驚くべき事実を打ち明けよう(自分でも驚いている)。今現在、私はデイトナ(モダン、ヴィンテージ)よりもカレラ(モダン、ヴィンテージ)を多く所有しているということを。だから、この話が舞い込んできたとき、“ちょっと待てよ、僕はカレラが大好きだよな? これは自分で書きたい!”と思ったのだ。こうして、この記事が公開されるに至った。かつてのように、好きな時計について語るだけの私がここにいる。
ホイヤー カレラは、現代の時計収集界隈にとって興味深い立ち位置にある。現代のクロノグラフのなかで最も魅力的な時計と見なされることはあまりないものの(例外もあるが)、スピードマスター、デイトナなどの代表的なモデルと並べれば、その存在感は遜色ないと感じるだろう。実際、H02キャリバーの詳細をご覧いただくと、実に印象的だとわかるだろう。しかし、ヴィンテージという側面から見ると、カレラは私が深く尊敬する人々に純粋に愛されている。そのような人々はヴィンテージウォッチの本格的なコレクターたちであり、世界を股にかけたマーケティング部門の最善の努力にもかかわらず、ヴィンテージホイヤーとしてのカレラだけがヴィンテージのスピードマスターやデイトナに対抗できると私は考えている。
ヴィンテージ時代のカレラの全モデルを取り上げ、その後に登場したスペシャルピースや、実際のカレラ登場直前期のピースについても少し触れていきたい。それでは、さっそくご紹介しよう。
ホイヤーの計時技術史と1955年以前の時代背景を理解する
まず最初に、カレラ(およびプレカレラ。カレラ以前のモデル)が誕生した背景を理解することが重要だ。そして、それを理解するためには、それ以前のホイヤーとモータースポーツの関係だけでなく、1960年以前の計時技術とモータースポーツの関係も包括的に把握しておく必要があるだろう。
ある時代以降に生まれた私たちにとって、ピンと来ないが当たり前の前提を述べておく。モータースポーツレースは1900年代初頭まで遡る。電子時計が登場したのが1970年前後。つまり、モータースポーツはおよそ110年の歴史があるが、デジタル計時は50年程度の歴史しかないのだ。何が言いたいか? もちろん、自動車レースに限ったことではないが、レース史の半分以上は機械式時計で計測されたということだ。競馬など歴史的な由緒正しいレースでは、マイクロプロセッサによるコンマ秒単位の近代的な計時の占める割合は、さらに小さくなる。
別の言い方をすれば、機械式時計や置時計製造業は、1960年代より前に必要に迫られて獲得した技術的成果を基盤としているのだ。私のようなマニアが、機械式クロノグラフを装着して、ある国のカフェから別の国のカフェまで運転するのにかかる時間を計るような道楽とは異なるのだ。しかし、1950年代半ばにプレカレラが発表される以前から、ホイヤーはクロノグラフと競技用計時の分野で極めて重要な役割を果たしていた。
はっきりさせておきたいのは、ホイヤーがクロノグラフを発明したわけではない。その称号は、長年ニコラ・リューセックのものだったが、ルイ・モネの発見が、その物語を一変させた。とはいえ、時計や置時計における経過時間計測の基礎を築いたのは、アドルフ・ニコルという時計師であったとも言われている。
しかし、ホイヤーはクロノグラフの市場に早くから参入していた。1908年、ホイヤーは、わずか20秒間の心拍数を数えるだけで、医師が患者の脈拍数を判断できる特許取得済みの懐中時計クロノグラフ“スフィグモメーター(Sphygmometer)”を発表した。その後まもなく、1911年にホイヤーは自動車や飛行機用のダッシュボードマウント型クロノグラフ“タイム・オブ・トリップ”を発表した。そして1914年には、ホイヤーのカタログに初のリスト型クロノグラフが掲載され、“市場で唯一のもの”と評された。1914年当時、腕時計はまだ存在しなかったからである。ホイヤーは、第1次世界大戦前の時代に腕時計を製造していた唯一の企業というわけではなかったが、当時、特に腕時計やクロノグラフの分野で大規模な事業を展開していた企業は、ほとんどなかったと言える。
1916年、ホイヤーは5分の1秒、50分の1秒、そして100分の1秒を計測する“マイクログラフ”、“セミクログラフ”、“マイクロスプリット”、そしてスポーツ計時測定のみならず軍事・産業用にも使える初のスプリットセコンド懐中時計を開発し、高精度な計時の分野に踏み出したのだった。ところで、10年ほど前、タグ・ホイヤーが高振動計時の分野に驚くべき進出を果たし、その頂点に立った驚異的な“マイクロタイマー”(2011年当時の記事だが、その動作はこちらで見ることができる)に私は非常に懐かしく感じているのだが、その野心については今日ではそれほど言及されていないように思う。この時計は、なんと1000分の1秒まで計ることができたのだ! また、マイクログラフも数種類のケース(このユニークなモナコを含む)、マイクロトゥールビヨンも作られた。この驚くべき高速の振付けを、ご存じトゥールビヨン(実際にはひとつは計時用、もうひとつは100分の1秒クロノグラフ用のふたつのトゥールビヨン)と組み合わせていたのだ。とんでもなくクレイジーな試みだった。とにかく、文字どおり、別の機会に別の話題として取っておきたい。
1933年になると、ホイヤーは最も象徴的な名前のひとつであるオータヴィア(AUTomotiveとAVIAtionを組み合わせた造語)を発表したが、これは現在のような腕時計ではなかった。ダッシュタイマーは、タイマー単体か、片方が時間を表示し、もう片方がストップウォッチとなるダブルタイマーのセットがあり、飛行機のコックピットやクルマのダッシュボードなどスポーツマンの好きな位置に取り付けることができた。2年後、世界が戦争に突入することが明らかになると、ホイヤーのフリーガー(パイロット用クロノグラフ)は、黒いダイヤル、夜光塗料付きのマーカー、大きなラジウム針を備え登場した。
重要な変化が起こったのが1940年で、ホイヤーが初めて各製品にブランド名を入れることを決定したのだ。それまでは、ホイヤーは各製品を製造していたが、ダイヤルを飾るのは小売店や販売店の名だった。これは当時の時計業界の通例であったが、ブランドの歴史に大きな変化をもたらし、その結果、確実に成果を上げることができた。
その後10年間、ホイヤーはクロノグラフの枠にとらわれず、愛好家やプロフェッショナルのために非常に優れた製品を生み出した。狩猟家や漁師、船乗りが月の満ち欠けや満潮・干潮の時間を追跡して重要な情報を得ることができる“ソルナー(Solunar)”や、これに3カウンタークロノグラフを組み合わせた“マレオグラフ(Mareographe)”など、伝説的な変り種のことを指している。ホイヤーが作る時計のなかで最も防水性の高いモデルで、もちろん、ニューヨークの小売店アバクロンビー&フィッチで販売された際には“シーフェアラー(Seafarer- 船乗りを指す)”と呼ばれたことは有名だ。同じころ、ホイヤーは初期のデュアルタイム腕時計である“ツイン-タイム(Twin-Time)”と、レースに話を戻すと、速度(言うまでもなく単に経過時間に対する距離の計算)を追跡することができる“オートグラフ(Auto-Graph)”を製造していた。
そして、1955年になると、現在“プレカレラ”と呼ばれるモデルがカタログに掲載され始める。しかし、その前に、当時の時計産業がどのようなものであったのか、また、ライバルたちは何をしようとしていたのか、その舞台裏を覗いてみよう。
ホイヤーがクロノグラフを発明したのではないことは、先に触れた。ロレックス、オメガ、パテック フィリップなど、今日私たちがトップクラスの評価を与えるブランドも同様だ。しかし、それは彼らが存在しなかったことを意味するものではない。さまざまな形で、確かに存在していたのだ。しかし、その話をする前に、例えば1955年当時、時計メーカーが何を重要視していたか、そのヒエラルキーを理解する必要がある。それは、今でいうところのスポーツウォッチやクロノグラフではない。それらは、プロのアスリートや、サブマリーナー(潜水士)やプロ、またはセミプロのドライバーのような専門職のために作られ、使うための道具だったのだ。そのため、これらのツールウォッチ(常にスティール製で、仕上げにこだわったものはほとんど存在しない)は、特に高価なものではなかったのだ。
高価だったのは、超薄型のドレスウォッチである。パテック フィリップ Ref.2526のような自動巻きの時計が登場したのもこのころである。文字どおりツールウォッチは、ほとんどそのような特定の分野に属する顧客にしか販売されず、一般消費者には販売されなかった。パテック フィリップ、オーデマ ピゲ、カルティエ、ヴァシュロン・コンスタンタン、ブレゲなど、この時代の高級メーカーにクロノグラフをほとんど見かけないのはそのためで、裕福な人々には需要がなかったのだ。見かけるとすれば、自動車レース関係者や航空関係者、時には医療関係者のための特別な品であることが多い。
1950年代のイタリアのレーシングカー界隈の言葉を借りれば、エトセトラ(etceterini)ブランドは無数に存在するが、この種の時計を世に送り出すにあたり最大の役割を果たしたのは、ホイヤー、オメガ、ロレックス、そしてブライトリングであった。ブライトリングのプレミア・クロノグラフ、後のスーパーオーシャン クロノグラフやナビタイマーは、主にヴィーナスや後のバルジューのムーブメントを採用したが、その美学はホイヤーとは劇的に異なっていた。オメガは、1957年のスピードマスター(Reference Pointsのこの記事によると、このCal.321は、実はドライバーズウォッチとして設計されたそうだ!)の発表前にすでにレマニアキャリバーを使用していた。カレラの血統の始まりにおいてホイヤーが取り組んでいたことと最も類似しているのはロレックスである。
ホイヤーがカレラでドライバーズクロノグラフに取り組んだとき、ホイヤーは単独で孤立していたわけではなかったが、最も熱心な時計メーカーのひとつであったことは間違いない。その証拠は、以下のモデルたちにある。
プレカレラ:1955年~1963年
1955年ごろから、ホイヤーは3つのカウンターとバルジュームーブメントを搭載し、大型の防水ケースを備えた腕時計タイプのクロノグラフの生産を開始した。ダイヤルには夜光塗料や目盛りが施されることが多くなった。当時の広告では、タキメーターを搭載したものを「ドライバーとラリー選手」向けと表現していた。これらの時計は、ロレックスのプレデイトナ(Ref.6034、6234、そして最終的には6238)を極めて模倣している。そのひとつは、これらのロレックス クロノグラフのように、明らかにこのモデルの祖であるにもかかわらず、ダイヤルには“ホイヤー(Heuer)”とだけ表記され、“カレラ(Carrera)”の名はどこにも記されていない。
プレカレラの主要なリファレンスは2444と3336で、どちらも“S(ソレイユ)”と“N(ノワール)”のバリエーションが見られる。しかし、時折、後述するカレラの基礎となったRef.2447を見かけることがある。
「1963年に発表されたカレラを理解するためには、1950年代にホイヤーが製造していた時計を見る必要があります」と、タグ・ホイヤーのヘリテージディレクター、ニコラス・ビーブイック(Nicholas Biebuyk)は述べている。このReference Pointsにおける最初のプレカレラは、Ref.3336NTである。初めて知るであろうブラック(ノワール)ダイヤルの“N”と、アウタースケールのタキメーターの“T”という、ホイヤーの命名規則を覚えておこう。
こちらはもうひとつのプレカレラ Ref.2444Tで、やはりタキメーターを搭載している。こちらはタキメータースケールが大胆な赤で表現されているが、これはカレラでも見られるだろう。Ref.2444は後に登場するRef.2447と同じ3カウンタークロノグラフだが、ラグの形状が異なるなど、50年代的なデザインのままである。
こちらはダイヤルにアバクロンビー&フィッチ(Abercrombie & Fitch)の社名が入ったRef.2444である。ご存じのように、アバクロンビーはかつてテディ(セオドア)・ルーズベルトやアーネスト・ヘミングウェイといった本格的なスポーツマン御用達の紳士服店だった。その頃、アバクロンビーは、1940年に始まったホイヤーの時計を顧客に販売していたのだ。このパートナーシップにより、“シーフェアラー”や“ソルナー”といった有名なモデルや、上のプレカレラのようにダイヤルに“Abercrombie”のサインが入ったスタンダードなクロノグラフが生まれた。
興味深いことに、Ref.2447が初めて姿を現すのは、カレラではなく、このプレカレラである。この50年代のクロノグラフは、大型ケース、ねじ込み式ケースバック、切子状のラグ、そしてアラビア数字とラジウム夜光を用いた典型的かつ実用的なダイヤルレイアウトを特徴としている。
このプレカレラ Ref.2447S(と先代のRef.2447N)を、ダイヤルに“カレラ”と書かれた最初のクロノグラフの横に並べてみると、カレラの基礎を築いたDNAを理解することができる。1963年に登場した最初のカレラのような洗練さはないものの、ホイヤーのクロノグラフの実用的でツールウォッチ的精神はすでにそこにあったのだ。
手巻きカレラ第1世代(1963-64年)
さて、いよいよ本題だ。これらは、どのメーカー、どの時代のものでも、私が間違いなく好きだと思う時計のひとつだ。HODINKEEでは20年以上にわたって、これらの時計を幅広く取り上げてきた。しかし、学ぶべきことはまだまだ多い。まずは10年前のビデオで、ホイヤー カレラを文字どおり創り上げた人物を紹介しよう。故ジャック・ホイヤー(Jack Heuer)その人である。
ジャックの肉声でお聞きいただいたとおり、カレラは、メキシコの北部から南部の国境まで、同名の高速道路を走る1000マイル以上の過酷なレース、伝説のカレラ・パナアメリカーナにちなんで命名された。このレースはわずか4年間しか開催されず、最終的には安全上の懸念から中止された。
1962年、ジャック・ホイヤーはオータヴィアを発表したばかりで、フロリダで開催されたセブリング12時間レースに観戦していた。彼は、ペドロとリカルド・ロドリゲスというふたりのメキシコ人ドライバーの両親に出会い、カレラ・パナメリカーナとはどういうものかというドラマを聞かされていた。ジャックは、その物語と名前の響きにすぐに心奪われた。カレラはスペイン語で“レース”を意味するが、ホイヤーはこの言葉の持つロマンスとエレガンスを気に入ったのだ。ジャックは、ホイヤーの次の時計を、無骨なオータヴィアよりもはるかにエレガントなクロノグラフにすることを思い描いた上で、この名はまさに完璧だと思ったのだ(ご存じの読者も多いだろうが、現在タグ・ホイヤーのパートナーであるポルシェも同じだ)。
カレラの直径は37.5mmではなく36mmになり、彼のなかではサーキットからブラックタイの祝勝ディナーまで着用できる完璧な時計となった。シャープなファセット(切子状)ラグ、ミニマムでクリーンなダイヤル、現代の基準から見ても驚くほど美しい。彼が考えたのは、“エレガンスと視認性の徹底”だった。この時代の手巻きカレラはすべてこのような特徴を備えているが、最初期の時計は若干違っており、注目すべき点でもある。
この初期のカレラと、それ以降のカレラと一線を画すものは何だろうか? まず、これらはすべてRef.2447と同じリファレンスが振られた。3カウンタークロノグラフムーブメントには、受けに“Ed Heuer & Co.”と刻印されたバルジュー72が搭載された。のちのモデルよりも細長いアワーマーカー、無地のリューズ、そして6時位置のラグの間に非常に大きなシリアルナンバーが刻印された。ダイヤルにはトリチウムの“T”はなく、6時下には“Swiss”とだけ表記されている。最初期モデルの大半はブラックダイヤル(2447N)だが、ソレイユ仕上げの個体も見受けられる。しかし、これらのダイヤルはシルバーというよりは、むしろエッグシェル(卵の殻のような色)に近い(私が偶然にも好きなポイントだ)。初期の時計にはノッチ(爪)の付いたねじ込み式ケースバックを備えていることが多い。
HODINKEEでは、何年も前からこれらの時計を紹介してきた。また、カレラの最初のシリーズをさらに詳しく知りたい方は、エリック・ウィンド(Eric Wind)による記事をご覧いただきたい。
カレラの歴史において注目すべきは、この時代のもうひとつのレーシングウォッチ、すなわち、ロレックスという会社が製造した、当初は名前のなかったクロノグラフ、後にル・マン、そしてデイトナとなるモデルとの関係だ。当時、時計産業は垂直統合を好まず、時計製造の基盤は水平分業制であった。デザインも、ケースメーカーやダイヤルメーカーに外注し、それをブランドが自社のブランドの方向性に合うように微調整することがよくあった。有名な話だが、ダイヤルの本を見ても、有名どころの名が書かれていないことがよくある。また、当時、あるサプライヤーがホイヤーとロレックス(およびその他の時計メーカー)にクロノグラフのオプションを提案し、両社とも結局は同じようなコンセプトを選択したフシがある。その証拠にダイヤルはいずれもシンガー社製、ムーブメントはどちらもバルジュー72、そしてこれらの時計はどちらも1963年に発売された。
このふたつの時計の特徴(そして最も異なる点)は、正確な時間計測をどのように実装したかということだ。ロレックスRef.6239(後のデイトナ)では、タキメータースケールはダイヤルではなくベゼル上に配置された。一方、ジャック・ホイヤーは、テンションリングと呼ばれる新しい部品の権利を確保し、さらに洗練させていった。この小さな急角度のついたスティール製のパーツは、風防を固定し、防水性を高めると同時に、時計に素晴らしい奥行きを与えた。ジャック・ホイヤーは、カレラの5分の1秒スケールを追加する場所として、このリング上が最適であると考えた。かくして、このテンションリングは、今やカレラのユニークな特徴のひとつとなったのだ。
最初期のホイヤー Ref.2447Nは、カレラのための舞台を整えたといえよう。その後、ホイヤーはカレラのバリエーションを製作していくが、テンションリング、傾斜したラグ、ブラックまたはシルバーのダイヤルなど、最もよく知られた要素の多くは、手巻き式のカレラにも受け継がれているからだ。
興味深いことを教えよう。カレラ50周年は、実は(2013年ではなく)2014年に祝われた。その直後、カレラは実際には1963年までさかのぼる可能性があることが発覚した。そのため、ホイヤーは古い広告などの資料を掘り起こし、カレラが確かに1963年に発売されたことを確認したのだ。ジャックは自伝のなかで、カレラがいつ発売されたのか忘れていたことを認めている。そして今、この謎は解き明かされ、2023年現在、カレラは60周年を迎えているのである。
上の写真に示す初期のRef.2447Sの“ソレイユ(Soleil)”とは、マットな“エッグシェル”仕上げで、ホイヤーがその後すぐに移行することになるシルバーサンバースト仕上げとは異なる。このエッグシェル仕上げは、初期の第1世代のRef.2447にのみ見られる仕様だ。これら初期のカレラは、無地のリューズと、通常多角形のケースバックを備えているが、その後、爪付きのケースバックに変更された(ケースバックに6つの爪があり、ケースにねじ込むのに使用された)。
やがて、ホイヤーはカレラにさまざまなスケールを追加し、正確な計時を補助するようになった。ここでは、ダイヤル外周にタキメータースケールを表す“T”を配したRef.2447NTをご覧いただこう。これは機能的である反面、ダイヤルがややゴチャゴチャしており、ジャックのピュアなオリジナルデザインから遠ざかってしまった。
カレラはドライバーやスポーツマンの手首にのみ運命づけられていたわけではない。ここでは、10進法の目盛りが美しいツートンカラーのダイヤルに、フィッシャー社のロゴを施したものをご覧いただこう。フィッシャー社は、試験管や実験器具など、医療や科学に関わる用品を扱うサプライヤーだが、ホイヤーのクロノグラフやストップウォッチも販売していた。このモデルは多角形スクリューバックを備え、ごく初期のカレラであることがわかる。6時位置の“Swiss”マークは、ラジウム夜光塗料の使用を意味する。
カレラで最も希少なスケールのひとつがパルスメーターで、このRef.2447Pはおそらく10数本しか市場に出回っていない。この時代の他社製パルスメータースケール付きクロノグラフと同様、患者の脈拍を簡単にチェックできるようにと、医師から特別に注文されることが多かったようだ。
フィッシャー社WネームのRef.2447Dと同様、Ref.2447Tはタキメータースケールを大胆な赤で表現したツートンダイヤルが特徴だ。このツートンダイヤルのスタイルは、ロンジンやオメガといったブランドの1940年代から50年代のクロノグラフを彷彿とさせ、これらのデザインが1960年代初期のクロノグラフにも影響を色濃く与え続けていることを物語っている。また、この時計が初期のものである証拠に、“Swiss”オンリー表記であることも注目。
第1世代2カウンターカレラ (Ref. 3647)
3カウンターのカレラは1963年のシリアル53000番台から見られるが、2カウンターのモデル(Ref.3647)は54000番台以降に見られるようになることから、少し遅れて発表されたことになる。これらの2カウンターモデルは、バルジュー72の代わりに92を使用しており、不思議なことに小売価格で3カウンターよりも劇的に安く販売されている。ちょうど20ドル安く! しかし、注意して欲しい。1960年代半ばのRef.2447の小売価格は89.50ドル(現在のドルで約900ドルの価値)であった。つまり、2カウンターのRef.3647は? そう、69.50ドルだった。
2カウンターモデルは、3カウンターモデルに比べれば、やや見劣りすることに変わりはないが、例外もある。それは、アメリカ市場向けに生産された、12時間積算計の代わりにロゴがダイヤル6時位置にある、非常にクールなWネームの時計たちである。MG、クーガー、サンレイDXのロゴが入ったものがあり、これまでで最も高額だったのは、2022年夏に俳優ジェームズ・ガーナーのために作られたユニークピースで、17万6400ドルで落札されたが(オークションはタグ・ホイヤー博物館収蔵のために落札)、丸5年前にも記事にしたことがあった。今回のReference Pointsでは、MGとサンレイDXのWネーム、そしてかつて謎だったアルコラ(Arcola)ロゴの個体をご紹介する。
ジェフ・スタインが発見したとおり、これらのダイヤルはアメリカのホイヤータイムコーポレーション(HTC)のためにWネーム化された個体だ。1958年に入社したジャックは、まず北米の代理店設立を任された。北米市場はホイヤーにとって非常に重要であり、これらのWネームダイヤルは、ドライバーやモータースポーツ愛好家、そして以下の個体に見られるようなゴルファーにもアプローチしようとする同社の努力を物語っている。
サンレイDXは、さまざまなモータースポーツのスポンサーを務めた石油会社で、特にセブリング12時間レースやデイトナ24時間レースなどの耐久レースに参戦したコルベットが有名であろう。
長年にわたり、ホイヤーのコレクションにおける大きな謎のひとつが、6時位置に不思議な“アルコラ(Arcola)”のロゴを持つこのカレラ Ref.3647だった。最近になって、これがニュージャージー州のアルコラ カントリークラブのために刻印されたものであることが判明した。
手巻きカレラ第2世代(1960年代)
第2世代の手巻きカレラは、1963年から1964年にかけてのDNAを受け継ぎながら、いくつかのバリエーションを追加している。異なるダイヤルレイアウト、より多くの2カウンターの個体、そしてコントラストの効いたインダイヤルを目にするようになる。また1964年には、ホイヤーがストップウォッチメーカーのレオニダスを買収し、スポーツ計時のコンセプトをさらに“強化”させたことも注目すべき点だ。
第2世代では、ホイヤーはカレラにいくつかの改良を加えたが、そのほとんどは視認性を高めることを目的としていた。幅広のアワーマーカーにはペイントが施され、針も同様にブラックのストライプ線が入り(夜光が入るものもある)、ダイヤルのコントラストがより強調されている。
しかしながら、2代目カレラの最大の変更点は、パンダと逆パンダのダイヤルの追加である。初代カレラと同様、このパンダダイヤルにもスケールの有無があるが、今回紹介するRef.2447SNやRef.2447NSのようにスケールのないリファレンスこそ、オリジナルのカレラのデザインに最もピュアで忠実であるといえよう。
とりわけ希少なのがパンダダイヤルのRef.2447SNで、市場には数十本しか出回っておらず、60周年記念限定モデルのインスピレーションの源となったリファレンスであることはこの記事で解説している。
パンダダイヤルを作るなら、逆パンダも作らなければならない。ホイヤーは第2世代のRef.2447NSでそれを実現した。Ref.2447SNが注目されがちだが、NSも同様にゴージャス(そして希少)だ。SNとNSは、初代カレラの登場から5年後に発売された。
上のフィッシャー WネームのRef.2447Dと同様に、この第2世代のRef.2447SNDは、外周に10進法の目盛りが付いているのが特徴だ。初代カレラと同様、ダイヤルはツートンで表現され、パンダダイヤルのサンバースト仕上げのほかの部分とコントラストを効かせている。
1960年代、(正直に言えば現在も)ボルボは最もセクシーな自動車ブランドではなかった。しかし、このRef.2447NSTはタキメータースケールを備え、12時位置のホイヤーのロゴがボルボのロゴに差し替えられている。ホイヤーの盾ロゴは縮小され、6時位置のインダイヤルに移動している。
カレラ ダート (1960年代)
2カウンターの登場と同時期に、ホイヤーはデイト付きのカレラを発表した。大したことないように見えるが、当時は大変なことだったのだ。
ここでは、Ref.3147は2種類のダイヤル(いつものようにN/S)があるが、ムーブメントとデイト表示のレイアウトにふたつのバリエーションがあることがわかる。最も初期のものは、12時位置にデイト表示がある。“ダート12”と呼ばれるこれらの個体は、最も初期のもの(1966年発表)だが、デザイン上のかなり根本的な問題が露呈したため、短命に終わった。クロノ秒針を帰零すると、デイト表示を遮ってしまうという問題だ。その直後に登場したのが“ダート45”だ。9時位置にデイト表示、3時位置に45分積算計を配したこのモデルは、ヴィンテージクロノグラフのなかでも特に私のお気に入りだ。この時計は1968年頃に登場したが、自動巻きクロノグラフの登場前夜だったため、かなり短い期間しか製造されなかった。
タグ・ホイヤー博物館所蔵のこのカレラ ダート12 Ref.3147は、美しいトロピカルカラーにエイジングしている。クロノグラフのレイアウトは、3時位置に45分積算計、9時位置にスモールセコンドを配置した標準的な2カウンタークロノグラフを踏襲している。シンメトリー(左右対称性)を追求したいホイヤーは、当初は12時位置にシンプルにデイト表示を追加することを考えていた。
Ref.3147S - ダート12 インディアナポリス・モーター・スピードウェイ Wネームダイヤル
ホイヤーは、毎年インディ500(“レース界の大スペクタクル”)を開催するインディアナポリス・モーター・スピードウェイと当時から現在に至るまでパートナーである。スピードウェイの翼と車輪のロゴが入ったホイヤー カレラは、その希少性とレースとのつながりから、ヴィンテージホイヤーのコレクションのなかでも垂涎の的となっている。このロゴは、ダート(第1世代と第2世代)に加え、ホイヤー オータヴィア、さらにはホイヤーのストップウォッチにも見られる。
ダート12のデザイン上の欠陥は明らかだったものの、ホイヤーはすぐに第2世代のダート45を発表し、ご想像のとおり9時位置にデイト表示を配置し直した。ジャック・ホイヤーのデザインのこだわりは、視認性とシンメトリーの2点だった。ダート45は、ふたつ目のこだわりに反しているように見えるが、時計コレクターのお気に入りになっている。私たちはこのモデルがとても気に入り、2021年リリースのタグ・ホイヤー ダート HODINKEE限定モデルのインスピレーションとなった。
これまで見てきたほかのカレラと同様、ダート45はブラックダイヤルかシルバーダイヤルのどちらかが用意されていた。ブラックダイヤルはコレクターのあいだで人気があるが、それはブラックダイヤルとはそういうものだということに加え、コントラストの効いたホワイトのインダイヤルが9時位置のデイト表示と、ほどよいバランスを保っているためである。
最後に、この カレラ トリプルカレンダークロノグラフを掲載したのは、ホイヤーがカタログでこのモデルを“カレラ”と表記していたためだ。スナップバックケース、異なるラグ形状、さらにはダイヤルにカレラとは表記されていない。しかし、当時のホイヤーが製造した時計の中では最も複雑な機構のひとつで、カレンダー機能を備えているため、ダート12やダート45とうまく共存している。
第2世代2カウンター カレラ (Ref. 7753)
1970年、ホイヤーはRef.3647を引退させ、バルジュー7753を搭載した同様の2カウンタークロノグラフであるRef.7753を発表した。ブラックまたはシルバーのダイヤルを持つこのモデルは、Ref.3647の価格据え置きで販売されたが、ホイヤーは、第2世代のRef.2447と同様に、パンダや逆パンダのバリエーションを持つRef.7753も製造した。これらのモデルはより希少であるため、また正直に言うと、コントラストの強いインダイヤルは見映えも良いため、価格は高くなりがちで、場合によってはスタンダードなRef.2447SやNの価格に匹敵することさえある。
映画『フォードvs. フェラーリ』劇中、マット・デイモンがキャロル・シェルビーに扮し、Ref.7753SNを着用していることから、現在では“フォード vs.フェラーリ” カレラと呼んでも差し支えないだろう。しかし、Ref.2447SNと同様、Ref.7753SNもそのパンダダイヤルにより、2カウンターのカレラとしては最高のリファレンスのひとつであることに変わりない。
最後に、ホイヤーの聖杯が登場するのは60年代後半である。自動巻きクロノグラフ(クォーツは言うに及ばず)が登場する直前で、初めて商業的に成功すると見なされた時期である。しかも、カレラでありながらカレラらしくない。スキッパー、あるいはスキッパレラと呼ばれるこのモデルについて話をしているに違いないと思うだろう。ただ、今回はモータースポーツの話をするための対談であるため、スキッパーについての詳しい物語は切り分ける必要がある(幸運にも、私たちは2年前に記事に書いた)が、カレラのケースにスキッパーダイヤルを備えた、この非常に希少なホイヤーのクロノグラフは、まさに最高のモデルだといっていいだろう。
このリファレンスは、ホイヤーでは数百本しか製造されなかったと推定され、水上で使用されたため、現在では時計コレクターの手に渡るよりも海の底に眠っている方が多いと思われる。このモデルは、1960年代のカレラの最高の資質をすべて備えており、素晴らしい背景と驚くべきダイヤルデザインは、リファレンスポイントの別の記事の主題に相応しいものだ。HODINKEE限定モデルのリリースにあたり、初めてTAGとカレラのコラボレーションを行ったとき、オリジナルのスキッパレラに注目したのも不思議ではない。
3カウンターゴールド手巻きクロノグラフ(1960年代)
この2本の時計が、ゴールドモデルのカレラについての紹介となる。自動巻きのゴールドカレラは後ほど紹介するとして、手巻きのこのモデルはゴールドカレラの世界への入門編として、また非常に貴重な存在といえる。
カレラ最初のゴールドモデルは、ゴールドメッキを施したRef.2448Nで、ブラックダイヤルに温かいゴールドのアクセントが効いている。いや、このテーブルのカレラの中で最も望ましいものではないが、ダイヤルは温かみのあるヴィンテージ調で、価格の割にゴージャスな見栄えを提供してくれる。
一方、このRef.2456Sは金無垢のケースを採用している。これは1960年代末にスイスの時計製造業が向かっていた方向を象徴するものだ。ステンレススティール製のツールウォッチとしてスタートしたカレラが、真のラグジュアリー製品として位置づけられ始めるために、それに見合う仕上げと素材を採用したのである。
C型ケースの自動巻きクロノグラフ(1969年~1971年)
1969年、カレラとは何なのかを問い直した、最初の全面的な変化が見られた。シャープなラグや手巻き式クロノグラフムーブメントがなくなった。今、私たちはスイスの時計製造において最も興味深く、率直に言って最も困難な時代を振り返っているが、それは同時に、最もエキサイティングな時代の幕開けでもあった。この年は、月面着陸の年であるだけでなく、計時における最大の進歩のひとつである自動巻きクロノグラフが登場する年でもある。
1962年から何らかの形で開発が進められていたエル・プリメロを擁するゼニス、当初は日本国内向けだったセイコー、そしてホイヤー、ハミルトン、ビューレン、ブライトリングが参加したプロジェクト99の3つのグループが、この進歩を生み出した。
プロジェクト99の歴史を読みたい方は、ジェフ・スタインが15年前に彼にしかできない方法で書いた物語を読んでみてほしい。
自動巻きクロノグラフを最初に開発したのはどのグループか、その認定方法はいくつもあるが、それは重要ではない。ホイヤーの次世代カレラに搭載された自動巻きキャリバー11は、少々欠陥があるにせよ、史上最も象徴的なムーブメントのひとつであり、1969年に発表されたものである。それだけで十分なのだ。
これらのムーブメントはモジュール式で、デュボア・デプラ(Dubois-Depraz)社のクロノグラフがビューレンのマイクロローター式ムーブメントの上に乗っていた。そのため、どのブランドのものであっても、それを収納するケースは前世代の手巻きクロノグラフよりも大きく、厚くする必要があった。そのため、初代カレラのようなエレガントさとは訣別することになる。しかし、この大型化された“C型”ケースは、時代に驚くほどマッチしていたため、問題はなかった。
ケースはトノー型で、サテン仕上げが施されている。プッシャーは溝が切ってあり、巻上げ軸は左側に取り付けられた(キャリバー11またはその後継機であることを示す特徴だ)。
最初に製造されたスティール製の自動巻きカレラには、ホイヤーのロゴの上に“Chronomatic(クロノマチック)”が表記されている。このシリーズのなかではレア中のレアとされており、通常生産品の自動巻きカレラの何倍もの値段で取引されている。この名称は、ジャック・ホイヤーの良きライバルであったウィリー・ブライトリングが、同年代の自動巻きクロノグラフに採用することになった。それ以降のモデルは、6時位置に“Automatic Chronograph(自動巻きクロノグラフ)”、12時位置のホイヤーの盾の上に“Carrera”の表記に改められた。
スティール製の自動巻きカレラのなかでも、この初期のクロノマチックは最も人気のあるモデルである。
自動巻きのホイヤー カレラ Ref.1153には、スティールのバリエーションが多数存在する。下の写真はミック・ジャガーが着用しているリファレンスで、現在では時計コレクターのあいだではもちろん“ミック・ジャガー”と呼ばれている。ジャガーは1970年代を通じて、何本かのホイヤーを着用しているのが目撃されている。
このカレラ Ref.1153“1-through-12”は、上記の“ミック・ジャガー”とほとんど差異がなく、時針がジャガーのような12-3-6-9だけではなく、1から12までのアラビア数字が振られているのが特徴だ。この時代、ホイヤーのようなブランドは、クォーツの脅威が迫るなか、常に時計の改良を続けていた。これもそんなバリエーションのひとつである。
このRef.1153BNは、先ほどの時計と似ているが、レガッタタイマーとして機能させるために、ファンキーなデザインを採用している(先ほどのスキッパーと似ている)。30分積算計のオレンジ色のブロックは、船乗りを意識してデザインされたものだ。
Ref.1553はオリジナルのキャリバー11からキャリバー15に変更されたモデルだ。このムーブメントは、ホイヤー独自の自動巻きクロノグラフのコスト削減版で、12時間積算計を10時位置のスモールセコンドに置き換えたレファレンスだ。
1978年に発表されたRef.110.253は、自動巻きカレラに落ち着いたグレーダイヤルを採用した新しい美的感覚を持ったモデルだ。Ref.110.253は1978年にホイヤーのカタログに掲載され、わずか数年間しか生産されなかった。
このカレラは先代機と似ているが、リファレンス番号の “B”が示すように、わずかに虹色に輝くブルーダイヤルを備えた。これは、これまでホイヤーが主に採用してきたブラックやホワイトのダイヤルとは異なり、カラフルな色使いとなっている。ダイヤルは華やかなコート・ド・ジュネーブ模様で仕上げられており、ダイヤルを3分割して様々な角度から見ると光と戯れるような印象を与える。
ゴールド製C型ケースの自動巻きクロノグラフ(1970年代)
1970年ごろ、つまりスティールケースの自動巻きカレラが発売された直後に、ホイヤーのなかで、いや、1970年代の全時計ブランドのなかで最もクールだと思う時計、Ref.1158が発表された。これは上記と同じ時計で、現在は18KYG製、シャンパン/ゴールドダイヤル、そしてときにはブラックのインダイヤルとデイト表示を備えている。金無垢のRef.1158は、しばしばさまざまな形状の金無垢ブレスレットと組み合わされており、金の塊のような存在で、この時代(マイクロタイマーやトゥールビヨンが登場する2010年以降までは、どの時代にあっても)ホイヤーが提供した時計のなかで最も高価な時計だった。
例えば、アルトゥーロ・メルザリオの個体が2015年に2万1875ポンドで、ロニー・ピーターソンの個体が2015年に22万5000スイスフランで落札されたように、いくつかのモデルが売りに出されるのを目撃してきた。何年か前にマリオ・アンドレッティとTalking Watchesの撮影をした際、幸運にも彼の持つ個体を手に取ることができた。
Ref.1158は、私にとってホイヤー界のポール・ニューマン デイトナのようなものだ。Ref.1158は、私が最も賢いクロノグラフコレクターと考える人たち(時計デザイナーのエリック・ジロードや、伝説のMr.TKのような人物を思い浮かべるといい)からカルト的な支持を得ており、スティールモデルとはまったく異なる価値を認められている(スティールモデルの3〜5倍と考えられている)。来歴のはっきりしている個体は、実際に存在するのだが、そのような時計は、何倍もの値がつくこともあり、地球上で最も優れたコレクションのひとつに列せられる。
この初期のRef.1158は、珍しいクロノマチックのダイヤルを備えている。ビーブイック氏によると、これはごく少数の時計に搭載されたプロトタイプダイヤルである可能性が高いとのことだ。4、5本しか存在しないと見られ、ホイヤーはすぐにクロノマチックのモデル名から手を引いたことから、一般に販売されることはなかった。
このRef.1158Sは、より一般的なシルバーダイヤルが特徴だ。ゴールドケースにはフランス政府のホールマークと輸入マークが刻印されており、販売された地域が分かるようになっている。
Ref.1158CHは、ゴールドケースにマッチしたシャンパン色のダイヤルが特徴的なモデルだ。Ref.1158Sと1158CHがクールな時計であることは間違いないだろう。しかし、次のモデルこそ、魔法を起こすだろう。
Ref.1158CHNは、シャンパンダイヤルにコントラストの効いたインダイヤルを追加している。Ref.1158CHNがこれほどまでに魅力的なのは、ジョン・プレイヤー・スペシャル・デイトナそっくりな外観を超越して、この時計がホイヤーのほかのモデルも含め、この時代のどの時計よりも、実際のレーシングカードライバーの日常と結びついていることにあるからなのだ。ジャック・ホイヤーは物事も自らの手で進めるタイプのCEOで、世界で最も有名なドライバーたちと個人的な関係を築いたことで有名だ。表向きは、自社製品を使用する多くのレースチームによって自社の利益を確保するためだったが、彼は熱烈なレースファンでもあったのだ。
ジャック・ホイヤーのマーケティング上の最大の功績は、言うまでもなく、1970年代のスティーブ・マックイーン主演の映画『栄光のル・マン』にホイヤー製品が使用されたことだが(この映画とモナコについては、9年以上前のWeek on the Wristで詳しく説明している)、そのすぐ後には、この時代に世界で最も影響力があり成功を収めていたフェラーリ F1 チームとの仕事が控えていた。1970年代、ホイヤーはフェラーリチームの公式タイムキーパーを担当し、チームカーにホイヤーのロゴを入れるだけでなく、ドライバーのユニフォームにホイヤーのワッペンを付けるよう交渉していた。その代わりに、ドライバーに計時装置を無償提供することになったのだ。その装置とは 金無垢の自動巻きカレラのことではあるが。つまり、Ref.1158が贈られたのは下記の面々である。
- クレイ・レガツォーニ(1970年~1972年、1974年~1976年)
- マリオ・アンドレッティ(1971年~1972年)
- ジャッキー・イクス(1971年~1973年)
- アルトゥーロ・メルザリオ(1973年)
- ニキ・ラウダ(1974年~1977年)
- カルロス・ロイテマン(1977年~1978年)
- ジル・ビルヌーブ(1977年~1979年)
- ジョディ・シェクター(1978年~1979年)
そして、ホイヤーの友人たち:
- ジョー・シファート(1971年、BRMのドライバー)
- ロニー・ピーターソン(1971年~1972年、マーチのドライバー)
- エマーソン・フィッティパルディ(1974年、マクラーレンのドライバー)
- デニス・ハルム(1974年、マクラーレンのドライバー)
- ジョン・サーティース(1974年、ペースマスのドライバー)
- マウロ・フォルギエリ(スクーデリア・フェラーリ所属のF1レーシングカー・デザイナー)
この時期、ホイヤーはスポーツ計時の電子化に力を入れ、専門部署を設置した。このチームが、驚くべき“センティグラフ”(F.P.よ、残念ながらこの名前を最初に使ったのは君たちじゃなさそうだ)を生み出した。ここでは詳しく触れないが、70年代のホイヤーはカレラよりもこのモデルが大きな位置を占めており、次のカレラのコレクションにつながるのだった…
これはRef.1158のように見えるかもしれないが、そうではない。実はゴールドメッキのカレラで、裏蓋には “1980年オリンピックの公式タイムキーパー ホイヤー”の刻印がある。ホイヤーが商業的に成功する時計を提供するためになりふり構わないなか、このような変り種が生み出された。ここで、カレラの次のカテゴリーに話を移したい。
もちろん、C型ケースといえば、自動巻きのRef.1153と1158のイメージが強く、それは当然といえば当然だ。しかし、1970年代初頭、ホイヤーは、すでにキャリバー15で触れたように、生き残るためにできることは何でもやり、ほかのもっと経済的な時計を生産し始めたのだった。そして、バルジューの77系ムーブメントを搭載したC型ケースの手巻きクロノグラフを生産するようになったのだ。
今回のリファレンスポイントでは、この手巻きC型クロノグラフのなかから、2カウンターのRef.7853、3カウンターのRef.7854の3本を紹介する。手巻きクロノグラフであることは、リューズを9時位置に移動させた自動巻きキャリバー11とは異なり、リューズが通常の3時位置に戻っていることで一目瞭然だ。
カレラ Ref.853Sは、手巻きキャリバー7740を使用している。おそらくホイヤーモナコの “ダークロード”に使用されていることでご存じの読者も多いのではないだろうか? スティール製でシンプルなデザインだが、カレラであることは明らかだ。
このRef.73653Nにはブラックダイヤルを示すリファレンスナンバーの“N”が割り振られているが、時計コレクターはこのノワールをチャコールグレイと呼ぶようになった。このモデルは、ブルーとグレーの中間に位置し、光の加減によってはパープルのニュアンスも感じられる。手巻きムーブメントとトノーケースを備えたこのモデルは、ホイヤーとカレラの過渡期を見事に象徴していた。
パルスメータースケールを搭載した Ref.2447Pを覚えているだろうか? こちらもそれを搭載したホイヤーのカレラだが、本作はゴールドメッキのケースを使用したRef.73655SPだ。ちょっとファンキーで完璧な70年代らしいカレラだ。
バレルケース(1970年代)
70年代に入ると、機械式時計全体の売り上げが急激に減少し始め、ホイヤーは電子式時計に目を向けた。そのため、ブランドと製品の品質と一貫性も、それとともに低下し始めたのだ。カレラのケースは、バレル式に変更となった。ジャックの関心は、これらの自動巻き時計にはほとんど向けられなかった。その代わりに、父と祖父から受け継ぎ、彼が人生をかけて築き上げた会社を救うことに向けられていたのだ。
ジャックは数年前に素晴らしい自伝を綴ったが、これはとてもおすすめできるものではない。そのなかで、彼はロレックス自身がホイヤーの公開株の半数(全株式の半分ではないので、念の為)を所有していることを発見し、ハリー・ボラー本人(当時ロレックス・ビールの責任者)から電話を受け、彼のパートナーであるロレックス・ジュネーブ(実際、ボラーが管理していた会社とはまったく別の会社です。もし知らないのならこの記事を次に読んでほしい)のハイニガー氏と話をしにジュネーブに来るよう提案された時のことを回想している。ハイニガー氏は、ロレックスの電子計時の将来性を信じておらず、そのため彼の会社を買収することはないとホイヤーに告げた。ジャック・ホイヤーは、ハイニガーが当時それだけのビジョンを持っていたことを評価しているが、彼は取引が進まなかったことを間違いなく残念に思ったそうだ。
ジャックの指揮下で作られたこの最後の世代の自動巻きカレラは、私たちが慣れ親しんだ美しい時計とはかけ離れていた。このトノー型カレラは、キャリバー12(2カウンター自動巻き)とキャリバー15(10時位置のスモールセコンド)の両方が搭載されているバリエーションが存在する。このRef.110.573Fはキャリバー12を使用している。
このバレルケースのカレラは、アンゴラ解放人民軍(FAPLA)のために作られたもので、ケースバックの刻印がそれを物語っている。「当時、どんな政権だろうと売っていました」と、ビーブイックは語っている。
このブラックコーティングされたバレル型のカレラは、ホイヤーモナコ“ダークロード”やモンツァと同じシリーズのもので、まだPVD加工技術は投入されていなかったものの、ホイヤーがブラックコーティングの初期の実験的な試みを行った頃を物語っている。
Ref.110.515CHNはRef.1158に似ているが、ゴールドメッキが施され、より経済的なキャリバー12を搭載している。
これらのバレル型カレラは、機械式クロノグラフとしてのヴィンテージカレラの終焉を象徴している。
「ホイヤーは、おそらく一定数のムーブメントを発注しており、それを売るのに苦労していたのでしょう」とビーブイックは言う。「セイコー6139クロノグラフの登場とクォーツウォッチの量産化により、これらの自動巻きクロノグラフは、市場にとってあまりにも高価なものとなってしまったのです」。やがて、ホイヤーもクォーツに切り替えた。
ホイヤーが同族経営下で製造した最後のカレラが、まさにクォーツであったことは、ある意味当然の帰結だったといえる。70年代後半には、多くの偉大なブランドがかつての面影を失い、悲しいかな、ホイヤーもその一員だった。これらのクォーツカレラは、ヴィンテージウォッチ愛好家の間であまり語られることはないが、そこにはある種の奇妙な魅力があるのだ。このころ、ホイヤーは電子式時計に将来を賭けており、カレラ発表の何年も前から、すでにいくつかのクォーツウォッチや電子時計がカタログに掲載されていた。しかし、カレラの名を冠したダイヤルのクォーツウォッチを見ると、ホイヤーがどのような状況に置かれていたのかがよくわかる。
このRef.365.253Nは、カレラ初の3針モデルである。クォーツ式でありながら、薄型のケースは初期のC型自動巻きカレラのシルエットを踏襲している。
こちらはゴールドメッキのクォーツクロノグラフで、ダイヤルに“カレラ”表記はあるものの、これまで見てきた先代のカレラと同系列にするのは少し難しい気がする。
レマニア5100搭載のカレラ(1980年代)
1979年には、ホイヤーのカタログはクォーツ式の製品で埋め尽くされ、腕時計はクロノグラフからダイバーズウォッチへと移行し、この傾向は1980年代まで続いた。1982年、ホイヤーの株式の80%がピアジェに、10%がレマニアに買収された。この共同所有により、レマニア製キャリバー5100を搭載したカレラが見られるようになった。これらの時計はカレラと呼ばれているが、私たちが考えるヴィンテージカレラとは似ても似つかぬものである。
レマニアを搭載したカレラでも、ホイヤーはブラックコーティングケースの実験を続けていることがうかがえる。
「ダイヤルにカレラと書かれていますが、カレラから承継したデザインコードはありません」と、ビーブイックは語っている。それでも、レマニア5100は魅力的なムーブメントであり、ヴィンテージカレラの歴史における興味深い最終章を添えている。
Ref.510.511はSSケースにブラックコーティングを施しただけのモデルで、こちらは“ネイキッド”バージョンだ。ケース処理のほかは、Ref.510.523は前作のリファレンスと同じ仕様だ。
最後に変り種を1本。このカレラは金無垢のRef.1158ケーススタイルを採用しているが、ムーブメントにはレマニア5100を搭載している。1980年代初頭、時計メーカーは生き残りを賭け、あらゆる手段を講じていたのだ。
その後の話
1985年、ホイヤーはTAG(Techniques d'Avant Garde の略)に買収され、再生が始まった。サウジアラビアに本拠を置くこの会社は、多額の投資を行い、率直に言って、ブランドを消滅の危機から救った。S/el、Formula ONe、2000シリーズ、そして私が子供のころから覚えている素晴らしいタグ・ホイヤーの数々の名機がこのブランドのもと登場した。
1999年には、タグ・ホイヤーの売上は1985年の買収以来約10倍になり、LVMHは機械式時計製造への再投資を目的にこのブランドを買収した。90年代は、1970年代後半や1980年代に比べれば、時計製造にとっていい時代ではあったが、厳しい時代でもあった。それでも、高級コングロマリットは伝統的な時計製造の復活のチャンスを見出していた。
やがて、LVMHはタグ・ホイヤーやゼニスなどに投資し、スイス時計製造の再興の可能性を見出した。同様に、リシュモンはランゲ、ヴァシュロン、ジャガー・ルクルト(順不同)などを買収し、スウォッチはブランパン、オメガ、ブレゲを自社ブランド化し、近代時計産業の時代が始まったのである。HODINKEEが誕生し、Instagramが誕生し、そして今、私たちはここにいる。もちろん冗談だが、この話に最も関係があるのは、1996年にTAGがレマニア手巻きムーブメントを搭載して出した、1963年のオリジナル(発売当時は1964年と呼ばれていたが)によく似た5000本限定カレラである。この時計は、昔のカレラと現在のカレラの橋渡しをするものである。
カレラ収集の現在
カレラの登場から60年、カレラの市場は確かに成熟し成長したが、多くの人が現在これほど活況を呈していると想像できなかったのではないだろうか。カレラが、ロレックス デイトナやオメガ スピードマスターのヴィンテージモデルに匹敵するほどの高い支持と、価格が上昇するような世界を想像するのは難しいことではないだろう。ときには、スキッパーや1158が数千万円台で取引されたり、ジェームズ・ガーナーのカレラが17万ドル(2358万円)を突破したりと、そのようなことが起こり得るのだ。
さらに、タグ・ホイヤーはこの7年間、藤原ヒロシ氏との素晴らしい限定モデル(実質的にはRef.2447NT)やSNにインスパイアされた新作、そしてもちろんスキッパーやダート、グリーンとレッドのモデルなど、オリジナルの2447ケースを彷彿させる39mmケースを使用し、若い世代の目にカレラの過去に目を向けさせる見事な仕事を成し遂げている。これらの時計の成功は、例えばオータヴィアのような市場にはない形で、カレラの市場を支えてきたと思う。
しかし、非常に特別なカレラ、たとえば第1世代の3カウンター、手巻きのカレラを、デイトナやスピードマスターの初期世代と比較してみると、同じ程度の価格で取引されないはずがないのだが、そうなっていない。確かにこれらのカレラは、スピーディやデイトナよりも1〜2mm小さいという事実や、ホイヤーというブランドが当時ほどの名声を保っていないことが原因かもしれない。しかし、それこそが、他の人が見ていない(あるいは見ていなかった)場所に価値を見出すという、最大の楽しみのチャンスでもあるのだ。
カレラの世界では、ヴィンテージカレラのなかで最も価値のあるオリジナルのスキッパーや、金無垢の6263の数分の1で手に入れることのできるRef.1158CHNがお気に入りだが、今年復活したRef.2447SNや、もちろんスペシャルロゴダイヤルなど、もっとレアな時計もある。でも、どんなヴィンテージカレラも特別な存在だ。ホイヤー カレラは、ヴィンテージモータースポーツと最も密接な関係を持つクロノグラフであると、私は10年以上前から主張してきた。そして今日からは、より多くの時計愛好家が、カレラを正しく理解するために必要な情報を手に入れることができるようになることを、私は切に願っている。
Special Thanks:この(あまりにも長い)物語は、ニコラス・ビーブイック、ジェフ・スタイン、エリック・ウィンド、ジョン・コート、アレン・ロー、そして私たちのトニー・トレイナ、タグ・ホイヤー博物館など、ホイヤーのコミュニティの多くのメンバーの素晴らしいアクセスと調査なしには実現しなかった。この場を借りて感謝申し上げたい。
Hodinkeeは、タグ・ホイヤーの時計の正規販売店です。Hodinkee Shopのタグ・ホイヤーの時計のコレクションはこちらからご覧ください。タグ・ホイヤーは、LVMH の傘下企業です。LVMH Luxury Ventures は Hodinkee の少数株主ですが、編集上の独立性は完全に維持されています。
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