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Adventure Time 私が高級登山用品をボロ時計に買い換えた理由

「価値」とは、ときに金銭的な価値以上のものを意味する。

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収集癖は、進化生物学的な観点から見ると、非常に理にかなっている。人間が生きていくためには、衣食住が必要だ。それらがなければ、私たちは存在し得ないのである。十分なものを得ようとする欲求は、この地球上で共に暮らすほとんどすべての種に深く根付いている。ナキウサギのような無尾の高山性げっ歯動物は、ユニークな鳴き声をあげながら、冬に必要な食料を集めなければならない。このような動物の習慣は、あまりにも根付いているため、私たちは寓話として、子どもたちに長期的な思考を促すための比喩として教えられてきた。早起きは三文の徳。採集は、繁殖のための避けられない原動力である。

 もちろん、私たち人類がこの惑星を手なずけて以来、何を(そしてなぜ)収集するかは、生存の問題というより、嗜好の問題だ。それはしばしば、物質的な獲得と消費を中心に展開される。経済的な安定のために収集する人もいれば(例えば株式)、自尊心を高めるために収集する人もいる。物々交換、つまり余剰と必要を交換することは、我々の経済システムの基礎である。野球カード、切手、スニーカー、レコード、時計、これらは私たちが生存に必要とするものではない。しかし、私たちはそれらを欲しているのだ。そして、人間の構造上、その欲はしばしば必要なもののようにも感じられる。

A collection of watches in a red-lined boxed

 私自身、収集することに大きな喜びを感じており、行った場所や出会った人々との思い出が強く残るものを中心に集めるようにしている。その瞬間を思い出すことが、私の幸せなのだ。

 ある意味、私はコレクターとして人生をスタートした。子供の頃は、小さなおもちゃの車を持っていた。本物の車は大きく、危険で、大人の領域だった。おもちゃの車はカーペットの道を進み、私の想像のなかの目的地へ走らせることができた。エンジンの音さえすればいいのだ。今、私の家の周辺には、小さな自動車が残っている。砂場の代わりになった庭からは、息子たちが遊んだおもちゃが定期的に出てくるのである。

 大人になってからは、祖父母や友人との手紙は、緊急時に火をおこすことができるような紙の郵便だった。その手紙には切手がついていて、私は数年間、熱心な切手収集家であった。1918年に発行された24セント切手「逆さまジェニー」は、100枚が逆さまの飛行機で印刷されており、とても魅力的だった。それを所有することは、我が家には到底無理な話だったが、私は小さな本に、浸したり押したり乾燥させたりした切手を詰め込んで、大切にしていた。

 同じ頃、母方の祖父から万年筆が贈られた。書き方が強調されるペンのようで、わざわざ文字を書く能力は必要なスキルだが、14歳の私には向いていなかった。私のペンへの興味は、10年ものあいだ眠っていた。カリグラフィーペンを手にするまでは。

 今はペンも集めている。思い出と、手に馴染む質感が大好きだ。

A white dial watch on a wrist

 そして、そう。私は時計も集めている。HODINKEEの読者は、1968年のピアジェと1997年のシャフハウゼンの違いを、私がヒマラヤの巨人であるジャンヌとチャンガバンの違いを理解するのと同じように、見分けることができるだろうと思う。時計に関して言えば、私は機能性に引かれる。そして、時計は男性がファッション中毒(fashion victims)にならずに身につけられる数少ないアクセサリーのひとつであると理解している。いや、もっと深いレベルで、私の時間の捉え方を物語っているのだ。

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 前回のコラムで、私が初めて買った腕時計、テキサス・インスツルメンツの501について調べた。その時計を振り返ることで、私は昔の自分、そして今の自分を知ることができた。すべての時計には、何かしらのストーリーがあるのではないだろうか。たとえそれが、自分以外の誰かにとっては何の意味もないものであっても。私はそう思っている。

 時計を持って思い出を振り返ることができれば、その時計自体に価値が生まれると思うのだ。私にとって価値とは主観的なものであり、何を大切にするかは人それぞれだ。金銭的な価値というのは、おそらく最も興味のないことだ。

A man holds a watch in his two hands

 1993年、キルギスの天山山脈で開催されたスピードクライミングの国際大会に招待されたときのことだ。故アレックス・ロウと私は、アメリカ代表として標高7010mのハン=テングリ山に登った。山の名前は、直訳すると "空の王"だ。大理石の急斜面が、地球上でもっとも美しい山のひとつを生みしている。このイベントは、ソビエト時代の登山を思い起こさせるものだった。スノー・レオパード賞は、この峰をはじめ4つの7000m峰に登頂することが条件とされていた。ソ連時代のアルプス登山は、規制が厳しかった。私が経験したような個人遠征、つまりヒマラヤに行き、目当ての山に登り短期バイトで資金を調達するような考え方は、ソ連の一般登山家には存在しなかったのだ。中央集権的な経済と国家主導のスポーツのもとでは、登山家はこのような体系的なコンペティションで吟味されることになる。ベースキャンプから山頂まで3000mを登り、エイドステーションや固定ロープで誘惑されるのだ。

 スタートはラテラルモレーン沿いのトロットで始まり、左にジョギングして標準ルートを脅かすアイスフォールに入った。尾根に出ると、残り1000mはコンパクトな大理石の上だ。エイドステーションは、この季節に設置された小さな棚からかき出された風雨にさらされるテントで、午後のスコールで溶けては再凍結していた。運がよければ、ボランティアがストーブを焚いて、お茶や豚の角煮、塩ゆでしたジャガイモを差し入れてくれる。鉄のカーテンの向こう側で暮らす東欧諸国の登山家たちが成功したのは、この食生活がヒントになっていたのかもしれない。あるいは、「あまりに空腹だと噛む前に飲んでしまう」という、アルピニストが困難な山に挑む際の公理を示すものだったのかもしれない。結局、フィックスロープは赤いパラシュート・コードのスプール(巻き取る部分)になったが、頂上への道しるべとなるパンくず程度にしかならなかった。

Two watches on a brick

 高所作業で靴ひもに命を預けるのは、意味がわからない。しかし、人生における最高の経験は、理屈を抜きにして、何かおかしなアイデアに真っ向から取り組んだときに得られるものなのだ。

 アレックスと私は素晴らしい経験をした。彼は10時48分頃に1位を取り、私は2位を取り、ちょうど12時間ほど経ったときだった。時間は体験のスタンプに過ぎない。今でもゾワッとするのは、山頂付近で仲間の登山者が足場を失い、滑り落ちてきたときのこと。一瞬の判断で、加速度的に落下していく前に手を伸ばし、受け止めることができたのだ。この瞬間、このタイミングが生死を左右した。

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 今思い出すと恐ろしい。でも、確かに記憶は深く刻まれている。

 遠征後、キルギス共和国の首都ビシュケクに泊まり込み、周辺を登山した。カウチサーフィンをしたり(一般家庭のベッドやソファなどを寝床として借りること)、登山をしたり、トマトのスライス(晩夏の名物で、塩をふってある)をチェーサーにウォッカを飲んだり、チェスをしたりしているうちに、物々交換に行き着いた。ホストは学校の教師で、ペレストロイカが最も打撃を受けた職業である。ペレストロイカとは、「建て直し」と訳されるが、ソ連帝国の崩壊を意味する言葉である。教師という職業柄、売り払えるような財産はなく、インフレを考慮すると、月々の収入に娯楽を楽しむ余裕はない。

 しかし、彼は時計を持っていた。そして、私は登山用具を持っていた。

A black dial watch on a wrist

 ずっと山を登っていると、機材会社から機材が支給されるというメリットがあった。当時はまだソーシャルメディアが普及する前で、誰も「インフルエンサー」を仕事だとは思っていなかった。しかし、数枚の写真と引き換えに、レインコート、寝袋、テントなどを提供してもらえたのだ。東欧諸国のクライミング・パートナーたちは、産業用から転用したさまざまなアウターウェアを身にまとっていたからだ。チタン製のクライミングギアは、はるか彼方の潜水艦工場で製造されたものだった。冷戦時代の潜水艦工場の機械工たちが、チタンを使ってハーケンやアイススクリューを作ったというだけで、そのアイテムはより一層クールなものになった。そして、かっこいいということは、コレクションの第一歩なのだ。

 私の滞在先の教師は、カリフォルニアから持ってきたピカピカの道具をみて、自分の登山道具をアップグレードすることに余念がなかった。物々交換は公平に行われた。友人たちは安全で山を体験できる道具を見つけ、私はソ連のスポーツ番組から得た装身具とふたつの腕時計を手に入れたのである。ひとつは動かないソ連製の時計で、もうひとつは出所不明の「ブライトリング」だった。私たちは時計について十分な知識があったため、偽物を見分けることができ、二人で笑いながら物々交換をした。私はザ・ノースフェイスのマウンテンライト・ジャケット、ビブス、寝袋、VE25テント、そして数個のワイルドカントリー・カムを「5000ドルの時計」と交換した。

 金銭的な面では、確かに騙された。しかし、新しくできた友人が私の古いギアを使って山で体験したことは、幸福を生んだのも事実だ。彼の手伝いをすることは、私の精神的にもよいことだった。そして、そのふたつの時計は、今でも私のコレクションの一部であり、お下がりのシガーボックスのなかで、クラウン・ロイヤルのフリースバッグに包まれて佇んでいる。どちらも28年前に時を止めたものだ。この探検の思い出が、私にとっての時計なのだ。今、この時計を手にすると、1993年の夏を思い出す。このような思いが、私たちがコレクションをする本当の理由なのかもしれない。

コンラッド・アンカー(Conrad Anker)氏は、南極からザイオンまでの山々を生涯にわたって登り続けた、世界で最も輝かしい登山家のひとり。26年間ザ・ノースフェイスのアスリートチームを率い、1999年には『The Lost Explorer』を共著、2015年にはドキュメンタリー映画『Meru/メルー』を主演。モンタナ州在住。過去、HODINKEEに掲載した彼のストーリーはこちらから。

Photos by Mery Donald