし、神を演じて信心深い王や素直な時計師に会いに行く前の自分にだ。罪悪感に苛まれながらも、過去の自分自身を何とか説得しておせっかいを見送らせ、少額の投資口座を開設して100年後に大金を引き出すようなケチな行為にのみタイムトラベルを使うことを限定し、歴史は全体的に正常に戻っていくことが分かるだろう(そして、何よりヴィンテージ・ロレックスのコレクションが価値を取り戻したことも)。不正に手に入れた富の収益で、あなたは世界中を旅して崇高なものを追い求め、瞑想に耽り、遂には時計に関する活動を放棄し、コレクションを売却したり、自己満足に陥らないように金のない愛好家に匿名で寄付したりする。あなたが持つ時計は思い出の詰まった一本だけだ:オレンジの針をもつカラフルなロビンエッグブルーのクォーツ式スウォッチのことだ。

 そして、ある日、暇を持て余したあなたは再び旅に出かけたくなり、死ぬ前にもう一度と、古いタイムマシンを引っ張り出すのだ。あなたはジュネーブを見たいと思うが、それは大学を卒業したばかりの若き日の1984年頃だ。過去に向かうタイムマシーンのダイヤルをセットし、人里離れたカナディアンロッキー山脈にあった荘厳な隠れ家から消え、数立方メートルの空気が一瞬消え、閃光とわずかな音を立てジュネーブに戻ってきたのだ。

ミスター・スウォッチ御大。

 8月の静かな日曜日の夕暮れ時に到着したあなたは、湖からの涼しい風に癒され、爽やかな気分になる。あなたの到着を、鋭い眼光、印象的な眉、そして大きな葉巻を持つ驚きの表情をした紳士が迎える。彼は急いであなたのところへ来るが、あなたといえば隠すそぶりもなく、どうせ信じてもらえないと確信しつつも未来から来たと告げる。驚いたことに、彼はあなたの言葉を受け止め、モンブラン広場からほど近い彼のアトリエにブランデーを一杯引っかけるために招待してくれた。社交的に振る舞いながら、答えにくい質問を避けてきたこの主は、あなたが身に着けるスウォッチについて尋ねる。“あぁ、この古い時計はですね”とあなた笑い、スウォッチの歴史と、スイスの時計産業に劇的な影響を与えたその貢献について説明する。
 話し終えると、長い沈黙があり、その主は笑い出す。“それは実に大変な話だね。マスコミが知ったらどうなるだろうね。さて、あなたを引き留めていてはいけないね”と彼は続け、あなたがタイムマシンに乗るのを見届ける。元の時代へ戻るレバーを押す直前、その男に見覚えがあるような気がしたが、さて? 翌日朝目が覚めるまでは、あなたが話していたのが誰だったのか気づくことはなかった(ブランデーの、舌に家具用のニスを塗ったような頭痛もその一因だ)。

 インターネットでさっと検索して、その疑念が明らかとなり、驚くべき偶然の一致に驚いて顔を横に振ってしまう。そして手首のスウォッチを見下ろす。チュルヒャー・ツァイトゥング紙に掲載された数年前の記事に目を通すと、そこではスウォッチグループの総帥が様々なことを論じている。彼は業界の近況、スイス経済にも言及する;彼はまた当てにならない銀行家を痛罵する。そして、インタビューの最後には、スウォッチのアイデアはどこから来たのかと聞かれる。“何といっても、”インタビュアーは続ける。“1980年代初頭にSSIH(オメガ、ティソを核とするグループ)とASUAG(ロンジンを核とするグループ)が経営破綻したとき、債権者に返済するためには会社を清算するしかないと思われましたし、そうすれば賢いやり方だったでしょう。スウォッチの腕時計はそうした状況下では考えつかない発想で、スイスの高級時計産業を復活させるという気まぐれな仕事を引き受けるよりも、単に会社の資産を切り売りする方が楽だったかもしれません。そうなれば、スイスの時計製造はしばらくはもちこたえたでしょうが、安価なクォーツを中心とした時計製造は大幅に減少し、回復不能な状態に陥ったでしょう。いったいどこでその着想を得たのですか?

 ハイエックはクスクスと笑い、インタビュアーに向かって内緒話を打ち明けるように身を乗り出し、皮肉っぽく“なぜって、面白いことを聞くね。それは単純に思いついただけなんだよ。何もないところから降って湧いてきたようにね”と語るのだ。