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In-Depth 腕時計を見るときのポイントとは(完全なる私見)

私が時計を見るときのポイントを紹介します。

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数週間前、HODINKEEで一緒に仕事をしている人から、あまりにも単純明快で、ちょっと仰天してしまうような面白い質問を受けた。その質問とは、私が時計を見るときに何を見ているのか、言い換えれば、記事にしようとしている時計をどのように評価しているのか、というものだった。

 考えれば考えるほど、答えがはっきりしなくなり、何年もこの仕事をしているにもかかわらず、どうやってこの問題に取り組むかを体系的に考えたことがないことに気づいた。いろいろと考えた末に(そして、今までこの問題を考えたことがなかったことを恥じながら)、私は次のように考えた。

 まず第一に、最初の直感的な反応がある。これは、時計によって、「うわぁ!」から「何だこれ」まで様々だ(朝の最初の一杯のコーヒーを飲んだかどうかなど、その他の要因もある。評論家の血糖値に左右される評論は意外と多いものだ)。これはあとに続くすべてのものの基礎となるものだが、孤立状態では何も起こらない。例えば、もし私が貴金属製のシンプルな2針のドレスウォッチを見ているなら、その背景には何十(何百?)もの他の時計が潜んでいる。もしそれが馴染みのあるブランドの時計で、おなじみのラインナップの一部であれば、私の反応は、たとえ最初の直感であっても、それまでの露出や知識の文脈の中で起こるものなのだ。

 プレスリリースの画像で初めてその時計を見る場合は、実際に手にとって見る場合と同じようにはいかない。いくらプレスリリースの画像が優れていたとしても(技術的に優れているが想像力に欠けるものから、非常に完成度が高く多様性に富んだもの、そして技術的にもスタイル的にも絶望的に悪いもの、そしてその中間のものまで)、自動車のライターがブランドから提供された画像とスペックだけで新車の記事を書くのと同じように、時計ライターにとっても実際手にとった代わりにはならないのだ(100万円超えの時計が、バウンティ社がペーパータオルの撮影に使うよりも少ない想像力で撮影されたような写真を、私を含むすべての時計ライターたちも見たことがあると思う)。

 とはいえ、知っているブランドやモデルであれば、実際に見たときの印象は大体想像がつくもの。厄介なのは、それが新しいものであった場合だ。つい最近、A.ランゲ&ゾーネのオデュッセウスを初めて手にとって見た。最初にこの時計を見たのは、もちろんプレスリリース用の写真だったのだが、すぐに疑問を感じた。これはランゲにとって新しい分野であり、そのヒットを確信するにはほど遠いもののように思えた。しかし、実際に時計を見てみると、話は違っていた。ランゲが振りかぶって失敗したというような当然の結論ではなく、威厳があり、私はすぐにこの時計に慣れた。

 私がいつも自分に尋ねる2つめの質問は、より意図的に客観的なものだ。多くの人は、時計を評価する際に「自分が好きかどうか」が最も重要な質問だと考えていると思う。一般的に、潜在的な消費者にとってはそうだろう。しかし、本格的な時計愛好家や時計ライターにとっては、「この時計はどのような時計を目指しているのか、そしてその目標をどれだけ達成しているのか」という質問の方がずっといいと思っている。

 この問題を考慮しなければ「500m防水の44mmのスポーツクロノグラフなんて、最悪だよ(笑)。僕は38mmでヴィンテージの2レジスタークロノグラフのほうがいいね(笑)」というような回答になってしまうのだ。もしある会社が、飽和潜水用防水の44mmのスティール製スポーツウォッチを作っていたとしたら、それは幅広い世代に向けたエレガントなスポーツウォッチを目的に作られていないということだ。

1942年にチューラー社によって販売されたヴァシュロン・コンスタンタンのクロノグラフ。

 この問題にはふたつの側面がある。ひとつめは、その時計が機能的にどれだけ目的を果たしているかということ。これは、機能性がその時計の第一の目的であるかどうかによって、最終的な分析に大きく影響する場合もあれば、そうでない場合もある。機能性とその付属品である精度や視認性が時計の第一の存在理由であるべきだと主張することはできるが(そして、そう主張する人は実際にいる)、これは注目に値するほど頻繁にあるケースではない。例えばパイロットウォッチの場合(パイロットウォッチ風ではなく、実際にパイロットウォッチとして作られたもの)、ひと目見てわかる視認性がなければ、グリフィンドール(その勇気)に10点だ。

 一方、MB&FのHM3では、視認性は明らかに主要な検討事項ではない。私はある年のSIHH(皆さんSIHHを覚えているだろうか?)でMB&Fから借りた一本(レッドゴールド製)を身につけていたが、時間を読み取るのは決して面倒なことではなかったし(特にランチで最初のシャンパンを飲み、そこから大胆に、そして実際に無謀に行動しているときは)、これまで時計を身につけたなかでも最も楽しい経験のひとつだった。

 ふたつめは、時計がデザインとしての意図をどれだけ満たしているかということ。ときには、機能性ではなく、この点が二の次になることもある。IWCのマークXIIは、史上最も美しい時計のひとつだが(少なくとも私はそう思っている)、それはIWCが「機能的なエレガンスの新基準となる、時の試練に耐えうる戦後工業デザインのクラシックを作ろう」と言ったからではない(もしかしたら、デザインの最初の段階でそう言っていたかもしれないが、きっと違うだろう。しかし、ウォルト・オデッツ氏はマークXIIを「パイロットでない人たちに愛されてきたパイロットウォッチ」と言っていた)。

 マークXIIが美しいのは、日本刀や超音速偵察機SR-71が美しいのと同じように、ほとんど偶然の産物なのだ。(トマス・)アクィナス(最近はあまり読まれなくなったが)は、美には3つの要素が必要だと言っていう。それぞれ、全体性、調和、明快さだ。マークXIIにはそれらが十分に備わっているが、それは目的が単一であることと、その目的に関係のないものをすべて処分した結果なのだ。

 また一方で、カルティエのクラッシュは、明らかに機能性の賛美を目的としたものではない。むしろ、アート作品にするように、ちょっとした評価が可能なものだと思う。意図的に機能性を破壊しているところに魅力があるのだ。私のお気に入りの時計タンクアギシェも同様に、精度や読みやすさにこだわったものではないが、構成芸術としての時計の最も優れた作品のひとつである。

 次の質問は、時計にお金をかけようと考えたことのある人にとって、身近で大切なことだ。その価値はあるのか? もっと細かく言えば、その価格は、製品の完成度、素材、デザインの精巧さ、精度を追求するための努力、そして関連する競争分野の業界標準に見合ったものなのか? ということ。

 ある賢者(覚えている人はTimezone.comのWatchbore)はかつて、「私の時計は値段の価値があるか?」という質問に対する唯一の可能な答えは常に「NO」だと言った(ただし、これは例えばタフなソーラーG-SHOCKなどには当てはまらないことが多い)。しかし、例えばクロノメーター認定の自社製ムーブメントが、しっかりとした構造の防水ケースに収められており、視認性がよく、控えめながらもスマートなデザインが施されていて、価格が例えば20万円以下で、5年間の保証が付いているとしたら、興味深い価値を提案することができるだろう。最近の時計が発信する最も重要なメッセージの一つは、たとえそれがサブリミナル的なものであったとしても、価格帯にかかわらず、メーカーはマージンと同じくらい価値と醍醐味を提供することを重視しているということ。これは、ブランドにとって忘れがちなことだ。

 ジャン-クロード・ビバー氏は私に、今日の時計業界が直面している最大の問題は、多くのブランドやグループが、実際には時計に関心のない人々によって運営されていることだと考えていると言った。

 最後に、プロポーションとデザインについての基本的な常識の問題がある。その時計が主に機能的な時計であったとしても、機能性を助けるために、美しく調和のとれたプロポーションを持つべきだ。なぜか? それは、人の目や心は、醜いものよりも調和のとれたものの方に興味を持ちやすいからだ。簡単な例として、針の長さがある。短すぎたり、長すぎたりすると、インデックスやダイヤルマーカーと自然に連動していないように見えてしまう。このようにして、時計はInstagramで「素晴らしいモデルだけど、私には合わなかった」というコメントとともに売却されることになるのだ。

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 この時計がデザインとより密接に関わっているとすれば、素材の選択、デザイン要素のプロポーション、デザイン要素間の視覚的な相互作用が、最初の驚きに続いて、その驚きを実現するためのディテールを楽しく探求するという理想を実現しているのだろうか?

 ある程度成功している時計の例はたくさん存在する。しかし、ときには、あなたが時計製造において正しいと思うこと、よいと思うこと、美徳と思うことと正反対の時計に出会い、即座に拒絶してしまうこともある。その時計を見て、怒りで視界が泳ぎ、嫌悪感で胃がむかむかするのだ。要するに、(警告:非常に主観的で批判的な暴言が含まれます)「クソ食らえ。この時計と、これに関わっているすべての人に悪い影響を与えてやる。慟哭と歯ぎしりするような外なる闇に投げ込まれろ」となってしまう時計ということだ。

 私にとってそのような時計は、ウブロのラ・フェラーリだ。この時計にもファンはいるだろうが、ローマ帝国の王座を汚し、堕落と冒涜の限りを尽くした最悪の皇帝と言われるコンモドゥスも、闘技場を満員にするのに苦労はしなかったはずだ。この時計を見ると、一瞬にして言葉にならないほどの怒りがこみ上げてくる。延長されたパワーリザーブは、そのデザインのあまりのバカバカしさによって、楽しむことができなくなってしまう。まるで、疲れ果てたチームが、可能な限り最低のクールな定義に当てはまるものを作るよう、文字通り銃口を突きつけられて作ったかのようなデザインだ。

2013年に発表されたウブロ ラ・フェラーリ、50日間のパワーリザーブを誇る。

 私は、この作品が好きな人を批判するつもりはまったくない。好みの問題に議論の余地はない。しかし、「ゴツゴツしてる! アグレッシブだ! この時計がどれほど大きいか信じられないだろう!」というのは、私にとっては下らない、想像力を欠いた、ありきたりのデザインの最悪の状態(または最高の状態?)だ。最近では、下品なものを下品と呼ぶのは難しく、一般的な感覚を持ち合わせていないと思われがちだが、7つの天国と7つの地獄をもってしても、私はこの時計を下品なものだと思うのだ。

 もちろん、ターゲットとなるユーザーにとっては、思春期のホルモンに振り回された心にクールな印象を与えるあらゆるデザイン要素を、意図的に洗練された形で採り入れたこの時計は、賞賛すべきものである可能性は十分にある(そしてきっと、彼らもこのデザインの提案を洗練されたものだとは思っていないだろう)。私は、時計を批判的かつ公正に分析することに関しては、あまり負けを認めないが、かつて友人が言ったように、昔々、はるか彼方の銀河では、この時計に理由をつけることはできない。この時計は私を、広い心をもった幸せな愛好家から、苦々しく、ユーモアのない、心の狭い衒学者へと変えてしまうのだ。

一方で、Jacob & Co.アストロノミア トゥールビヨンはクールだと思う。不思議だ。

 以上、大まかな説明だ。そして最後に、私にとって時計について書くことの最も基本的な基盤は、時計が好きであるということ。時計に興味を持ち始めて40年、アボカドトーストを食べるために時計の記事を書き始めて20年以上になるが、今でも時計には尽きることのない魅力を感じている。正直に言うと、もし運命のいたずらによってウブロのラ ・フェラーリで1週間レビュー企画「A Week On The Wrist」をする機会があれば、私は両足と手首を準備して飛びつくだろう。自分の好みに対して挑戦することほど、楽しいことはないのだから。

(でも、ダミアン・ハーストは絶対に好きになれない。絶対にだ)。