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Four Revolutions Part 1:クォーツ革命の簡潔な歴史(大きな4革命の第一部)

時計の世界では、1970年代にすべてが変わった。


※本記事は2017年10月に US版で公開された記事の翻訳です。 

 今回は、HODINKEE総合編集長(当時)のジョー・トンプソン が、我々の知る現代の時計界を形作った4つの革命を紹介する全4部シリーズの第1部である。 本連載の紹介記事はこちら。ぜひ楽しんでいただきたい。

クォーツ時計革命の第一弾は、1960年代の最終週に放たれた。12月25日、東京でセイコーが世界初のクォーツ腕時計「クオーツ アストロン」を発表したのである。ゴールドケースの100本限定で、価格は45万円。当時のトヨタ・カローラの価格に匹敵した。ムーブメントは電池式で、周波数8192Hzの水晶振動子を搭載し、日差5秒以内の精度を実現した。

 アストロンは時計界に衝撃を与えた 。しかし、革命家たちが本格的に障壁の突破に取り掛かるには、まだ時間がかかった。セイコーをはじめとする先行メーカー(1970年のバーゼルフェアでは、スイスのいくつかのブランドがクォーツ式のアナログ時計を発表していた)は、新しい技術を完成させ、大量生産を開始するまでに時間を要した。例えば、セイコーが後続モデルのアストロンを発表するには1971年までかかった。 

seiko astron 1969

セイコー アストロンのオリジナルモデル。

seiko astron caliber 35a

1969年のアストロンに使われたセイコー製Cal.35A。 (画像: ウィキペディア)

 クォーツ時代に、初めて大きなヒットとなったのはアナログ時計ではなくデジタル時計だった。1972年4月、ペンシルバニア州ランカスターにあるハミルトン社が、世界初のデジタル時計「パルサー」を発表したのだゴールドケース入りで2100ドルの値を付け、ケースのボタンを押すとLED(発光ダイオード)ディスプレイが点灯して時刻を数字で表示するというものだった。従来の文字盤と針を持つアナログ式のクォーツ時計とは異なり、デジタル式は可動部のない完全な電子機器である。

1973 pulsar led advertisement james bond

「ハミルトン パルサー P2」は、1973年にあのジェームズ・ボンドが着用していたゴールド製P1の量産モデルだ(ロジャー・ムーアが『007 死ぬのは奴らだ』で着用)。

 技術的には、このLEDには欠点があった。時間を知るためには両手が必要なうえ(片腕に時計を着け、もう片方でボタンを押してディスプレイを点灯させる)、点灯する際の電池の消耗が激しかったのだ。1973年には、セイコーなどがLCD(液晶ディスプレイ)を搭載したデジタルウォッチを発売し、常に時刻を表示するようになった。しかし、初期の液晶ディスプレイには読みにくいものもあった。

 欠点はあったものの、パルサーはヒットした。クォーツ革命の最初の段階では、アナログよりもデジタル、液晶ディスプレイよりもLEDの方が人気があった。

 1974年、ナショナル・セミコンダクター社が競合他社の半分の価格である125ドルのLEDを発売して市場に参入したことで、LEDの需要が大きく伸びた。これを受け、米国のエレクトロニクス企業が腕時計市場に殺到することになる。1975年には、50社以上の半導体メーカー(モトローラ、ヒューズ、フェアチャイルド、インテルのマイクロマ、ヒューレット・パッカードなど)が米国でLED時計を製造・販売していた。1975年のビジネスウィーク ではこのトレンドを称える記事「Digital Watches: Bringing Watchmaking Back to the U.S.(デジタルウォッチ:アメリカに時計作りを取り戻す)」が掲載された。

ヒューレット・パッカードのLEDウォッチ「HP-01」。

 だが、それは実現しなかった。LEDの供給量は増えたが、品質の問題や押しボタン式の時刻表示の煩わしさから需要が減ったのだ。価格も暴落した。テキサス・インスツルメンツ社が1976年に19.95ドル、1977年に10ドルへとLEDを値下げしたことで、LEDブームは崩壊してしまったのである。ハミルトンは1977年、フィラデルフィアの宝石・時計販売会社にパルサーを売却した。1980年には、TI社以外の米国のエレクトロニクス企業は全て消滅した。

 デジタルウォッチは液晶ディスプレイが主流となり、生産拠点は香港、台湾、韓国、シンガポール、中国など極東に移っていった。その中でも特に成功を収めたのが香港である。1980年には、世界で最も急速に成長した時計生産拠点となり、1億2600万本の腕時計を輸出したが、その半数以上がデジタル時計だった。

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 その後、LCDの価格も下がっていった。デジタル時計が価格とイメージの両面で安っぽくなったことで、1976年には高品質で高価格のアナログクォーツ時計が販売されるようになった。そして、セイコーとスイスの間で、クォーツ時計革命の2回目の大勝負が始まったのである。

Seiko LCD alarm chronograph 1978

セイコー LCD ソーラーアラーム クロノグラフ(1978年)。 セイコーは、 セイコーエプソンが開発したLCDディスプレイを搭載した「セイコークオーツLC V.F.A. 06LC」を、6桁表示のLCD時計としては市場に初めて投入した(画像: ウィキペディア

 日本の時計メーカーはこぞってクォーツを採用したが、その中でも明らかなトップはセイコーだった。東京のライバル、シチズンは当時、売上高がセイコーの4分の1と、遥かに小さな規模だったのだ(カシオがクオォーツ、特にG-SHOCKで成功したのは後のことで、LCD時計を発売したのは1978年のことである)。

 アナログに始まり、次にはデジタルと、セイコーほどクォーツ技術を熱心に取り入れた時計は他にない。1972年には、「アストロン」の新モデルとして世界初のクォーツ式アナログレディスウォッチを発売した。その後、LCD腕時計で初めての6桁表示(1973年)、初の多機能デジタル時計(1975年)と、次々とLCDにおける初を達成していった。
 セイコーは一貫してクォーツ技術を開発・改良。その技術力は、LEDブーム時にも発揮されていたため、セイコーの営業員や販売店は東京本社にLED腕時計を求めた。しかし、セイコーは断った。研究の結果、LEDはよくない投資だと判断したのだ。そうではなく、セイコーはLCDに賭けた。1985年のハーバード・ビジネス・スクールのレポートによると、「セイコーは1975年までに、集積回路、電池、LCDパネルを作る工場に投資。従業員は新しい技術に対応するために再教育を受けた。また、大量生産、自動化のためのロボットや設備への投資も増やしていった」とある。

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 その全てが功を奏した。1977年には、セイコーは収益で世界最大の腕時計会社になっていた。ハーバード・ビジネス・スクールの調査によると、1977年のセイコーの腕時計の収益は7億ドルで、生産数は1800万本だった。2位のタイメックスは、生産数(3500万本)では上回っていたが、収益(4億7500万ドル)では大きく引き離されていた。そして、セイコーがアナログとデジタルの両方のクォーツ時計を開発したことは、非常に賢明な判断だったと言える(米国のエレクトロニクス企業はアナログのクォーツ時計を無視し、スイスはデジタル時計をほとんど無視していた)。1979年には、世界で売られているクォーツ時計の約半分がアナログで、半分がデジタルだった。デジタル腕時計のうち80%以上がLCDであった。ビジネスウィーク誌は、1978年6月5日の記事「Seiko’s Smash: The quartz watch overwhelms the industry.(セイコーの衝撃:クォーツウォッチが業界を席巻)」で、同社の成功を讃えている。

 ビジネスウィーク誌はこう指摘した。「セイコーブランドの時計を製造する日本の強力な時計メーカーである服部時計店は、10年以上にわたるマーケティングと企業の混乱を経て、60億ドル規模の世界の腕時計業界において、誰もが認める中心的存在として浮上した。今後を見据えると、腕時計業界の大部分が追いつこうとしている中で、セイコーの経営陣は自分たちが未来の波に乗っていると確信している」。もちろん、スイスでの話である。

 セイコーのような一大企業が機械式からクォーツ式に移行するのと、スイスのような細分化された産業全体が機械式からクォーツ式に移行するのとは、全く別のことである。スイスの時計業界には2つの大きなグループがあった。オメガが主役のSSIH社、ロンジンを主力ブランドとするASUAG社だ。

オメガのスイス製クォーツムーブメント「ベータ21」の初期モデル2点。1967年にCEH(Centre Electronique Horloger)で「ベータ1」のプロトタイプがテストされ、1970年には20社ほどがベータ21の時計を発売したが、スイスでは当初、市販のクォーツ時計の納入が大幅に遅れた。

 この2社は1977年の時点で、それぞれ世界第3位と第4位の時計メーカーであり、合計の売上高は5億4500万ドルであった。同業界には何百ものブランドがあり、そのほとんどが1000社以上の小さなメーカーから供給された部品を使って自社で時計を製造していた。危機を乗り越えるため、零細企業は大企業に目を向けた。しかし、クォーツの猛攻により各社の売上が減少していたため、簡単にはいかなかった。 

 やがてスイスでは、この危機を乗り越えるためには、業界の全面的な再構築が必要だと考えられるようになった。1978年から1985年にかけて、エルンスト・トムケとニコラス・G・ハイエック・シニアという2人の男がチームを組んで、業界が必要とする痛みを伴う改革を行った。

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ティファニーの「コンコルド デリリウム」の初期の広告(写真:ウィキペディア)。

 先に登場するのはトムケだ。ASUAGは1978年にトムケを採用し、自社の16ブランドをはじめとする多くのブランドのムーブメントや部品を製造していたエボーシュSAの再構築を行った。トムケは、エボーシュ社の各子会社をETA SAという新会社に整理・統合した。彼は製造コストを削減し、従業員を減らし(1982年までに2万人から8000人に)、ETA社のアナログクォーツ時計の生産への転換を加速させた。それが、スイスのクォーツ危機における初勝利につながったのである。 

 1978年、シチズンはケース厚4.1mmの「エクシード ゴールド」という世界最薄の時計を発表した。同年、セイコーはケース厚2.5mmの腕時計でそれを超越した。1979年1月には、ETA社が厚さ1.98mmの「デリリウム」を発表し、時計界を驚かせた(米国ではコンコルドブランドで発売されたが、これはコンコルド社のオーナーであるゲダリオ・グリンバーグが資金を投じて、資金難に陥っていたETA社のムーブメントの開発を支援したためである)。セイコーはより薄い時計を作って対抗したが、ETA社は準備を整えていた。3本のデリリウムを追加で発売して薄型時計戦争に勝利したのだ。最後のモデル「デリリウムIV」は、ケースの厚さが0.98mmという驚異的なもので、今でも史上最薄の時計である。

 デリリウムは大きな勝利だった。スイスがクォーツ技術を習得し、日本のメーカーに対抗できることを世界に知らしめたのだ。実際、スイスのクォーツ式アナログ時計は、カルティエ、レイモンド・ウェイル、グッチ、エベル、コンコルドなどのブランドから薄型でエレガントなモデルが発売され、中高価格帯の市場で一定の成功を収めた。

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ニコラス・G・ハイエック(写真:ブレゲ提供)。

 しかし、それだけでは不十分だった。SSIHとASUAGの損失は拡大の一途をたどった。スイスの銀行連合は自国第3の輸出産業を救うため、この2つのグループを救済しなければならなかった。1981年から1983年にかけて行われた一連の救済措置により、スイスの銀行は5億5000万スイスフラン以上の資金を時計産業に投入した。この危機に際して、銀行が目をつけたのが、スイスのトップコンサルティング会社であるチューリッヒのハイエック・エンジニアリング社のオーナー、ハイエックだった。銀行はハイエックに、腕時計業界を救うための計画策定を依頼した。1983年に完成したハイエックの抜本的な解決策は、2つのグループを1つの会社に統合し、ブランドと生産部門を分離するというものだった。全ての生産は、ETA社に集約させる。それまで独自のムーブメントを生産していた各ブランドは、デザイン、マーケティング、販売に専念することになった。銀行はこの計画を受け入れ、その実行のためにハイエックを雇った。新会社の名前は、SMH(英語では「Swiss Corporation for Microelectronics and Watchmaking」)となった。現在では、スウォッチ・グループとして知られている。

1983年当時のスウォッチの仕様図(写真:「W.B.S Collector's Guide for Swatch Watches」)。

 この計画には理由があった。デリリウムの成功後、トムケとそのチームは「Delirium vulgare」(ラテン語で「大衆のためのデリリウム」の意)という秘密のプロジェクトを開始した。この計画は、デリリウムで培った技術をETA社が応用して、安価なアナログクォーツ時計を作り、低価格帯の市場でスイス勢の復活を図るというものだった。1970年代初頭、スイスはピンレバー式の機械式ムーブメントでその市場を席巻していたが、安価なクォーツ時計に市場を奪われてしまった(1970年には、ピンレバー式ムーブメント・ロスコフがスイスの生産量の44%を占めていた)。Delirium vulgareは、そのような市場の一部を奪還することができた。デリリウムで、ETA社はスペース節約のためにムーブメントの底板をなくし、その部分をケースバックに直接取り付けた。新型モデルでも同じようにして、スペースではなく、コストを削減した。同じ理由でケースもプラスチック製にすることになった。ETA社は、完成した時計自体を小売店に直接販売し、35ドルの小売価格にも関わらず、1本あたり多額の利幅を確保した。

 トムケが抱えていた問題は、時計を作るための投資資金が必要なことだった。時計の救済に疲れた銀行はこれを拒否。ハイエックが到着すると、トムケはDelirium vulgareの秘密の設計図を彼に見せた。ハイエックは、銀行から資金を調達すると言い、そして、その通りになった。ETA社は、1983年にプラスチック時計をスウォッチのブランドとして発売した。これは一夜にしてセンセーションを巻き起こし、スウォッチは、時計業界に衝撃を与えることとなる。それまで人件費が高いため競争できなかった低価格帯の市場に、スイス勢が挑むとは誰も予想していなかったのだ。

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1983年の初代スウォッチ(写真:swatchandbeyond.com提供)。

 スウォッチは、スイス人にとってのクォーツ危機の転換点となった。クォーツ技術は、時計産業に大打撃を与えた。時計産業の雇用者数は、1970年の8万9450人から1985年には3万2000人にまで減少(1988年には2万8000人で底を打った)。1974年から1983年にかけて、スイスの時計生産量は過去最高の9600万本から4500万本に減少した。しかし、スウォッチが発売されたわずか2年後には、生産量は6000万本にまで回復したのである。この年、スイスの時計輸出の80%がクォーツ時計で、そのうち42%がプラスチック製時計だった。これがスウォッチ効果である。しかも、1983年には赤字だった新SMHグループは黒字に転換。帝国の逆襲が始まったのである。ミスタースウォッチと呼ばれるようになったハイエックが、1998年にSMH社の社名をスウォッチ・グループに変更したのも不思議ではない。

rolex ref. 5100

1970年、ロレックスは自社製のクォーツムーブメントを搭載したRef.5100を発表する。

 クォーツ技術の進歩は続いている。現在では、ブライトリングやグランドセイコーなどのブランドから、極めて高い精度を備えた、いわゆる「スーパークォーツ」と呼ばれる新世代の時計が発売されている。また、シチズンのエコ・ドライブに代表されるソーラー(太陽)電池や、セイコーのキネティックに代表されるモーション・パワー技術は、電池交換の煩わしさを解消した。ユンハンスやシチズンは、1990年代に原子時計からの信号を受信する電波時計を開発した。その後、1999年にカシオが発売した「PRT-1GP」に代表される、宇宙空間にある人工衛星から超高精度の時刻信号を受信する今日のGPSウォッチの登場につながった。

 クォーツ技術が時計の世界に広範に浸透していることを示す最も明確な影響は、毎年生産されるクォーツ時計の数だ。日本時計協会によると、2015年には14億6000個の時計が生産された。そのうち、14億2000万個がクォーツで、全体の97%を占めている。その内訳は、アナログクォーツ時計が81%、デジタルクォーツ時計が16%となっている。時計愛好家は、機械式時計を愛し、その複雑さ、芸術性、希少性に価値を見出している。それは当然のことである。なぜなら、セイコーがアストロンを発売してから半世紀近くが経過し、生産の面においては時計の世界はほとんどがクォーツになっているからである。

次回は、「ファッションウォッチ革命の簡潔な歴史(大きな4革命の第二部)」をお届けする。