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In-Depth オリスが築いた街、ヘルシュタインを訪ねて

この人気ウォッチブランドが生まれるずっと前からある街だが、今やその足跡は至るところに見られる。

私はナショナルジオグラフィックのエクスプローラー(探検家)として、コミュニティという抽象的な概念に注目してきた。それは地理や歴史だけでなく、経験や責任を分かち合うという感情によって結ばれた人々の場所だ。

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 最近、私はこの視点を大切にしながら、スイスのジュラ山脈にある小さな渓谷を訪れた。その地の建築物ひとつをとっても、入り組んだ過去の経緯を物語っている。町の中心部にある淡いピンクの工場と密接に結びついたコミュニティの興隆、苦闘、再生の物語が、そこにはあった。

The Oris sign on the roof of their office building in the daylight

スイスのヘルシュタインにあるオリス本社。屋上にはブランド名の看板が見える。

 ようこそオリスの故郷、ヘルシュタインへ。

歴史

 20世紀初頭、ヘルシュタインは約40戸の農家が暮らす農村だった。しかし、スイスの急速な発展を目の当たりにした町の指導者たちは、さらなる可能性を見出した。1900年、繁栄する隣町のヴァルデンブルクと同じように、時計会社を誘致すべく、工場の建設に着手したのだ。

A view of buildings in Holstein

スイスのヘルシュタインの眺望。中央のピンクの建物がオリス本社。

 最初の会社は1902年、創業者の時計職人が心臓発作で死亡して倒産した。すぐにその穴を埋めたのが、スイスのグレンヘンからやって来たポール・カッティンとジョルジュ・クリスチャンだった。彼らは1904年までには工場を引き継ぎ、会社を近くの小川にちなんでオリスと名づけた。

A brook in Holstein

スイスのソロトゥルン州とバーゼル・ラントシャフト州の境を分けるオリスバッハ(オリスブルック=オリスの小川)。オリスブルックとは、実はオリスの工場の隣にある小川ではなく、車で少し行ったところにある小川を指す。一説によると、すぐ隣の小川の名前は、海外の人には発音が難しすぎるからとのことだが、小川にちなんだ社名をつけたいという彼らの感情的な引力が、その社名につながったのだという。

 カッティンとクリスチャンは、同じグレンヘンのエボーシュ(半製品)メーカー、アドルフ・ミシェルから時計職人を連れてきて、オリス初の懐中時計を作ったのだが、フランス語を話すスイス人である彼らは、地域に馴染むのに苦労した。

landscape of mountains and forest in Switzerland

スイスのヘルシュタインの風景。

 「当時の教師はフランス語を話さず、生まれてきた子供たちはドイツ語を話しませんでした」。オリスの名誉会長であり、約93年前にヘルシュタインで生まれた情熱ある在野の歴史家でもあるロルフ・ポルトマン博士はこう述べている。「この会社は、村の構造を完全に変えてしまいました。文化や言語の面だけではなく、熟練労働者の流入があったからです」

 ヘルシュタインの人口は、1904年には500人だったのが、1910年には800人以上に増えた。

 地元農家の人々は、時計製造が家族にもたらす可能性を感じ、子供たちを見習工にさせたり、技術学校に通わせたりしたが、自分たちの土地を手放すことにはためらいがあった。

Rolf Portmann

1956年に法務担当としてオリスに入社した現名誉会長のロルフ・ポルトマン博士。

 オリスの成長とともに、住宅用の土地が必要となった。1910年までには工場の向かい側に4軒の住宅が建てられた。そのデザインは、クリスチャン自身の家と同じくフランス・スイスのスタイルである。投資はさらに増大した。80戸のフラット、アパート付きレストランの建設、それに従業員が丘の斜面に家を建てるためのローンの提供など、そのすべてはヘルシュタインの膨れ上がる人口を収容するための投資だった。

A row of homes in Switzerland

オリスが地元の労働者のため、工場の向かい側に建てたオリジナルの住宅。

 ヘルシュタインで育ったポルトマン氏は、その街の変化を直に見てきた。彼の父親は1923年から1970年代まで、オリスのセールスマネージャーだった。しかし、国の重要な産業が過剰に拡大し、経済を危うくすることを恐れたスイス政府は、1934年3月12日、個々の時計会社が新しい技術を導入することを禁止する法案を可決させた。例えば、スティール製のケースしか作っていないのであれば、ゴールド製のケースは作れない。文字盤、石、ピニオンを既に製造していなければ、それらを決して作ることはできなくなったのだ。

A man examines a tray of Oris watches

スイスのヘルシュタインにあるオリス本社の新しいショップで、新作モデルのビッグクラウン ポインターデイトを見るオリス名誉会長のロルフ・ポルトマン博士。

 この法律ができたことにより、ポルトマンは法律の勉強を終えた1956年にオリスに法務担当として入社し、自分の父親、そして他の370人の従業員と共にヘルシュタイン工場で働くことになったのだった。この時点まで、オリスはピンレバー(ロスコフ)脱進機を使用していたのだが、多くの競合他社は件の法律の成立前に既にレバー脱進機に変更しており、彼らはオリスの技術よりも正確であるとアピールすることが可能になっていた。

 「私は、もともとは腕時計の仕事をするつもりはなかったのです」。彼は私にこう言った。「しかし、この法律は不公平で、すべての人を平等に扱っていなかった。1934年に1日でも先行していれば、永遠に先行していたことになる。二度と立ち直れなかった会社が実際にあったのです」

An Oris watch on a wrist

ロルフ・ポルトマン博士の腕には、オリス アートリエ キャリバー 111(ゴールド)が装着されていた。

 1961年、この法律の期限が再び10年間更新されようとしていた。ポルトマン氏は、各方面に懸命に働きかけた。この勝負に勝って、早く次のステップに進みたいと考えていたのだ。スイスの新聞に自分で記事を書き、バーゼルのジャーナリストとも協力し、全国各地の政治家にも会ったが、法律の更新を覆すのは困難を極めた。

 1966年、ポルトマン氏はこの法律をようやく廃止させた。そして1968年、オリスはクロノメーターの完全認定を受けたCal.652を発表し、レバー脱進機を使用した同社初の腕時計を実現した。ポルトマン氏は故郷に引き寄せられ、またかつて一度離れたコミュニティの感覚に引かれて、この地に残ることを決意。今度はオリスの社長室長として資産、製造、人事を管理することになった。1969年、オリスは世界で10本の指に入る腕時計メーカーとなり、毎年計120万個の腕時計や置時計を生産するに至った。

A man looks through the Oirs archive shelves

スイス・ヘルシュタインにあるオリスSA本社の地下で、保管資料に目を通すオリスSA会長のウルリッヒ・W・ヘルツォーク氏。

 1970年代には「クォーツ危機」によって、機械式時計産業は崩壊の危機にさらされた。「スイス全土の時計産業が、現在皆さんが思っている以上に崩壊してしまいました」。この危機の最中にオリスに入社した現オリス会長のウルリッヒ・ヘルツォーク氏は、このように話す。「全体で9万人いた時計産業の従業員が3万人になり、信じられないようなリストラが行われました。うちの会社と町は辛うじて生き残ったのです」

 オリスは生き残るためにも、インフラという方法を切り捨てた。数十年前に建てた従業員用の住宅を売却して、社員が残れるように住宅関連の優遇措置やローンを提供し、残った住宅もより大きなコミュニティに売り払った。しかし、真に会社を救ったのは、ある意味でオリス精神を受け継いだ「第二の創業者」、つまり新生オリスの象徴であるふたりの男たちの存在だった。

 そのふたり、ヘルツォーク氏とポルトマン氏は、1982年にマネジメント・バイアウト(MBO)を試み、会社を再び、その未来を信じる者たちの手に取り戻すことに成功したのである。

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現在

 当時のオリスの工場担当従業員のうち、ほんの一握りだけが今もヘルシュタインに住む。かつてはオリスのみが使用していた広大な工場には現在、12の会社が存在し、地元に雇用を提供している。

 オリスは実務的な理由だけでなく、心情的、歴史的な理由からも、自己変革し続けているのだ。

A booklet of Oris' old factory

スイス・ヘルシュタインにあるオリス本社の自分のオフィスで、自社の古いカタログに目を通すオリスSA会長のウルリッヒ・W・ヘルツォーク氏。

Oris watch movements

ウルリッヒ・W・ヘルツォーク氏は、スイス・ヘルシュタインにあるオリス本社の資料保管室で箱のなかから見つかった時計の部品を手にした。

A toy bear and a black and white photograph

オリスの「チーム・オブ・ザ・クオーター」(四半期ベストチーム賞)の賞品として贈られたクマの人形が、工場の修理コーナーに展示されていた。

 「30年前、日本にいる一人のアメリカ人が、オリスの腕時計を輸入していました。彼は私に、オリスのアーカイブを残すこと、何も捨てないことを勧めてくれました」。ヘルツォーク氏はこう話す。「彼は私たちに対し、オリスの空間や製品だけでなく、それらが象徴する歴史そのものを保存することの大切さを認識させてくれたのです」

 オリスの歴史への眼差しは、ヘルツォークが会社を導く上で欠かせない要素となっている。それを形にしたのが、新しい社内展示ホールだ。現在は自社の新作ムーブメントCal.400用の展示場所となっている。展示ホールの地下は宝の山のようだ。古い文字盤や部品、工具から設計図、広告資料に至るまで、あらゆるものが詰まった箱や容器が保管されており、2003年に初めてスポンサーとなったF1マシンの模型なども展示されている。

The Oris Museum

スイスのヘルシュタインにあるオリス本社に新設された「オリス展示ホール」。

Old watchmaking equipment at Oris

スイスのヘルシュタインにあるオリス本社の資料保管室には、ヴィンテージものの時計製造機器が置かれている。

Oris watch dials

スイスのヘルシュタインにあるオリスの資料保管室に並べられているヴィンテージの文字盤。

 ヘルシュタインに旅行する人は、あまり多くはない。町にはフルサービスのレストランやホテルがなく、観光客は車で10分ほどのブーベンドルフにあるホテル兼レストランに宿泊することになる。ここは現代的な設備が整っており、歴史的建造物の中でミシュランの星付き料理を味わえる。また、近くのバート(英語ではBath)エプティングテンという料理も内外装もより伝統的なスイス風のホテル兼レストランでは、英語のメニューは用意されておらず、純粋に地元の人と共に食事を楽しむことができる。

 ヘルシュタインに行く機会のある人は、オリスが最近、工場内にオープンしたブティック(店舗)を訪れるといい。この町の長年にわたる基幹企業であるオリスの時計を誰でも購入することができる。さらに、10日間パワーリザーブ時計など、同社の最も複雑な製品を修理する時計職人の姿や、ヴィンテージ時計、昔の会社用時計も見ることができる。

 ブティック内には、23歳の若き時計職人であり、このブティックのマネージャーでもあるアーロン・ルイガー氏がいる。ルイガー氏は、8歳のときに初めてクォーツ時計を手にしたときのことを覚えている。しかし、幼いながらに「もっといい時計があるはずだ」と思い、身につけることを拒んだそうだ。そして、16歳になるまで時計を持たずに過ごし、自分の全財産を貯めて、父親の友人でブティックのマネージャーをしていた人物から、フレデリック・コンスタントを購入することができた。そのマネージャーこそが、後にルイガー氏が自分のキャリアをスタートさせるきっかけとなったのだ。

A man in a watch shop

23歳の時計職人、アーロン・ルイガー氏は、オリス本社の新店舗のマネージャーを務めている。

 「学校のカウンセラーは僕の大きな手を見て、建設業の方が向いていると思ったようですが、僕は時計屋になりたかったのです」。彼はこう教えてくれた。「それで、父の友人のところへ行くと、彼はテーブルの上に懐中時計を置いて、『分解して、元に戻せ』と言ったのです」

 ルイガー氏は問題なくそれをやってのけた。彼は時計学校に通った後、オリスの修理工場で働くようになった。

 我々が話しているところに、車で45分ほどのルツェルンからある夫妻が、運針の遅れているヴィンテージのオリスを持ってやってきた。ルイガー氏は、それが磁気を帯びているのだと推察した。時計職人が作業しているあいだ、彼はその夫妻を社内ツアーに連れ出した。最終的に夫妻は、自分たちのために新しいビッグクラウンを購入した。修理に持ち込んだ1本だけではなく、新しい2本を加えた計3本のオリス製腕時計を手にして、自らのコミュニティへと帰って行ったのだ。

 「50年、100年前の古い時計を見るのが好きでした。時計に込められた思いが伝わってきて、その時計がどのように年月を経てきたかが分かるからです」と彼は言う。それでも、新たなチャレンジを探し求めて、もっと顧客と接し、自分と同じように時計を好きになってもらうために、ブティックの仕事に就いたのだ。

The Oris store

スイスのヘルシュタインにあるオリス本社にオープンした新店舗。

 現在の共同CEOであるロルフ・スチューダー氏は、会社の一つの指針として、それがヘルシュタインという町であろうと、ブランドやこの町自体が長年育んできたコレクターたちであろうと、オリスが常に「コミュニティ」の概念にコミットしてきたことを忘れないようにしている。

 「私は人口700人の小さな村で育ちました。村には人と同じくらいの数の牛がいました」とスチューダー氏は言う。「そうした村にある『互いを気遣う文化』には、とても共感しています。それは共通意識の文化です。人々は常にあなたのためにいるけれども、同時にあなたも責任を負うという文化でもあります。それを台無しにすることなど、到底できません」

Cafe with an Oris bear
An Oris watch

ヘルシュタインでの発表を前に、オリス本社に置かれていたオリス プロパイロットX キャリバー400。

Three watches and an Oris bear keychain

スイスのヘルシュタインでの発表を前に、オリス本社に置かれていたオリス プロパイロットX キャリバー400。

 「私たちは、腕時計業界の哲学的な意味において、腕時計が『市民』のためのものであると認識しています。私たちは業界内企業に対する相互の責任、自社の顧客に対する責任だけでなく、より広く世界に対して負う責任を極めて真剣に受け止めています」。スチューダー氏はこのように話す。「基本的に人間は、この地球にとって迷惑な存在になってきています。しかし、今一度ブランドとして立ち上がり、周りの世界に対して責任を持ち、その中で果たす役割を認識しつつ、自分たち自身やこの業界をより良くするために挑戦するチャンスはあるのです」

 オリスの歴史と、オリスがヘルシュタインで果たす役割は、スチューダーにとってかけがえのないものだ。彼は地元の食料品店やレストランで、地元の人々がオリスを身につけていることに気づく時がある。「そんな瞬間があると、本当に一日が楽しくなります」と彼は言う。そうした腕時計は、オリスがより広い世界において自らのコミュニティを持つブランドに成長した一方で、自らが故郷と呼ぶコミュニティからも愛され続けていることを思い出させてくれる存在なのだ。

A man poses in a watchmaking studio

スイスのヘルシュタインの本社で笑顔を見せるオリスSAの共同CEO、ロルフ・スチューダー氏。

An oris watch and a keychain

スイス・ヘルシュタインにあるオリス ビッグクラウン ヘルシュタイン エディション。

An Oris watch

オリス本社にある、新しいオリス ビッグクラウン ブロンズ。

 オリスは、地元の主要な雇用主ではなくなったとしても、地域社会への貢献は続けている。近隣のニーデルドルフのサッカー場や、工場の近くにある駐輪場のスポンサーにもなっている。従業員は地元の皮なめし工場と協力し、地元で収穫された鹿の革をオリスブランドのウォッチロールに仕上げたり、地元の酒造業者との協働により、自社店舗で販売する製品を作ったりしている。また、オリスは、自分たちが世界中で行っているのと同じ様に、地元の清掃活動のスポンサーになっている。そこで従業員は、強制されるのではなく、自分たちが働く幸運に恵まれた美しい地域に自ら恩返しをしている。

A child riding a bike in a bike park

ヘルシュタインのオリスの工場近くにあり、同社が一部スポンサーを務めているバイクパークで、自転車を楽しむティーンエイジャーたち。

ある金曜日の夕方、ウルリッヒ氏と私は彼の車に乗り込み、工場の前を流れる川を越えて、近くにあるもうひとつの美しい秘密の場所へと向かった。

 「これは、社名の由来となっている小川ではありませんよ」。ウルリッヒ氏は工場のそばにある川の方を身振りで示しながら、ほとんどのオリスファンが本社訪問時に抱く疑問を打ち消してくれた。「これはフレンケ川といいます。おそらく、外国人には発音が難しすぎると思ったので、この名前を使わなかったのでしょう。その代わりに、彼らはいくつか谷を越えたところにある小川インスピレーションを感じて名前を使ったのです」

A man with hay and some sheep

スイスのオリスバッハ(オリスの小川)に近いサン・パンタレオン中央部にある建物で、羊に餌を与える地元農家のエアハルト・ウィース氏。ヘルシュタイン周辺は、昔も今も農業が盛んな地域だが、ヘルシュタインの自治体が産業の多角化の必要性を感じ、雇用をもたらす時計会社の誘致を願って元の工場を建設したことからオリスが誕生した。

A parade

スイスのリエスタル市街で行われたファスナハト(カーニバル)のパレードに参加するグッゲ(ブラスバンド)のメンバーたち。バーゼルで有名なこの祭典だが、スイス全土で夜、何日もかけて行われるもので、各グループがさまざまなテーマに沿って、巨大な仮面をつけて市街地を占拠する。地元の人々は、ブラートヴルスト(ソーセージ)を食べ、ビールを飲み、お祭り騒ぎに興じるのだ。

A restaurant

スイスのエプティンゲンにあるホテル「バッド・エプティンゲン」は、ヘルシュタインから車で10分以内にある2軒のフルサービス・レストランのうちの1軒だが、古い伝統的なスイスのホテル兼レストランの魅力を保っている。ただし、英語のメニューは期待しないように。

 ウルリッヒ氏が言うその谷「オリスバレー」は、150年前のヘルシュタインの姿に似ている。まばらに広がる平地に農場が点在し、小道が静かな丘を這うように伸びている。近くの小さな町サン・パンタレオンでは、子供たちが道で馬を散歩させている。小さな納屋の1階では子羊が鳴き、上階には農家の人々が住んでいる。彼らは町の広場にある教会のすぐ隣で、農作業をしながら生活を営んでいる。

 オリスバッハ(オリスブルック=オリスの小川)は、木々に隠れていて、道路からはほとんど見えなかった。ウルリッヒ氏は最初、車をどこで止めようか迷っていた。ようやく小さな砂利道を見つけて車を止め、二人で溝を這うようにして降り、小川の横の野原にたどり着いた。ウルリッヒ氏は顔を輝かせながら、もっと川の近くに寄れるようにと、茂みの切れ目を探した。

A man by a river

スイスのソロトゥルン州とバーゼル・ランシャフト州との境界をなすオリスバッハ(オリスの小川)近くの野原を歩く、オリスSA会長のウルリッヒ・W・ヘルツォーク氏。

 「私が最後にこの小川に来たのは、たぶん何十年も前のことです。オリスの人間が最後にここに来たのも、それと同じぐらい前かもしれませんよ」。彼はこう話しながら、携帯電話で写真を撮り、その瞬間から車に戻るまでずっと微笑んでいた。「クリスチャンやカッティンが会社を設立する時、インスピレーションを求めて、まさにこの原点を訪れたかもしれないと思うと、とてもワクワクします。それから120年近く経った今、私たちが再びここを訪れて、彼らのレガシーを受け継ごうとしているのですから」

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