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2003年11月、ジェイ・Zの “引退”コンサートが、マディソンスクエア・ガーデンにて開催された(もちろんチケットは公演前に完売した)。ヒップホップやR&Bの主要なアーティストが一同に会す豪華なコンサートで、ビヨンセ、ゴーストフェイス・キラー、ファレル、ミッシー・エリオット、フォクシー・ブラウン、メアリー・J・ブライジが彼と一緒にパフォーマンスを披露。キャリア10年目にして彼はすでに史上最高のラッパーのひとりに数えられており、同世代で最も影響力を持つ文化人の仲間入りを果たそうとしていた。その夜、ジェイ・Zはこの記念すべき日を祝うために、ジェイコブ(Jacob & Co.)のファイブタイムゾーンという腕時計を身につけて現れた。
ファイブタイムゾーンは、ビギー・スモールズがつけたニックネーム“宝石商ジェイコブ”で知られるニューヨーク47番街の有名企業家、ジェイコブ・アラボ氏がその1年前に発表したモデルだった。
この時計はニューヨーク、ロサンゼルス、東京、パリの時刻を表示する4つのインダイヤル(タイムゾーン)を装備。各インダイヤルおよびメインダイヤルは、原色やパステルカラーにより大胆に彩られていた。ムーブメントには、ETA社製クォーツを採用。直径40mmと47mmの2サイズが展開され、2002年のプレスリリースでは、この時計は性別を超越したモデルであると説明されている。ファイブタイムゾーンは、SSやさまざまなプレシャスメタルに加え、ベゼルにダイヤモンドをあしらったものやプレーンなベゼルを持つバリエーションも存在する。極め付けには、ケースからダイヤル全体を宝石で埋め尽くしたオプションまで用意されていた。すべてのモデルには、簡単に交換できるストラップが付属。プレーンなモデルには4つのポリウレタン製ストラップとデプロワイヤントバックル、ダイヤモンドセットモデルには2種類のアリゲーターストラップ、そして総ダイヤモンドダイヤルのモデルには4種類のアリゲーターストラップがセットになっている。アラボ氏の会社としては初のウォッチコレクションとなり、価格は5500ドル(約72万3000円)から設定されていた。
2002年5月、ビキニ姿のナオミ・キャンベルが、ジル・ベンシモンの撮影とカーリン・サーフ・ド・ドゥドゥゼールによるスタイリングでELLE誌に登場。このときから、ジェイコブの躍進が始まった。ファレル、バスタ・ライムス、ショーン・コムズ(ディディ)、ボノ(U2)がこぞって購入したのだ。アメリカでもヨーロッパでも、ティーンエイジャーやラッパーが競って買い求め、卸売業者には6カ月待ちのリストができるほどの人気モデルとなった。
ファイブタイムゾーンは、現在57歳のアラボ氏が1978年、13歳のときに父親から譲り受けた時計がモデルになっている。「それは、私にとって初めての時計でした。2つのタイムゾーンに2つのムーブメント、そして真ん中には世界地図が描かれていました。それが、ファイブタイムゾーンを作るきっかけになったのです。今でも持っていますよ」と彼は私に語った。
ヒップホップ旋風、その中心地への旅は1979年にアラボ氏が家族とともにウズベキスタンからアメリカに移住したことから始まった。17歳のときすでに、彼は6カ月間のジュエリー製作のトレーニングプログラムに参加していた。1986年、当時21歳だったアラボ氏は、自身のラグジュアリーブランドを立ち上げる。それこそが、自身の名を冠したジェイコブである。
“宝石商ジェイコブ”は世界的に有名なミュージシャンのために、ダイヤモンドをあしらったオーダーメイドの装飾品を作り続けてきた。彼は当時、大物セレブリティのほぼすべてに作品を販売し、身につけさせたのだ。その結果として、ダイヤモンドと鮮やかなファンシーストーンが多くの人々の目に触れることになった。豪華なジュエリーは、もはやエリザベス・テイラーやリベラーチェ(米ピアニスト)、アッパーイーストサイドの遺産相続人だけのものではなくなったのだ。アラボ氏は、BAPEの創始者でポップスターのNIGO®(こと長尾智明氏)やファレルともコラボした。彼らはカラーダイヤモンドを使用し、ジュエリーデザインの新しい境界線を押し広げることにより、男性にとってのジュエリーに変革をもたらした人物である(宝石をセットしたG-SHOCKは有名だろう)。アラボ氏はジュエリー文化というひとつのカテゴリー、その本質を作り上げたのだ。
とりわけアラボ氏はマーケティングの天才であり、ニューヨークで生まれ育ったエクアドル移民2世のティト・カイセドの後継者だった。彼はカナルストリートに最初の宝石店を設立し、その後1984年に47番街のダイヤモンド・ディストリクトに移転する。「アラボの前にはティトがいましたが、顔と名前が一致しません」と語るのは、クリエイティブコンサルタントのフェリス・ビューラー氏である。「ティトもそれなりに知られた人物でしたが、宝石商ジェイコブは人格者でしたからね」。
最初の時計が発売されるころには、“宝石商ジェイコブ”はすでに彼自身のジュエリーで伝説を築いていた。90年代初頭、RUN DMCとスリック・リックはバカでかいロープチェーンをまとい、90年代の終わりにはショーン・“パフィ”・コムズとジェイ・Zがプラチナとダイヤモンドを身につけていた。それらは新しい時代のスタイルであり、始まりを47番街にのカプラン・ダイヤモンド・エクスチェンジにあったアラボ氏の小さな工房まで遡ることができる。
今では想像するのも難しいが、この時点では伝統的なラグジュアリー界はヒップホップ文化を受け入れていなかった。ヴァージル・アブローがルイ・ヴィトンのクリエイティブディレクターを務め、エイサップ・ロッキーがディオールのキャンペーンのスターに、ヤング・サグがカルバン・クラインの顔に、ジェイ・Z自身がティファニーのブランドアンバサダーになるよりずっと前の時代のことである。47番街はヒップホップ勢の砦でもあったのだ。アラボ氏は47番街の有名人の顧客リストを手に入れた最初の宝石商というわけではなかったが、関係を発展させ、維持することにかけては最高の人物だった。彼は、顧客が手持ちのカスタムピースを新しい作品と交換することを許可し、一点物のデザインは二度と複製しないという約束を常に守っていた。『Ice Cold』、『ヒップホップジュエリーの世界(原題:A Hip-Hop Jewelry History)』の著者であるヴィッキー・トバク氏は電話でのインタビューで「彼はヒップホップコミュニティとの共存を意識していました。彼だけの出世物語というわけではないのです」 と私に語った。
1999年には、ニューヨーク・タイムズ紙がアラボ氏を “ヒップホップ界のハリー・ウィンストン”と呼ぶほどの影響力を持つまでになった。彼は数え切れないほどのラップのリリックに登場し、テレビゲーム『Def Jam』にも出演している。このゲームは、ヒップホップ界のスターたちが、ジェイコブのダイヤモンドジュエリーを買うための資金を稼ぐために競い合うものだ。アラボ氏が世に出る以前は男性がダイヤモンドを身につけることはなかったが、彼が名声を得たあとではそれもさま変わりした。2003年、オックスフォード英語辞典に“bling(派手な、ケバケバしい)”という単語が追加されたのは偶然ではない。BGとキャッシュ・マネー・ミリオネアーズが歌った楽曲 『Bling Bling』が語源であり、彼らは男性がダイヤモンドを身につける様子を歌詞にした。しかしそれは、ジェイコブの存在なしではあり得なかったのだ。
ヒップホップアーティストのA&R(レコード会社で、新しい音楽家の発掘、プロデューサーの選択、スタジオの手配などを行うとともに、選曲・販売戦略などの手助けを行う職種)担当者は、彼らがレーベルと契約したり、別のマイルストーンを達成したりすると、ジェイコブに連れて行くのが一般的だったそうだ。彼らは成功したことを示すべく、ファイブタイムゾーンの時計を買うことができたのだ。かくして、この時計は大人への階段のシンボルとなった。
「この時計の5つのタイムゾーンは、グローバルに活躍したいという願望を表しています。ヒップホップカルチャーのある種の野心と、それを実現するための要素を含んでいるのです」とトバックは語る。「ファイブタイムゾーンは、ヒップホップの歴史と音楽文化のなかで非常に特殊な時期に登場しました。あのような時計が再び現れることはもうないでしょう。音楽ビジネスがお金を得て、その力を発揮し、ラグジュアリーな世界に興味を持ち始めたにも関わらず、ラグジュアリー界がヒップホップにそっぽを向いたことがかえって、ジェイコブにとって最高の状況を生み出すことになったのです」
しかし、アラボ氏による影響はヒップホップだけでなく、スイスの時計製造界にも波及しようとしていた。
ファイブタイムゾーンの重要性を理解するためには、それがいかに早くから時計界に浸透していたかを理解する必要がある。現在でこそヒップホップアーティストと高級機械式時計にまつわるイメージカットが氾濫しているが、ジェイ・Zがオーデマ ピゲと提携するまでに丸3年、ウブロとは実に9年もの歳月がかかっているのだ。
Revolution誌の創刊者でジェイコブの熱烈なサポーターである ウェイ・コー氏は、「まだ一部にしか知られていない、ニッチで、ちょっとマニアックな存在だった時計が、最もクールなライフスタイルのシンボルのひとつに生まれ変わったのです」と述べている。「特にヒップホップ界、そしてハリウッドやセレブリティの手首に装着されたことで、高級時計がより広い文化的背景にクロスオーバーする驚くべき可能性を示したのです」
(ファレルとリシャール・ミルのような)エンターテイナーと時計メーカーのコラボレーションは、今日では一般的なプロモーションとなっている。「しかし、ジェイコブのファイブタイムゾーンなくしてそれらのコラボレーションは生まれなかったかもしれない、という言い方もできるでしょう」
ファイブタイムゾーンは、ラグジュアリーブランドが注目していない層向けのラグジュアリーアイテムだった。アラボ氏は時計のデザインに関して、自分の顧客層が何に反応するかをいち早く察知していたのだ。彼は、人々の服装に合うようにファイブタイムゾーンを作りだした。お揃いのトレーニングウェア、オーバーサイズのダウンジャケット、バギーデニムなどだ。彼は、特定のライフスタイルを念頭に置き、たとえまだそのような生活とは無関係な人々でも憧れを抱けるような時計を作ったのである。
アラボ氏は言った。「私の顧客は常に世界を旅していました。そして、私がベゼルにダイヤモンドをあしらったことを気に入ってくれました。当時、彼らは鮮やかな色の服を着ていたので、その服に合う時計が必要だったのです。そこで作り出したのがファイブタイムゾーンだったわけです。トラベルウォッチとして、初めてクールさを追求した時計でした。とにかく大きく、カラフルでしたね。ダイヤモンドまでセットされていて。さらには、交換可能なストラップも付いてくる。おもしろいことに、現在では多くの時計がこの条件に当てはまります。しかし当時はひとつも存在していなかったんです」
2000年代初頭、時代の最先端はかなり刺激的だった。洋服にはロゴマニアがいて、フォクシー・ブラウンやリル・キムはカラフルなチンチラファーをまとっていた。ファイブタイムゾーンはこの美意識にぴったりマッチする、明るく、派手な時計だった。当時、ショーン・ジョン(Sean John。ショーン・コムズが設立したアパレルブランド)とエコー(Ecko)をてがけたクリエイティブディレクターのメリッサ・バティファラーノ氏は「この時計は服に合うだけでなく、カルチャーにも合致していたのです」と語る。「所有する靴やフックアップスーツに合わせるものが欲しかったのでしょう」
交換可能なストラップも、この時計の成功の大きな要素であった。バティファラーノ氏は、ニューヨークの独立系靴販売店がそのシーズンに何を仕入れるのか、彼女が所属するブランドが知る前にいち早く把握しておくことがいかに重要だったか説明してくれた。「Jimmy JazzやDr. Jay'sでどんなスニーカーが発売されるのかを知るために、待ったものです。靴の色と同じ色の服がないと、売れないんです。だからスニーカーの最新作に照準を合わせていました」。カラーストラップを交換できるアラボ氏のアイデアは、まさにこの時計にぴったりだったのだ。
数日前、ジュネーブからの帰りに、ある有名な、とても尊敬する業界のプロフェッショナル(匿名希望)と偶然会った。私が「ファイブタイムゾーンについて記事を書いている」と言うと、彼は「なぜ!? あの時計は酷いもんだよ」と反応した。しかしその人物は、リシャール・ミルと宝石をセットしたロイヤル オークを愛している。ファイブタイムゾーンがなかったとして、それらが存在していたと本当に思っているのだろうか? この時計は高級時計ブランドがラップの歌詞に登場し、ラッパーたちの手首に着用されるようになる先駆けというべき存在である。時計産業がカルチャーのメインストリームへと押し上げられるきっかけとなったのだ。ファイブタイムゾーンは派手でカラフルなダイヤモンドをセットした時計の道を切り拓き、フランク ミュラー初期のマルチカラーデザインはジェイコブのスイス版としての役目を担っていた。
アラボ氏がこの時計を作ったことで起こった最も重要なことは、時計の消費者心理の前提と客層を変えたことである。この非常にスイスらしくない時計は、逆説的に伝統的な機械式時計文化を支えたのだ。90年代、ビギー・スモールズは人工ダイヤモンドベゼルのデイデイトを身につけ、ロレックスは一大旋風を巻き起こした。その後、ジェイ・Zが金無垢、次いでプラチナのロレックスを身につけ、その存在を世に知らしめた。
このプラチナのs**tをつけてみろ
お前らこのs**tをシルバーだと思うだろうよ
俺こそがこのs**t "のパイオニアだぜ
自慢げに聞こえる? まぁ、そうかもしれない。だが、ほかのロレックスコレクターが、自分のヴィンテージGMTマスターがマーク2ではなく、マーク3であることを確認するのと大して変わらないだろう。
2000年代初頭には、ジェイ・Zは時計愛好家として公に知られていたが、それでもファイブタイムゾーンを愛用していた。オーデマ ピゲは彼と公式にコラボレートした限定モデルを発表し、ヒップホップカルチャーに注目した最初のスイスの高級時計ブランドとなったのだ。やがて、業界のほかの数社もこの時代の変化に反応し始める。APはファクトリーでダイヤモンドをセットしたロイヤル オーク オフショアを製造したが、これは明らかに47番街文化を取り入れたもので、ファクトリーを通してそれを実現するという彼らなりのアプローチだった。アメリカ最大の文化輸出品であるヒップホップが、伝統的なブランドにも影響を与えた紛れもない例といえるだろう。
ニューヨークの高級時計・ジュエリーブティックであるマテリアルグッド(Material Good)のヨニ・ベン-イェフダ氏は、「この時計は高級時計に対する一種のカウンターカルチャーを代表する、時計界で当時最も注目を集める作品のひとつでした」と解説する。「価格が採用されたムーブメントに見合うかという面で時計を評価するなら、それはそれで結構です。しかし、デザインにおける成功から目を背けることはできないでしょう。そんなことをしていては、歴史的な瞬間を見逃してしまいます」
パテックのワールドタイムがベートーベンなら、ファイブタイムゾーンはジェイ・Zといえます。
– ヨニ・ベン-イェフダベン-イェフダ氏は、この時計はパテック Ref.5130のほぼ対極にあると説明してくれた。「パテックのワールドタイムは、最も控えめでコンサバティブな時計です。30年代、40年代、50年代のレンズを通して見た、世界を旅する人のためのドレスウォッチです。パテックのワールドタイムがベートーベンなら、ファイブタイムゾーンはジェイ・Zといえます」
この時計は、さまざまなリファレンスを経て進化を遂げてきた。2002年にファイブタイムゾーンを最初に発表したあと、2003年には“ザ・ワールド・イズ・ユアーズ”(映画『スカーフェイス』の名シーンにちなんだモデル)を発表した。この時計は、オリジナルのファイブタイムゾーンの幾何学的な形に代わって、大陸と海を表すホワイトとファンシーカラーのダイヤモンドがデザインされている。現在、クリスティーズのテーマオークション、“アンドレ・レオン・タリーのコレクション”に1本出品されている。
そして2005年に登場したのが、プリンセスカットとバゲットカット、ふたつのスタイルのダイヤモンドを組み合わせたロイヤルファイブタイムゾーンだ。ファレルは最近、ジュピターの創業記念オークションで自身のロイヤルファイブタイムゾーンを出品した。また、コラボレーションも行われており、特に2000年代半ばにはNIGO®︎とベイプ・ファイブタイムゾーンを、その後2020年にはカルト的なストリートウェアレーベルであるシュプリームとコラボレーションを果たした。
2006年、ジェイコブは前モデルの機械式バージョンであり、アラボ氏による機械式時計の試みが完全に進化する先駆けとなったといっても過言ではないH24タイムゾーンを発表した。
あくまで願望として、ファイブタイムゾーンが今と変わらない姿で、アラボ氏が現在存分に実力を発揮している機械式時計としての力強さを備えていれば、とも思った。しかし、ファイブタイムゾーンを“ただのクォーツ時計”と片付けないことが重要だ。なにせ、当時の美意識にフィットし、憧れのコンプリケーションとファクトリーでセッティングされたダイヤモンドを搭載していて、何よりもターゲットにされていなかった客層、すなわちポピュラーミュージックやそれを取り巻くスタイルに潜んでいた大衆をも受け入れ、取り込んでいったのである。
今日、ラグジュアリー文化は、すなわちリミックス文化と換言することができる。かつてヒップホップアーティストを敬遠していたブランドが、彼らとのコラボレーションを熱望したり、見返りにクレジットを求めたりすることなく文化を共用している。ヒップホップアーティストがいつどこで取捨選択され、認められたかは、ファッションとジュエリー界にその答えがあり、“宝石商ジェイコブ”はまさにそのふたつの世界を橋渡しする重要な役割を担ったのである。
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