氷上の時計:エベレストでヴァシュロン・コンスタンタンのオーヴァーシーズ・クロノグラフを身につけた写真家で探検家のコーリー・リチャーズ(Cory Richards)氏
精密計時の歴史のなかで最も興味深いことのひとつは、あらゆる解決策が、新たな予期せぬ問題という不快な驚きをももたらしてきたということだ。
例えば、最初の時計にはヒゲゼンマイがなく、1日1時間(または2時間)以内の誤差であればラッキーだった。1675年に使われ始めたヒゲゼンマイによって、突然1日数分の精度の時計が可能になった(振り子時計とアンカー脱進機の発明も、時計の精度に同様の、さらに劇的な影響を及ぼした)。時計の脱進機が改良されるにつれて、時計師やクロックメーカーは、それまで気づかなかった温度変化が時計の速度に多大な影響を与えるということに気づき始めたのである。
今でこそ、時計は極点から赤道まで、どこでも同じ速度で時を刻むことが当たり前になっているが、そこに至るまでには長い道のりがあり、大変な思いと苦労があったのだ。
振り子時計では、温度による振り子の長さの変化が問題になっていた。そして、この問題を解決するには水晶やインバーなどの温度変化に対する寸法安定性が非常に高いニッケル-鉄合金のような特殊な材料を使用することが一ばんいいとわかったのだ。
腕時計では気温の変化で1日に何分もの誤差が生じることがあり、例えば、マリンクロノメーターが使えなくなるほどだ。その理由は当初、まったくわからなかった。温度変化により、テンプやスティールのヒゲゼンマイの寸法が変化するのだ。初期の時計はテンプは真鍮製、ヒゲゼンマイは炭素鋼でできていた。温度が上がるとテンプは直径が大きくなり、ヒゲゼンマイは厚さ、高さ、長さが大きくなる。
初期のアメリカン製懐中時計、ハワード(Howard)、デニソン&デイヴィス (Dennison & Davis)、1852年。テンプは真鍮削り出し。
これらの変化の関係は複雑だが、鋼鉄製ヒゲゼンマイを使った時計の精度を狂わせる最も大きな要因は、温度が上がるとゼンマイの強度が低下することだ。バネの強さはヤング率(弾性係数)と呼ばれる。ゼンマイが弱くなるということは、振動のたびにテンプをニュートラルな位置に戻すのに時間がかかるということだ。時計は温度が上がるにつれて動きが遅くなる傾向になる。
当然のことながら、温度の影響を最初に綿密に観察したのはマリンクロノメーターの製作者だった。フェルディナント・ベルトゥー(Ferdinand Berthoud。精密計時の歴史における重要人物であり、ジョージ・ダニエルズ(George Daniels)が「…彼は自分の仕事を非常に高く評価していた」と書いた人物でもあるが、公平に見て多くの時計師がそうだ)は、あるクロノメーターの速度が32℃と92℃のあいだで劇的に変化することを発見した。24時間で393秒(6.55分)の差があったのだ。
温度は水晶振動子にも影響を与え、最も精密なクォーツウォッチは何らかの形で温度補正をしている。写真はシチズン エコ・ドライブ キャリバー0100。温度補正された高周波クォーツ、年差1秒の精度。
そのため、時計メーカーは時計の精度を含め、温度による変化を補正する方法を見つけなければならなかった。そして、温度補正の技術と科学が誕生したのである。1761年にH4ウォッチを発表し(81日間の海上生活でわずか5秒の遅れだった)、初めてマリンクロノメーターを完成させたジョン・ハリソン(John Harrison)は、1753年に時計師ジョン・ジェフェリス(John Jefferys)によって温度補正を施した時計を初めてデザインした。その後、温度補正のさまざまな試みが行われ、ヒゲゼンマイに関係するもの(ハリソンのアプローチ)や、テンプに関係するものがあった。なかには奇妙なバロック様式のものもあったが、結局、時計製作者はバイメタル式温度補正テンプを標準的な方式とすることに落ち着いた。
ムーブメント、ジラール・ペルゴのポケットクロノメーター、1860年製。チェーン&フュゼ回転式デテント脱進機、ゴールド製ガンギ車、ブルースティール製球形ヒゲゼンマイ、補正切りテンプを備え、すべて上から見ることができる。
バイメタルテンプは、古い時計や懐中時計のムーブメントを見たことがある人なら誰でも知っているもので、縁に沿ってネジがあり、縁に2ヵ所の切れ込みが入っている。テンプの縁は、内層が鋼鉄、外層が真鍮という2種の金属でサンドイッチされている。真鍮は温度が上がると鉄よりも膨張するため、テンプの2ヵ所の切り口がそれぞれ内側に曲がる。このため、テンプの直径が小さくなり、慣性モーメントが小さくなる(フィギュアスケートの選手が腕を体に近づけるとどんどん回転するのが典型例)ので、テンプはより速く振動するようになる。テンプの慣性モーメントの減少は、ヒゲゼンマイの弱さを補うことになる。
非常に賢いアイデアなのだが、ただひとつ問題があった。ある温度で時刻を合わせると、その温度以上でも以下でも時計が狂うという不思議な現象にクロノメーターメーカーが気がついたのだ。なぜか?
ロレックスのシロキシ・シリコン製ヒゲゼンマイ。シリコンは非磁性だが温度変化に敏感で、二酸化ケイ素のコーティングにより温度補正がなされている。速度の微調整にはマイクロステラナットを備えたヒゲゼンマイが使用されている。
バネの強さの変化による速度の変化をグラフにすると直線になる。つまり変化は線状になる。しかし、テンプの直径の変化による速度の変化をグラフにすると曲線になり、これはテンプから得られる補正が、すべての温度で正確にヒゲゼンマイの弾性に一致させることができないことを意味する。精度への影響の総和は、2本の直線の効果を組み合わせることで与えられ、曲線の中央でレートが最も速く、両端で最も遅くなるような曲線が得られる。
この問題を解決するには、通常、20℃でわずかに速く動くように時計を調整する必要があった。つまり、気温が高くても低くても、ヒゲゼンマイの強さを表す線とヒゲの直径を表す線が互いに打ち消し合うようにすることで、時計が様々な気温にさらされたとしても、いわゆる中間温度誤差を受け入れる代わりに、ある程度満足できる補正が得られるという考えだ。
ムーブメント、パルミジャーニ・フルリエのポケットウォッチ「ラ・ローズ・カレ」。ヴィンテージムーブメントを使用した新しい時計には、時折、補正テンプが見られることがあるが、このキャリバーは1898年ごろのもの。
補正切りテンプの微調整は芸術的であった。リムのネジの位置を動かして補正量を調整し、ワッシャーを追加したり、ネジの頭を小さくしたりして微調整を行う。同時にテンプの安定が崩れないように注意しなければならない。リムに重いところや軽いところがあると、精度も狂ってしまうのだ。
私は常々、補正テンプには独特の美しさがあると思っている。それは、これまで多くの人が一種の機械的生命体であると感じてきた時計を、環境の変化に敏感で外界と動的な均衡(多かれ少なかれ)を保つ生物に変えてしまうのだ。
キュー A ロレックス天文台クロノメーター、1947年製。ギョームテンプを搭載。テンプには真鍮が使われているが、内層は鋼鉄ではなくニッケル鋼のアニバルである。アニバルとは、1920年にノーベル賞を受賞したシャルル・ギョームが発見したニッケル鋼合金のひとつである。
しかし、温度補償の真の解決策は時計製造ではなく、材料科学からもたらされたのである。1899年、パリの国際度量衡局の責任者であったシャルル・ギョーム(Charles Guillaume)博士が、一連のニッケル鋼合金のなかで最初のものを発見し、これを鋼製ヒゲゼンマイに合わせると、中温での誤差がほぼ解消されることを確認した。いわゆるギョームテンプは精密時計のゴールドスタンダードとなり、キュー天文台ロレックスクロノメーターに使用されている。1933年、ベリリウム鋼、ニッケル、微量のほかの金属からなるニバロックスという素材が発明され、補正テンプ論争にとどめを刺した。現在では、ほとんどの時計にニバロックスタイプのヒゲゼンマイと、グリュシデュールと呼ばれるベリリウムと青銅の合金でできたノーカット、ネジなしテンプが採用されている。
すばらしい解決策だが、私は補正テンプのロマン、そう、ロマンが恋しい。私はいつも時計製造の観点から興味深いものだと感じていたが、見た目もとても美しいと思うのだ。特殊な合金の発明は、補正テンプを作って調整するという時間と労力のかかるプロセスよりも、かなり理にかなっていると思う。しかし、私は手と心を尽くして一生懸命に作られたものを見るのは、それなりの魅力があると考えており、100年前の懐中時計で補正テンプが動いているのを見ると、自分の心臓の鼓動も少し早まるような気がしてならないのだ。
注:中温誤差は、その説明が提案される以前に経験的に観測されていたもので、記事中のものはシャルル・ギョームの提案を簡略化したものである。この件に関する極めて詳細な論文がHorological Science Newsletterに掲載されている。デビット・ベッチャー(David Boettcher)氏が時計における温度の影響について非常に綿密に分析しているおかげで、私はこの論文に出合うことができた。
HODINKEEは、ヴァシュロン・コンスタンタン、セイコーの正規販売店です。
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