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記憶が正しければ、初めてそれを見たのは私が11歳の時だった。父の転勤に伴い、私たちは国を越えてイギリスの小さな街に移り住んだが、そこは異国の地だった。私は新しい学校に通い始めたが、そこでは男の子たちが私の知っている人たちとは違った話し方をしていて、自分がどこにいるのか、自分が誰であるかということにも自信がもてなくなっていた。
街の大通りの西端、スーパーマーケットや銀行を越えて、かつて羊の取引が行われていた古い広場へと通りが逸れていくところに、特に評判の良くない小さな宝石店があった。ウィンドウには、時計や宝石、役に立たない小物などが目立たないように並べられていたが、その中に、スモーキーなケース、ペトロールブルーのダイヤル、ゴールドのインデックス、タンレザーストラップのスウォッチがあった。
私はそれをどうしても手に入れたかったのだ。1991年はスウォッチの全盛期で、当時の私はブランドの魅力を大まかに理解できる年齢になっていた。そのシンプルで流れるようなプロポーションとカラーパレットも私の好みに合っていたが、(どうしても手に入れたかった理由と同様に)好みの理由もまた、私には説明することができなかった。
しかし、私にはお金がなかった。12ポンドと言えど、1週間のお小遣いが1.10ポンド(私の年齢×10ペンス)の少年には無理だったのだ。私はその狭い小さな店に入り、カウンターの男性に「買えるようになるまで、この時計を片隅に寄せておくことはできませんか」と尋ねたことを覚えている。それはできない、と彼は言った。そういう店だったし、そういう町だったのだ。
それから私はそのウィンドウの前をよく通った。そのたびに、その時計がまだそこにあるかどうかを確認していたのだ。近づくにつれ、なくなってしまったのではないかという不安と、買えないことへの悔しさで、緊張していたことを覚えている。数週間が過ぎ、夏が来て、私は12歳になり、父は私に12ポンドのお小遣いをくれた。そのおかげで、突然、見事にペトロールブルーダイヤルのスウォッチを買う予算が手に入った。
それで、私はその時計を購入した。
私はその時計が大好きだった。私の腕から離れることなく、着けたまま寝ることもあった。タンレザーのストラップは、10代の汗の霧の中で消え、茶色のステッチが入った青いストラップに変わった。オリジナルは捨ててしまったため、スモーキーなケースと半透明の留め具の組み合わせとなってしまった。
それは私の最後の失敗ではなかった。1990年代に入ると、ブラックラバーに包まれたデジタルウオッチの人気が高まった。サイモンという少年は、ワールドタイム機能のついたカシオをもっていた。理由はよく覚えていないが、ある日学校で、ペトロールブルーダイヤルのスウォッチを彼と交換したのだ。
それからしばらくして、私は彼に交換してもらえるように説得した。私たちは友人ではなかったため、どんな会話を交わしたかは忘れてしまった。再会の喜びはなかった。10代の間は、他の時計も使っていた。データバンクだ。アナログとデジタルのハイブリッドモデルで、シリアルの引換券と交換できた、毒々しいグリーンのプラスチック製のものだ。そうした時計が現れては消えていった。
ようやく私は18歳になった。12歳の頃に身に着けていた時計は、その頃には小さくなってしまい、身長が180cmになったばかりの私には、もっとふさわしいものが必要だと考えていた。
たまたま祝日の月曜日で、その年の私の誕生日に祖母と叔母からお金をもらっていた。世界を飛び回る父は、お祝いに、私と友人たちをランチのためにフランスに連れて行ってくれた。
免税店では、スウォッチの新作がぶら下がっている回転棚があり、その中に、水色のレザーストラップにダークブルーダイヤルのものがあった。スティール製のアイロニーである。ダイヤルには、11/2、21/2......と描かれた30分単位のマークが付いている。スウォッチの実験的なデザインをもつ典型的な珍品で、ほとんど理解できなかったが、気に入っていた。その時計は赤い秒針とリューズに赤いガラスのインサートを備えていた。
私はそれを買った。そして、とても気に入った。
そのランチから3年後、私は大学で成人式を迎えていた。私のガールフレンドは寛大な心の持ち主で、私にとても親切にしてくれた。21歳の誕生日に何が欲しいかと聞かれた時、私は彼女をオックスフォード ストリートのセルフリッジに連れて行き、そこで3つめのスウォッチを見つけた。アイロニー クロノグラフだ。メタリックなペトロールブルーのダイヤル、ダークなマットブルーのインデックス、そしてブルーのレザーストラップを備えていた。
彼女は私のためにそれを買ってくれた。そして、私はそれをとても気に入った。
実際、その3つのスウォッチはとても気に入っていて、手放すことはなかった。今でももっている。ここにあるのがそれだ。机の上に置いて、書き物をしている横に。私の青春時代、その半生以上を共に過ごした。これがその3つのスウォッチだ。
最近、スウォッチがこれまでに製造した全ての時計の検索ツールを開発していることを知った。調べてみると、自分の時計が見つかった。
1つめはアスコット、Ref.GX117だ。私のものは、あのウィンドウに置かれていた時の状態とは違う。スモーキーな薄いケースは擦り切れてパッチワークのようになり、針の夜光は崩れ、交換用のストラップはカサカサになって裂け、時間と共にぼんやりとしてしまったステッチで留められている。プラスチック製の風防には大きな傷があり、決して直すことのできない傷跡が残っている。
2つめは、赤い先の尖ったリューズが特徴のオーシャン・ストーム、Ref.YGS103だ。ストラップがあまりにもボロボロのため、その写真をスウォッチに送ったところ、交換品と判断されてしまった。そうではないのだが。
そして、3つめ。彼女は手放すには惜しい人だった。2年後、その時計を身に着けて彼女と結婚した。シークレットエージェント、Ref.YCS401Gだ。この時計の物語は、メーカーのものではなく、私たちのものなのだ。
私はこれらの時計をもう身に着けていないし、最後に身に着けたのがいつかも分からない。でも、まだもっている。そして、私はこれらを決して動かすことはない。私が死ぬまで。その時までに、私は子供たちにこの物語を伝えておくつもりだ。そして、私と彼らの母親のことを思い出すだろう。この時計によって。私の息子が父親になったら、きっと同じことをするだろう。彼は今、11歳だ。彼の時計は? ブルーダイヤルにブルーのストラップのスウォッチだ。彼はそれをとても気に入っている。
ロビン・スウィッシンバンクは独立系ジャーナリスト、ライターであり、ニューヨーク・タイムズ・インターナショナル、フィナンシャル・タイムズ、GQ、ロブ・レポートなどに定期的に寄稿。また、彼はハロッズのコントリビューティング・ウォッチエディターでもある。
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