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In-Depth ティソ ロックウォッチの予想外の影響

ティソの80年代の大問題を石器時代のソリューションが解決した。


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スイス時計業界は、伝統に支配されている。しばしば保守的すぎる批判されることもあるが、それは当然だと主張したい方もおられるだろう。しかし時折、割れ目を伝って、斬新なアイデアが入り込んでくることがある。そうした先見的プロジェクトは、時として業界全体が藁にもすがりたい思いの結果であることもあれば、単に、あまりにも優れた見逃せないアイデアだからという場合もある。1980年代半ばに発売された、スイスの花崗岩の塊から作られたティソのロックウォッチは、その両方を兼ね備えていた。

 今日の腕時計愛好家で、そもそもこの時計を知っていればの話ではあるが、ロックウォッチを革命的製品と考える人はいないだろう。客寄せ商品だとする人もいるかも知れず、それはあながち間違いではない。しかし私には、これまでずっとその型破りなところが面白いと感じられ、既成概念に捉われない素材を画期的に使用した点で、今日では評価に値すると考えている。ロックウォッチはまた、スイス時計業界が最も必要としていた時に鍵となる成功をもたらし、ティソが国際的存在感を立て直すことで、その後の数十年にわたる成功をブランドにもたらした。

 何年もそれとなく気になっていたのだが、最近、思い切ってヴィンテージもののティソ ロックウォッチを自分用に購入した。それは小さくて、風変わりで、何とも言えない魅力があり、価格は200ドル(約2万2000円)だった。そして、それはスイスの時計づくりの歴史の中で忘れられがちなひとコマへと私を繋ぎ、それを深く掘り下げる機会を与えてくれた。今回は、偉大な個性をもつ小さな石の時計、ティソ ロックウォッチの話を綴っていく。


苦境に陥る

 ティソは1976年に、過去最悪レベルの業績を記録した。無理もない。1973年のオイルショック以降、欧米の景気が低迷して株式市場が大暴落したからだ。それに加えて日本の新たな計時テクノロジー(いわゆるクォーツ革命)が、アナログウォッチを存亡の危機に陥れた。スイス時計産業のほとんどが、もはや危険な領域で事業運営している状況であった。

ロックウォッチは、様々な色や鉱脈の石を利用しているため、1つとして同じものはなかった。

 ティソは1976年末に事業を再編し、約100人の従業員と共に50年以上続けてきたムーブメントの製造を打ち切った。ティソの腕時計に使われるムーブメント部品の製造と仕上げは、長年の姉妹ブランドであるオメガへと移行した。ティソはその歴史の中で初めて、自社の時計製品に使用するムーブメントの生産をしなくなった。これはスイス時計業界の経営陣が打ち出した、業界再編というさらに大きな戦略の一環であった。

 その後の展開はご存じだろう。

 SSIH(1930年にオメガとの合併で設立されたティソの親会社)と、ASUAG(サーチナ、ハミルトン、ロンジン、ミドー、ラドーといったブランドを所有していた世界最大のムーブメントメーカー)が、1981年までに破産を宣言した。2年後、その2つのグループが合併し、続いてニコラス・G・ハイエック・シニア(Nicolas G. Hayek, Sr.)指揮の下で民間企業となった。1985年にはSMH(Société de Microélectronique et d'Horlogerie=マイクロ電子工学時計製造会社)と改名し、1998年にスウォッチ・グループとなった。

ニコラス・G・ハイエク・シニア(写真提供:ブレゲ)

 しかし、これはまだ先の話だ。

 我々がここで焦点を当てるのは、1980年代半ばのスイス時計業界の復活に重要な役割を果たしながらも過小評価される企業、ティソだ。スイス時計業界は1970年代末に低迷していたが、ティソは、その型破りなアイデアも要因のひとつとなり、続く80年代に素早く成功を収めた。そうしたアイデアの多くと同様、業界の重役たちが飲んで騒いで長い夜を過ごしていた際に閃いたものであった。

「石で時計を作るのはどうだろう?」


次なるスウォッチの探求

 1983年に発売されたプラスチックケースのスウォッチが、SSIHとASUAGとの新たな合弁会社にとって待望の勝利となった。しかし、スイスの景気はまだ直ぐには回復しなかった。それどころか世界は再び不況に見舞われ、腕時計の輸出量は、第二次世界大戦前の不況時レベルにまで落ち込んだ。ETA社のCEOであるエルンスト・トムケ(Ernst Thomke)博士とそのチームが、既に次の成功を模索していた。(エルンスト・トムケ博士は、ハイエックと並んでスウォッチ・グループ草創期の重要人物だ。ジョー・トンプソンがクォーツウォッチ製造について書いた卓素晴らしい記事の中で彼について触れている)

ある晩、同僚たちとたくさん飲んでいた時に、

我々は石の腕時計を作ることを決めたのだ!

– 『ティソ:150年の歴史 1853年~2003年』

 エステル・ファレット(Estelle Fallet)が広範囲にまとめた書籍『ティソ:150年の歴史 1853年~2003年(TISSOT: 150 YEARS OF HISTORY 1853-2003)』によると、ロックウォッチの誕生は、ETA、SMH、そしてヌーシャテル州にあるアスラブという研究所から重要人物が集まって実現した。トムケ、彫刻家兼顧問のピーター・クンツ(Peter Kunz)、そしてティソの取締役であるウルス・ヘフト(Urs Hecht)とアラン・スピネディ(Alain Spinedi)などである。

ロックウォッチは時を経てより大きなコレクションへと進化し、“自然の石”シリーズと呼ばれるようになった。

 スイスで出版されているフランス語の消費者週刊誌『リルストレ(L'Illustré)』の1986年版からファレットの書籍に転載された無名の言葉が、ロックウォッチの思いも寄らない誕生秘話を詳しく語っている。

 「ブランドを再生するために、我々は新たな製品を必要としていた。ある晩、同僚たちとたくさん飲んでいた時、我々は石の腕時計を作ることを決めたのだ! エルンスト・トムケの青い目は今でも笑っている。私がこのような石の腕時計を売るべきだとティソの人々に提案すると、みんなそれは絶対に冗談だ! と言った。もし君が真剣に言っているのなら、我々は話に乗ってそれを3000本売るよ……私は、少なくとも1万本だ、でなければ他のブランドに話を持ち掛ける……彼らは私が完全に狂っていると思ったに違いない……!」

 その後、スウォッチを1983年に世に出した二人のベテラン、ジャック・ミュラー(Jacques Müller)とエルマル・モック(Elmar Mock)が、自然石だけで作られる全く新しい初の腕時計を、具体的にどのように実現させるかの考案を任された。


いざ、行動開始

 ティソは、ただ単に古い石を使ったわけではない。スイス時計業界の偉大な伝統に則り、国内で調達した(少なくとも手始めは)。スイスアルプスのあるグラウビュンデン州、ティチーノ州、ヴァレー州で採掘された花崗岩を使ったロックウォッチのケースは、花崗岩の産地が異なること、そして自然石であるために色や模様が多様であることから、一つ一つが唯一無二であった。

ティソは、ロックウォッチのダイヤルをマッターホルンに重ね合わせた画像を使って、山から採掘して作った新たな腕時計を宣伝した。

 スウォッチは、1980年代の消費者が必ずしも毎日着用する1本の時計を求めているわけではないことを、証明したばかりであった。彼らは自分の個性を表現したり、特定の装いに合わせたりするためのユニークな複数の時計を求めていた。スウォッチは無数の美的バリエーションを提供し、時計を収集するというアイデアの主流を作った。そしてロックウォッチはそのアイデアを足掛かりとして、宣伝パンフレットで個性を謳った。「どのロックウォッチも、絶対に見間違えることのない完全なる唯一無二の一品です。指紋のように独特で、サインのように自分ならでは」と。

霜降り模様の花崗岩から、オーストラリア産のピンクのロードナイトまで、ロックウォッチは最終的に、スイスアルプスが起源というストーリーを超えて拡張していった。

 後にロックウォッチは、他にも様々な石や鉱物を使うようになり、翡翠、ブルーの縞メノウ、スカンジナビア半島の玄武岩、カラハリ砂漠のジャスパー、オーストラリアのピンクのロードナイト、ブラジルのアベンチュリンやブルーソーダライト、そしてスイス・ジュラ山脈の先史時代の石化サンゴなど、美的な変化に多様性を加えていった。最もよく売りに出され、目にされたロックウォッチは、ケースとダイヤルにグリーンやグレーの斑点模様が出ているもので、これは花崗岩を使っていることを示している。現在最も人気があるのは、翡翠でできたブラウンのモデル、ブルーの縞メノウモデル、そして石化サンゴのモデルだ。

レッドとイエローの針の組み合わせは、スイスアルプスの遊歩道標識に因んでいる。

 SMHの施設には、花崗岩を機械加工して腕時計ケースを作り出す設備はなかった。結局のところ、彼らは石工ではないため、約6ヵ月の期間と500万〜700万スイスフラン(約6億〜8億円)を投資し、その作業をするのに必要な機械と生産機能を備えた。そこにはそれらを稼働させる人員がまだ含まれていないため、ティソは1984年、最初の生産目標を達成するため、ル・ロックルの工場に新たに50の職を創出した。

石から腕時計へ。

花崗岩からロックウォッチ用の石片を切り出している。

完成したロックウォッチの文字盤ケースに針を付けている。

 そしてもっと重要なのが、ティソはロックウォッチをアメリカ市場へ再進出する手段として考えていたことだ。ティソのアメリカでの展開は10年近く空白となっていた。同社はロックウォッチのマーケティングに約2000万スイスフラン(約23億円)を注ぎ込み(下のようなテレビ広告も含め)、1985年にシカゴ、ボストン、アトランタを最初の市場として選択し、テスト販売を開始した。(これは、スウォッチが1983年にテキサスでテスト販売を開始した戦略を踏襲したものだ)。このやり方は、新製品は毎年開かれるバーゼルフェアで発表するという、スイス時計業界の常識を覆すものだった。アメリカでのスウォッチ発売時には、スイスのテレビ局スタッフが現地まで取材に派遣され、たちまちスイスやその周辺国で需要が沸き起こった。

 戦略は成功した。『リルストレ』誌は1985年に、次のような記事を掲載した。「ロックウォッチは既にアメリカでの成功をものにし、ティソの従業員たちは今や、シカゴ、ボストン、アトランタのテスト販売製品を供給するために、土曜日も返上して働いているほどだ」。翌年、ロックウォッチは『ヨーロッパスター』誌の表紙を飾った。

 アメリカでの発売時の価格は約200ドル(約2万2000円、スイスでは300スイスフラン)で、ロックウォッチは、直ちにティソにとっての世界的成功となった。1986年の末までに5万本以上が販売され、そしてそこから10年も立たない1994年には、80万本以上のロックウォッチが世界中の人々に愛用されるようになったと言われている。

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“自然が形成し、ティソが発掘する”

 今日、ロックウォッチを見てその時代の産物だと片付けてしまうことは簡単だが、そこにはいくつかの真に興味深いデザイン要素がうまく機能している。時針と分針はイエローとレッドでコントラストを成しているが、視認性に優れたこの選択は、この時計の起源がアルプスであることを示す。スイスアルプスの遊歩道の指標に同じ色調が使われているのだ。ケースは、23mm、30mm、33mmという3種のユニセックスサイズがあり、どれも完璧に滑らかな丸みを帯びた形に作られている。

ミドルサイズのこのロックウォッチは直径30mm。

 ご想像通り、ケースとダイヤルは一体だ。研磨して段差をつけたダイヤルとケースバックには、それぞれ針とクォーツムーブメントが収まっている。ダイヤルの保護にはサファイアガラスを使い、ドーム状の出っ張りはなく、ケースと同じ高さにしている。丸みのあるリューズは小さく、一部分がケースの中に入り込んでいる。

ストーンブレスレットのロックウォッチは、レザーストラップの兄弟モデルよりも希少性が高い。

 ロックウォッチのケースバックは、6カ所でネジ止めした1枚のステンレススティール製プレートだ。中には極めてオーソドックスなムーブメント、スイス製のETA Cal.976.001が入っており、レナタ製電池SR616SWで動く。SS製プレートは、ケースバックから延びたストラップ留めバーとの独自の一体構造を成しており、そこにSS製ピンバックル付きレザーストラップが付く。石のケースにかかる圧力や負荷を軽減させるための処置だ。ティソはまた、ロックウォッチとお揃いの石で作ったユニークなブレスレット仕様も製造しており、これは現在、レザーストラップのバージョンに比べて格段に見つけるのが難しい(上の写真で両モデルが見られる)。


香港でバズる

 マーケティングとリテール戦略の一環として、ティソは、石でできた大型版のティソ・クロックを作らせ、それを正規販売店のショーウィンドウに飾った。腕時計業界では極めてオーソドックスな戦略であると思われることだろう。しかしティソは、1986年11月に香港でロックウォッチの発売を開始するに当たり、それをさらに一歩進めた。

 ティソ正規店に配する石のクロックの制作に関わってきたフェリーチェ・ボッティネッリ(Felice Bottinelli)というアーティストが、5トンの厚板の花崗岩を持参して香港の地に降り立った(彼がそれで何をしようとしていたかは推測できるだろう)。ボッティネッリのウェブサイトにある新聞記事の切り抜きに、当時の状況が見事に要約されている。しかし、地元の香港メディアがその花崗岩にいったい何が起ころうとしているのか興味津々であったというのは、ロックウォッチを軽視していると言わざるを得ない(その一方で、SNSがなかった頃に我々は一体どうしていたのだろうと思わずにもいられない)。


ティソの回復

 ロックウォッチの成功により、ティソは、他にも消費者に訴えかける型破りなケース素材があるに違いないと確信した。そして1988年、マザー・オブ・パール製のケースとダイヤルをもつパールウォッチを発表。翌年には、喫煙用パイプによく使われる地中海産ブライヤーから作ったウッドウォッチを発売した。続いて、IWCや兄弟ブランドのオメガとラドーの企画による、セラミックケースの“セラテン”が1991年に発売された。この時代のティソの腕時計で最も希少なのが、ロックウォッチの丸いケースをソリッドな18金イエローゴールドにし、文字盤に“750”の純度検証刻印を施したラグジュアリー版のゴールドラッシュと呼ばれるものだ。全部をまとめて、これらの時計は“自然石”コレクションと呼ばれている。

1980年代末のパールウォッチの広告。

 ロックウォッチにより、ティソの名が国際的に再認識される一方で、SMHグループ内での影響力も高まった。SMHの取締役会は、ロックウォッチのアメリカ市場での早い成功に支えられ、ティソの売り上げ数は1985年末までに30%近く伸びたと発表した。これはスイス時計市場全体の16%のシェアを占めたことになる。比較すると2019年、ティソはスイス全ブランドの中で小売価格が第7位であったが、スイス腕時計市場全体に占めるシェアはわずか4%しかなかった。

ティソのウッドウォッチは、キックスターター上で現在もてはやされている素材使いを先取りしている。

セラミックケースのティソ“セラテン”は、今日でも新鮮に感じる大胆な外観だ。

 理解しておくべきは、1980年代半ばに、SMHの経営が岐路に立たされていたという事実だ。組織のヒエラルキーはまだ確立されておらず、従ってロックウォッチの国際的成功によりティソは、グループ内で、新たな戦略を練る際に重要な位置を占めることとなった。1987年にSMHは、グループ内の全てのブランドを海外市場ごとに一つにまとめ、それらを単一の流通ネットワークに統合させる決断を下した。

 今日、ティソはスイス時計業界で、販売数も売り上げも最大規模のメーカーのひとつとしてランク付けされており、世界数百ヵ国に販売拠点をもっている。しかし、もしロックウォッチがなければ、SMHグループ内の別のブランドがその位置を占めていたかも知れない。

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ティソ ロックウォッチを36年後に着けて実機レビュー

 天然石をケース素材に使用した結果のひとつとして、欠けたり割れたりしない限り、通常では何年経とうがロックウォッチの外観は損なわれないことになる。石は他の素材のような年の取り方をしない。つまり、長くもっていたものを1980年代の似通った腕時計に見られるプラスチック製や樹脂製のケースと比べてみたときに、ヴィンテージのロックウォッチの状態は損なわれていないということだ。

グリーンの花崗岩から作られたクラシックなロックウォッチ。

 それがまさしく、自分用に注文した後に私が気付いたことだ(Etsyで購入した!)。届いたロックウィッチは手触りが完璧に滑らかで、川で摩耗した小石の触感を想像していただければわかる。サイズはミドルサイズの直径30mmのもので、これは私がこれまで自分用に購入したうちで一番小さな腕時計となった。動く秒針もないため、ややもすると中にクォーツムーブメントが入っていることを忘れてしまいそうになる。

 ロックウォッチを着けるのは興味深い体験だ。薄くて軽いが、手首に説明しがたい存在感がある。意識すべきラグも、角度も、外装部品もない。ダイヤルには、一日のどこに自分がいるのかを意識させるアワーマーカーやミニッツマーカーさえない。これまで一緒に時を過ごしてきたほかのどの腕時計とも極端なまでに異なる、シンプルなソリッド感がある。超薄型ヴィンテージウォッチのように着けているのを忘れるようなことは決してないが、一方でまた、もっている他のどの時計でも気がつくとやっているような、手首の上でいじり回しているということも全くない。

手首に装着。

 ある種、ブレスレットのようでもあり、それも納得できる。ロックウォッチは、悪評の多い「ファッションウォッチ」なるものが登場した1980年代の生まれだ。

 では、ロックウォッチはファッションウォッチなのだろうか。そうだと思う。しかし独自の意味においてだ。

 ファッションウォッチは、非永久性をイメージさせる。プラスチックやアルミや、その他の安価なツルツルとした金属でできていることが多く、修理されるよりも捨てられてしまうのが一般的だ。ティソのロックウォッチは、間違いなく発売当時のトレンドであり、もし2021年にリリースされていたなら同様のインパクトは与えなかったであろう、時代の商品であった。しかし同時にそれは、外界から調達した自然素材でできており、腕時計業界にとってさらに意義深いのが、スイスの、時計産業以外の最も素晴らしい魅力のひとつであるアルプスを取り入れている点だ。時代のセンスと独特の個性をもつファッションウォッチ界の要素を取り入れながらも、ジャンルに付きものの使い捨てや束の間のものという感覚はない。


ロック・オブ・エイジズ

 1980年代のウォッチメイキングについて考えるとき、当然のこととして頭に浮かぶ2つのブランドがある。スウォッチとG-SHOCKだ。この両ブランドと時計は、同じ1983年に登場したが、コンセプトも、デザインも、アプローチの仕方もそれぞれ異なった。しかし、どちらも巧みなマーケティング、カラフルなデザイン、クォーツムーブメントを駆使し、手の届く価格帯であったために、瞬く間に世界の市場シェアを獲得した。

 ティソのロックウォッチが登場したのは、スウォッチとG-SHOCKの直後であったが、それら2つのブランドと同じ商業的品質で(ただし価格はやや高い)、似通った成功を収めた。しかし今日、G-SHOCKとスウォッチが繁栄を続ける一方で、ロックウォッチは1990年代半ばに生産を打ち切り、復活や復刻はティソの現代のカタログ上には見出せない。

 ロックウォッチが、スウォッチやG-SHOCK、他にもセイコーのダイバーズウォッチやシチズンのエコ・ドライブモデルのようなエントリーレベルのヒット商品と肩を並べる世界を想像するのは、少々望み過ぎといえるだろう。流行というものは常にそれぞれの成り行きに沿って進んで行くのであり、自然石でできた腕時計への欲求は、いつまでも同じ新鮮さで訴えかけてくるタイプのものではない。また、スウォッチもG-SHOCKも、市場での存在感とシェアを維持するために、何十年もかけて進化しなければならなかったというのも確かだ。そして、はっきり言ってしまえば、そもそも石は素早く変化していくものではない。

 もしかしたらティソは、ロックウォッチが2000年代初期に入って40mm超えの巨石へと進化し、オリジナルデザインのパロディーと化してしまう前に、慈悲深い安楽死を与えたのだ。しかし今日、ローター、ダイヤル、ストラップ、裏蓋などに予期せぬ素材を取り入れた限定版ウォッチの全てに、ロックウォッチの影響を感じることができる。

 私がどのウォッチのことを言っているか皆さんはお分かりだろう。そして、それらは、必ずしも素晴らしいとは言えなかったり、オリジナリティのあるものではなかったりする。

 しかしロックウォッチは、そのどちらも兼ね備えていたのだ。