オリジン・ストーリー
この記事はサイモン・ブレット(Simon Brette)氏が初めて手掛けた時計、クロノメーター アルティザン(Chronomètre Artisans)が正式に発表された瞬間に公開している。もし仮にいまこれを読んでいるあなたが、2023年4月12日の午前9時(米国東部時間)ちょうどにここにいたとしても、今ここまで読んだ時点でこの時計は2028年先まで完売となっている。なお2週間前の日付だったら、それが2027年になっていた。次の段落に到達するころには2029年になっていてもおかしくないが、私はきっと平然としているだろう。なにもこれは大げさに伝えているわけではない。それくらい、この時計は本当にいいものなのだ。
無名のブランドが、正式な発売前から半世紀にも及ぶウェイティングリストを作るにはどうしたらいいのだろうか? それには素晴らしい時計づくり、注目すべき過去の経験、そして口コミが必要だ。
ブレット氏が技術工学のバックグラウンドを持ち、若い頃はフランスのミシュラン(Michelin)タイヤ社で働いていたころと、クロノメーター アルティザンのような時計をつくるということは、スタート地点が大きく異なる。しかしその期間はとても短く、その理由はもっと遡らなければならない。
ブレット氏は才能ある大工だった父親をはじめとする職人たちに囲まれて育った。フランスのオーヴェルニュ地方で父親らの姿を見て少年時代を過ごし、職人の仕事に対する感謝の気持ちと職人気質を植え付けられた。ブレット氏は自分が時計に情熱を注いでいることを理解していたため、大手時計メーカーにメールを送り、ムーブメントやケースを設計する仕事に就くためのアドバイスを求めた。その結果、スイスの時計学校に通うという、当たり前の回答が帰ってきた。
「2011年に学校を卒業したあと、ジャン・フランソワ・モジョン氏(コンプリケーションとイノベーションのムーブメントメーカー、クロノード/Chronode SA 社の創設者)のもとテクニカルコンストラクターとして働き始めました」と話すブレット氏。「その期間はIWCやHYTのムーブメント開発に携わりました。それとMB&Fのレガシーマシン1、レガシーマシン2の開発もしましたね。ムーブメントデザインについては、本当に多くのことを学びました」
その後、前衛的な時計ブランド、MCTにてプロジェクトマネージャーを勤めたのち、ブレット氏はMB&Fのプロジェクトマネージャーに着任。ムーブメントやデザインを、構想段階のものから現実のものにする仕事をしていた。
MB&Fを知る人であれば彼のデザインはご存じのはず。ブレット氏は白紙の状態から、レガシー マシンにおける第1期と第2期の岐路となるLMX、そしてオロロジカル・マシン No°9と、オロロジカル・マシン N°10 ブルドッグをデザインしているからだ。
オロロジカル・マシン N°10 ブルドッグ。
2021年に娘が誕生すると、ブレット氏は眠れない夜を過ごすようになる。その落ち着かない時間を過ごすうちに、さまざまな未来が思い浮かぶようになった。彼はMB&Fでともに働いていた才能あるアーティストについて、またクライアントを失い閉鎖の危機に瀕している部品専門メーカー、さらには永久に失われる可能性の高い、組織が持つ知識の喪失について考え始めたのである。
「私は両親(父は職人、母は農家)のことも思い出し、自分が行う自由なビジネスを考えていたのです。これはずっと前から心にあったことで、入社時にマックス(MB&Fのブッサー氏)にもそう説明したくらいです」とブレット氏。「私は彼に、“いつか自分の道を歩むために旅立つ”と伝えました。そして、彼はそれをサポートしてくれました。さらに時計づくりを手伝ってくれる、才能あるアーティストや友人らも支援してくれました。しかし専門家やアーティストが苦労している姿を見るのは辛いもので、自分なりの方法で彼らの活動を継続させる手助けをしたいと思ったのです」
ブレット氏はフリーランスとしてさまざまな企業のムーブメントを設計し、眠れない夜を過ごす傍ら、クロノメーター アルティザンの構想を練り始めた。そのティザーを長年懇意にしている20人のコレクターに送った。するとそのうちの12人は彼のビジョンを信じ、デポジットを払って“スースクリプションシリーズ”を申し込んだ。この時点でいまだ技術的に存在せず、しかも今日発表されたばかりのブランドに対する大胆な自信の表れであり、あるいはそれは賭けであったかもしれない。しかしこのギャンブルは、すべての関係者にとって報われたものとなったのだ。
我々がなぜ気に入ったのか
ジュネーブで開催されたWatches & Wondersには世界最大のブランドから小さな独立系時計メーカーまで集結し、そこでおそらく100本もの時計を目にした。しかし展示会から離れた工業団地にある小さなワンルームのオフィスで、私はその週のベストウォッチ(非常に大差をつけて)と呼ぶにふさわしいものを目にした。
スースクリプションシリーズを着用した。
はっきり言って衝撃が走った。私はスースクリプションシリーズを申し込んだ3人のクライアントを知っていて、この時計のレンダリング画像と低解像度の写真を見たことがあった。少なくとも1人は、GPHGの受賞作レベルだと言っていたにもかかわらず、全員が割と冷ややかな目で見ていた。だが友人の好みを信じてとりあえずミーティングに参加してみて、時計を実際に触ってみると、まるで雷に打たれたような感覚になった。
文字盤にトレンブラージュ仕上げを施した、オープンシリーズ。
ではこの時計の重要な部分を細かく整理していこう。スースクリプションシリーズと“オープンシリーズ”(ともにすでにキャンセル待ち状態。現在6万スイスフラン、日本円で約890万円の価格が付いている)は、いずれも直径39mm、高さ10mm(ドーム型のサファイア風防含む)となっている。現行のオープンシリーズのケースがチタンであるのに対し、スースクリプションシリーズはジルコニウムケースだ。どちらもネジが見えないようになっている3つのパーツで構成され、装着感を調整するためラグには直線または曲線のバネ棒用の穴が2組設けられている。また9時側のケースには、ローズゴールドでできた“ダブテイル(蟻継ぎ)”のジョイントが埋め込まれている。これは彼の父へのオマージュ、そして彼が支援したいと願うクラフトマンシップの証として採用している。
オープンシリーズ、ケースサイドに施されたRG製のダブテイル。
ケース内には、現代版クロノメーターをコンセプトに考案されたムーブメントを搭載している。視覚的にシンプルですっきりとしており、さらにはシンメトリーなデザインの二重香箱により、約72時間のパワーリザーブを実現。精度も重視し、丸みを帯びたハイポリッシュ仕上げのブリッジは非磁性のグレード5チタン製で、特大のテンプは伝統的なマリンクロノメーターの振動数である1万8000振動/時(2.5Hz)で動き、さらにテンプにほど近いすべてのスティールパーツは非磁性のSS合金であるファイノックス(Phynox)製となっている。またブレゲ巻き上げヒゲゼンマイを用いているため、正確に時刻を設定できる“ストップセコンド”ハック機能も備える。これは“ウルフティース”と呼ばれる縦歯と内歯の歯車を備えたラチェットとリューズホイールにより、極めて感触のいいクリック感で巻き上げることが可能だ。精度にこだわったこのムーブメントは、クロノメーター認定の範囲を十分に満たしているとのことだ。
非常に美しいデザインのムーブメントであることに間違いはない。また好印象だったのは仕上げで、これには本当に圧倒された。
次に、時計に使われているすべての仕上げを挙げていこう。まずシボ加工を施してアンスラサイトのルテニウム調に仕上げた4分の3ブリッジ、ポリッシュ研磨された凹面を持つゼンマイの香箱、何日もかけて仕上げた内角などを備えている。4分の3ブリッジと個々のチタン製ブリッジのエッジ部分には、すべて鏡面仕上げの研磨と面取りを施し、さらに歯車のスポーク(歯)や内輪、ピニオン、シャトンのエッジには角度がつけられている。しかもこれらはすべて手仕上げで施されているのだ。いったい誰がそんなことをするんだ? しかも6万スイスフラン(日本円で約890万円)で。そんなことをする人はそう多くはいない。それだけは断言できる。
歯車をよく見てみてほしい。
中央にセットされた時針は、イギリスの時計師デレク・プラット(Derek Pratt)氏がウルバン・ヤーゲンセンのためにデザインした“天文台”針からインスピレーションを得ている。先端がとんがったデザインで、これは手作業で丸めて研磨、青焼き加工を施しているという。時針の丸い開口部は、針が動くと秒針のピニオンとリューズ機構のメインスクリューをピッタリと通過していく。ムーブメントデザインが中心を軸としたシンメトリーであることがわかる。また分針も同様、先端が下向きにカーブしているのも特徴だ。
ネジ周辺のサークル。
ムーブメントの仕上げ。
特に文字盤は実際に見てみるとより印象的だ。右側の開口部からは時刻合わせのメカニズムや、鏡面研磨など精巧に仕上げられたネジやゼンマイを見ることができる。またサファイア製ミニッツマーカーには、半透明でつや消し仕上げのチャプターリングがある。その周りを5分刻みのアラビア数字を配した銀色のオパーリンリングが取り囲んでいるのだ。
“ドラゴンスクリュー”のディテール。
オープンシリーズのダイヤル。
オープンシリーズのムーブメント。
文字盤のエングレービングは、ローマン・ゴティエやフィリップ・デュフォーのエングレービングも手がける彫金師のヤスミナ・アンティ(Yasmina Anti)氏が担当。目を引くディテールとなっている。なおスースクリプションシリーズでブレット氏はアンティ氏に、これまで時計に施したことのないエングレービングのスタイルを提案してほしいと依頼した。その彼女の答えが、今でいう“ドラゴンスクリュー”である。レッドゴールドの文字盤に刻まれたファセットが光を受けてきらめき、ブラックとゴールドのコントラストを生み出している。オープンシリーズでは(ムーブメントの仕上げやケースの一部と同じく)、文字盤もトレンブラージュ仕上げのバリエーションとなる。
さらに、すべてのネジはブラックミラーポリッシュで凹凸をつけてから、ソリッドゴールドのシャトンに固定することで、さらにコントラストを強調している。
ネジの頭部。
ブレット氏は「ネジについては、一時期閉鎖寸前と言われていたアントン・ピーターソン(Anton Peterson)とともに仕事をしました」と話す。ピーターソンは彼にとって、職人による小規模なサプライヤーを支持するようになったきっかけのひとつだったそうだ。「彼に“サイモン、このレベルの仕上げは不可能だ”と言われました」
「2カ月後、アントンは私のところに戻ってきて“いい知らせと悪い知らせがある”と言いました。いい知らせとは、私が求めたレベルを実現する方法を見つけたということ。悪い知らせとは、そのレベルの仕上がりにするためにはネジ1本につき1時間近くかかるということです」
だがなぜ実現しようとしたのか? 「遠くから見ると、頭部が凹んでいるのではなく、ドーム型に見えるため視覚的な奥行き感が出ます」とブレット氏は言った。この時計の仕上げと同様、私の直感でその答えは“賛成”に近い。これはアートのための純粋な時計製造の芸術であり、そして才能に対する賛美であり、とても信じられないことなのだ。このプロジェクトに携わったすべてのアーティストおよびサプライヤーは、MB&Fのやり方と同様、プレスリリースにそのすべてが記載されており、この情報は時計が生み出されるたびに提供されると期待できるだろう。
次に来るもの
ブレット氏はこの時計を正式に発表したばかりであるが、この業界は口コミがものを言う。写真といった具体的なものは、今のところインターネットに上げないようにしているそうだが、業界大手企業とはすでに契約が済んでおり、ブレット氏は現在、年産12本のみと非常に限られた体制をとっている。時計製造において秘密が守られているものかもしれないが、すでにウェイティングリストがこれほど長くなっている理由は明白だ。
サイモン・ブレット氏によるクロノメーター アルティザン、スースクリプションシリーズとオープンシリーズの時計。
ブレット氏は、クロノメーター アルティザンは100本も作らないと宣言している。というのも現在、会社には自分ともうひとりのエンジニア、そして時計職人しかいないからだ。将来大きな成功を納めるために、今は時計の製作に専念しているのだ。そのためオープンシリーズも年産12本のみで正式に発売される予定だ。
サイモン・ブレット氏をはじめとするチームが働くオフィス。
ブレット氏がGPHGに出場するかどうかも不明だ(応募するのにお金がかかり、次のステージに進むとさらにお金がかかる)。あるいは、独立したウォッチメーカーのためのルイ・ヴィトン ウォッチ プライズを目指すかもしれない。私見ではあるが、彼はどちらかの賞の最有力候補になると思う。
詳しくはサイモン・ブレット氏のInstagramをご覧ください。
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