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Beginner's Guide 「ロスト・イン・ジュネーブ」:時計入門者、聖地をさまよう

時計製造の都で経験した冒険と小さな災難。

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急速に日が暮れる11月の午後、私はジュネーブに到着した。この日は金曜日で、月曜の朝には現地を発つ予定だ。私は、観光客につきものの焦りが出た。どうしたら全部を見られるのだろう? 見たものをどうやって理解すべきか? この街を理解するだけでなく、時計というレンズを通して、時計ビジネスというレンズを通して、ひょっとしたら時間というものの本質を通して、この街を見る必要があった。日曜日は先約で埋まっていた。しかし、そのアポイントを除いて、金曜の残りと土曜日は予定がなかった。

 私は24時間ほどの自由時間でジュネーブをすべて詰め込もうとしないことに決めた。無理に理解しようとしないことに。ただ、すべてを受け入れることにした。

 中級ホテルのロビーは、中級の香水の匂いがした。アッシュブロンドのショートヘアの年配女性がシャンパンのフルートグラスを持ち、おそろいの茶色いジャンパーと白いブラウスをきた、4歳と6歳くらいの孫娘(おそらく)をにこにこ見ている。フロントデスクには、インディーズミュージシャンかロッククライマーかコンテンツクリエイターかと思われる、中年を過ぎたばかりのアメリカ人男性3人がいた。彼らは、寛容で可愛くて感じのいい、でも確実に関心のなさそうなフロント嬢の気を引こうとしていた。

A vintage illustration with the word "Geneva" on it

 私の部屋は広く、ベルベットのシェードがベッドに敷かれていた。掃き出し窓は大きく開く。私はここ数年、ホテルの窓を3インチ以上開けることができなかった。ランプや自分自身を、窓から下のガラスの屋上に投げ出さないだろうと、客を信用するジュネーブ人の性格について思いめぐらせた。

 外を見ると、何の変哲もないオフィスビルが、まるで毎日大勢の作業員がスイスの特殊な溶剤で磨き上げたかのような、鮮やかな白さをしていた。顔を洗い、コットンの靴下をウールの靴下に履き替えて、ジュネーブのメインストリート、ローザンヌ通りへと歩き出した。

 ホテルと駅のあいだには少なくとも6軒の時計店があり、どれも似たようなつくりで、観光客がスイス時計を買うために、とりあえず最後に駆け込むような店だった。そのうちの1軒が、私のホテルのすぐ隣にあった。シチズンやティソのような聞いたことのあるブランドと、ヴレネリ(Vrenely)のような聞いたことのないブランドとがあり、それは白文字盤にバトンマーカーの、偽カラトラバのような精彩を欠いたものをラインナップしていた。そして、ロレックスとタイメックスが一夜限りの恋に落ち、タイメックスがそのまま子供を育ててしまったかのような、グロヴァーナ(Grovana)というブランドもあった。

 入ってみるべきか迷った。もしかしたらこの店は、私が見逃してはいけないジュネーブ的なものの代表格かも。同じショーウィンドウの左端に帽子をかぶった豚の置物があり、値段は24スイスフラン、ドル換算では2ドルほど高い。私は先に進んだ。

 ジュネーブを「詰め込む」ために頑張るのはやめようと心に誓った直後、気がついたらこんなことをやっていた。セメントとガラスでできたワーウィックホテルの前を通り、錬鉄製のバルコニーやカラフルなアルプス風のシャッターを備えた19世紀の美しい建物の前を過ぎたあと、15年間ジュネーブに住んで最近アメリカに戻った友人に面白い(と私が思った)総括論をメールしていたのだ。

 私は「ジュネーブ=化粧をしたトロント 」と書いた。

 スカーフを巻き、今年流行っているキャメルのコートにベルトを締めてショートブーツを履いた、きちんとした身なりの女性たちを観察したが、明らかにフランス人らしい威勢のよさや口調を別にしたら、それはこの1週間で私が見慣れていた景色だった。

 「ジュネーブ=よりクリーンで血の通わないパリ」と書いた。

 友人からメールが返ってきた。「これは響かないよ。もう数時間過ごしてからじゃないと。『Parfums de Beyrouth(レストラン)』と僕の整骨院に行ってみてよ」

 「私は時計コラムニストであって、整体コラムニストではないから」と返事を書いた。彼はこう答えた。「今予約をしている 」と。

 アルプ通りとローザンヌ通りの角で横断を待っていると、白いダウンジャケットに金髪、大きな白いサングラスをかけたジュネーブのリアル主婦のような女性が運転する白いアウディが、時速65マイル以上出して疾走してきた。平らな荷台のトラックも同じスピードで走っている。「ジュネーブの人は運転が荒い」と、私はメモアプリに書き込んだ。数分後、私は「マイ・ミート」というレストランを通り過ぎた。「ジュネーブでは、人々は非常に真剣に締め切りを守り、レストランをどう呼ぶかを決めるために遅れるくらいなら変な名前をつけるようだ」と書いた。

An illustration of a flag

HODINKEEのライターであるローガン・ベイカーは、ジュネーブを億万長者の遊び場と評していた。私はそれを疑ってはいなかったが、自分はそうしたところに属していないし、完全に他人事だった。パン屋、コインランドリー、エチオピア料理、レバノン料理、タイ料理など、20スイスフランの黒板が掲げられたレストランのある周辺を、しばらくただグルグルと歩き回った。ドクトール-アルフレッド=ヴァンサン通りの薄汚れた建物のコンクリートの張り出しには「SEXY SHOP MEA CULPA」と書かれた看板がかかっていた。

 しかし、数ブロック先の店のウィンドウディスプレイには、3700スイスフランもするグリーンとグレーのヘリンボーンカシミヤのニットコートが、他のソフトで非情なほど高価な多くの商品とともに並んでいた。そう、億万長者が身につけるものだ。次は時計を見つけなければ、と思った。地図で時計屋を検索してみた。すると、すぐ近くに「ウォッチ・コンセプト・ストア(Watch Concept Store)」というのがあった。ちょっと難解な名前だが、確かに豚の置物はなさそうだ。

 ウォッチ・コンセプト・ストアのメインショールームには、レストアされた1928年製のロイヤルブルーのブガッティが置かれ、トラックライトに照らされてキラキラと輝いていた。ロンジン、エルメス、オリスなどのブランドはそれぞれ独自のコーナーを持っていて、まるで広々としたアパートにお金持ち仲間が同居しているようだった。私は、初めて見たレマニア(Lemania)というブランドのセラミック製の美しいストップウォッチに見とれた。控えめなフェイスが明るい色でまとめられていて、ほのかに桃色が効いていた。900スイスフランのストップウォッチにはまったく用がないが、欲しくなってしまった。

A Rolex clock on a building facade

ぶらぶらと歩き続け、最後にたどり着いたのは、まったく別のタイプの店「La Maison de l'Horlogerie」で、ヴィンテージウォッチを売っていた。ロレックス、カルティエ、ジャガー・ルクルトなどのものだ。さらに重要なことは、この店の共同経営者であるアラン・ガットリー氏と会ったことだ。彼はたぶん、何をしようかと迷っている私に気づいたのだろう。エスプレッソを勧めてくれ、大きな木のテーブルに私を案内した。そしてそれからそこで、1時間ほど彼と時計について語り合うことになったのだ。

 ガットリー氏は50代後半で、ジーンズにジッパーのついたセーターをきていた。運よく売れるものを売る人生を手に入れた男のフレンドリーな物腰と、そうでなければおそらくもっと多くのものを売ってきたであろう男の魅力にあふれていた。時計が好きで、おしゃべりが好きな人だ。この店は彼の父親が経営していたもので、彼はここで修理のために時計を引き取ったり、修理した時計をお客のもとに持ち帰るという仕事をしながら成長してきた。彼は弟さんと共同で店を経営していた。弟さんは私たちの会話にちょこちょこ顔を出すが、実際話をすることは無かった。

 「ここ数年、時計はとても人気があるんですよ」とガットリー氏。「しかし私は、単に時間を知るために腕時計をしていた時代を知っています」。 彼自身は1940年代のロレックスのバブルバックで時刻を見ていたが、これは彼のものではないという。売る前にちゃんと動くかどうか品質管理をしていたのだ。私は、彼が古い時計を買うとき、どうやって本物と偽物を見分けるのか聞いてみた。「私はずっと時計に囲まれて生きてきましたから」と彼は言った。「本能的にわかります」

 彼は、古いジャガー・ルクルトをいくつか取り出して見せてくれた。小さなフェイスで、とても女性的で、私には小さすぎて女性的すぎたかもしれない。彼は、ラ・ショー=ド=フォンの美術館には絶対に行った方がいいと言い、携帯電話を取り出してスイスの便利なアプリを見せてくれたが、便利な鉄道システムのない国に住んでいる私は落ち込んだ。今回の旅ではラ・ショー=ド=フォンに行けないだろうと言い、やることが多くて時間がないから時計師に会いたいと言った。金曜日の午後遅かったので、おそらく無理だろうけれど。

 しかし、ガットリー氏は他の人が無理と思うところに可能性を見出す人である。「今すぐ時計師に会いに行ける?」と、彼は強いまなざしで尋ねた。私は「はい」と答えた。彼は何度か電話をかけ、すべてフランス語だったが、「ジャーナリスト」という言葉は聞き取れた。

 数分後、私はフランク ミュラーのクロックを搭載した黒いメルセデスに乗り、イヴァン・アルパ(Yvan Arpa)という時計職人に会うためにメイニエという郊外に向かった。運転手にジュネーブに来た理由を告げると、彼はティソを外して私に手渡してきた。「私はティソを外すことはないです。ケニアの家族に会いに行ったときも、この時計をつけて海に入りましたし、シャワーも浴びました。でも、毎晩磨いています」と彼は言った。「だから裏側がきれいでしょう?」。彼は10本の時計を持っていて、4本はスウォッチ、そしてクリスマスにはタグ・ホイヤーを自分自身に贈ろうと思っていたそうだ。「でも、とても高価だから...」と彼は言った。

 車内は黒革のシートとコロンの香りがした。運転手は小さな音でニュースを流していた。すべてフランス語だった。私は "ストライキ "と "水曜日 "という単語を確認した。太陽は1時間前に沈んでいた。しかし、私たちは富に囲まれているのを感じた。道路に家はなく、私道が見え隠れし、生け垣の上のシルエットが見えるだけだ。

 「お金持ちはジュネーブが好きなんです 」と彼は言った。

 ここの人たちは時計が好きなのか、と尋ねると、彼は「好きだと思う」と答えた。彼は私のために、時計に対する自分の意見を整理してくれた。「自分の生き方や行動をよく見て、性格に合った時計を買えばいいんです」そして、こう続けた。「パテック フィリップは55歳以上の年配の男性、とにかくお金持ちの男性で、あまり体を動かさない男性、本を読むのが好きな男性向けですね。ロレックスは万人向け。誰もがロレックスを身につけることができます。お金さえあればね」私が自分の時計は100ドルだと言うと、彼は甲高い声で笑い出した。

時計師のアルパ氏は、メイニエ郊外の小さな家のようなところでアーティア(ArtyA)というブランドを経営していた。車の通りも少なく、歩行者もいない。金曜の夜にタクシーに乗らなければ、簡単には出られない場所だと思った。運転手は30分以内なら待ってくれるという。

 イヴァン・アルパ氏は50代だろう。彼は正確な年齢を言いたがらないようだった。それは、年をとることを恐れているのではなく、そんなつまらない現実のことは気にしないのだろうと私は推測した。首にはサーファーがつけそうな青い石のネックレスをかけ、同じような色の瞳は天才的な輝きを放ち、視線は少し遠くを見ていた。こういう人が24時間365日、時計のことを考えているのだ。入ってすぐのレンガの壁には、こんな張り紙があった。「マンネリから脱却せよ」。これは彼のモットーだという。

 私は、自分はまったくの素人で、時計についてはほとんど何も知らないと言った。"おめでとう "と彼は言った。「それが一番いい。それなら先入観を持つこともないだろう 」と。アーティアは彼の指示のもとでオリジナルデザインだけでなく、他社のムーブメントも作っていた。彼の下で10人ほどが働いていたようだ。時間がなかったので、とにかく彼がデザインしたものを見て回った。

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 最初に見せてくれたのは、ベースギターのような形の時計で、弦を表す銀の象嵌が施され、ふたつのFホールを挟んでいるものだった。アルパ氏は言う。「私にとって重要なのは、時計が感情を生み出すことだ」。
「なるほどね。でも私は好きじゃないけど」と私は反対意見を言った。

 「それはいい 」と彼は叫んだ。彼は明るく強烈な笑みを浮かべ、視線はフォーカスされた。「嫌いと言ってくれるのは嬉しい。私は人々に反応をしてもらいたいから」

 そして、彼のレース・コレクションから、レーシングカーのホイールのように高速回転する文字盤の時計を見せてくれた。手首を動かさないと時刻が見えない。私はこの時計を、コンセプトとしてはクールだと思ったが、百万年経ってもつけたいとも欲しいとも思わないだろう。私たちは、彼がつけている腕時計を見た。ムーブメントが見えるようにスケルトンになっており、ケースは合成サファイアでできていて、67時間磨いて透明に加工しているという。「これはフライングトゥールビヨンが2本のゼンマイを調速するもので、トゥールビヨンは高級な脱進機なんです」と説明された。私はこれらのことをまったく知らなかった。

A blue watch on a black background

アーティア Race 250 GTO ブルー

 この時計は13万ドル(約1500万円)ほどで、自分が身につけるとはあまり考えられなかったが、すばらしいと思ったし、尊敬の念を持った。その不滅のケースに、目に見える複雑な機構を搭載していることに畏敬の念を抱いたのだ。シンプルかつ複雑で、光の加減でクリアブルーからクリアグリーンに変化するケース。アルパ氏は5000ドル前後の時計もたくさん作っていたが、私が一番好きで今でも買いたいと思っているのは、シェレンシュニット(はさみ切り)というスイスの古い技術を使った複雑な文字盤で、その中心から花が咲いているものだ。12、3、6、9のマーカーは小さなヤギで、すべて小さなハサミで切った紙でできていて、デコパージュで文字盤に貼り付けられている。

 私は彼に、この訪問で本当に目が覚めたと言った。それまで奇妙でファンキーな、あるいはその他の独創的な時計を目にするたびに、それらをよく見ようともせず、自己満足と迷惑な気まぐれだと見なしていたことを認めざるを得なかった。「典型的な高級時計がかなり退屈であると主張することが可能かもしれません。私はよくわかりませんが、あなたが主張することはできると思いました。こんなことは初めてです」と私は言った。「つまり、それらは違いがあるというより、みんな似た感じなので」
 「そう」と彼は言った。「私はヴァシュロン・コンスタンタンが大好きです。私は彼らがやったことをやってみたい。でも、それは400年前にやらなければならなかったことでしょう」

帰路、運転手はジュネーブがいかに好きかをしきりに語っていた。私は、「お金持ちじゃなくてここで生活するのはどうなんですか」と聞いた。彼は「その価値はある」と言った。「高いお金を払っても、得るものは多いです。湖は見ましたか?」私はまだと答えた。私が見たのはセックスショップや高価なセーター、時計店に時計師、そして彼だけだった、と。「子供のころ、毎日その湖で泳いでいました」と彼は言った。冬でも毎日泳いでいる友達が2人いると言っていた。

 「ジュネーブで悪いことはひとつだけあります」と彼。「自分たちで健康保険に加入しなければならないのをご存知ですか?  あなたはアメリカ人だ。アメリカ人ならわかるでしょう」と言った。

 私はホテルに戻り、一人でParfums de Beyrouthに行き、寝ようと思っていた。しかし、スイスでアメリカ人のご主人と暮らしているアメリカ人の友人からメールが来た。「あなたがここに来たのは素晴らしい。オー・ヴィヴスにある私たちのアパートに夕食を食べに来ない?」

 運転手に連れて行ってもらえないかと尋ねると、実はホテルからそう遠くないところにあるとのこと。早かったので、一杯飲みに行った。正確には、今まで飲んだなかで一番小さくて、最も高いコート・ドゥ・ローヌのグラスだったのだが。外で、カフェが用意してくれた毛布にくるまって、Apple Watchをつけたカップルがパイントのビールを飲んでいる横で、私はそれを飲んだ。二人のあいだにいる小さな子供は、子羊がフランス語で会話するテレビ番組を夢中で見ていた。

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 私の友人のサンドラは作家だ。夫のポールは "政府 "関係の仕事をしている。夕食の席で、コート・デュ・ローヌのボトルが、私がレストランで頼んだよりもずっと上質なものが大量に出てきた。彼らはジュネーブでの生活について話してくれた。

 ジュネーブで高級時計のオーナーになったわけではない。彼女はタンクのコピーを、彼はFitBitを持っていた。ジュネーブは物価が高いので、スイスの多くの人がそうであるように、食料品の買い物はほとんどフランスで済ませるそうだ。また、ハイキングもよくするという。健康保険は自費だったっけ? そのことは言ってみた。

 スイスの印象を聞かれたので、私は「まだわからない」と答えた。彼らが最もスイス人らしい特徴と感じたことは、こちらから聞かない限り決して自主的に情報を提供しないことだったそうだ。例えば、彼らの友人のお子さん(英語圏)は、学校でフランス語が苦手で、お母さんは何度も先生に相談した。その年の終わりにそのお母さんは、すべての生徒がフランス語の無料個別指導を無制限に受けられることを知ったのだ。彼女は先生に、なぜ今まで誰もこのことを言わなかったのかと尋ねると、先生は 「あなたが聞かなかったからです 」と答えたという。

 「彼らは、あなたが自分で考えたかもしれないことを教えるのは失礼だと思うらしいわ」とサンドラは言った。

 ホテルへ戻る列車は、黒いシートに原色のドット柄で、清潔かつ時間通りにきた。ほとんどの人がマスクをしている。20人に1人くらいはしていなかったかもしれないが。私は清潔なバスタブで熱い風呂に入り、開け放たれた窓から吹き込む冷たい空気を吸いながら、毛布にくるまって眠りについた。

目が覚めたら、コーヒーメーカーが壊れていた。ランプが点滅して電流が流れていることはわかるのだが、肝心のコーヒーが出ないのだ。スイスでは、ありえないことなんじゃないのかと思った。

 外はまだ何もオープンしていなかった。この場所を嫌いになれるはずがない。かわいくて居心地のいい建物と、悲しいほど冷たい建物があるこの場所が、土曜日の朝、かわいそうなくらい眠たそうに見えた。

 私は地図に従って、3ヵ所以上のしまっているコーヒーショップを訪れた。気がつくと、タホ湖のように巨大で青く澄んだ湖にいた。そのコンクリートの岸辺には、高給取りのデスクワーカーたちが意図的にゆっくりくつろいでいる。遠く目の前に、モンブランをはじめとする雪をかぶった山々が連なっていて息をのんだ。右手には橋があり、その橋の右側、反対側に接する部分には、時計ブランドの「ラシュモア山」があり、いくつかの重厚で古い石造りの建物の頂上に沿って、その名が特徴的なフォントで描かれていた。ショパール、リシャール・ミル、ウブロ、ロレックス、パテック フィリップ、エルメス......。すごい。この街は産業だけでなく、ブランド、それも高級ブランドで成り立っていると思った。カフェインなしで理解するのは大変なことだった。

 ようやくベーグル屋を見つけ、カプチーノを注文した。チョコチップ入りのベーグルが売られていて、カプチーノは神がかり的にまずかったが、モンブランをいつも見ている人がどうしてまずいコーヒーを淹れられるのだろうかと、苦い思いを飲み込んだ。

 その後、パテックフィリップ・ミュージアムに行った。そのときの話を読んだ人は、私が遅刻したことを知っているはずだ。その理由は、つまらないことこの上なく、充電不足のスマートフォンのため、つまりナビがなかったことが関係しているが、おそらくこのコーヒーのしくじりから始まったのだろう。

 ミュージアムを出たあとは、お腹が空いてくらくらするほどだった。オールドリッチ層がコンソメを飲むために通い、テーブルの上で眠ってしまうようなレストランを通り過ぎた。そういえば、友人が「グローバスの下の階には、いいレストランがある」と言っていたのを思い出した。グローバスは0.6マイル先で、私のルートはプレーンパレという公園を通るのだが、その公園は表面が赤い、まるで砂利のテニスコートのような不思議な場所だった。フランケンシュタイン像の前を通り、なぜこれがここにあるのか不思議に思ったが、お腹が減っていたので気にしないことにした。

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 石畳の坂を登り、また下って、混雑した通りから、きらびやかな香水のような雰囲気のグローバスに飛び込んだ。それは高級デパートで、まさにそういう外観だ。壁が真っ白で、そこら中にあるブランド名とマッチさせている。ディオール、シャネル、クリニーク、ボビイブラウン。私は昼食が食べたかっただけだ。エスカレーターを降りると、ワインやさまざまな高級食材が陳列されている。午後3時30分に整骨院の予約を入れるよう、メールが来た。私はオーケーしていたっけ? と焦る。バーカウンターに座った。ここがその店か? ここがいい店なのか? どうでもいい。メニューをもらって、最初に目についたラーメンを注文した。「それって時間かかるの?」 と聞いた。「もしそうなら...」

 「3分です」と店員は言った。「長すぎますか?」彼は足早に立ち去った。

 コミュニケーションがうまくいかなかった。バーで私の隣に座ったカップルは裕福そうで、二人ともカシミアをきて、彼女はロレックスのデイトジャスト(「とてもつまらない」と彼女は言ってた)、彼はIWCを身につけていた。「ここの若い人たちは時計が好き?」と私は尋ねた。彼らは笑って、「いいえ、時計を持っているのは年を取ったからです」と言った。若者は時計に興味がないのだ。確かに私が見た30歳以下の人は、ほとんど全員がApple Watchか、まったくどうでもいいものをつけていた。

 その夫婦はジュネーブが大好きで、“素晴らしい、ここでの生活は最高だ、フランス人でもフランスが恋しいとはまったく思わない”と言っていた。それでも、健康保険を自分で払わなければならないことを知っていたんだろう。

 フランケンシュタインをググったら、ジュネーブで書かれたことがわかった。IWCの彼が、店員に私のラーメンが一体どうしたのか聞こうかと提案してくれた。そうしてもらった。1分後、ラーメンが運ばれてきた。ラーメンを食べながら、フランケンシュタインなら37ドルのラーメンをどう思うだろうかと考えたが、食べながらわかった。彼は、払う価値があると思っただろう。

 隣の席に座った若い女性は、フランス語でラーメンを注文した。ほとんどすぐに出てきた。

高級時計店でも行こうかと、「ラシュモア山」方面に歩いていった。ローヌ通りを渡るのを待ちながら、私は向かってくる車を観察した。メルセデス、ベントレー、アウディ、アウディ、アウディ、どれもグリルが磨かれていてきれいだ。ウブロの販売員の女性は、私にそれらの車のうちの1台を思い起こさせた。彼女は長い髪をピンで留め、ローズトーンの服をきてヒールを履き、センスよく化粧をしていた。彼女はフランス語で私に話しかけた。私はフランス語で、「フランス語は話せません」と言うしかなかった。

 何ヵ月も前、私が時計について学び始めたころ、サンフランシスコのウブロの店に行き、楽しい時間を過ごし、たくさん笑った。でも私はその人たちに、自分がHODINKEEで働いていることを告げたのだ。そして、私はおそらく、ここジュネーブでこれを行うべきだった。なぜなら、そのあとの4分半は、私の人生において最も気まずい時間だったから。

 販売員の女性が「何かお探しですか?」と聞いた。私は「いいえ、ただ見ていただけです」と答えた。ピンク色でダイヤモンドに囲まれた女性用腕時計のディスプレイを1分ほど見ていた。いや、それが何なのかはわからない。正直言って、こういうことは人に聞かないとわからないと思い始めているところだ。とにかく、このディスプレイには、時計が消えて、同じ時間、たぶん10秒くらい(計ろうとは思わなかったけど)、再び現れるという機能があった。時計は回転する台の上に乗っていて、数秒間は自分の方を向いていて、その後、台が180°回転して時計が消え、ディスプレイが反転してもう一度現れる。消えた瞬間にもう一度見たいと思う、より大きな欲求を生み出す効果があった。

 「これはクールだわ」と私は言った。

 女性がやってきて、私のそばに立った。

 私は「他の店でもこのようなディスプレイをしているのですか?」と聞いた。

 「いいえ 」と彼女は言った。「私たちだけです」

 それから1分ほど、腕時計が上下するのを見ながら、ハロー、グッバイ、ハロー、グッバイと、ただ立ち尽くしていた。弾けるようなポップミュージックが、私たちのぎこちなさを演出した。私はなんとか「メルシー」と言って、その場を立ち去った。 

 もう一軒、ヴァシュロン・コンスタンタンを訪ねることにしていたのだ。しかし、あのような瞬間はもう耐えられない。高級店の買い物客が実際には何も買うつもりがなく、死んだような静けさを味わうのは、その店ではもっとひどいことになると思ったのだ。私は入店許可のためベルを鳴らした。ガラス扉の向こうの若い女性が、マスクを下ろすように合図した。口と顎を見ることで、私が時計泥棒であるかどうかをどう判断するのかはわからなかったが、私がそれに従うと、彼女は私をなかに入れてくれた。

 ウブロのポップミュージックのあとでは、ここの静けさは際立つ。販売員はスーツに少し虹色がかったバイオレットのニットタイをしていた。このストーリーにおいて、ラーメンとその代金を除いて、唯一記録もメモもしなかったのは、理由はわからないが脳裏に焼きついているからだ。私はイヴァン・アルパ氏になったつもりでこれらの時計を見てみたが、そこには彼がなぜ「ラシュモア山」の外側で規範を超えた何かをしたかったのか、また、私と同じように、18Kピンクゴールドに84個のラウンドカットダイヤモンドをセットしたオーヴァーシーズを、とても素敵だと思ったのか、その両方が見て取れた。タクシーの運転手が、自分の性格や持っているお金に合った時計を買わなければならないと言っていたことを思い出した。もし、個性に合ったものが私の前にあるこの時計だけで、4万3000スイスフラン(約535万円)持っていなかったらどうするのだろう?

 店内の男性は私に何か助けが必要かと尋ねた。私は「いいえ」と答え、大きな安堵感が溢れるのを感じながら、HODINKEEで仕事をしていると言った。「僕はHODINKEEが大好きなんです。毎日読んでいます」と彼は言ってくれた。

 私は彼にヴァシュロン・コンスタンタンについて教えてくださいと頼んだ。他に言うこともなかったし、昨日までこのブランドのことを何も知らなかったのだから。彼は、ヴァシュロンが現存する最も古い時計ブランドであること、今でもすべての時計を自分たちで修理できること、年間約2万5千本の時計を製造していること、それらはジュウ渓谷で作られることなどを語ってくれた。「でも、あなたはたぶん全部ご存じでしょう」と彼が言ったので、私は知らないと応え、「私は何も知らない人間なの」と告白した。「入門者です。私って面白い?」彼は「必ず読みます。僕もすごく面白い人間ですから」と言ってくれた。

整骨院まで歩いて行くのに十分な時間があった。エディターからジュネーブで迷子になると言われていたが、たったふたつの予定で、文字通り迷子になるとは思わなかった。

 私はパテック フィリップのゴールデンエリプスの山に誓って、整骨院の住所をウェブサイトに表示されている通りに携帯電話に入力したのだ。私は、明らかにそれがある場所ではない鍵のかかったオフィスビルの外に立って、「えっ? なぜ?」と思った。その上 - これはストーリーに関係するから言うが - 携帯電話のスピーカーが壊れていたので、ヘッドホンがなければ誰かに電話することができなかったのだ。私はヘッドホンを持ってきていなかった。歩道を歩き回っていると、革のバッグを持ちツイードのコートをきた女性が立ち止まり、穏やかで楽しい笑顔で、道に迷っているのかと尋ねてきた。私は感謝の気持ちを込めて、そうだと説明した。

 私たちは彼女のスマホのディレクションに従ったが、私のものと同じように間違っていた。「電話しなさい」と彼女は言い、私はできないことを説明した。そして彼女が電話してくれた。私たちは一緒に歩いて、3分先の目的地に向かった。彼女はジュネーブ出身? そう。彼女はここが好き? そう、美しい町だ。彼女は生まれてからずっとここに住んでいた。3時35分、私たちは正しい場所に到着した。私はジュネーブに24時間15分も滞在していたのだ。

 「あ、もう一つ質問」と私。「時計はしていますか?」

 彼女はとてもいいきこなしをしていた。何をつけていたと思う? カルティエのベニュワール アロンジェ? 薄明かりに宝石がきらめくショパールのヴィンテージ?  しかし、彼女は驚きとかすかな苛立ちをもって私を見つめた。そしてスマホを手に取り、「これを持っているのに、どうして時計を持たなければならないの?」

サラ・ミラー(Sarah Miller)氏は北カリフォルニア在住のライター。 彼女のツイッターはこちら@sarahlovescali 。彼女のサブスタックの登録もぜひ。彼女がHODINNKEEで執筆した記事はこちら

Illustrations by Andrea Chronopoulos.