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In-Depth 現代的なエスケープメントは、どのようにして今に至ったのか

「エスケープメントに興味をもつことは、時計の知識が円熟していることの証である」 —ジャック・フォースター


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機械式時計に使われている全ての部品の中で、恐らく大半の人が興味がないのは、エスケープメントであろう。これは、不思議なことではない。『禅とオートバイ修理技術』という本の中で、著者ロバート・M. パーシグが、BMWのオートバイを購入したばかりの友人と、ロードトリップをしている最中、オートバイのハンドルが緩むというシーンがある。パーシグは、ビール缶を切り取り、緩んだハンドルバーの下に詰めることで、不具合を直すことを提案する。しかし、その友人は、アルミ板が理想的な解決策であるのにも関わらず、彼の提案に腹を立てる。

パーシグは次のように書いている。

“驚いたことに、彼は私の提案した解決策がいかに賢いものかを全く理解しなかった。それどころか、あからさまに傲然な態度を取り始めたのだ。やがて、いろいろな言い訳を並べ出したが、彼の本当の気持ちに気づく前に、私はハンドルを直さないという結論に至った”

"私の知る限り、そのハンドルは今もまだ緩んでいる。そして、思い返せば、当時、彼は傷付いた気分になったのではないかと思っている。半世紀にも及ぶドイツの機械的スマートさを誇る、およそ200万円もする新車のBMW [友よ、この本は1974に書かれたものなので、20万ほどで買える最近のBMWバイクについては考えないでいただきたい] を、使い古しのビール缶で直そうと提案する度胸が、私にあったのだ!”

 私がこの逸話から学んだ大きな(多くの)収穫の1つは、機械式時計、特に金属工学やエスケープメントのデザインなど、コアとなる計時技術に多額の投資をするブランドが作る高価な時計を買うような人は、時計の仕組みを学ぶのに抵抗があるということだ。「抵抗がある」とまで言わないとしても、少なくとも「興味が無い」という表現は適切であると思う。なぜならば、彼らはメカニズムの詳細を知ることに、時計を所有する愉しみを見い出していないからだ。もちろんこれ自体に問題はない。多くの人々は、自分の車を最高に楽しみ、自動変速機がどのような機能するかを理解することなく、所有者としての誇りも躊躇なく抱いている。

職人に任せる: パテック フィリップの修復部門で作業する時計職人。

 さらに、そもそもメカニズムに対する興味というのは、機械的に何か手を加えられるという可能性がきっかけで生まれるもので、普通の人は自分の時計の内部をいじろうという衝動に駆られることはないのだ。1974年当時、つまり、パーシグが友人のオートバイのメンテナンスに対する無関心さを嘆いていた頃は、今よりも多くの人が自分でオートバイや車などの整備をしたが、それでも時計は時計職人に任せるのが一番だと考えられていた。

 このような理由から、時計のオーナーや愛好家は、時計学の技術的な分野(無味乾燥な分野ともいわれているらしい)、その中でも特に難解な分野だと思われがちなエスケープメントに関する知識と、ある程度の距離を置くようになったのだと思う。しかし、努力をすれば、エスケープメントに深い愉しみを感じることができる。なぜなら、エスケープメントの設計を支える原理は、物理学と力学の永久普遍的な原理と繋がっているからだ。ダイヤル下の暗闇の中で、エスケープメントが何をしているのかを理解すれば、2度と時計を以前と同じ目で見ることはないし、世界の見方さえ変わるかもしれない。
 一般に、奇跡とは、その特異性がゆえに「奇跡」と定義される。エスケープメントというテクノロジーは、逆に、普遍的であることを追求し、達成してきたといえる(歴史的にも、最も成功したエスケープメントのモデルは広く採用されてきた)。だが、それでもエスケープメントは奇跡的な存在だと思う。この事実に気付くことは、ウォッチメイキングが人々に最も民主的な形で提供する楽しみであると思う。それはなぜか? 時計を所有することなく、楽しめるからだ。

 現代的なエスケープメントを考察するにあたり、最も広く採用されているものだけをフォーカスしようと思う(この記事では、エスケープメントの全体的な歴史については触れない。だが、HODINKEE US チームのニック・マヌッソスが、全体的な歴史のまとめ記事を書いている。英文だが、ぜひ、ご確認いただきたい)。工業的に作られたエスケープメントは、どれも同じ基本的な問題を解決しようとしており、それらがどう似ているのか、またどう違うのかを理解することで、何が時計を時計たらしめるのかについて、新たな深い理解を得ることができる。


エスケープメント: 何をするためのものか?

基本に立ち返ろう。(あらゆる)機械式時計の中には、主ゼンマイ(あるいは動力ゼンマイ)があり、エネルギーを伝達する一連の歯車の一端に配置されている。主ゼンマイの入った香箱が、ヒゲゼンマイによって回転するように作られており、それは順番に2番車、3番車、および4番車を動かしている。4番車はエスケープメントの最初の段階であるガンギ車を動かし、ガンギ車と他のエスケープメントを構成する部品が一緒になってテンプへと伝えて動作させる(もしくは、時計職人が言うように、テンプに推進力を与える)。

 テンプはとても繊細だ。正確には、テンプとヒゲゼンマイと言うべきだろう。ヒゲゼンマイ抜きではテンプは無意味なのだから(そして、今、気が付いたが、その逆も然りだ)。振り子の例えを使うことで、テンプが何をするためのものなのかを、最も分かりやすく理解できると私は考えている。

 では、まずは静止した振り子を想像して欲しい。重りは真下にぶら下がっている。この状態を、重りは均衡点にある(equilibrium point)というが、世の中、釣り合いが取れているものが、全てそうであるように、この状態に面白味はない。放っておいても、永遠に同じ場所に留まる(もしくは、陽子崩壊する。どちらかが先に来るまでだ)。

理想的な重力振り子の簡略図(Wikipediaより抜粋)。もちろん、現実ではロッドに質量があり、摩擦のないピボットは空想の世界にしか存在しない。

 しかし、振り子をひと突きすれば、揺れ始める。1往復にどれだけ時間(周期)がかかるかは、振り子の長さのみに左右される。重りは、スイングのたびにその均衡点を通過する。重りがどこまで揺れるか(振れ幅)は、どれだけ強く重りが押されたかに左右される。しかし、重力がどれだけ強く重りを均衡点に向けて“引き戻す”かは、重りが均衡点からどれだけ離れた位置で“引き離された”かで決まり、「振り子の等時性」が働く。振り子の等時性とは、振り子の長さが一定の場合、周期は、重りの重量や振れ幅によらず、一定の性質を指す。これは、時計として機能するために作られた振動子に必要不可欠な特性だ。厳密に言うと、振り子は小さな振幅の揺れに対してのみ、等時性が働くのだが、この詳細を飛ばしても本記事の説明に足りる。そして、理論上、振り子はエネルギーを失うことがない限り、揺れ始めたら永遠に揺れ続ける。

初期の頃、時計に振り子を搭載する試みが行われたが、限られた成功に終わった。ヴァージエスケープメント付き振り子時計。1680年(英語版記事)。

 しかし、慎重な読者ならば、もちろんこの時点で、振り子は永遠に揺れないことにお気付きだろう。それはなぜか。簡単に言うと、摩擦のためである。振り子に働く摩擦は、2種類ある。1つは空気抵抗で、もう1つは振り子の支点に働く摩擦だ(ものすごく小さな力だが、例えば、振り子の支点が完璧に固定されていないために極わずかだが、エネルギーが消費される)。ただ、どちらの摩擦もほぼゼロにすることはできる。高精度な振り子時計のメーカーは、鋭く削られたクリスタルを用いた衝撃吸収機構に振り子を真空封入した容器に入れることで、摩擦を極限まで減らした。しかし、実現可能な完璧な解決策は存在しない。このような状況下でも、振り子は摩擦によって運動エネルギーが微少な熱エネルギーに変換され、徐々にエネルギーを失っていく。そのため、振り子を揺らし続けるためには、何度も押してあげる必要がある。

振り子とアンクルエスケープメントのアニメーション; Chetvorno, Wikipedia

 だが、ここで別の問題が発生する。振り子を押すと、その自然の振れに干渉してしまうのだ。そして、それが多少か、甚大かは、どれだけ強く押すかに左右される。振り子が均衡点ちょうどで推進力を与えることで、周期に影響を与えないようにするのが理想だ。しかし、実際には、物理的に振り子に推進力を与えることは、どのようにしても、エラーを生んでしまう。この問題は、時計を作る場合さらに深刻になる。振り子を振り続けなければならないだけでなく、機械的かつ精確に揺らさなければいけなくなる。つまり、振り子に推進力を与えると共に、輪列を規則正しく動かすための機構が必要となるが、このような機構は実在している。それがエスケープメントと呼ばれるものなのだ。

 アンクルエスケープメントは、このシンプルながらも素晴らしい機構の一例だ。上のアニメーションでは、3つの部品だけが示されている。アンクルと振り子は灰色で、ガンギ車は黄色だ。ガンギ車は回転するように作られており、滑車に取り付けられた重りか、主ゼンマイが入った香箱によって回転するといった具合だ。ガンギ車が回転すると、アンクルがロックと解除を繰り返し、ガンギ車の歯がアンクルのカーブがかった側面をスライドして、振り子を押す。既にこの美しさがお分かりいただけると思うが、ガンギ車の歯が1つ進み、 振り子が推進力を受ける、これが時計に必要な全てである。“エスケープメント”という名前はぴったりだ。振動するたびに、駆動している歯が1本ずつ“エスケープ(逃げる)”する。つまり、前進するのだ。

訳注;ガンギ車とは、ゼンマイの動力を輪列から受け、アンクルとかみ合うことでアンクルからテンプの刻むリズムを受け取り、規則正しい往復運動に変換するための歯車。

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完璧な振動を生み出す:理想のエスケープメントとは?

次に、テンプとヒゲゼンマイの話をしよう。時計には振り子はなく、テンプとヒゲゼンマイがある。ここで重要なポイントは、テンプが振り子、ヒゲゼンマイが重力の代わりになるということだ。テンプは、螺旋状のヒゲゼンマイのおかげで、均衡点に留まっている。テンプを押すことで、テンプが振動を始める。一方向に動くとヒゲゼンマイが締め付けられることで、弾力が働き、元の均衡点に戻ろうとし、もう一方にいけば、ヒゲゼンマイが広げられるので、また弾力が働き、元の均衡点に戻ろうとする。螺旋状のヒゲゼンマイの美しさは、理想的に言えば、重力のような働きをする点にある。ヒゲゼンマイの弾力は、与えられた押す力に比例するので、等時性が働くのである。

球状のヒゲゼンマイが付いた、珍しいテンプ。

 しかし、アンクルエスケープメントは、理想的なエスケープメントの定義に完全には当てはまらないことが分かる。理想的なエスケープメントとは(この分析の多くは、実用的な時計のエスケープメントの原理を明快に説明してくださった、ジョージ・ダニエルズの『Watchmaking(未訳)』のおかげであり、この本に勝る説明はないと思う。運動の完全な対称性を確保するために、時計では特に重要である)、推進力は平衡点で瞬時に、両方向に、そして毎回同じ力で加えられる。また、摩擦はエネルギーを散逸させ、振動子の動きに影響を与えるために存在しない。アンクルエスケープメントは両方を満たしておらず、ベストな解決策ではない(ただし、決して悪くもなく、良いパフォーマンスは期待できる)。
 さらに、アンクルの湾曲した突起と呼ばれるガンギ車の歯とパレットの滑り摩擦にはオイルが必要で、これは時間の経過と共に蒸発してしまう。オイルの粘度は温度によっても変化するので、理想的なエスケープメントはオイルフリーであることを意味する。時計の脱進機は自己始動式でなければならず、つまり、ある一定のエネルギーを主ゼンマイに溜め込むと、時計が自然に動き出すような設計になっていなければならないのである。そして、エスケープメントは安全性も高くなければならない。言い換えれば、時計に衝撃を与えられた際に、誤ってロックが解除されることがあってはならないということだ。そして、もちろん全体的に、推進力を与えたりする際に、エスケープメントは振動子の自然な調和運動を可能な限り妨げないようにしなければならない。以上の説明をまとめた、ちょっとしたチェックリストを用意した。

  • 推進力は、両方向共に、できるだけ均衡点に近い位置で与える
  • 最小限の摩擦で、理想的にはオイルなし
  • 自己始動式である
  • 安全性が高い
  • テンプの自然の運動にできるだけ干渉しない

 つまり、上記の理想的なエスケープメントの条件に可能な限り近づけてを設計するのは、非常に難易度が高い。エスケープメントのデザインは、時計学者たちが500年ほど前から取り組んできたもので多くの設計が考案されたが、選ばれたのはひと握りであり、その多くが悲しくも、静かに、動かぬ骸のように時計史に埋もれ、忘れ去られた。まるで、短い時間を太陽の下での過ごしたのち、散りゆく桜のように。このことを念頭に置いた上で、現代のエスケープメントの例をいくつか見てみよう。


選ばれし者:有名なレバーエスケープメント

現在お持ちの時計で、ダイヤルにオメガやロジャー・スミスと書かれていないものは、ほぼ100%、レバーエスケープメントを搭載しているはずだ。これにはいくつかの然るべき理由がある。ひとつには、単純に息が長いからだ。アンクルエスケープメントから派生したレバーエスケープメントは、1755年にトーマス・マッジによって発明されて以来、ほぼ同じような形で使われてきた。さまざまな構成のものがあるが、例えば、トゥールビヨンではサイドレバーが付いていることが多く、ルビーの爪がテンプの中心に垂直ではなく、放射状に並んでいる。だが、基本的な原理は300年近く前から変わらない。これは、レバーエスケープメントを採用した現代の時計、あの慎ましいセイコー5を買う場合においても、応用科学の歴史の中で、最も優秀な専門家たちによる3世紀以上に及ぶ研究開発の利益を得られることを意味する。これはとてつもなく素晴らしいことであり、現代の時計製造において、優れた精度と精密さが、当然のことのよう普及している理由でもある。

レバーウォッチのムーブメント。左から、主ゼンマイが納められた香箱、2番車、3番車、4番車、ガンギ車、レバー。このアニメーションは、元々懐中時計のムーブメントとして設計された、ETA 6497のもの。古典的な構造の時計では、時・分針を動かすために、2番車が1時間に1回、4番車が1分に1回転する。4番車がスモールセコンドと2番車を動かす。

 では、レバーエスケープメントを先ほどのチェックリストと照らし合わせてみるとどうだろう? 悪くはない。両方向に推進力を与えられるし、自己始動も可能だ。しかもレバーは安全性に優れている。推進力とルビーの爪がロックする面と、ガンギ車の歯の角度が、ちょうど良い具合にレバーの軸を弾いて押し付けるように働く。レバーが誤ってロック解除の状態になるには非常に大きな衝撃が必要で、これが、山頂から海の底まであらゆる種類の冒険をするための腕時計に、レバーエスケープメントが採用されている大きな要因となった。(余談だが、ドテピンは通常、調整可能だが、ドテピンが単純にムーブメントプレートの中の強固な壁である場合もある。これらのタイプは、ソリッドバンキング(solid banking)と呼ばれていて、ジュネーブ・シール規格水準のひとつにもなっている)

訳注:ドテピンとは、レバーが過度に動かないように配置されたピンのことを指す。

レバーエスケープメントの補足;左右の2つのドテピンに注目して欲しい。

ガンギ車の歯の圧力により、レバー本体がドテピンにしっかりと押し付けられている。アニメーションは Mario Frasca, Wikipediaより。

 では、なぜ、わざわざ新しいエスケープメントを開発しようとするのだろうか? レバーエスケープメントが完璧ではないからだ。まず、完全に左右対称に推進力が加えられないという問題がある(右のレバーアームの方が左よりも長いことにお気付きだろうか)。他のエスケープメントと同様、このレバーにもエスケープメントエラー(誤差)が発生する。エスケープメントの形状と他の面が相互に組み合わされ、誤差を発生させる傾向がある。この誤差は、レバーエスケープメント固有の特徴であり、この点は時計設計をする際によく考慮しなければならない。

 だが、最も手ごわい問題は、ガンギ車の歯とルビーの爪の間で発生する摩耗だ。これらの歯は宝石に沿って擦れているだが、これについては避けようがない。摩耗はそこまでひどい訳ではない(負荷に比例するが、機械式時計はかなり低い)が、ゼロとはいえない。2万8800振動/時で動く、現代のレバーエスケープメントウォッチでは、この摩耗は1秒間に8回発生する。これは、1年では2億5228万8千回に相当する。そして、5年後には12億6144万回...。つまり、オイルが必要となる。レバーにアキレス腱があるとすれば接地面にオイルが必要で、オイルは最高のものでも、しばらくすれば切れてしまうのだ。

並行した2つの輪列、エスケープメント、そしてテンプをもつツイン スイス レバー エスケープメントを搭載した2020年モデルのF.P.ジュルヌ クロノメーター・レゾナンス

 それでも、レバーエスケープメントは何度も試され、その実用性を証明した。考えてみて欲しい。地球上のほとんど全ての時計(一部の特殊な時計と、もちろん、後述するオメガは除く)は、レバーエスケープメントを使用している。シリコン製のアンクルやエスケープメントを備えた時計でも、基本的な原理は同じだ。それは、あなたの時計、そう、例えば、あなたが今年の子供の授業料の支払いを吹っ飛ばして購入したパテックの5711も、セイコー5と全く同じ基本メカニズムを使用しているのだ。 もちろん、全体的に、技巧に優れた工芸品と実用品という巨大な違いがある。しかし、数多のエスケープメントが何世紀に渡り試されているのにも関わらず、レバーエスケープメントが使われ続けていることは、この機構の驚くべき証明でもあり、唯一とは言えないまでも、何世紀にも渡り最も使われている機構であるのだ。


ロレックス:クロナジーとクロノメトリー

ロレックスとは不思議な存在だ。莫大な予算をもっていて、それはおそらく他のどのブランドよりも大きく、中でも特にムーブメントの研究開発に多額の資金をつぎ込んでいる。特許を取得したものの多くは、実際の製品として日の目を見ることはないが、基礎計時技術の改良に多くの時間と研究が費やされている。その一例がクロナジーエスケープメントだ。クロナジーエスケープメントは、基本的にスイスレバーをベースに、性能と効率を向上させるための改良を加えたものである。2015年に当時の新キャリバー、3255を搭載したデイデイト40mmに初めて導入された。

2015年のデイデイト40mmモデル。クロナジーエスケープメントを備えるCal.3255を搭載。

Cal.3255。

 さて、物事をより正確に表現するならば、これは新しいエスケープメントではない。しかし、レバーエスケープメントの改良が現在でも行われていることを示すものであり、そして、そのための研究がロレックスや他のブランドでも活発に行われていることを示している。クロナジーエスケープメントは、レバーの形状を改良してエネルギーをより効率的に伝達できるようにし、爪石のサイズを標準的なスイス製レバーに比べて半分に縮小した。ガンギ車はスケルトン化されており、慣性エネルギーの損失を抑える。

ロレックスのクロナジーエスケープメント。スケルトン化されたエスケープメントの歯、爪石の小型化、オフセットされたレバーの形状に注目。

 レバーとガンギ車は、磁場に対する脆弱性を軽減するため、ニッケル・リン合金で作られている。エスケープメントの形状で興味深いのは、レバーのガンギ車に対する角度だ。従来のレバーエスケープメントでは、レバーの中心線がガンギ車の軸から半径方向に直角になっていたが、クロナジーエスケープメントではその角度が少しずれている。ロレックスによれば、クロナジーエスケープメントは、標準的なレバーに比べて約15%の効率向上を実現しているらしい。チェックリストに照らし合わせてみると、基本的にスイスレバー同様の長所と短所はあるが、長所を伸ばし、短所を潰している。これは、レバーエスケープメントの基本的な健全性を証明し、その改良に取り組むことが、時計製造的にも非常に有効な戦略であることを示す。


大成功したオタク: コーアクシャルエスケープメント

コーアクシャルエスケープメントは、特殊相対性理論と同じく、思考実験の結果から生まれた。アインシュタインは、かの有名な質問をした:「もしあなたが光のビームの上に乗ったら世界はどのように見えるでしょうか?」と。一方で、ジョージ・ダニエルズは少し違う質問をした:「レバーエスケープメントとデテントエスケープメントの両方の利点を生かしつつ、どちらの弱点ももたないエスケープメントを設計するにはどうすればいいのでしょうか?」と。

 さて、これは厄介な問題だ。デテントエスケープメントはクロノメーターエスケープメントとも呼ばれ、マリンクロノメーターによく見られる。その歴史は長く複雑なため、解説はまた別の機会に譲るが、原理的には、ほぼ理想的なエスケープメントであることを理解していただければ十分だ。最も重要なことは、デテントエスケープメントには滑り摩擦がないということだ。ガンギ車は、推進力を直接テンプに伝える。つまり、オイルを塗る必要がないため、レバーエスケープメントに比べて長期的な速度安定性に優れている。

トーマス・アーンショーが設計したデテントエスケープメント。デテント(eからhまでの直線上に並んだ部品)は、dの停止爪を介して脱進機を所定の位置に保持する。bの振り石が付いたローラーが反時計回りに回転すると、デテントが押し下げられ、iの金のバネの先端を押して、aのガンギ車のロックが解除される。ガンギ車が時計回りに回転すると、1本の歯がcの振り石を押し、テンプに推進力を与える。テンプが時計回りに回転すると、テンプのロック解除爪が金のバネを持ち上げるが、デテントは解除されず、推進力は発生しない。Britten's Clocks and Watches and Their Repairからイラストを引用。

ジラール・ペルゴの1860年代のポケットウォッチに搭載された、ゴールド製ガンギ車が付いた、ピボット(旋回式)デテントエスケープメント。切りテンプの上に球状のヒゲゼンマイが乗っている。

 では、もしデテントエスケープメントが“スライスブレッド”に次ぐ最高のものだとしたら、なぜどの時計にもデテントエスケープメントが搭載されていないのか? ざっと見てみると、その大きな弱点が分かる。ガンギ車をはじくアンクルの爪が一枚しかないため、衝撃に弱く、ロックが解除されやすい。そのため、一般的な腕時計には不向きなのだ(現在、デテントを搭載した腕時計はあるが、少数だ)。ジョージ・ダニエルズは、レバーとデテントの最高の特性を組み合わせようとした最初の時計師ではないが、最終的には、いくつかの修正を加え大規模な生産に適応できるようなデザインした、という意味では最初の時計師だった。

訳注;スライスブレッド(食パンを好みの厚さにスライスしてパックする機械が画期的な発明と絶賛を浴びたことに由来し、画期的なもの、最高に素晴らしいものといった意味で使われる)

 現在、コーアクシャルエスケープメントの時計を得られるブランドは2つある。ひとつは、もちろんオメガで、1999年に最初のコーアクシャルエスケープメント(限定版)を発表して以来、新バージョンを作り続け、ロジャー・スミスは、独自の作りと継続的なアップデートを続けてきた。オメガの改良は、現代の材料科学的な解決策を取り入れているのに対し、ロジャー・スミスは、古典的な時計製造の材料と構造を重視したアプローチを続けている。どちらにも特有の良さがあり、独自の個性的な、そして賞賛に値するスキルと考え方を要としている点を私は強調したいと思う(とはいえ、もし金持ちの伯父が亡くなって、意図せず莫大な富を残してくれたら、あなたが“拘束角”と叫ぶよりも早く、ロジャーの時計を手にし、幸せな男、少なくとも不幸ではない男として死ねるだろう)。

Anniversary watch made by Roger Smith に記載された、コーアクシャルエスケープメントのアップ画像。ガンギ車の歯の上部と下部に注目。

 コーアクシャルエスケープメントの動きは、最初は非常に難解に見えるかもしれない。ただ、アニメーションでも分かりにくいと感じたら、それはあなただけではないと信じていただきたい。エスケープメントには2つのガンギ車(斜線状の歯が、小さめのものと大きめのもの)がある。両方とも同じ軸上にあるので、コーアクシャル(英語で同軸という意味)と呼ばれている。テンプ(下のアニメーションでは右上にある)が時計回りに回転すると、テンプローラーの上に乗った小さめの石がガンギ車のロックを解除し、同時に、大きい方の歯が、大きい方のテンプのインパルスジュエルピン(小さなルビー製のピン)を介してテンプに推進力を直接与える。

簡略化された、コーアクシャルエスケープメントの動き;Adithyamc Gaming, Wikipediaより引用。

 テンプが反時計回りに動くと、インパルスジュエルピンが再びガンギ車のロックを解除するが、今回は、斜線状の歯を持つ小さい方の石がレバーの中央の爪を押し、レバーが間接的にテンプに推進力を与える。興味深いことに、実際にアンクルに推進力を伝えるのは中央の爪だけで、レバーの外側にある2つの爪は、ガンギ車をロックするためだけにある。下の爪は、テンプの反時計回りのスイングでガンギ車をロックし、上の爪はテンプの時計回りのスイングでガンギ車をロックする。ご覧のように、文字通り半分はレバーエスケープメント、もう半分はクロノメーターエスケープメント、つまり、一方向の推進力はレバーを介して間接的に、もう一方向はガンギ車の歯を介して直接与えられる。

2018年のオメガ シーマスター ダイバー300Mコーアクシャルエスケープメントを搭載。

 一般的に、コーアクシャルの工業化の話の大枠はよく知られている。かなりの時間と資金を要したが、今日では、オメガの製品ラインナップのほとんど全て、つまり、1年間に生産される数十万本の時計に搭載されている。どうやらオメガは、ETAのCal.2892を改良した最初のバージョンで、片方の駆動面に非常に軽く油を塗り、衝突面には塗らなかったようだが、ウォルト・オデッツ(時計に関するオンラインプラットフォームとして知られるtimezone.comで、多くの投稿を残している作家の1人)が、2002年にエスケープメントを見たときには、特に重要な問題はないと感じたと述べている。

 コーアクシャルエスケープメントを前述のチェックリストと照らし合わせるとどうだろう? かなり成績優秀だ。オイルを必要とせず、推進力は両方向に与えられ(片方に直接、もう片方に間接的にとはいえ、それぞれの方向に送られるエネルギー量を一致させることは、エスケープメントを機能させるうえでの大きな課題だったではないかと思われる)、安全性にも優れていて、長期的な精度の安定性にも優れているはずだ。
 初期のバージョンにはいくつかの歯がゆい問題があったが(これはやむを得ない)、オメガは時間をかけて、これを解決した。もちろん、あなたが別のコーアクシャルを望むのならば、ジョージ・ダニエルズの哲学に最も忠実な、ロジャー・スミスがいる。時計学の観点から見た、コーアクシャルエスケープメントの唯一の欠点は、その複雑さだと思う。時計は遅かれ早かれ修理しなければならないことを考えれば、オイルフリーのエスケープメントを持つことは重要性が低いという議論ができるかもしれない。しかし、腕時計が、例えば、8年から10年、オーバーホールされるまで、安定性を保ったまま動くのならば、それは悪いことではない。


挑戦者:グランドセイコー ハイビート デュアルインパルス エスケープメント

このエスケープメントは、今回紹介する4つの中で最も新しく、今のところ、ひとつのキャリバー、ひとつの時計でしか存在しないため、暫定的なものと考えるべきだろう。また唯一のハイビートエスケープメントだ。全く新しいムーブメントであること、そして今後、グランドセイコーののハイビートキャリバーに搭載されるであろうことを考えると、もう少し詳しく見る価値があると思う。搭載ムーブメントはCal.9SA5で、60周年記念に発表されたSLGH002だ

 このエスケープメントをもっと詳しく見てみると、いくつかの興味深い特徴と、実用設計上の観点からではなくとも概念的に、レバーエスケープメントとコーアクシャルエスケープメント両方との関連点が見えてくる。

 エスケープメントは上の画像のようになっているが、コーアクシャルやレバーエスケープメントとも全く異なることがすぐにお分かりいただけると思う。エスケープメントは2方向に推進力を与える。1つは、ガンギ車の歯とアンクルの爪の間の滑り摩擦によって間接的に、そして、もう1つは、ガンギ車の歯がテンプローラー上の爪石に噛み合うことによって直接的に推進力を与える(この動作のアニメーションは、以前にムーブメントの解説したこちらの記事をご覧願いたい)。また、フリースプラング式のアジャスタブル マスバランス(慣性モーメント補正ネジ)と巻き上げ(ブレゲ)ヒゲゼンマイを採用しており、高振動でユニークな設計であることから、グランドセイコーはスイスの大手メーカーとの競争力をさらに高めようとする挑戦的な一歩を踏み出したといえる。

 前述のチェックリストと照らし合わせると、このエスケープメントは非常に有望に映る。自己始動式で(グランドセイコーではどれも同じ)、2方向に推進力を生み出す。コーアクシャルと異なる点は、潤滑油を使用していることだ。間接的な推進力は、ガンギ車の歯とアンクルの爪の間の擦り摩擦によって発生するため、給油が必要となる。しかし、このエスケープメントは全体的にスイスレバー式よりも効率的で、これから先のラインナップの中でどう展開していくのか注目したい。そのほかにも、MEMS(Micro Electro Mechanical Systems)で成形されたエスケープメントを搭載したものや、スプリングドライブがあるので、グランドセイコーはさまざまな技術を駆使した時計を提供しているといえる。


特殊系

上記の4タイプのエスケープメントには、それぞれに違いはあれど、1つの共通した特徴がある。それは、工業的規模で生産されているか、工業的規模での生産が可能であることが明確に意図されているものである、ということだ。しかし、より実験的で特殊なエスケープメントを触れずに話を終えられまい。これらはいずれも少数だが、探求し続けようとする気持ちが、現代の時計学の中で枯れていないことを証明している。新しいエスケープメント開発は、非常に高価でリスクが高いものだが、だからといって、ブランドの挑戦が止まるわけではない。

ユリス・ナルダンのアンクルエスケープメントを搭載した、アンカートゥールビヨン(2016)

ゼニス デファイ ラボに搭載された、ゼニス オシレーター;10万8000振動/時。

 包括的とは到底言えないが、20年前にフリークが発表されて以来、ユリス・ナルダンの幾多のエスケープメント、ゼニス デファイ インベンター、そして、パルミジャーニ・フルリエが一時開発を進めていた、ジェネクワンドエスケープメントなどが挙げられる。これらの多くは、シリコンの弾性特性を利用している。ブレゲのナチュラルエスケープメントもそのひとつで、カリ・ヴティライネン、ローラン・フェリエ、F.P.ジュルヌが製作したバージョンがある。フロッドシャム、ウルバン・ヤーゲンセン、クリストフ・クラーレなどのメーカーは、クロノメーターのデテントエスケープメントを腕時計に適応させた時計を製作してきた。
 このような実験的なエスケープメントやコンセプトウォッチの数は想像以上に多く、大々的に発表されることはあっても、大規模なシリーズ生産に結びつくことは稀だ。その間も、レバーエスケープメント以外のものを搭載した少数の量産モデルは、時計界に多大な関心を与え続けている。


将来

いろいろ述べたが、新素材を使ったり、形状に微調整を加えられているとはいえ、レバーエスケープメントはこの先もなかなか安泰とみられる。もしトーマス・マッジが未来を訪れ、彼のアイデアがどれだけの子孫を生んだかを知ったら、どう思うだろうか。現代のエスケープメントの物語は、一瞬のひらめき、何世紀にもわたる忍耐、そして驚くべき創造の物語である。時計製造というと、昔のようには作られていないと思いがちだが、現代のエスケープメントの進化を実際によく考えてみると、昔から優れたものだったと結論付けずにはいられない。

この記事のアニメーションを作成し、ウィキペディアに公開してくださった方々のご尽力に特に感謝したい。また、何年にも渡り、私に辛抱強く説明してくださった、多くの時計師や時計学者にもお礼申し上げたい。この記事の正しい情報は、全て彼らのおかげであり、誤りがあるとすれば、それは私のせいである。