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本稿は2022年10月に執筆された本国版の翻訳です。
Photos by Martin Mae
たった1度の人生のなかで、いくつもの人生を生きているように見える人がいる。著名な写真家、マックス・ヴァドゥクル(Max Vadukul)氏を見てみよう。彼はインドから年季奉公でアフリカに渡った男性の孫として、ナイロビで生まれる。イギリスのグラマースクールを(かろうじて)卒業後、パリでフランスとイタリアのヴォーグ誌の撮影に携わり名を馳せる。その後リチャード・アヴェドン(Richard Avedon)の後任として、ニューヨーカー誌史上2人目のスタッフフォトグラファーとなった。ニューヨークで過ごした四半世紀は、その理由を示すのに十分だった(そのうちのいくつかは、私が編集したエスクァイア誌などのために撮影したものだ)。そして58歳にして、妻でありベテランファッションスタイリスト、ニコレッタ・サントロ(Nicoletta Santoro)氏の故郷である世界有数の都市、ミラノへと旅立つ。そこで彼は今、再び新しいことに取り組んでいる。権威あるフォンダツィオーネ・ソッツァーニにて、『The Witness』と題した彼の作品展を開いている。同作品展は2年間にわたって撮影された20枚の巨大フォーマットの写真を用いて、インドで最も環境破壊が進んでいる3つの都市における汚染の結果を探るものであり、国際的な注目を集めている。
伝説を段落分けして要約できるか? いや、もちろんそんなことはできない。写真のように、目を凝らせば凝らすほど、そこには見えてくるものがある。
例えば、“マックス・ヴァドゥクル”になる前はグジャラート語を話す瘦せた子ども、マノージ・ヴァドゥクルと呼ばれていた。「私がイギリスに到着したとき」という口上から始まり、かつて何千ものインド人家族が国を離れるきっかけとなった、1960年代のケニアの植民地後の混乱について話した。「私はマックスという名前を与えられ、別人に生まれ変わりました。そうしなければ、子どもたちは私と遊んでくれなかったでしょう」と述べた。それでも、以前の彼とそのあとの彼をつなぐ糸がつながっている。ケニアにいるあいだ、父親がサファリ会社で写真機材を販売していたために、家のあちこちにカメラが散乱していたという。マノージは興味を持った。当時残っていた唯一の写真のひとつには、ローライフレックス(二眼レフカメラ)を首から下げた彼の姿が写っている。
マックスと呼ばれるティーンエイジャー時代は、ロンドン北部にあるエンフィールドと呼ばれる殺風景な地区で育ち、学校ではあまり役に立っていなかったそうだ。「卒業のとき、地理、歴史、芸術の成績はCだったと記憶しています」と、彼は今日、独特のユーモアを交えて言う。「ほかはすべて失敗でした」と。ある日、父親が現像した写真を手に取っていた。誰かがプラクチカLTLで、植物の束を1ロール丸ごと撮っていたのだ! マックス氏は、ついに興味を持てるものを見つけた。大学には進学せず、写真に関係する仕事を探し始めた。「500回くらいは電話をかけたよ」と言ったあと、1度止まった。「黒電話でね」
ジェイ・ミュルダール(Jay Myrdal)氏というエキセントリックなアメリカ人駐在員のもと、スタジオの係員として働くことになったヴァドゥクル氏。これが彼が初めてこの仕事を経験するきっかけとなった。ミュルダール氏の下で働く者は一輪車に乗れることを証明しなければならなかった。「彼が用事があるときは、それを使うしかなかったんだ」。ヴァドゥクル氏はペダルをこぐことが得意だったため、ミュルダール氏との仕事を勝ち取った。ミュルダール氏はPhotoshopが登場するよりも前に、ロックスター(ケイト・ブッシュのアルバム『The Kick Inside』のジャケット)を撮影したり、特殊効果を使った静物画を撮影したりしていた(おもちゃのオーシャンライナーがシャンパンボトルにぶつかってバラバラになるようなイメージ)。
数年後、アヴェドンはヴァドゥクルの最大の支援者となるかもしれないが(“真似するのではなく、自分の意見を言うのだ”と彼は言った)、ミュルダール氏は基本的な基礎を提供した。「セット作り、大工仕事、照明、エクタクロームの使い方、フィルム処理など、私が写真について技術的に知っていることはすべてジェイが教えてくれました」。ヴァドゥクル氏はそれを望んでいたわけではなかったが、ある日、フォトグラファーが突然イギリスのポルノ雑誌から依頼された撮影をスタッフに任せたところ、彼は思いがけずミュルダール氏が歴史に名を残す瞬間を目撃することになった。
「彼がそのようなことをしていたとは知りませんでした」とヴァドゥクル氏は言う。「マリファナの煙と音楽が大音量で流れていました(レコードだ!)。しかし黒いスパンデックスを着て尻を出した人たちがたくさんいました」。その結果、おそらくこれまで撮影されたなかで最も伝説的なペニスのポートレート、ロン・ドン・シルヴァー(Long Dong Silver)の写真が誕生した。それはミュルダール氏がメイクアップアーティストに補綴させて、18インチ(約45cm)の大きさにしたものだった。「父には結婚式の撮影をしたとウソを話していました」とヴァドゥクル氏。「その後去らなければなりませんでした。ポルノは私の趣味じゃないから」
彼の持ち味はセンスのよさだ。繊細さ、希少性、意外性、そして視野の広さ…経験と知識の賜物によって磨かれるタイプだ。例えば1984年当時のマックス氏のように、22歳の若さでヨウジヤマモトの広告キャンペーンの撮影に抜擢された場合、本物とは何かについて、知らないでは済まされないことを知ることになる。それ以降は自身の仕事をより高い水準に保ち、同じ志を持つほかのもののジャンルに気づくことに残りの人生を費やす。ヴァドゥクル氏にとっては、オヨー No.2の葉巻、ドリス ヴァン ノッテン、山崎 18年、ハンドメイドのアルナルド・キエリケッティ、桃太郎ジーンズ、オールデン アナトミカ、そしてそう、素敵な時計だ。
彼の4本
イエローゴールド製ランゲ1 Ref.101.021
1990年代後半、今では大規模な広告キャンペーンをも手がける有名なフォトグラファーとなったヒンドゥー教徒の少年は、物質的なものは何の関係もないと教えられてきたが、ある日突然時計に興味を持ち始めた。「それまではタイメックスしか持っていませんでした。タグのクォーツクロノを買ったこともあります」と彼は言う。「ムーブメントをどのように製造しているのか、なぜひとつの時計がほかのものよりもおもしろいのか、時計の科学に興味を持ち始めました。そして時計は時間を知らせるだけのものではないことに気づきました」
そして購入を始めた。ヴァドゥクル氏はセント・バーツ島にて広告クライアントと別の大きな撮影をしていた。クライアントは素敵な時計を買いたいと思い、同行しないかと誘われた。「わかりました。でも何も買いません」と彼は言った。その日の午後、彼は3本の時計を持って店を出た。ジャガー2本とIWCである。「買ったものに満足しましたか?」と撮影中のスタイリストが尋ねる。「まったく! うんざりします」とヴァドゥクル氏。家には幼い双子がいて、5万ドルも使うのは無責任だと感じていた。「それなら、もっと頑張らないとですね」とスタイリストは冗談を言った。「だから頑張りました。ステップアップしました」と彼は話した。
彼はまた、マンハッタンのミッドタウンにあるチェリーニにも定期的に立ち寄るようになった。そこで彼は初めてA.ランゲ&ゾーネについて知った。1845年に始まり、第2次世界大戦によって数十年間中断され、1990年にようやく再建されたブランドだ。彼はランゲ1(“素晴らしい建築物”)とプラチナ製のサクソマットの2本を購入したが、後にタクシーで紛失した。「大丈夫だよ」と彼は言った。今では痛みは幾分薄れていた。「だから保険に入ったほうがいい!」
グラハム クロノグラフ ラトラパンテ フドロワイヤント
ヴァドゥクル氏は、コレクターのエド・ラザーク(Ed Razek)氏のようなほかの熱狂的なファンと時計の取引を始めた。彼はハイディ・クルム(Heidi Klum)氏、ステファニー・シーモア(Stephanie Seymour)氏、レティシア・カスタ(Laetitia Casta)氏といったヴィクトリアズ・シークレットのキャンペーン撮影のために彼を雇った。「私がグラハムを気に入ったのは、その伝統がイギリスからきているからです」と同氏。その名の由来は、初めて海に耐えられる時計を発明したとされている。「スイスかドイツの時計しか持っていませんでした。しかしエドは“それを身につけるには若すぎる”と言いました。それでも私は彼とジャガーとを交換したのです」
それから20年が経ち、彼は今、このような複雑時計を持つことに価値を感じている。「特定の時計は成熟しなければなりません。着ている服が年齢や人生の達成感に合わないと、つまらない人のように見えてしまうことがあります。身につけてはいけない時計があるのです。25歳だった写真家の私がランゲ1を身につけていたのは滑稽に見えていたでしょう。しかし、このキングコングのような時計を私の痩せた骨ばった手首にはめると、(自嘲気味に笑いながら)銀狐のようにいい感じに見えるのです!」
IWC GST アラーム チタニウム Ref.3537
「以前、スカラ座の音楽家たちとルオモヴォーグ誌の撮影をしたことがあります」と話すヴァドゥクル氏。「その誰かの手首に、IWCのドッペルがあったのを覚えています。警備員か誰かの手首に。そんなのイタリアでしか見たことがありません」。その時計のディテールが彼の心に残ったという。「そのブレスレットは、コンスタンティノープルを破壊したオスマン帝国のスルタン、メフメトが身につけていた鎧の一部のようでした」。それ以来、この時計は彼が毎日身につける時計となった。変わった機能というよりも、その美しさのために。追加プッシャーが秒針を分割するため、同じ瞬間に始まるふたつの時間を計ることができる。「なぜ針を分けたいのか、聞かないでください。でも、それができるのです」。彼はもう1本のIWC(チタン製GST)のアラーム機能を重宝している。どちらも“使える”優れた時計だが、異なるタイムゾーンで撮影をして早起きしなければならないときは、「iPhoneよりも時計の心地よいアラーム音で目覚めたいのです」と言う。
オーデマ ピゲ ジュール クロノグラフ Ref.32753
「そんなにたくさんの時計を持っているわけではありません」 と、ヴァドゥクル氏。「仕事がなかった2008年、ピンクゴールド製パテックの3970をクリスティーズオークションに出したら、手に入れたときより3倍の価格で落札されました。フランク ミュラーが流行っていた頃、何本か持っていましたが、もう2度とつけることはないため、恋しくはないですね」。その間に災難もあった。数年前、ブエノスアイレスで強盗に襲われ、結婚式の日に義父からもらったステンレス製ロレックス オイスターを盗まれたのだが、「妻が犯人を噛む前に、私がタマを蹴り上げました」と彼は言う。
オーデマは最初から違っていた。「純粋に感情的な買い物でした。チェリーニに入店して、気に入ったんです」。ある夜、いつものように彼はそれを外して枕元に置いた。しかし翌朝、それがなくなっていた。彼は家中くまなく探した。その晩、彼の妻が彼に歩み寄った。「これを見つけたの」とニコレッタ氏は時計を持って言った。「洗濯機のなかでね」。夜中、どういうわけかオーデマはベッドに入り、シーツに絡まってしまった。「シヴァ神のように怒らないようにと思い手に取りました。風防の下が浸水しているのを見ましたが、まだカチカチと音がしていました」。ヴァドゥクル氏はチェリーニに持ち込んで、それはスイスの工場に送られた。「修理に8000ドル(日本円で約120万円)ほどかかりましたが、新品のようになって帰ってきました」と同氏は述べた。「その結果、私にとってこの時計は単なる時計以上の存在になりました。独自の生還ストーリーがあり、だからこそ私はこれを決して手放しません」
もうひとつ
ニコン F4S カメラ
ヴァドゥクル氏にとって、写真を撮影できるほぼすべてのマシンは興味深い。つまり、彼はiPhoneを含む現代テクノロジーを見下していない。しかしパンデミックの際、かなりの量のアーカイブを整理していた彼は、ニコンのF4Sで撮影した1989年から1996年までの35mmモノクロ作品に衝撃を受けた。ロメオ ジリとエンポリオ・アルマーニとの印象的なキャンペーン、彼がフランス版ヴォーグ誌のために行ったほほすべての撮影、マザー・テレサ(Mother Teresa)、ジェームス・ブラウン(James Brown)、キース・リチャーズ(Keith Richards)氏、ニューヨーカー誌のために撮影した22人のノーベル賞受賞者など、非凡な人物のポートレートである。
「アナログにすると決めたのです」とカメラマンは言う。「F4Sがどんなに素晴らしいカメラか、すっかり忘れていました。F2AS、F2チタン、F3HP、F4S、F5、F6と、ほぼすべてのニコンFシリーズを持っていますが、これがいちばん最高です。ファインダーには目を見張るものがあり、スペックのある人にはとてもいいものです。ニコンのどんなレンズにも合う唯一のボディだ。そして…」彼は私に聞こえるようにカメラを掲げる。「これがドライバーのスイープ音。少しうなるような感じで、とてもセクシーなんです。被写体はシャッターを切ったかどうかすぐにわかります」
この段階で、ヴァドゥクル氏は、「私が必要としているのは、私の作品とアーカイブだけです。モノは要りません。人生のある時点で自分の心の地図、つまり形成期に戻ります。子供のころよりも今のほうがインド人らしくなったと思います」。彼はカメラを手にしたまま立ち止まり、マックス以前のマノージであった自分を思い出しているようだった。「ケニアで多くのヒンドゥー寺院に行ったことを覚えています」と彼は続ける。「人生は苦悩の連続です。それを受け入れられれば、平和に生きることができるのです」
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