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オーデマ ピゲ ロイヤル オークの起源について、あなたが知らない8つのこと

なぜなら、どんな素晴らしい物語にも8つの側面があるからだ。※現在、日本ではロイヤル オーク全般の入荷状況未定とのことで、ブティックへの問い合わせよりも時計への理解を深めることに時間を費やそう。

※オーデマ ピゲ ロイヤル オークは、その製造工程により生産本数が大幅に増えるような性質のマスプロダクトではない。2022年も続く人気・需要の過熱ぶりにより、残念ながらブティックに問い合わせたからといってチャンスが巡ってくることはないと思われるが、その素晴らしい時計自体の魅力と50年間にわたる豊かな歴史や背景を知り、まずAPを知ることから始めよう。なお、時計の入荷状況は各国ごと、日本でも地域ごとに差があり、現時点で未定(あっても数本、ごくわずかずつ)とのことだ。

ロイヤル オークがバーゼルワールドに登場したのは、今から50年前、4月15日のこと。それ以来、この時計には神話や伝説、そして黄金時代のコミックヒーローに匹敵するようなその起源に関する物語が積み重ねられてきた。そして、長く続くコミックのキャラクターのように、何が正統で何が非正統であるかを分けることはますます難しくなってきている(ファンのあいだではそう言われている)。

 ロイヤル オークの誕生50周年を記念して、オーデマ ピゲのヘリテージチームは前例のないことを行った。ロイヤル オークの起源は、人づてに伝わる伝説や逸話だけでなく、記録やインタビュー、社内のアーカイブからの具体的な情報をもとに、可能な限り深く掘り下げられた。

 その結果、オーデマ ピゲがオンライン上に公開した文書は、ロイヤル オークの起源に関する学問や、愛好家の見方を劇的に変えると言っても過言ではないだろう。ここでは、ロイヤル オークの誕生にまつわる驚くべき、実に驚くべき、そして場合によってはまったく予期せぬ8つの事実(なぜ8つなのかは想像に難くない)をご紹介する。

1. オーデマ ピゲの外部からロイヤル オークの依頼があった

1970年、オーデマ ピゲはジュウ渓谷出身のジョルジュ・ゴレイによって運営されていた。彼は、年間5500本の時計を生産し(現在ではほんのひと握りのように感じられる本数だ)、売上高を1000万スイスフランに近づけるなど、会社の成長期を監督していた。

 ゴレイは、同社の生産量を増やすために、スイス時計工業会(Société Suisse pour l'industrie Horlogère)と契約を結んだ。1930年にオメガとティソが設立した業界カルテルである。SSIHは世界中に7000人の従業員と1万5000店の小売店を持ち、その流通網を利用する代わりに、SSIHのトップエージェント3人がバーゼルワールド1970の前日、ゴレイに“スティール製のハイプレステージタイムピース”を作って欲しいと依頼したのだ。

Royal Oak "A" Series, 1974

1974年製のロイヤル オーク “A”シリーズ、Bring A Loupe記事で見ることができる。

2. ゴレイは本当にジェラルド・ジェンタにひと晩でデザインさせたのか?

私は、このロイヤル オークの起源について、いつもありえない話だと考えていた。何度も聞いたことがあったが、これほどまでに象徴的なデザインが短期間で完成したというのは、時計製造の世界のおとぎ話だと思ったものだ。しかし、どうやらその通りだったようなのだ。

 ジェンタは、ジョルジュ・ゴレイから、バーゼルワールド1972の開幕前夜の午後4時に、「ジェンタさん、ある流通会社から、これまでにないスティール製のスポーツウォッチを依頼されています。それも明日の朝までにデザインスケッチが必要なのです」と告げられたという。

 ジェンタはこの機会に立ち上がり、のちに「クレイジーなことだったよ。自分でもひと晩でこんなものができるなんて、どんな魔法を使ったのかわからない。とても驚くべきことだった!」と語っている。

 もし、ジェンタとAPにもっと時間があったら、この時計はどうなっていたのだろうかと考えずにはいられない。もしかしたら際限なく設計が委員会によって見直されていたかもしれない。偉大なクリエイティビティが民主主義であることは滅多にない。

Gerald Genta with three of his most famous designs.

ジェラルド・ジェンタと彼の代表的なみっつのデザイン。画像はジェラルド・ジェンタ財団より。

3. ロイヤル オークのデザインは勘違いの結果だった

これはちょっと、どうなんだろう。ゴレイはジェンタに「今までにないスティール製のスポーツウォッチが欲しい」と言ったが、ジェンタは聞き間違えたという。

 ジェンタはこう話している「私は彼が“...その耐水性は、これまでにないものだ...”と言ったのだと勘違いしました。そして子供のころ、ジュネーブのポン・デ・ラ・マシーンでダイバーにヘルメットを装着しているのを見たことを思い出したのです。水中で人の命を守るために設計された8本のボルトとゴム製のシーリングを見たとき、とても感動したわけです」。

 しかし、このような誤解がありながら、モノコック構造のケースや、もちろん、有名なビスや機能しないビス溝など、ダイビング機器や防水技術への言及が、初代ロイヤル オークのすべての特徴に由来しているのだ。

4. ダイビング用ヘルメットとはどのヘルメット?

ジェンタが8本のボルトがついた潜水用ヘルメットを見たことを覚えているという話は、確かに信憑性がある。ボルトはフェイスプレートやショルダーピース(コルセレットと呼ばれるもの)、あるいはその他の場所に見られたものだろう。ただ問題は、8本ボルトの潜水用ヘルメットを見つけるのは非常に難しく、Aオーデマ ピゲによる調査でも八角形のフェイスプレートを持つものは発見されていない。同社の見解は「八角形の形状は間違いなく別のものに由来する 」である。

 この事実のソースは? オーデマ ピゲの記録係は、同社がジュネーブに構えていた小さなオフィスに八角形の小包計量器があったと述べているが、これもちょっと無理があるような気がする。しかし、ジェンタが持っていたダイバーズスーツの印象から、初代ロイヤル オークのベゼルにある目立つビスと、ベゼルとケースのあいだにある、視認可能なガスケットが生まれたのだ。

 ひと晩でデザインされた時計、実在しない潜水用ヘルメットをモチーフにした時計、デザイナーが誤解していたデザイン概要......何が悪いのか?

5. 最初のプロトタイプはホワイトゴールドだったことを確認

これもオーデマ ピゲの歴史のなかで広く繰り返されてきたことであり、今は引退したオーデマ ピゲの博物館長マーティン・ヴェールリ氏をはじめ、その場にいた人たちから何度も口頭で確認されていることだが、やはり直接本人の口から聞くのが一番面白いのだ。この場合の本人とは、ジェンタのことである。ジョルジュ・ゴレイはジェンタに、ゴールド製ケース作りのスペシャリストである時計ケースメーカー、ファーブル&ペレ社(Favre & Perret、1865年創業)に仕事を依頼するように言った。同社は当初、ジェンタのデザインはうまくいかないと言ったが、かなりのやりとりを経て、4つのプロトタイプが発注された。

 1971年、ホワイトゴールドのプロトタイプがSSIHの代表者に披露され、このプロジェクトにゴーサインが出された。SSIHの代理店は800本を注文し、ゴレイはスティール製の最初のシリーズ1000本の発注を決め、1971年5月にジャック-ルイ・オーデマがその注文にサインした。これはそれまでオーデマ ピゲが発注した単一モデルのなかで最大の数量だったという。

6. ロイヤル オークはジェンタのオーデマ ピゲでのスワンソングだった

ジェラルド・ジェンタは、オーデマ ピゲと長く非常に充実した関係を築いていたが、雇われの身であることに飽き足らず、自分のブランドを立ち上げたいと考えていた。1966年から2007年までオーデマ ピゲのアフターサービス部長を務めたウィルフレッド・バーニー氏は、2020年に同社のヘリテージ部門に宛てた文章のなかで、「...(ジェンタは)数年前から工房やオフィスを気ままに歩き回り、その過程で情報を集めていたため、まもなく自分のブランドを立ち上げることができるだろう」と書いている。

 オーデマ ピゲによると、ゴレイがジェンタの退社をどう受け止めたかについては、「激怒した」「安堵した」など、相反する報告があるそうだ。バーゼル1971からバーゼル1972まで、ロイヤル オーク開発の最後の1年間はジェンタ抜きで行われた。1972年、ジェンタはバーゼルで自社ブランドによる初の時計を発表。それは、13個の金のビスで固定された木製ベゼルを持つ時計だった。

7. ロイヤル オークはあと少しでサファリと名付けられるところだった

ロイヤル オークの起源に関するAPの年代記が指摘しているように、称賛に値する控えめな表現で、「新しい時計の命名は常にトリッキーなプロセスです」とある。 オーデマ ピゲはそれまで、シリーズものの時計に名前をつけたことがなかったからだ(1971年に同社は6217本の時計を製造したが、その数は237種類、さらに各モデルには異なる文字盤や素材が使用され、100本以上作られたのはわずか23モデルだった)。ロイヤル オーク以前は、ほとんどシリーズ化された時計は作られていなかったのである。

 1971年9月の議事録から、サファリ、グランプリ、ダイアン、サーフライダー、コロラド、アスコット(!)などの名前が候補として挙がっている。アスコットという名前(個人的には競馬と『スクービードゥ、どこにいる』のフレッドを連想させる)でこの時計が成功するとは思えないが、もっとおかしなことが起こっていたのだろう。

 ロイヤル オークという名は、SIHHのイタリア代理店であるカルロ・デ・マルキが、英国海軍の軍艦ロイヤル オークへのオマージュとして提案したようだ。戦艦ロイヤル オークは、第二次世界大戦中にスカパフロー停泊中、Uボートによって沈められ800人以上の仲間を失ったという悲しい歴史を持つが、この時計にとってこの名前は幸運のお守りとなったのである。

8. ロイヤル オークの初期の商業的失敗の噂は大げさだった

長年にわたって流布してきたロイヤル オークに関する多くの話のひとつに、当初は商業的に失敗したというものがあるが、APはこれを「広範囲にわたる誤解」と呼んでいる。この時計は、いくつかの市場(奇妙なことにイタリアを含む)ではスタートが遅く、3650スイスフランのスティールウォッチに対して、業界では懐疑的な見方が広がっていたのだ。ゴレイは、驚くべきことに、1973年の取締役会への年次報告書において、ロイヤル オークにさえ言及せず(「製品に関する限り、1972年には何も大きな変化はなかった」)、スイス時計ジャーナル(Journal Suisse d'Horlogerie)はこの時計をまったく取り上げなかったのである。

 しかし1973年にAPはすでに500本以上のロイヤル オークを製造していた。1972年から1978年のあいだに、A、B、C、Dシリーズで合計6050本のRef.5402モデルが製造され、「スティールが4288本、ゴールドとスティールのツートンが876本、イエローゴールドが736本、そしてホワイトゴールドが150本」だった。

 そして、その後は歴史に残ったというわけだ。

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