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Editorial 初めてのバーゼルワールドの思い出

バーゼルワールド2018の開催前夜、1979年の同フェアがどのようなものだったのかを振り返る。

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※本記事は2018年3月に執筆された本国版の翻訳です。

初めて訪れるバーゼル・フェアを忘れる人などいるだろうか? 私は39年前が初めてだったが、まるで先週のことのように覚えている。今年もバーゼルに向かう準備をする中、初めてこのスイス時計の世界を経験したときのことを驚嘆と共に思い出さずにはいられない。

 ここに、失われた時の回顧録、既に失われてしまった世界への感傷的な旅について書くつもりだ。その頃は、リシュモングループも、スウォッチグループも、スウォッチというブランドも存在しなかった。そう、それはジャン=クロード・ビバーがブランパンを復活させる前、あるいはギュンター・ブリュームラインのようなレジェンド、そしてニコラス・G・ハイエック Sr.さえもスイスの時計シーンに登場していなかった頃だ。当時は時計界で大きな戦争が起きており、スイスは敗北を喫していた時代であり、古いスイス時計の秩序が辛い死を迎え、新たな秩序が生みの苦しみを経験していた。

著者のジョー・トンプソン(右)。1979年、JCK(※アメリカ宝石産業のトップ業界紙、JCKマガジン)のオフィスにて。

 そういったこと全てを取材することが私の仕事だった。私は、1979年4月23日月曜日のバーゼル・フェア(当時はそう呼ばれていた)に到着する18ヵ月前に、アメリカの宝石産業のトップ業界紙の時計担当に任命されていた。私は楽しみで仕方がなかった。しかし、驚いたことに、予期せぬものだったが、退屈とは言えない寄り道をベルン州のビエンヌとフランスですることになり、すぐに列車で街を離れ、3日後になるまでフェアに戻れなかった。 

 これは、初めてバーゼル・フェアを経験した1人の男の物語である。

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第1部:寄り道

歴史あるベルン、スイス。

 月曜日の朝、フェアのプレスセンターで受付をすると、明らかに問題があるようだった。私は、アンリ・シャーレン氏というバーゼルフェアの重要人物である長身で威厳のある白髪の紳士のところへ連れて行かれた。すると「あなたはベルンにいるべきなのです」と、彼は私に礼儀正しく教えてくれた。困惑した私は、これがバーゼル・フェアならば、ここで間違いないと思いますと伝えた。

  しかし、私は正しくなかった。当時のフェアは、海外ジャーナリスト向けに公式のプログラムを用意していた。そのプログラムは土曜日か日曜日(どちらなのかはとうとう分からなかった)に開始されていたのである。形だけのフェア訪問を済ませると、フェアのスタッフがジャーナリストたちにプレスキットを渡し、バスに乗せてスイスをめぐる3日間の仕事兼遊びの視察旅行に送り出すのだ。そして私は彼らと一緒に行くべきだった。

  これは私にとっては驚きで、全く意味が分からなかった。可哀想なアンリ・シャーレン氏はプレスの中から1人だけはぐれてしまった私に、フェア開催中はそちらに参加すべきだと説得するのに大変苦労した。その日の夕方、時計業界の主要人物の1人、スイス時計協会(FH)の会長ルネ・レトルナス氏がベルンのシュヴァイツァーホフ・ホテルで、政府関係者や要人及びプレス関係者向けの晩餐会でスピーチをすると彼は説明した。私の参加も期待されているという。スイス人は、こういう事柄に非常にこだわるようだった。 

 彼は、私がベテランの海外旅行者でないと推察したのだろう(実際、私はアメリカから出たのはそれが初めてだった)。彼は私にホテルに戻り、2泊分の荷造りをしてから、フェアのFHインフォメーションブースに戻ってくるように言った。戻ってくると、FHの職員、ルネ・ゴラ氏が、列車の駅までエスコートしてくれるために待っていた。「ついて来て下さい」と彼は言った。彼はフェアから私を連れ出し、緑色の路面電車に乗って駅まで連れて行き、「ここで待っていて下さい」と言うと、私の切符を買ってきた。「ついてきてください」。我々はたくさんある列車のホームの1つに出ていくと、一等車両に乗り込んだ。「ここに座ってください」と彼は言った。「ベルンに到着するまで降りないでください」。彼は私の襟に「このバカをベルンで降りさせるようよろしくお願いします」という車掌宛のメモをつけるに違いないと私は思っていた。

スイスにとっては厳しい時代だった。だが、新参の時計記者にとっては、人生最高の時だった。

ヨーロレイヒー!

ルネ・レトルナス(左)とアンリ・シャーレン(右)を掲載した1979年6月のHorological Timesの記事。

 私はフェアが部屋を予約しておいてくれたシュヴァイツァーホフ・ホテルにチェックインした。その夜、さまざまな要人やアメリカ、カナダ、南アフリカ、アルゼンチン、ブラジルなどから来たプレス関係の同僚たちと一緒に、私は偉大な人物のスピーチを聞いた。このイベントはスイスにおける時計産業の重要性を私に印象付けた。時計は同国の3番目に大きな輸出品だった。ベルン政府(そしてチューリッヒの銀行)にとって、時計産業の命運は大きな関心事だった。 

 翌日は終日、観光にあてられた。列車でのインターラーケンへの小旅行、そしてアルプスに登り、ヨーロッパで最も高度の高い列車の駅、ベルナー・オーバーラントのユングフラウ山とメンヒ山の間に位置するユングフラウヨッホにも登った。しかも女性ヨーデル歌手の華麗なパフォーマンス付きだ。それは素晴らしいものだった。私にとって唯一問題だったのは、最新の時計が1つも見られなかったことだけだ。 

 次の日、私は1人で、前もって調整しておいた2つのインタビューを取るために、オメガ、ロレックス、そしてFHの本拠地であるビエンヌに列車で向かった。最初はFH本部のレトルナス氏へのインタビューだ。

 彼が時間厳守を重んじることは前もって警告されていた。10時20分に、彼の秘書が私を12人用の大きなテーブルとヌーシャテルの派手な時計が壁にかかる、染み1つない会議室に案内した。時計が10時半を知らせると同時に、レトルナス氏が部屋に入ってきた。ベルンでの彼は堅苦しく、教授のように見えた。しかし直接話してみると友好的で、率直に業界の直面する課題について話してくれた。業界はクォーツ危機に対応するために構造改革を行なっており、リストラが進んでいると彼は話した。我々はアメリカ市場や他の話題についても話した。だが、FHのデータをオブラートに包むことはできず、彼も隠そうとはしなかった。スイス時計の輸出は1978年に販売数で12.5%、販売額で5.2%減少していた。厳しい時代だった。

スイスの雑誌に掲載されたETA、そして後のスウォッチグループ指導者エルンスト・トムケを描いたイラスト。彼はデリリュームとスウォッチの時計の開発を指揮した。

 2つめの約束は、ETAを含むさまざまなスイスの時計ムーブメントメーカーの持株会社で、ヌーシャテルに本社を置くエボーシュSAの副社長ポール・ツーディン氏だ。彼はFHまで私を迎えに来てくれ、湖で採れた新鮮なスズキと地元産の白ワインのランチを楽しむためビエンヌ郊外のビエンヌ湖畔にあるレストランまで連れて行った。4月の終わりで、湖に映る太陽と、ビエンヌの上のジュラ山脈に続く坂道はとても素晴らしかった。彼はETAが3ヵ月前に発表して世界中でニュースになったばかりのデリリュームウォッチについて話した。それは世界で最も薄い時計で、ケースの厚さが1.98mmだった。デリリュームはクォーツ時計戦争において、スイスが日本に対して初めての真の勝利となった。 

 その時計は、革命的なムーブメントを備えていると彼は説明した。驚くべき点は、裏蓋がムーブメントの地板の役割も果たしているので、極端に薄くできるということだ。そして彼はオフレコでこう教えてくれた:ETAはこの技術をより安価な時計にも使えるよう取り組んでいると(1月にニューヨークで大々的に発表されたコンコルド デリリュームは、4400ドルの金時計だということは私も知っていた)。新たなプロジェクトは始まったばかりで、その後に知ったことだが、名前はラテン語で“大衆のためのデリリューム”を意味する“デリリューム ウルガレ”だった。3年後、それはスウォッチの時計として日の目を見ることになる。

フランスへようこそ!

著者の訪問時、オメガの工房が製作していたタイプのスピードマスター。 

 昼食後、ポール・ツーディン氏はオメガまで私を送ってくれ、そこで他のジャーナリストたちと共にオメガのファクトリーツアーに参加した。もちろん、そこにはトップの役員は1人も来ていなかった。彼らが居るべきところ、つまりバーゼル・フェアに参加していた。私とは違って。そのことは、スイスに3日も滞在しながらフェアにほとんど参加していないことに関する私の不安をますます強めた。

 オメガを訪問して一連のプレスツアーは終了となり、同僚たちは家路についた。アンリ・シャーレン氏は私がバーゼルに戻ることを知っていたので、一緒に乗って行こうと誘ってくれた。彼が、小型車が主流の国では巨大な大きさとなるシボレー マリブ クラシックのステーションワゴンに乗っているのを見て驚いた(ゴルフの道具を入れるのにぴったりなんだと彼は言った)。道中「夕ご飯はどうする予定だ」と彼に聞かれたが、無論、私には予定などなかった。すると「フランスに行かないか」と彼は言った。

 はぁ? その考えにショックを受けた。最初に浮かんだのは「全く、この人たちは本当に私にバーゼル・フェアを見て欲しくないんだな」ということだった。しかし、次に思ったことは「ヨーロッパってすごい」ということだ。スイスでランチ。フランスでディナー。デザートのためにスペインまで行けるかも!

 案の定、我々はバーゼルを通過して、アルザスの国境警備隊を通って運転し、小さなヌフ村のレストラン、メイヤーに到着した。中に入ると、メイヤー本人が入り口近くのテーブルに取り巻きと一緒に座っていた。彼は当時常連だったアンリ・シャーレン氏を歓迎した。アンリ・シャーレン氏は私を紹介した。「こんにちは」と、私は陽気に言った。

 「アロー、アロー」とメイヤー氏は不機嫌な声で繰り返し、その後フランス語で何か言うと、皆が大笑いをした。ダイニングに入っていくとき、私は彼が何と言ったのかアンリ・シャーレン氏に尋ねた。「彼は“ハロー、ハロー、彼はアメリカ人に違いない”と言ったんだよ」と彼は答えた。うーむ、これは外交的な翻訳に違いない。そういうわけで、フランス人は無礼だという評判が既に証明された。フランスに到着して10分で、ひと言しか言っていないのに、私はもう侮辱されたのだ。フランスへようこそ!

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美味しい食事

 我々は見事な食べ物が満載されたテーブルの前を通り過ぎた。肉、魚とさまざまな珍味だ。私はワクワクしていた。スイスへの旅行で世界に名だたるフランス料理を経験できるとは夢にも思っていなかったからだ。召し上がれ、ベイビー! テーブルに着くと、アンリ・シャーレン氏は手を擦り合わせてこう宣言した。「今夜は白アスパラガスをご馳走しよう。アスパラガス、冷たいハム、パンと地元産ワインだ」

 何だって!? 耳を疑った。表には出さなかったが、これはかなりのショックだった。そりゃあ、アスパラガスは悪くはない。グリンピースも悪くないし、人参やサヤインゲンだって。でも…。

 30分後、私はアスパラガスの虜になって、皿いっぱいの白い怪物をオランデーズソースに浸して手掴みで口に入れ、アルザスの白ワインで流し込んでいた。アンリ・シャーレン氏がそういう風に食べると教えてくれたのだ。バーゼル(スイスのドイツ語圏)では、“シュパーゲル”と呼ばれるアスパラガスは季節の特産品であり、バーゼル・フェアにおける伝統食だった。フェアの開催中、大量のアスパラガスが消費される。アスパラガスよりもっとよかったのは、アンリ・シャーレン氏によるスイスとスイス時計産業に関する講義だった。私は彼に質問を浴びせかけ、答えをスポンジのように吸収した。

フランス人は無礼だという評判が証明された。

フランスに到着して10分で、ひと言しか言っていないのに、私はもう侮辱されたのだ。

 アンリ・シャーレン氏はビエンヌ出身で、時計業界の中で育った。彼の叔父、ジョージ・シャーレンは1918年にMIDO(ミドー)を創設した。そしてアンリ・シャーレン氏の父もミドーで働いていた。1940年代と50年代の初め、若者だったアンリ・シャーレン氏はミドーの南北アメリカビジネスをニューヨークのオフィスで運営し、アメリカに惚れ込んでしまった(だからこそ、シボレーに乗っているのだ)。彼は少なくとも6カ国語を話す。スイスの3つの公用語(ドイツ語、フランス語とイタリア語)、そして南北アメリカ大陸でのビジネスに必要だった3つの言語(英語、スペイン語、ポルトガル語)だ。やがて私は彼がそれら全てを何なく使いこなすのを見ることになる。私のような、ただの単一言語話者にとっては、それは驚くべきことだった。しかし、スイスのビジネス界ではそれほど珍しくはなかった。

 1970年、一家はミドーを売却し、スイスで最も大きな時計グループ、ASUAG、ロンジンをはじめとする10以上の独立ブランドを傘下に置く持ち株会社の傘下に入った。アンリ・シャーレン氏は今やバーゼルフェアの出店者委員会の会長を務めており、スイス時計シーンの事情に非常に詳しかった。

2本のキャンドル

ずっと昔、1917年のバーゼルフェアの様子。

 夕食後、バーゼルを通過して運転していると、交通警官が我々の車を止めた。アンリ・シャーレン氏が窓を下すと、警官が彼にドイツ語で何か話しかけた。彼は笑ってヘッドライトを点灯した。「彼は私に何と言ったと思う?」 彼は私に聞いた。「2本のキャンドルを差し上げましょうか、と言ったのさ。私がライトを付けるのを忘れたからね。ここがバーゼルでよかったよ。ここの警察は親切だ。チューリッヒだったら刑務所行きだね」と彼は笑顔で言った。 

 彼は私をホテルまで送ってくれた。そう、ここがバーゼルでよかった。私は次の日から全ての障害を乗り越えて、かの有名な、そして捕らえ難いバーゼル・フェアに取り組む予定だった。失われた時間を取り戻す必要があった。 

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第2部:バーゼル・フェア

1973年のバーゼル・フェア会場を歩くゲストたち。

 1979年4月26日木曜日、私は3日前のスタート地点、バーゼル・フェアの第1ブロックに戻った。

 チューリッヒとジュネーブに続くスイス第3の都市であるバーゼルは、ジュネーブ、ラ・ショー・ド・フォンやビエンヌのような時計都市ではない。医薬品や見本市で有名な都市だ。見本市の歴史は500年以上前まで遡る。同都市の最初のフェアは、フリードリヒ3世が(この地を愛していたローマ教皇ピウス2世の後押しもあって)フェアを開催する許可を出した1471年に行われた。ヨーロッパの中心を流れるライン川沿いの、スイス、ドイツとフランスがちょうど国境を接するという位置が、商人たちが商品を持ち寄るのにぴったりだった。

 私がようやく見られることになった時計フェアは、1917年に始まった。それはSchweizer Mustermesse Basel(シュヴァイツァー ムスターメッセ バーゼル)、つまりスイス産業フェアの一部だった(ムスターメッセとはドイツ語で“見本市”を意味する)。そこではさまざまなスイスの産業を司る会社が自分たちの商品をバイヤーに展示していた。1979年になっても状況は同じで、10の産業から3000の出展者がフェアに参加していた。

1979年のバーゼル・フェア広告用ポスター。

 時計産業は最も多くの出展者を集めていたため専用のホールがあったが、レース、機械類、食品や他の業界も近くに展示していた。フェアの魅力の1つは、時計ホールからふらりと出ていけば、特に食品部門でたくさんのスイスの良いものを発見できたことだ。そこにはスイス時計の重鎮たちがよく利用するレストランもあった。例えば、創設者のハンス・ウイルスドルフが社長の後任に指名したロレックスの有名なアンドレ・ハイニガーは、ブースから離れてランチにチーズフォンデュやラクレットを(無論ワインと一緒に)楽しむことが大好きだった。もう1つ、人々に人気だったのは白(仔牛)又は赤(豚肉)のブラートヴルストとビールだった。残念ながらその時代は、1986年に急速に拡張していた時計と宝石部門がムスターメッセから分離して独立したフェアになったときには終わってしまった(だが、ブラートヴルストはまだある)。

 もう1つ、当時と現在のフェアの違いは、時計に関して言えば、それはおおよそスイスだけの出来事だったことだ。クォーツ革命の当事者である日本や、アメリカ、香港の時計メーカーは参加が許されていなかった。いくつかのフランスとドイツの時計会社は参加していたが、1973年にフェアはフランス、ドイツ、イタリアとイギリスに門戸を開いた。しかし、それらの国々はいずれも時計強豪国ではなかった。

時計、どこも時計だらけ

フェアに展示されたファンキーな時計の数々。

 時計ホールは、巨大な2階建ての1ブロック分もある建物だ(今日におけるホール1)。バーゼル・フェア初心者にとっては、そのブランドの多さに圧倒されたことだろう。当時、スイスには500ほどの時計ブランドが存在しており(驚きだろう?)、そして、その全てが時計の建物の多数の廊下や至るところにあるブースのウィンドウに展示されていた。商品のトレンドを掴もうとする初心者にとってそれは脅威だった(今でも状況は同じで、それはフェアの歴史40年で変わらなかった唯一の事柄だろう。現在、スイスでは600近い時計ブランドが存在している)。

 幸いなことに、スイス時計協会(FH)は、ブランド過多への解決策を提供した。それはローランド・シルト氏によって提示された。

 ローランド・シルト氏は、フェアのスイス時計出展者のための広告代理店ダーウェルSAのオーナーを務める、人当たりの良い丸顔のチェーンスモーカーだ。アンリ・シャーレン氏同様、彼はスイス時計の家系に育った。彼は1856年にUrs Schild Watch Manufactory (ウルス シルト ウォッチ マニュファクトリー)をスイスのグレンヒェンに共同で設立したウルス シルトの子孫だった。その後1905年に社名がEterna Watch Co.(エテルナ時計株式会社)に変更されている。

エボーシュSAのポール・ツーディン氏は、

ETAはコンコルド デリリューム ウォッチの廉価版に取り組んでいるとの情報を提供してくれた。

彼はスウォッチのことを言っていたのだ。

 ローランド・シルト氏は、歩いて喋る時計百科事典だった。彼はほとんど全てのスイス時計会社のプレスキットを作っており、新商品の詳細を知っており、ふさわしいネーミングのFH情報ブースを運営していた。圧倒されて情報不足のルーキー時計記者にとって彼は時計の魔術師で、何でも明らかにしたり、詳しく教えてくれたりした。イギリスで教育を受けた彼はオックスフォード訛りの英語を話した。彼は質問を歓迎し、微動だにしないタバコを常に口の右側に垂直に持ったまま、オックスフォードの研究員のような綿密さで答えた。彼が話す間タバコは燃え続け、灰の柱がどんどん長くなっていったが、奇跡的に絶対に落ちなかった。私は彼の知識量に(そしてタバコの持ち方の上手さに)驚嘆した。 

 ローランド・シルト氏は激動の時代にスイス時計の世界を理解しようとするものにとっては天の恵みだった。しかし妙なことに、1979年のフェアの商品トレンドを知るために私にとって彼はそれほど必要なかった。なぜなら1979年はデリリュームの年だったからだ。

スイスの勝利

 1月12日、ニューヨークで、コンコルドは厚さ1.98mmという世界最薄の極薄クォーツ時計デリリュームを発表した。それはゴールドケースとレザーストラップ仕様で値段は4400ドルだった。ヨーロッパでは同じ日に同じ時計が、Longines Feuille d'Or(ロンジン フーユ ドール)とEterna Espada Quartz(エテルナ エスパーダ クォーツ)として発表された。時計はETA SAが製造し、3つのブランドがマーケティングと販売を手がけた。

 デリリュームは衝撃を与え、歴史ある国にもまだ力があると示すスイスからのサプライズだった。ショーの前から、私はこの極薄クォーツがトレンドを席巻するだろうと分かっていた。

 1979年のバーゼルフェアには、2つのビッグニュースがあった。1つはスイスにとって良いニュースでもう1つは悪いニュースだった。良いニュースは商品のニュースだった。それは分かりやすかった。極薄のクォーツ時計が発表され、それはスイスのもので、デリリュームがその代表的な時計だった。

 悪いニュースは業界のニュースだった。クォーツ危機が悪化していたのだ。このニュースはより分かりづらかった。そのために、私にはローランド・シルト氏、アンリ・シャーレン氏はじめ多くの人々の助けが必要だった。

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デリリュームとその友人たち

 コンコルドのデリリュームは無論、1979年のバーゼル・フェアに展示されていた(そこにはダイヤモンドを散りばめたバージョンもあった)。

 この時計は大きな話題となった。スイスが日本のセイコーやシチズンなどの進んだクォーツのテクノロジーに対抗できることを示していた。また、それは前年に発表されたシチズンの厚さ4.1mmとの薄型時計戦争における転機でもあった。セイコーも7月に厚さたった2.5mmのクォーツ時計、エクシード ゴールドで後に続いていた。そこにデリリュームが登場したのだ。1979年後半にはもう1つの薄型の衝撃的な時計を発表することになる。 しかし、ETAとコンコルドは3つのデリリュームを追加で発表してとどめを刺した(0.98mmのデリリューム IVは、1980年のバーゼル・フェアで発表された)。

 デリリュームは、スイス時計産業の打ちのめされていた精神を奮い立たせ、業界の近代化に取り組む2人の重要人物に光を当てた。1人はETA SAの新たなトップ、エルンスト・トムケ氏で、彼がデリリューム プロジェクトを指揮した。もう1人はキューバ生まれのガリオ・グリンベルク氏で、ニューヨークを拠点とし、スイスのConcord Watch Co(コンコルド ウォッチ カンパニー)とニューヨークのNorth American Watch Corp(ノース アメリカン ウォッチ コーポレーション)のオーナーであり、ピアジェとコルムのアメリカ代理店を務めた人物だ(デリリュームのインパクトを示す一例。商品発表記事の一環として、ニューヨーク・タイムズ紙は“ニュースな男”としてガリオ・グリンベルク氏を取り上げた記事を発表した)。

 デリリュームはフェアの極薄クォーツ時計パレードの先頭に立っていた。スイスのブランドが反撃に出たのだ。1977年に発表されたEbel(エベル)のスポーツ クラシック ウェーブは正真正銘のヒット作だった。カルティエはエベルの若きオーナーで、スイスのクォーツ部門をリードしていたピエール-アラン・ブルム氏が生産する時計を歓迎した。オメガはコンステレーション クォーツ マリーンとデ・ヴィルの男性用と女性用のアナログクォーツモデルを発表。ボーム&メルシエは極薄のリビエラモデルを展示した。もう1人のクォーツ派はグッチの特許取得を担当していたサヴァリン・ワンダーマン氏だ。アメリカで出回っていたため、私もこれらのブランドを知っていた。そして私の知らない多数のブランドの1つだったが、ローランド・シルト氏のプレスキットを通して学んだGlycine(グライシン)というブランドは初のクォーツ エアマンを発表した。

バーゼルフェア出展者委員会の会長は私のズボンを見て、

「君はゴルフから帰ってきたところなのかい?」と聞いた。

 機械式時計もまだ十分あった。例えば、前年のオメガのアメリカへの輸出のほとんどが機械式で62%、アナログクォーツは38%だった(LCDはゼロだったが、オメガは少しは作っていた)。しかし、機械式は昔のニュースだった。大きな話題となったのは新型のアナログクォーツウォッチだった(LCDはフェアでは取り上げられていなかった) 。

当時の空気

1973年のバーゼル・フェアで過去と現在が出会う。

 もう1つの大きな話題は、もちろんプレスキットには入っていなかった。しかし、それは空気の中に感じられた。ボブ・ウッドワードやカール・バーンスタインのような大記者でなくとも、クォーツ危機が深刻な影響をもたらしていることは感じ取ることができた。それは私が修道士が聖書の言葉を読むように熟読したFHデータで分かることだった。そのことは人々の心にあり、質問すれば話してくれた。危機的状況のとき、人々はそれについて話したがるものなのだ。

 その上、スイスは日本だけでなく、香港とアメリカとも戦っていただけではなかった。彼らはスイス同士でも戦っていた。

 ある朝、私がクラーラ通りをフェア会場に向かって歩いていると、スイス時計の労働者たちがデモ行進をしていた。その1人が私に駆け寄ってチラシを渡してきた。そこにはエルンスト・トムケ氏が描かれており、“Thomke est un Satan!(トムケは悪魔だ)”と書いてあった。この労働者たちは、エボーシュSAの工場で働いていた。彼らにとってエルンスト・トムケ氏が悪魔のような存在だったのは、ETAのボスとして彼はスイス最大の時計グループASUAGの構造改革とムーブメント製造過程の合理化を担当していたからだ。彼は一部の工場を閉鎖し、一部の仕事を他の工場に移行し(このために労働者はより遠くまで通勤しなければならなくなっていたが、これは職場が近いことに慣れているジュラ山脈の時計生産地域ではご法度だった)、そして労働者を解雇していた。

1968年のバーゼル・フェアの入り口(今とほとんど変わらないように見える)。

 トムケ博士と呼ばれていた(彼は医師でもあり、化学博士でもあった)彼は、(デリリュームによるクーデターを指揮した)英雄であり、(労働者を解雇した)悪者でもあった。

 このような軋轢は当時のスイスの産業界に蔓延していた。オメガでは新世代が旧世代に挑戦していた。フェアで私はいわゆる“Young Turks(若きわんぱく者たち)”の存在を知った。彼らは若い経営者たちで、主要ブランドにオメガを抱え、ティソも入っていたスイス2番手のグループSSIHの、より大規模で迅速な変化を求めていた。私はそのリーダー格の2人、フリッツ・アマン氏とマックス・イムグリュー氏と会った。もう1人のメンバーはジーノ(ルイジ)・マカルーソ氏だった(その年のうちに、ジャン=クロード・ビバー氏も彼らに加わった)。最終的には、若きわんぱく者たちの試みは失敗に終わった。彼ら全員がオメガやティソをまもなく辞めて、他のブランドで活躍することになる。マックス・イムグリュー氏はスウォッチ、ルイジ・マカルーソ氏はジラール・ペルゴを買収、、ジャン=クロード・ビバー氏はブランパン、オメガ、ウブロ、そして今はタグ・ホイヤー(当時)だ。オメガの好転は、ハイエックがSMH(のちのスウォッチグループ)を創設し、エルンスト・トムケ氏をトップに配置する1980年代中盤まで実現しない。

ブライトリングはもうお終い

 他にも問題の兆候はあった。例えばその前の年、経営に苦しむIWCを、1905年から同社を所有していたホムバーガー家がドイツのダッシュボード機器メーカー、VDO Adolph Schindling(VDO アドルフ・シンドリング)に売却したことで、スイスの手を離れた。同年、VDOはジャガー・ルクルトの企業支配権(55%)を手に入れた。

 フェアの数ヵ月前には、時計会社の悲痛な閉鎖があった。 1978年12月に、ブライトリングのオーナーで、1884年に同社を設立したレオン・ブライトリングの孫であるウィリー・ブライトリングが、ラ・ショー・ド・フォンにある工場とジュネーブのオフィスを閉鎖し、全従業員を解雇すると発表した(フェアのときには私はこのことを知らなかった。他の人たちは無論このことを知っており、危機的雰囲気の一部となっていた)。ウィリー・ブライトリングは健康状態が悪く、彼の会社は、スイスフランの値上がりと、機械式からエレクトリッククロノグラフと航空計器へ市場が移行していたために、経営状態が悪化していた。フェアの2週間前、彼はブライトリングとナビタイマーブランドの権利を、ピンレバー式の機械式時計メーカー、Sicura Watch Co.(シクラ ウォッチ カンパニー)の最高責任者アーネスト・シュナイダー氏に売却した(フェア2週間後の1979年5月12日に、ウィリー・ブライトリングは死去)

 クォーツウォッチ危機は、スイスに深刻な被害をもたらしていたのだ。

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良い情報源

 私は事実上、1人もスイスの重役を知らなかったが、最初のフェアで幸運なことに何人かのアメリカ人と知り合いになることができた。当時、ほとんどのスイスのブランドが、アメリカに子会社ではなく代理店をもっていた。 例えばオメガは、Norman M. Morris Agency(ノーマン M. モリス エージェンシー)が代理店を務めていた。Longines-Wittnauer Watch Co.(ロンジン-ウィットナー ウォッチ カンパニー)はWestinghouse Electric(ウェスティングハウス・エレクトリック)が所有していた。ボーム&メルシエの代理人はDavid G. Steven(デヴィット G. スティーブン)氏が務めていた。とあるケースの契約内容によっては、スイス製のムーブメントとアメリカ製のケースを使い、アメリカ国内あるいは税額の安いヴァージン諸島やプエルトリコなどで組み立てて、代理店がアメリカ国内で時計を生産することができた。これは利益になるビジネスだった。例えば“ミスター オメガ”として知られるノーマン M. モリス氏は、何十年もオメガをアメリカで販売し、ブランドをアメリカに根付かせた。彼のケースは成功例だ(どの程度成功したかは、彼の妻が、背が低めだった夫についてよく言っていたとされるコメントで分かるだろう:「ノーマンは背が低いわ。ただ、稼いだお金の上に立つとそうでもないの」と彼女は言ったという)。

 ハイエック Sr.がシーンに登場すると(もうまもなくのことだが)、彼はスウォッチグループのブランドの代理店契約を全て終了させて、現地法人を設立した。しかしこのフェアでは、アメリカのディストリビューターたちが、舞台裏で何が起きているのか理解するのを手助けしてくれた 

「時計界で何が起きているか知りたいなら、ここにいては分からないよ。全ては極東で起きているから」と、イギリス人紳士は私に言った。

ファッション落第者

1965年のバーゼル・フェアで展示ホールの外に集まる人々。

 そしてアンリ・シャーレン氏も、私の世話を焼き続けてくれた。彼は私をいくつかのブランドレセプションに連れていき、スイスの重役に紹介してくれた。 彼はまた、私が恥をかくのを何度か防いでくれた。金曜日の朝、私はシャンゼリゼと呼ばれていたパテック フィリップ、ロレックス、ヴァシュロン・コンスタンタンや、他のトップブランドが展示されていた時計ホールのメインフロアの一等地で彼に偶然会った。「君はゴルフから帰って来たところなのかい?」と、彼は笑顔で私に聞いたのだ。一瞬、私には何のことか理解できなかった。彼は私の履いているパンツのことを言っていたのだ。プレード柄のパンツだった。

 1979年のアメリカではプレード柄が大流行していた。(証明が必要? レークプラシッドで行われたソ連とメダルを争う“氷上の奇跡”と呼ばれた試合で、1980年のオリンピックのアイスホッケーアメリカ代表コーチ、アーブ・ブルックスがはいていたパンツを見て欲しい。そう、私はこのパンツをバーゼルに持ってきていた)。私はそれを、J.C.ペニーで買った粋なブルーのブレザーに合わせていた。私が暮らし、仕事をしていたフィラデルフィアの田舎では、それがプロに相応しい服装だったのだ。しかし、スイスではどうやら違ったようだ。スイスだと、私はカーニバルの客引きかスケートに来たスコットランド人のように見えたようだ。私は急いでフェアの近くのホテルに戻り、着古したネイビーのビジネススーツに着替えた。 

オ・ルヴォワール(さようなら)

バーゼル旧市街ののミットレ橋。

 フェアの最中に、私はヘンリー・ケイ氏という名のイギリス人紳士に会った。彼は香港のエボーシュSAの子会社に所属していた。話し始めると、彼は私がこの業界に非常に興味をもっていることに気づいた。「時計界で何が起きているか知りたいなら、ここにいては分かリませんよ。全ては極東で起きていますから」と彼は言った。フェアは、実際は見せかけに過ぎないとヘンリー・ケイ氏は言った。磨き上げられたブースの裏で、スイスは苦しんでおり、必死で追いつこうと頑張っているのだ。彼は私に名刺を渡して「香港に私に会いに来てください」と言った(20ヵ月後、私は香港に行った。だがそれはまた別の物語だ)。
 

 夕方になると、私は1人になった。同僚のアメリカ人記者たちはずっと前にいなくなっていた。危機の時代だったのでブランド主催のディナーも少なかった。もしあったとしても、私は無名で、招待客のリストに載っていなかった。夜には簡単なディナーを済ませて(すぐに、私はホワイトアスパラガスの次に楽しいお気に入りのスイス料理を見つけた。ブラートヴルストのツヴァイベルソースだ) 、中世の大聖堂や大学のあるバーゼルの美しい旧市街を歩いた。

今日のバーゼルワールドの入場口。

 ある穏やかな夜、私は1時間以上、街の魅惑的な駅のベンチに座り、スイスやその周辺からの列車が行き来するのを眺めていた。駅は1940年代の戦争映画からそのまま出てきたような雰囲気に溢れていた。思い立って、私はゴロワーズを1箱買った(タバコは吸わなかったが、バーゼルでは私以外は皆吸っているようだった)。列車のブレーキ音の叫びと車掌の口笛に合わせてタバコを吸い込みながら、ミラノのような遠いところから列車が入ってきて、Ooestende(英語では、Ostend<オーストエンデ>というベルギー沿岸部の都市)のような聞いたこともないエキゾチックな名前の場所に旅立っていくのを驚嘆をもって眺めた。  

 3日目で最終日であった土曜日の午後6時に、私のバーゼル・フェアは終了した。次の日、私は飛行機で帰路につく。巨大な、驚くべき産業に関する大きな物語を私は垣間見ることができた。しかし、それでも表面を掠めたに過ぎず、この物語の続きを知りたかった。スイスは厳しい状況に立たされていた。しかし、私は人生最高の時間を過ごした。その日、私は再びバーゼル・フェアに戻ってこられますようにと願った。幸運なことにその願いは叶った。

 私はもう39年も同じ願いを続けている。今年もフェアが終わったら同じように願うつもりだ。