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Four Revolutions Part 3:機械式時計革命の簡潔な歴史(1976年~1989年まで)

機械式時計は、歴史の霧のなかに消え去ろうとしていた。だが、そうはならなかった。


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※本記事は2017年12月に US版で公開された記事の翻訳です。掲載されている相場も執筆当時のものです。

 この記事は現代の時計業界を作り上げた、過去40年間のなかで起こった4つの革命を紹介するシリーズの第3部である。これまでの記事では、ジョー・トンプソンによるシリーズの紹介と、“クォーツ革命の簡潔な歴史(大きな4革命の第一部)”、そして“ファッションウォッチ革命の簡潔な歴史”を紹介した。第3部となる今回は、前後編の2部構成でお届けする。

1976年はLEDやLCD、クォーツアナログなどで時計界が熱気に包まれていたが、その状況に、世界で最も偉大な現役の時計師であったジョージ・ダニエルズは、うんざりしていた。「私は“電気屋”にとても怒っている」。1999年にアメリカのタイム誌で同僚だったノーマ・ブキャナンにこう言った。“電気屋”とは、電子時計の提案者と、その前身である電気時計も含めて、ダニエルズが軽蔑して放った言葉である。「時計の世界で、“これが未来だ”といわんばかりに闊歩する姿に腹が立ったのです」

 怒りを覚えたダニエルズは仕返しすることを誓った。彼は母国イギリスで、新しい脱進機の発明に取り掛かった。「ダニエルズは、人生の半分をレバー脱進機(注油を必要とする摩擦)の問題について考えていました」と、ブキャナンのレポートは報告している。「でも彼が行動を起こすきっかけとなったのは、クォーツ革命でした。機械式時計はクォーツに劣らず、しかも電池を使わないのですから、それ以上の性能を持つものだと証明したかったのです」。

ジョージ・ダニエルズ

 ダニエルズはひとつのガンギ車を使った従来のものではなく、ふたつのガンギ車を同軸に設計した、新しい脱進機を考案した。この脱進機により機械式時計の精度は向上し、さらにメンテナンスの頻度も減るだろうと考えたのだ。新しいこのコーアクシャル脱進機は、電気屋に見せつけるためだったのだ!

 ダニエルズのクォーツショックへの対応は、趣向を凝らしたものだった。1976年に新しく改良された脱進機が、機械式時計は時代遅れと一蹴され、ともに歴史のスクラップになるのを防いでくれるという考え方は、笑止千万であった。機械式時計はすでに絶望的な状況であり、それはジョージ・ダニエルズ以外の時計業界の誰もがそう思っていた。しかし、ダニエルズはものともしていなかったという。

卓越した技術を持つダニエルズによる懐中時計、スペース トラベラーのムーブメントをご覧いただきたい。

 しかし、最後に笑うのは彼だった。ご存じのように、機械式時計はその運命に逆らい、産業史に残る驚異的な復活を遂げたのである。その道のりは長く、厳しいものだった(ダニエルズが開発したコーアクシャル脱進機が実用化されるのは、それから23年後のことである)が、それは実現したのだ。

 その経緯は、長編の本にもなっている(その後はメジャー映画にもなった!)。以下では、気難しいダニエルズがコーアクシャルに着手した翌年から時計業界の取材をはじめた私が、主要な登場人物とターニングポイントの一部を、エピソード形式でまとめて紹介していく。なおこの記事は、1978年から1989年までを、次に1990年から2000年までの2回にわけて掲載する。要するに、何が起こったか、手短に話すということだ。

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心に響く最初のストーリー

かつての腕時計は懐中時計に比べ、名だたるブランドの複雑時計でさえも、コレクターズアイテムとしては不向きとされていた時期があった。

 クォーツ時代の機械式時計に新しい息吹が感じられるようになったのは、1978年のことである。ジュネーブにある懐中時計ディーラー兼オークションハウス、Galerie d'Horlogerie Ancienneの共同設立者であるオズワルド・パトリッツィ氏は、懐中時計のコレクターが、ヴィンテージウォッチに興味を示していることに気づく。巻き上げ式の腕時計が廃れつつある今、懐かしさを感じるとともに、その希少性がさらに価値を高めるかもしれないという意識もあった。そこでパトリッツィ氏は、開催予定の懐中時計オークションに、腕時計の特別セッションを設けることにした。

 このセッションは初の試みだった。当時、コレクターの世界では、腕時計は懐中時計の継子のような位置付けだった。パトリッツィ氏は、「リストピースでオークションを汚すなんてどうかしている」、そして「オズワルド、何をしているんだ? こんな時計、誰も買ってくれないよ」などといわれた。

 だが、それは間違いだった。セッション最初の販売で、パテック フィリップの永久カレンダーが6500スイスフラン(日本円で約77万9000円)で落札という高値を記録したのだ。これを受けたパトリッツィ氏は、2回目の腕時計オークションを開催した。このとき、パテック フィリップのクロノグラフ付きパーペチュアルカレンダーが、1万8000スイスフラン(日本円で約215万9000円)で落札された。ヴィンテージウォッチブームが始まったのである。

 パトリッツィ氏は、のちのアンティコルムとなる新会社、ハプスブルグ フェルドマンを通じて、腕時計だけのオークションを開催しはじめた。これにはほかのオークションハウスも飛びつく事態となる。1980年にサザビーズが初めて大規模な腕時計オークションを開催し、翌81年には、クリスティーズが同様のオークションを開催した。80年代初頭の不況により一時期ヴィンテージ市場は減速したが、80年代半ばには再び活気を取り戻している(詳しくは後述)。

ジャン-クロード・ビバー氏

 一方、スイスウォッチメーカーの経営者たちのあいだには、クォーツの波に対する対抗勢力も存在した。クォーツ時計の反革命者はジョージ・ダニエルズだけではなかったのだ。またスイス時計業界の重鎮のなかにも、機械式の永続性を同じように信じている人がいた。その最大の信奉者が、ジャン-クロード・ビバー氏とロルフ・W・シュナイダーの2人であった。

 1982年、LVMHグループの時計部門を率いるビバー氏(執筆当時)は、当時としてはまさに奇想天外ともいえるアイデアを思いつく。ビバー氏はオメガのクォーツショックへの消極的な対応に不満を抱いていた、“ヤングタークス”と呼ばれる若い経営者たちとともに、オメガを辞めたばかりだった。ビバー氏はオメガに、ブランパンという休眠中の姉妹ブランドがあることを知っていた。1950年代の全盛期、ブランパンはダイバーズウォッチ、“フィフティ ファゾムス”を手がけたとして名をはせていたが、クォーツショックをきっかけに、まだいくつかの機械式ムーブメントを製造しつつもブランドとしてはほぼ姿を見せることはなかった。ビバー氏の頭には、このブランドを買収して高価な機械式時計メーカーとして復活させるという考えがあったのだ。そして彼は、スイスのジュー渓谷にある機械式ムーブメントメーカー、フレデリック・ピゲ S.A.のオーナーであるジャック・ピゲと手を組み、機械式ムーブメントの数々を手に入れた。

ブランパン初となるミニッツリピーター。

 1983年1月、彼らはブランパンの名称を、9000ドル(日本円で約213万7000円)相当で購入した。デジタルウォッチの生産量が機械式時計を上回ったころ、ビバー氏は無名のブランドから、まったく新しい機械式時計を市場に送り出したのだ。マーケティングを除けば、すべてが突拍子もない計画に思えた。ビバー氏は、彼の輝かしいキャリアの特徴である、天才的なマーケティングの兆候として、次のふたつの巧妙なことを実行した。そのひとつが、18世紀前半にスイスのジュラ山脈に住んでいた時計職人、ジャン=ジャック・ブランパンという人物が、このブランドの創始者であるということを突き止めたことだ。確かに、ブランパンの宣伝パンフレットにあった創業者の言葉(彼は繰り返すように、“我々は今日、明日の歴史の1ページを書いているのだ”といっていた)は、やや巧妙な印象操作のような気もする。ではなぜ、そんなこじつけをいうのか?

ユリス・ナルダン アストロラビウム ガリレオ・ガリレイは、機械式で複雑、さらに非常に高価という、1980年代の腕時計にありがちな要素をすべて備えていた。

 さらに重要なのは、ビバー氏がブランドの本質を表す広告スローガンを考えたことである。“1735年の創業以来、ブランパンにクォーツウォッチは一度も存在したことはないし、これからもないだろう”。このスローガンは十分に真実であったし、事実1969年まで誰もクォーツウォッチを作っていなかったのだ。しかし、そんなことは問題ではない。このスローガンは、ブランパンがジャン=ジャックの時代から、機械式時計を作り続けてきたことを暗に示していたということだ。そして、ブランパンの信条である、“我々はハンドメイドによる機械式時計の美しさ、伝統、そして価値を信じている”ということを、大胆に表現したのだ。すべて機械でつくられた、ありふれたクォーツウォッチが欲しい人はどうぞスルーして、だが、伝統的な職人技を重視するならば、ブランパンを手に入れるべきだと。ビバー氏の堂々ともいえる、1983年のアンチクォーツキャンペーンの展開は驚くべきものだったが、無事に成功を収める。ブランパンの売上が顕著に伸びたのだ。ビバー氏のプロフェッショナルな機械式マーケティングは、次に来る10年間の機械式時計の波を作り出す、最初の波紋となった。

 ビバー氏とピゲがブランパンを買収した同年、クアラルンプールで時計部品を作っていた、スイス人のロルフ・W・シュナイダーが、同じくクォーツショックの打撃を受けていたユリス・ナルダンを買収した。このとき、正社員1名、パートタイム1名の計2名で運営を続けていたという。クォーツウォッチはすでに、会社や業界にダメージを与えていたにもかかわらず、シュナイダーは今後も機械式だけを作り続けたいと考えていた。彼はひそかに、ゆるぎない救出計画を練っていた。それは、時刻のほかに、日食と月食の時間、真太陽時、星座、月と星の位置など、難解なデータが得られる機械式時計の製造である。そしてシュナイダーが雇った若い時計職人、ルートヴィヒ ・ エクスリン(Ludwig Oechslin)氏がつくったユリス・ナルダン アストロラビウム ガリレオ・ガリレイは、機械の魔術のような驚くべき出来栄えだった。しかしさらにすごいのは、これがデビューした1985年に、シュナイダーはこの時計を80本、3万7500スイスフラン(日本円で約364万7000円)という価格で販売したことである。

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機械式時計の確立

ヘンリー・グレイブスJr. スーパーコンプリケーションに触発され、パテック フィリップは極めて複雑な時計の開発を推し進める。

 機械式時計の復活には、新しい機械式時計の起業家が不可欠であった。しかしジュネーブのパテック フィリップやロレックスを中心とする機械式時計の老舗メーカーに比べれば、新興勢力は大変小さい存在である。ほかのメーカーがクォーツウォッチへの転換に躍起になるなか、彼らが持つ機械式時計を支え続けることが、機械式時計が生き残るためには必要不可欠だったのだ。

フィリップ・スターン

 1979年、パテック フィリップの社長であるフィリップ・スターン氏は、1989年に迎える創業150周年に向けた企画会議にて、重大な判断を下す。それはETA社が1.95mmのクォーツウォッチ、デリリウムを発表し、スイスがクォーツ技術で日本に対抗できると示したこの年に、スターン氏はパテック フィリップの150周年記念モデルを機械式時計にすると決断したのだ。スターン氏は、1932年に発表した、24もの機能を搭載し、世界で最も複雑な時計の称号を手にしたパテック フィリップ グレーブスよりも、さらに最も複雑で、特別な機械式時計を作ることをチームに求めた。そして彼のテクニカルチームは、1980年にこのプロジェクトに着手した。

 向かいのロレックスでは、社長のアンドレ・ハイニガーも機械式に賛成し、クォーツに反対していた。「アンドレ・ハイニガーには、まさに先見の明があった。彼の見解は、非常に高価なクォーツウォッチはすぐに陳腐化してしまうというものだった」と、スイス人作家のルシアン・トゥルーブは著書『Electrifying the Wristwatch(Schiffer Publishing, 2013)』のなかで書いている。「これはトランジスタラジオ、テレビ、卓上計算機などですでに起こっていたことだ」とトゥルーブ氏は続けている。「最高品質の機械式ムーブメントは、部品の製造や組み立てに多くの優秀な労働力を必要とするため、常に高価で、高級品であることに変わりはない。クォーツウォッチと違い、機械式時計はおおよその時間しかわからないということは、文字盤に“Superlative Chronometer, Officially Certified(COSC認定)”と書いておけば、簡単に隠すことができる…。富裕層は時刻がわかるための道具が欲しいのではなく、手首に飾れる、美しくて高級感のあるオブジェを望んでいるのだ」

 その結果、1970年代にハイニガー自身が認可した、長年にわたるクォーツ技術の研究にもかかわらず、機械式時計という業界でロレックスは王者に君臨し続けたのである。ロレックスはクォーツウォッチをつくっていた。しかし、その数は多くない。アンドレの息子であり、後継社長のパトリック・ハイニガーは、1994年の私のインタビューに対し、この額を「取るに足らない」と答えている。

機械式計時が脅かされていたこの時代、ロレックスのようなブランドでさえクォーツウォッチを製造していた。

 スイスの時計産業のもう一方の端、ドイツとの国境に近いシャフハウゼンにある、IWCのCEO、ギュンター・ブリュームラインも機械式にこだわっていたうちのひとりだった。ブリュームラインは1982年に、同社のチーフとして着任している。彼はまず最初に、同社トップの時計職人であるクルト・クラウス氏に、彼が取り組んでいるプロジェクトにちょっとした変更を加えてはどうかと提案した。クラウス氏は永久カレンダーが好きだった。

 クォーツショックが訪れたとき、1996年に彼は「週に4日しか仕事がなかった」と語っている。「5日目には、アイデアやデザインを練るのに没頭していました」。特に永久カレンダーのところだったという。ブリュームラインが入社した当時、彼は自動巻きムーブメントを搭載した、永久カレンダー腕時計の開発に取り組んでいた。それをブリュームラインに披露したところ、新しいボスは圧倒された。何に感心したかというと、永久カレンダーを搭載した自動巻きクロノグラフムーブメントだろう、とブリュームラインは話した。当時、これまで誰も永久カレンダー搭載の自動巻きクロノグラフ腕時計をつくっていなかったことを考えると、クラウス氏は反論できなかった。彼は一度挫けるも、再び図面を引き直した。そして彼は2年間、図面やカレンダーの計算をしながら、この時計の試作に取り組んだ。

ダ・ヴィンチは、IWCのなかでも挑戦的で複雑な時計であり、さらに重要な時期に登場を果たした。

 IWCは1985年のバーゼルワールドで、ダ・ヴィンチ(レオナルドへのオマージュ)と銘打ったこの時計を発表したのだが、その価格はなんと2万5000ドル(日本円で約596万3000円)だった。このモデルはゼンマイが動き続けていれば、214年ものあいだ、曜日、日付、月、年、月の満ち欠けを正確に、しかも無調整で刻み続けることができる時計だった。IWCの社員は、バーゼルワールドで何本のダ・ヴィンチが売れるか、賭けをした。この価格と、さらに機械式が低調であることを考えると、10〜15本と予想する人が多く、最も楽観的だったのは30本だった。しかしIWCは100以上のオーダーを受けたのだ。この出来事がブリュームラインに、時代の流れが変わりつつあることを感じさせ、さらに古典的な機械式時計は、安価なクォーツウォッチの時代の流れで終わることはないだろうと確信させてくれた。この成功に後押しされ、IWCは時計製造のエベレストに挑戦することを決意する。時計メーカーが誰もやったことのない場所、つまり腕に巻くグランドコンプリケーションウォッチという頂上に到達すべく、チームを結成したのだ。

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インディーズウォッチについて

1990年に発表した、スヴェン・アンデルセンによる最初のワールドタイマー。

 同年、独立時計師のスヴェン・アンデルセン氏と、ヴィンセント・カラブレーゼ氏のふたりが、独立時計師としての技術を絶やさないための組織を立ち上げた。それがAHCI(Académie Horlogère des Créateurs Indépendants)であり、これは翌年のバーゼルワールドで出展を果たす。AHCIの展示は、クォーツウォッチの世界でますます苦境に立たされている職人的な時計メーカーの作品を紹介する、重要なプラットフォームだった。ボルチモア生まれのローランド・マーフィー氏は、独立時計師の窮状を示す完璧な例だった。AHCIがバーゼルでデビューを飾った年、マーフィー氏はスイスの名門校WOSTEP(Watchmakers of Switzerland Training and Education Program)を卒業しているが、卒業後は内定がゼロどころか、面接もゼロだったそうだ。その後は、ペンシルベニア州ランカスターにあるハミルトンで、クォーツウォッチの製品開発マネージャーの職を得る。ただこの職は、決して理想的とはいえなかった。「私は時計職人だったのです」とマーフィー氏は言う。「私はクォーツウォッチが嫌いだったんです」(彼については後編で詳しく紹介しよう)。

ローランド・マーフィー氏がアメリカ、ペンシルベニアに構えているアメリカのウォッチメーカー、RGMの時計。

 その一方、古いものではあるが、機械式腕時計への興味関心も高まっていた。1988年に、ノーマ・ブキャナンは「80年代の半ばに入ると、ヴィンテージウォッチの市場は復活を遂げている」と書いている。「価格が高騰しことで、投資家たちは“ビッグ5”(パテック フィリップ、ロレックス、カルティエ、ヴァシュロン・コンスタンタン、オーデマ ピゲ)と呼ばれるブランドの時計が、子供たちを大学まで通わせることができるという期待から、5~6桁の大金を手放したのだ」と。価格が急騰した一例として、フロリダのあるヴィンテージウォッチディーラーは、1987年2月に5万ドル(日本円で約723万1000円)で売れたパテック フィリップのクロノグラフ付き永久カレンダーが、1年後には7万ドル(日本円で約897万円)から8万ドル(日本円で約1025万2000円)になっていたとも話していた。

 ヴィンテージウォッチブームにより、機械式腕時計のイメージと関心がよみがえった当時。しかし、スイスの反革命派が必要としていたのは、新しい機械式時計への関心を高めることであったが、1985年ごろに彼らはそれを手に入れたのである。

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クロノグラフが人を狂わせる

イタリア人が、“デイトナは流行る”と判断した時点で、すべての賭けは終わっていた。

 現在の機械式時計の復興は、イタリアから始まった。イタリア人は時計を愛している。1980年代半ばに入ると、彼らは機械式クロノグラフに夢中になっていく。彼らはヴィンテージも大好きだったが、新しいものも買い付けていた。レザーのボンバージャケットにサングラスというアビエイタールックが、当時のイタリア人男性のあいだでトレンドとなり、ロレックス デイトナや、ブライトリング ナビタイマー、さらにはスタイリッシュなプロレタリアン階級のロシア軍用時計などが、このひと揃いの服装を完璧に引き締めていたのである。

 クロノグラフブームはすぐにヨーロッパ中に広がり、やがてアメリカにも波及していく。これが多くのデイトナマニアを生み出して、数年にわたる品不足を招き、さらにブライトリングに大きな飛躍をもたらしたといわれている。ブライトリングもまた、クォーツショックにより大打撃を受けたブランドのうちのひとつだった。1979年、財政難に陥った同社を引き継いだのは、新オーナーのアーネスト・シュナイダーだ。実業家、エンジニア、パイロットとして成功した彼は、ブライトリングの特徴である計器然としたスタイルを保ちながら、ブライトリングに新たな風を吹き込んだ。さらにイタリア空軍に、ブライトリングの時計(もちろん機械式だ)をつけるよう、抜け目なく取り計らった。やがてブライトリングのパイロットウォッチは、ミラノのセレブリティたちのあいだで、シックな時計として親しまれるようになっていく。薄型のクォーツウォッチが一般的であると同時に、賑やかなブライトリングのボリューム感のある機械式クロノグラフは、新しい時計のスタイルを確立したのだ。

 イタリアの時計マニアはもうひとつ、消費者向けの時計雑誌という新たな現象を生み出した。1987年から88年にかけて、数カ月のあいだに3種類の時計月刊誌が創刊されたのである。この現象もヨーロッパ全土に広がり、やがてアメリカに到達する。この雑誌は、新しい世代の時計愛好家に機械式時計へ関心を持ってもらうのに、重要な役割を果たした。

 イタリアのクロノグラフブームがきっかけとなり、機械式時計に再び火がつく。1988年、スイスの機械式時計の生産量は1982年以来、初めて増加傾向を示し、同時に生産額も17%増の、12億3000万ドル相当と、急増している。当時、スイスで有名な業界の専門家であったローランド・シルト氏は、「今まさに、機械式時計は戻りつつある」と私に伝えている。

 そして、パテック フィリップの記念すべきイベントが開催された。タイミングはバッチリだった。

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Cal.89

 1989年は、アントワーヌ・ノルベール・ド・パテック伯爵がパテック フィリップをジュネーブで創業してから150周年を迎えた年だ。この記念式典のハイライトは、301本ものパテック フィリップの時計を出品したオークションだ。その最終ロットは、フィリップ・スターンたちが10年前に作ると決意していた時計だった。Cal.89と呼ばれるこの時計は、33つもの機能を搭載した、史上最も複雑な時計だった。部品点数は1728点、ふたつのメインダイヤル、12のサブダイヤルおよびリング、24本の針を搭載していた。重さは2.5ポンド(約1.13kg)で、ソフトボールほどの大きさだったそうだ。このオークションはオズワルド・パトリッツィ氏が司会を務めた。Cal.89は、税金および手数料を含めて317万ドル(日本円で約4億3733万3000円)で落札され、オークション全体では1520万ドル(日本円で約20億9699万2000円)の落札額となった。

 Cal.89は、機械式時計の復興へのターニングポイントとなった。この時計は世界中で話題を集め、機械式時計の素晴らしさにスポットを当て、またほとんどの人が聞いたことのない時計用語のコンプリケーションを用いて紹介していた(クォーツ時計では“ファンクション”と呼ばれる、純粋な計時機能以外の、すべての機能)。Cal.89が世間を騒がせた一例を紹介しよう。サタデー・ナイト・ライブ内のコーナー、ウィークエンド・アップデートにて、コメディアンでフェイクニュースキャスターのデニス・ミラー氏が、ジュネーブであらゆる機能を持った時計が310万ドルで落札されたとして、この時計を取り上げたのだ。続けて彼は、鉛筆で机の上を叩きながら、「そうだな、300万ドルで何ができるか教えてやろう、ベイビー」と笑いを誘いながら言った。パテックの大きなメカニカルウォッチは、まさに大きな話題を呼んだのだ。

 オークションの2カ月前、ジュネーブにいるフィリップ・スターン氏とパトリッツィ氏から、この時計のプレビューを受け取った。プレビューの記事で、私はこう執筆している。「Cal.89の魅力のひとつは、そのすべてが現代の計時に対して対照的であること。そして懐中時計のような特大サイズに2000点近くの部品、そして9年の歳月を経て完成している点だ。しかし時計は、過去のタイマーを思い出させるだけのものではない。パテックの偉大な功績は、昔ながらの技術を用いながらも、ハイテクなクォーツウォッチに劣らない、洗練された多機能時計を作り上げたことである」

 Cal.89は、機械式ムーブメントや時計の設計・製造に新技術を用いる“ハイメカ”(優れた強度を持つ機械)の最たる例である。Cal.89を製作するにあたり、パテックは33個の複雑機構を、どうやってひとつの時計ケースに収めるかという多くの課題に直面した。スターン氏は「それがいちばん大変でした」と話している。当時50歳だったスターン氏は将来を見据え、28歳だったエンジニア、ジャン・ピエール・ミュジー氏をCal.89のプロジェクト担当に任命している。ミュジー氏の採用は賛否両論あったという。「昔の時計職人はとてもネガティブだった」とスターン氏。「“技術者、特に若い技術者と一緒に時計は作れない。これを実現できるのは時計職人だけ、それも最高の時計職人だけだ”と彼らは私に話していました。少しばかり嫉妬していたんです」。しかしスターン氏は、「複雑な時計をつくるには、まったく新しい方法で組み立てることができる、若い技術者が参加していなければならないと思ったのです」と語った。

 彼らは、多くの複雑な問題を解決するべく、コンピュータを使うことを見出した。技術者にとっては当たり前の設備であるが、古くからの時計職人にとっては異質な存在である。パテックは64万ドル(日本円で約8829万4000円)を投じて、同社初となるCAD(コンピュータ設計支援)装置を導入した。それから数年、Cal.89チームは、1600枚の設計図を起こし、この時計の製作を実現したのである。

 当時革新的だったマイクロマシンの製造技術、CAD/CAM、CNC(コンピューター数値制御)マシン、さらに自動ワイヤーカットなどを巧みに駆使し、スイスの伝統的なハンドメイドのクラフツマンシップを補ったことが、伝統的な機械式時計が復活する大きな要因となった。この新技術により、Cal.89のあとに登場するハイコンプリケーションを搭載した、新世代の時計が生み出されていく。例えば1990年、クルト・クラウス氏とIWCのチームは、世界初のグランドコンプリケーションを搭載した腕時計を発表し、それに続くようにブランパンは、1991年に世界で2番目となるモデルを発表している。これを転機に、コンプリケーションブームが到来したのである。

 これについては、掲載予定の後編、“機械式時計のルネサンス(1990-2000)”で詳しくレビューする予定です。