trophy slideshow-left slideshow-right chevron-right chevron-light chevron-light play play-outline external-arrow pointer hodinkee-shop hodinkee-shop share-arrow share show-more-arrow watch101-hotspot instagram nav dropdown-arrow full-article-view read-more-arrow close close email facebook h image-centric-view newletter-icon pinterest search-light search thumbnail-view twitter view-image checkmark triangle-down chevron-right-circle chevron-right-circle-white lock shop live events conversation watch plus plus-circle camera comments download x heart comment default-watch-avatar overflow check-circle right-white right-black comment-bubble instagram speech-bubble shopping-bag

盗まれた亡き父の形見の腕時計と父の面影を探して

私の家宝がバーで盗まれ、その時計を、そして父自身を探しに行った。

ADVERTISEMENT

私の父は、シカゴのサウス・サイドで刑事事件弁護士をしていました。父はかなり有名になっていたので、亡くなったあとも知らないと思っていた人たちから父の話を聞くことがありました。例えば、ある夏に仕事で一緒になった屋根葺き職人、私の担当医、数え切れないほどの企業経営者、そしてもちろん家族や友人たち。

 父は、もう一人のパートナーと一緒に経営していた会社で、仕事も順調にこなしていました。そして、私が生まれて2年後の1988年、彼は新品のイエローゴールドのロレックス デイデイトRef. 18038を購入しました。

 これは時代を象徴するような時計(「エディ・マーフィのロレックス 18KYGのデイデイト(1987年)」)で、父がどこにでも身につけていたのを覚えています。

1989年、ニューメキシコでの家族旅行でも父はこの時計をつけていた。彼は左利きでした。

 父は3本の時計をコレクションしていて、どれも80年代らしいものでしたが(コンビのレイモンド・ウェイルなど)、ロレックスはそのなかでも王者のような存在でした。とはいえ、風防の12時と6時30分位置の傷からもわかるように、彼はこの時計をラフに使っていました。

私が父の時計を初めて身につけたときの様子。

 私と同じように、父もモノが好きな人でした。しかし、父の喜びは、良いものを所有しているという名声などではなく、他の人と共有したり、経験したりすることでした。

 父が新車を飛ばしてドライブに連れて行ってくれたこと、90年代における大画面で映画を見たこと、夏はジェットスキー、冬はスキーやスノーボードをしたこと……沢山の思い出を今でも覚えています。それに毎年、家族をスキー旅行に連れて行ってくれました。この経験は決して忘れることはありませんし、それ以来、私にとっての伝統となっています(コロナウイルスのパンデミックになるまでは)。

 1998年に父はレベルアップすることを決意しました。友人たちとブリティッシュコロンビア州のレベルストークへのヘリスキー旅行を予約したのです。ヘリスキーは、ヘリコプターで山頂まで連れて行ってもらい、そこからスキーで滑り降りる爽快で危険なアクティビティのこと。山頂にはリフトや滑走路はなく、他の人の足跡を見つけることもできません。腰までの深さのパウダースノーが広がっているだけ。つまり、スキーヤーやスノーボーダーにとっては夢のような場所なのです。

 1990年代は、スノーボードの黎明期でした。アーリーアダプターだった父は、技術的にはまだまだ未熟で、改良の余地がありましたが、反骨精神を持ち続け、経験を重ねていきました。スキーヤーたちのなかで、たった一人スノーボードで滑っていたのです。

1998年、ブリティッシュコロンビア州レベルストークでの父。

 旅の最終日、比較的平坦で深いセクションをスノーボードで滑っていた彼は、ツリーホールと呼ばれる木の幹の周りにできた空洞にボードごと突っ込んでしまいました。これは、木の葉のために雪があまり積もらない木の幹の周りにできる空洞のことで、かなりの深さができることがあり、父のように顔から落ちてしまうと特に危険です。ガイドと彼のパートナーが全力で蘇生を試みましたが、遅すぎました。

 言うまでもなく、この経験は11歳の子供だった私にとても大きな変化をもたらしました。父のすべてがそこで止まり、混乱、痛み、怒りが網の目のように広がって、私はそれを今日まで乗り越えてきました。私を形成する出来事です。幼い頃に親を亡くしたことのある人は、それがもたらす困難さを知っています。父親を亡くされた方々に、哀悼の意を表します。多くの人にとって父の日はおめでたい日ですが、私たちにとってはつらいことを思い出して傷つく日なのです。


あの夜

 2014年に時間を進めましょう。28歳になった私は、これまでのキャリアを一新して、大好きな紳士服業界に進むことを決意たのです。2010年に設立されて以来、私が夢中になっていた小さな紳士服店「アーモリー(The Armoury)」のニューヨーク支店の立ち上げを手伝う仕事に就きました。夢のような仕事です。

 父はどう思うだろうか。服飾デザイナーであり、起業家でもあった父は、きっと誇りに思っているだろうと思います。母と兄弟に、1998年以来、貸金庫に保管されていたロレックスを私が持って行ってもいいかどうか尋ねました。彼らは同意してくれただけでなく、私の家族や友人のほとんどが出席していた開店の夜に時計を手渡してくれたのです。本当に特別な時間になりました。

時計をプレゼントされた日の夜。 Image: Chris Fenimore

 所有者になるというのは、大きなことでした。この時計は、私や家族にとって、単なる機械的なものではありません。それは私の父、皆が懐かしむ人を表すものです。最初の数ヵ月間は、この時計を身につけることをためらってしまい、安全だと分かる状況でしか身につけられませんでした。その上、28歳で金無垢のデイデイトを身につけるのはちょっと派手な気がしたので、ブレスレットを外して、HODINKEE Shopで購入したスナッフスエードのストラップをつけました。

 数ヵ月間、私はこの時計を惜しみなく身につけ、だんだんと慣れていきました。6月のある日、大学時代の友人たちが仕事でニューヨークを訪れていた夜のこと。5人で集まって食事やお酒を楽しもうということになりました。私はこの時計を身につけていましたが、彼らに会うときにもあえて外さずに時計を着けていくことにしました。

新しいHODINKEEのストラップをつけた時計。

 その夜は、トライベッカの小さなバーで遅くまで飲んでいました。あるとき、見知らぬ人物がバーで私に近づき、私が知らないうちに、時計のストラップのピンとバックルの留め金を外しました。次に私が手首を動かすと、時計は床に落ち、しばらくして、彼は光る金色のケースを拾うために屈みます。

 それから30分ほど経ち、私は自分の時計がなくなっていることに気付いて大慌て。私が大騒ぎしたので、バーは完全にロックダウンされました。照明が点き、ドアは閉められ、全員が金曜日の夜12時33分に床を探しました。でも誰も何も見つけられませんでした。警察に電話して、私が何が起こったのかをヒステリックに話し、その夜は終わったのです。

 時計がなくなっていることに気付いたとき、私の心は沈みました。どうしてこんなに不注意だったのだろう。家族は私を信頼してくれていたのに。友人たちは全力で助けてくれましたが、私は無念でなりませんでした。その夜は、私が大人になってから丸一日寝坊した数少ない機会の一つです。これから数ヵ月のあいだにも、そんなことが何度かあるかもしれない、そう思いました。


探索

 次の日からは、できるだけ多くの情報を集めることと、家族に事実を伝えることという、2つの困難ともいえる作業を行いました。

 私の母と兄弟は、当然ながら動揺していましたが、最終的には協力してくれました。彼らは私に、これは単なるモノだと言いました。シンボルなのだと。時計自体は本当に重要なものではないのです。しかし、私はこのことを忘れることができず、絶対に取り返したいと思いました。

 GoogleとeBayで時計に関連した思いつく限りのロレックスの用語で通知設定をしました。ロレックス プレジデント、ロレックス 18038、ロレックス デイデイトなど、数え上げればきりがありません。毎日、30分から2時間ほどかけて新しいリストやウェブサイトをチェックしました。

 また、新しい監視カメラを導入したばかりの例のバーも訪れました。驚いたことに、彼らはすでに事件当夜のファイルを取り出して、カメラに映っていた怪しい人物を特定してくれていました。

 私が帰る前に、その夜の総支配人とバーテンダーが、ベストを着た男性が事件の夜に不審な行動をしていたことを話してくれたのです。彼女は、クレジットカードから彼の名前を書き留めており、すでに警察にも伝えていました。本当に感謝しています。

 私はそれから1週間、ビデオ映像に目を通し、あの夜の出来事を1秒単位で示す詳細な概要を作成しました。

3) 私が飲み物を取ろうと左手をバーカウンターに持っていった瞬間、男は私の真後ろに手を伸ばした: 00:08:46 (カメラ2、4、7)。彼は私をかすめたように見えるが、おそらく私の腕時計のストラップの突起を外すためだろう...。

フレームの左上で私の後ろでうろうろしているのが、怪しい男性。

同じ瞬間、画面の右下にいるのが私。

6) 腕時計が最後に確認されたのは 00:09:07 (カメラ4)...

画面右下に腕時計を身につけている私。

13) 00:09:38~00:09:43の間、男性は私たちのグループのすぐ近くにいて、うろついたり、地面を見たり、前かがみになったり、足を蹴ったりしている。これは時計が最後に撮影された時だと思われる。カメラ2、4、5、7、12参照。

27) 男は右手に金のロレックスを手に持っており、カメラ4の00:14:01(赤い服の紳士の頭のすぐ右)と00:14:10にちょうど金色に輝いているのが分かる…。

フレーム中央右に時計を手にする男性(ベスト姿)。

30)00:33:07(カメラ4)に右手で左手首を掻き、00:33:16に時計がなくなっていることに気づく...。

ビデオの右下で、時計が手首にないことに気づいて腕を掴んでいる私の姿が映っている。

 全部で35箇所、28分11秒の動画を解説しました。

 私はこの調査結果を、被害届が出された第一分署に持ち込みました。約1ヵ月のあいだ、警察署に通い続けて刑事課に話を聞きに行った結果、私の粘りが実を結びます。そして、20分間の証言と証拠の提示を求められたのです。刑事は、私の時計を盗んだのは間違いなくあの男だと認め、彼の情報を得るためにバーを訪問することを約束してくれました。

 数週間後、バーに行ってみると、刑事がその男のことを聞きに来たことが確認できました。しかし、そこから先の捜査は頓挫してしまうのです。何百万人もの人々が暮らすこの街では、特定の事件が優先され、盗まれたロレックスはその対象にはなりませんでした。

 何週間もかけて、時計が盗まれた証拠ビデオや盗んだ男の情報を集めても、まだ時計の発見には至らない。しかし、毎日のようにメールボックスには、捜索を続けるためのリマインダーが届きつづけていました。毎朝、GoogleとeBayの通知が情けない音で鳴り響きます。


大チャンス

 2014年9月、事件から約3ヵ月半が経過し、偶然にも父の誕生日の週となりました。私はもう探すのを諦めようとしていて、自分の失敗を毎日思い知らされることにもうんざりしていました。次の週に見つからなければ、アラートを削除してもう次の段階に進もうと自分に言い聞かせていました。

 そして、9月18日(木)、eBayの出品リストが表示されました。

 「スナッフスエードのストラップ…」と思いました。「風防を見てみよう。なんてこった12時と6時半に傷があるじゃないか…」

 「ストラップを確認しろ...HODINKEEのストラップだぞ...ステッチが同じだし、金メッキの尾錠が付いている...」 と頭の中で繰り返しました。「これは私の時計だ」

 万が一、私が疑われたときのために、親しい友人から出品者にメッセージを送ってもらいました。このディーラーと盗んだ人物とつながっている可能性が低いとはいえ、チャンスを逃したくなかったのです。

 反応はなし。

 翌日の午前11時にその時計を購入。

 取引を確認した直後、出品者から「この時計は委託品なので、いかなる理由でも返品できません」というメッセージが届きました。私はサクッと答えました。「問題ありません、手に入れるのが楽しみです」

 9月24日、時計が発送されたとの連絡が入ります。その1週間後に荷物が届きました。ようやく手元に来たときには、箱を開ける手が震えていました。やっとの思いで開けると、風防に見覚えのある傷がついています。ストラップを外して、ケースの側面にあるシリアルナンバーを確認しました。

 一致したのです。

 私は泣きながら母と兄弟たちに電話をかけました。誰も信じられませんでした―いや誰が信じられたでしょうか。私も、その時計を手にしているのが、非現実的なことのように思えました。時計はボロボロで、ラグの部分には少し傷が増えてましたが、父の存在を時計の中に感じました。元の場所に戻ったのです。もう手放すことはないでしょう。


再会

 2018年1月、私と兄弟は巡礼をすることにしました。父の旅の20周年を記念して、20年前に父が行ったのと同じ旅に出て、父の足跡をたどることにしたのです。この経験は、カタルシスと恐怖の両方をもたらすと言っても過言ではありません。旅のあいだ中、私の心は死の恐怖と純粋な高揚感のはざまを行き来していました。空と地面を隔てるものが何もない深雪の中でスノーボードやスキーをしたことがある人なら、私が言っていることがお分かりになると思います。まるで無重力状態のように感じることがあるのです。最も親しい仲間であり、この20年間の私の気持ちを本当に理解してくれる唯一の存在である兄弟たちと一緒にこの体験ができたことは、さらに特別なものになりました。

旅の初日、兄弟と一緒に写る私(中央)。

 私たちは同じ時期に同じロッジに泊まり、父が旅をしていたときと同じ人たちに会いました。誰も彼も素晴らしい人たちで、父の話を語り、私たちがそこにいることの興奮と痛みを分かち合ってくれます。

レべルストークのバーに置かれたプレート。

 初日、父を木の上から引き上げてくれたガイドが、私たちを呼び止めました「ついて来て」。私は弟たちを引き連れて森のなかをスノーボードで下っていきました。あとになって、彼は世界で最も有名なガイドスキーヤーの1人で、年間200日以上もスキーをしている(冬に合わせて半球を変えている)ことが分かりました。彼は私たちを、父が実際に落ちたと思われる木の上に連れて行きます。信じられませんでした。

 この旅のあいだ、私は胸ポケットに父の遺品を少しずつ入れてきました。23年間、私の枕元に置いてあった父の写真、今日も持ち歩いている父の財布、ネクタイ、そしてロレックス。私たちは、ガイドが何が起こったのかを正確に語るのを聞きました。あの日、父に何が起こったのか、詳しく聞いたのは初めてでした。ガイドの説明が終わると、私と兄弟は父のネクタイを木に吊るしました。

 信じられないほどの解放感がありました。物理的な物は本当にただの物にすぎないことを思い出させてくれたのです。故人と共にあるというのは、物理的なものではなく、その人との思い出や経験を通してです。物はその経験を語るためにあるのです。私は、時計を失ったときの痛みを思い出し、そしてそれから解放されました。


降り注ぐ光

 旅の半分が過ぎた1月23日は、ちょうど父の20年目の命日でした。早朝に目を覚ますと、60cm近くも新雪が積もっていました。天気予報は芳しく無く、山に登れるかどうかわからない状態。それでもスタッフ全員がこの日の意義を理解し、必ず実現させようとしていました。

 空は暗い灰色で、不吉な雰囲気が立ち込めます。皆が緊張しているのが伝わってきました。山に登るための唯一の方法は、山頂の天候が回復するのを祈ってただ待つことだけ。ヘリスキーを行う標高は、酸素が不足し木の成長が阻害される山の境界線である森林限界を超えることが多いのです。このため雪と岩で構成された広大な大地が広がり、スノースポーツの愛好家たちにとっては海のような場所になります。一方で雪崩が発生しやすい場所でもあるため、危険度も高いのです。

 ヘリコプターでの移動は荒々しく、恐ろしく、全旅程の中で最も激しいものでした。パイロットが着陸しようとしたとき、雪が動いて、ヘリコプターが連動して落ちそうになったほど。パイロットは体勢を整えて上空を一周してみせました。横では父の昔のスキー仲間で、亡くなったときに一緒にいた方が、膝に手を置いて黙っていました。

 ヘリを降りると、目の前には真っ白なパウダースノーの素晴らしい景色が広がっていました。冬の幻想的な光景です。目の前の空から、雪や雲に反射した光が降り注いでいました。垂直に降り注ぐ光からは、何か目的があり、意図的で、紛れもない何かを感じました。何十年もスノーボードをしてきましたが、こんな光景は見たことがありません。

 父からの控えめなメッセージのようにも感じました。「あれは俺の息子たちだ!」

Image: Henry Africano

 父さん、父の日おめでとう! 時計を見つけたよ。