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Interview クォーツ全盛の80年代に別の道を歩んだ男

クロノスイス(Chronoswiss)の創業者であるゲルト・リュディガー・ラング氏との対談。

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時計業界全体が暗黒に包まれていた時代に、ゲルト・リュディガー・ラングは機械式時計を奈落の底から救い出した。しかし、彼はそれほど壮大な目標を掲げてクロノスイスという会社を立ち上げたわけではなかった。彼は単に仕事を必要としており、機械式時計は彼が知っているものだった。15歳で時計職人となった彼は、やがて時計のデザインや起業にも手を広げ、クロノスイスを過去40年間で最も有名な独立系ブランドのひとつにした。クロノスイスの時計には特徴がある。それは、オニオンリューズ、コインエッジベゼル、レギュレーターディスプレイなどの歴史的なデザイン要素を現代に昇華させたものだ。そして、ラングはそれらをシースルーバック(エキシビションケースバックとも呼ばれる)と組み合わせた。時計職人であるラングは、顧客にムーブメントそのものを見てもらいたいと考えていたのだ。

 1983年の創業から2012年に会社を売却するまで、ラングはミュンヘンを拠点とするこの会社を代表する人物であり、眼鏡をかけ、ルーペを使う、ブランドの中心となる時計職人でもあった(多くの時計コレクターの心の中には、彼の少年のような赤みを帯びた顔が、赤いアセテート眼鏡で永遠に縁取られていることだろう)。かつては広告キャンペーンにも登場し、バーゼルフェアの会場を歩けば誰もが一目でわかるクロノスイスの顔だったが、あと2年で80歳を迎えるラングは、故郷のドイツで悠々自適の生活を送っている。HODINKEEのインタビューに応じてくれたラングは、80年代のクロノスイスの黎明期について、また、スマートウォッチは当時のクォーツのように脅威なのかなどについて語ってくれた。

ゲルト・リュディガー・ラング(写真: XAMAX\ullstein bild via Getty Images)。

HODINKEE:あなたがクロノスイスを立ち上げたのは、クォーツウォッチの全盛期でした。業界の新参者ではないときにクォーツショックの最悪の状況を目の当たりにしたわけです。その時、何を考えていましたか?

ラング(以下略):私は伝統的な時計作りを学びましたが、新しいクォーツウォッチは別の技術のため、作ることができませんでした。私は電池を使った時計が好きではありません。80年代、私はホイヤー社で長い間働きましたが、その後、新しい仕事を探す必要があり、私は再び機械式時計を始めたのです。以前の私は作業台で仕事をする時計職人で、たくさんの時計を修理し、作ったりしていました。時計製造の古い技術を改良して、生まれ変わらせたいと思いました。1982年当時、2人の人物が同じ考えをもっていました。ブランパンのビバー氏と私です。

クォーツショックの惨状を目の当たりにして、事業の成功を信じることができたのはなぜでしょうか。

 私が始めたのはクラフトマンシップのためだけです。私は時計職人として、時計を愛しています。そして、機械式時計のために何か良いものができないかと考えました。裏蓋をガラスにするのは私が初めてでした。これでムーブメントを見ることができます。

Chronoswiss Regulator (Image courtesy Sothebys).

クロノスイス レギュレーター(画像提供:サザビーズ)。

シースルーバックを採用した経緯について教えてください。どこでそのアイデアを得たのでしょうか?

 ムーブメントは私が愛してやまない時計の大切な部分です。時計の心臓部をみんなに見せたいと思いました。最も重要なのは、ダイヤルや針ではありません。

なぜ特許を取らなかったのですか?

 私は若くて愚かだったし、そんなことで特許が取れると思うほどの経験もなかったのです。

時計のキャリアはどこから始まり、どのようにしてクロノスイスの設立に至ったのでしょうか?

 私の出身地はドイツ北部のブランズウィックという街で、フォルクスワーゲンの生産地の近くです。15歳のとき、私は学校を辞めなければなりませんでした。父は、私が時計製造を学べる会社を見つけてくれました。初日に母に連れられて会社に行ったとき、私はこう言ったものです「お母さん、時計師って何?」 。私はそこで4年間、技術を学びました。結果は良好で、自分の仕事に誇りをもっていました。

 しかし、もっと学びたいと思うなら、時計を作っている国に行かなければなりませんでした。スイスのビエンヌにある会社を見つけました。それがホイヤーです。私は28年間そこにいました。

機械式時計を続けるという決断は正しかったのですね。しかし、クォーツショックを経験しても、他の道を試してみたいと思わなかったのは驚くべきことです。

 短い期間ですが、。信じられないような危機感から、一時期、辞めようと思ったことがあります。それで入れ歯を作ってみようかとも思いました。

機械式時計が成功し、本当に復活すると、潜在顧客がたくさんいるとわかった年はありましたか?

 ミレニアムの頃、つまり2000年ですね。

クロノスイス レギュレーターのケースバックショット。画像提供:ザザビーズ。

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あなたの代表的なデザインである、クロノスイス レギュレーターについて教えてください。

 レギュレーター付きの腕時計のアイデアがありました。通常、レギュレーターダイヤルは船舶クロック用のものです。2つの歯車を変えれば、レギュレーターになります。私はこれを美しいと思いますし、デザインも気に入っています。同時に、自分のケースも取り入れました。クロノスイスのケースはいつも同じです。30年間、同じケースを使っています。

 1年目のバーゼルフェアでは、ウィンドウ内の棚にレギュレーター置いていました。会期終了の前日、私のブースの前を一組の男女が行ったり来たりした後、足を止めてウィンドウを覗きました。彼らは入ってきて、私の手首を見て一言、「何本ありますか」と聞きました。いくらではなく、何本です。この注文で、私はブランドを設立できたように思いました。

クロノスイスはドイツのミュンヘンで設立されたので、この名前の由来が気になっていました。

 私はドイツで働いていました。自分のブランド名をラングにすることはできませんでした。ドイツにはA.ランゲ&ゾーネという、非常に大きなブランドがあります。私が販売していた時計はスイス製ですが、時計のアイデアはドイツから来ていたのです。

クォーツショックの時代にブランドを立ち上げた経験から、スマートウォッチとの競争にさらされている現在の機械式時計業界の状況をどのように考えていますか?

 機械式時計を所有している人は、スマートウォッチも購入します。現在、愛好家の所有時計の平均は、1本ではなく5本程度です。ですから、過去のように企業が閉鎖せざるを得なくなるような競合相手とは言えないでしょう。

このインタビューは、簡潔で分かりやすいように編集されています。