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私が時計について学び始めた頃、しばしば感情が揺さぶられることがあった。ある時計の魅力的な描写を写真付きで読み、さらにそのモデルの歴史や著者とその時計との関係について深く掘り下げていくと、その時計を実際に見てみたいと思うだけでなく、いつか自分も所有したいと思っていることに気づくのだ。そして、いや応なくページの一番下までスクロールすると、自分の車よりも高いことを知って大きくため息をつき、20年前にAmazonに投資しておけばよかったと思いながら、人生を歩むことになる。
しかし、時が経つにつれ、何かが変わってきた。
どんなにお金があっても、旅行や車、家を買うように時計にお金をかけることはおそらくないだろうと思っている。それは私がそういうタイプの愛好家ではないからだ。しかし、私はそれをこの趣味に入るための障害ではなく、むしろ自由であると考えるようになった。お金持ちのコレクター以外は、時計の価格が具体的な費用便益分析から純粋な学術的問題へと変わる瞬間がある。私の場合、100万円の時計も1000万円の時計も、どちらも買うことはない。そう思った時点で、時計は購入するための商品ではなく、鑑賞するためのものになるのだ。
モナ・リザの価値は、あなたにとってどのくらい重要だろう? もし所有できなければ、それについて意見をもつことはできないのだろうか? 多くのライターが軍用機に魅了されているが、コール・ペニントンは自分用のSR-71を買えない(まだ買えないが、いつかは手に入れたいと思っている)からといって、その情熱はどこか劣っているのだろうか? ジャック・フォースターは(私の知る限り)宇宙に行ったことがないが、有人宇宙飛行の素晴らしさに対する彼の見解は本物ではないだろうか?
これはちょっとした架空の話だ。私の知る限り、全ての時計を所有していないとマニアになれないと思っている人はいないし、真のコレクターとは、小国のGDPほどの資金を費やして、希少で精巧な時計を手に入れている人だけだとも思ってはいない。しかし! この世界に飛び込むとき、自分の中で戦わなければならない気持ちがあると思うのだ。それを乗り越えるか、あるいは買って抜け出すかという、一種のインポスター症候群のようなものだ。叱咤激励するスーパーコレクターは、初心者の心の中(そしておそらく特定のコメント欄)以外には存在しないが、その声は耳をつんざくものだ。しかし、その声は自分がどのような愛好家であるかを理解したときに初めて静かになるだろう。私について言えば、私は「Talking Watches」には決して登場しない人間だ。
ある人にとっては、フルメタルのG-SHOCKが衝動買いの対象になるかもしれない。また、別の人にとっては手の届かないものかもしれない。人にはそれぞれラインがある。私は、その境界線上にある時計よりも、境界線を超えたところにある時計の方が楽しいと感じている。
ウィットに富んでいるが、オメガ スピードマスター “シルバー スヌーピー アワード” 50周年記念モデルを私は買わないだろう。だから、この時計を手に入れるために必要な約100万円を払えるかどうかを心配する必要はない、なぜなら私には絶対に無理だからだ。だからこそ、私は自由なのだ。その子供のような気まぐれさをただ賞賛する自由がある。私が160年生きてたとしても、グランドセイコー 服部金太郎生誕160周年記念限定モデルを所有することは決してない。私はそれをスティール版でも見ることはないかもしれないが、気にしない。それが絶妙で素晴らしいと思うし、ありがたいことにそれを買うかどうかという質問をする必要はない。存在を知っているだけで十分なのだ。
私は時計愛好家として、二つの側面をもっている。ひとつは、情報通の消費者としての側面だ。我々は時計について十分な知識をもち、クレジットカードを手渡すときに何が得られるかを知っている。自分が何が好きで、何が嫌いかを知っており、そして、どのようにショップと付き合えば、最もお得なものを手に入れられるかを知っている。世界一のものだけを買うのではなく、自分にとって最良のものを買う。その意味では、レザージャケットやコーヒーテーブルなど、他の買い物と同じだ。リサーチをして、サンプルを見て、たぶんコスト計算をして、最終決断を下すということだ。
そして、もうひとつの側面は、もっと楽しい。それはファンという側面だ。我々は成果を得るために投資をする必要はなく、数千ドル安くて同じくらい良いものがあるかどうかを心配する必要もない。ブレスレットを買おうか、ストラップで節約しようかと悩む必要もない。
ファンであれば、自由に率直に話すことができる。高額なおもちゃを購入するときのように、無数の言い訳を自分自身に言い聞かせるのとは対照的だ(いや、それは重要ではない。高額な支払いのためにたくさん働いて返さなくていいし、毎月の外食を減らす必要もない) 。ディーラーから電話がかかってきたときに期待するのではなく、その時計のありのままの姿を見ることができる。我々は時計を深く愛することができ、おそらくその愛は、その時計が自分のものにならないことを知ってより強くなるだろう。聖杯が神話的な伝説になったのは、それが手に入るからではない。
私がこの趣味で感じるようになった苦痛は、紹介記事を読んで、価格を見て、どれくらいお金を貯めなければならないかを考えるときに生じるものではない。むしろ、私が経験する唯一の苦しみは、時計の紹介記事を読んでその魅力に惹かれ、自分にも買えることがわかったときのような反対側の苦しみだ。その瞬間、それはもはや抽象的なものではなく、現実となり、決断のポイントとなる。だが、残念なことに私の財布には理性があり、その決定を下すことはめったにないのだ。
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