trophy slideshow-left slideshow-right chevron-right chevron-light chevron-light play play-outline external-arrow pointer hodinkee-shop hodinkee-shop share-arrow share show-more-arrow watch101-hotspot instagram nav dropdown-arrow full-article-view read-more-arrow close close email facebook h image-centric-view newletter-icon pinterest search-light search thumbnail-view twitter view-image checkmark triangle-down chevron-right-circle chevron-right-circle-white lock shop live events conversation watch plus plus-circle camera comments download x heart comment default-watch-avatar overflow check-circle right-white right-black comment-bubble instagram speech-bubble shopping-bag

Editorial スウォッチ・グループの歴史、SMHからの名称変更に隠された裏話

20年前、スイスのSMHグループがスウォッチ・グループになった。私は名前の変更に公然と反対したがニコラス・G・ハイエック・シニアにとっては面白くない出来事だったようだ。

ADVERTISEMENT

※本記事は2018年6月にUS版で公開された記事の翻訳です。 

時計メーカーは記念日を大切にする。このハイパーマーケティングの時代では、5で割り切れる記念日は、祝いの花火を打ち上げ、記念限定版を出すに値するようになった(かつては25で割り切れる記念日だけがそのような扱いを受けていた)。

 しかし、あまり注目されていない業界の節目が近づいているが、事実、このことについて考えているのは私だけかもしれない。 

 今から20年前の1998年6月24日、世界最大の時計メーカーがその名称をSMHグループからスウォッチ・グループに変更した。今ではほとんど記憶に残っていないが、この決定は当時、特にSMH社内では物議をかもした。例えば、オメガやロンジン、ブランパンなどの重役であれば、数十億ドル規模の親会社のコーポレートアイデンティティを、数千円のプラスチックウォッチに変更することに、乗り気にはならなかっただろう。

ニコラス・G・ハイエック(画像:ブレゲ提供)

 名称変更から20周年を迎えるにあたり、私はその闘争について思いを馳せている。それは、私がこの動きに反対したため、SMHのニコラス・G・ハイエック会長は、私が株主の反乱を先導していると思い込んでしまうという、とんでもない事態になってしまったからだ。

 まずは経緯を説明しよう。私が時計ジャーナリストの仕事を始めたのは、ハイエックがスイスの時計界に登場する直前の1980年代初頭だった。彼はもちろん、スイス時計のレジェンドである。彼は、スイス時計産業の歴史の中で最も暗い時代のひとつ、クォーツショックにおけるスイス時計産業の救世主として正当に評価されている。彼がそれを実現したのがSMHだった。1983年、赤字続きだったスイスの巨大な時計メーカー2社でSMHが設立されたとき、彼は構想を練り、指揮を執った。

ADVERTISEMENT

 ハイエックは、時計工場や役員室に足を踏み入れた人の中で、最も優秀で、才能に溢れ、カリスマ性があり、競争力や闘争心を兼ね備え、成功した人物の一人だ(そして、最も愉快な人物の一人でもある。これはスイスのテレビ番組『What Makes Nicolas Hayek Laugh(ニコラス・ハイエックを笑わせるもの)』で紹介されたこともあるので嘘ではない。私は、ハイエックが1980年代初頭から、2010年6月28日にビエンヌのスウォッチ・グループ本社で執務中に、82歳で亡くなるまでの彼の時計業界でのキャリア全体を綿密に取材した。

SMH本社でジャック・シラク仏大統領(左)とフラビオ・コッティ・スイス連邦参議院議員を迎えたハイエック。

 しかし、ヘビー級の時計チャンピオンの大試合で、リングサイドレポーターになることには職業上の危険があった。ハイエックはボクサーのような直感をもっていた。「私がファイターだということを忘れるな」と、動きの多いキャリアの中で珍しく小康状態を保っていた時期に私に語ったことがある。「闘いがなければ、私はとても退屈してしまう。最近のニック・ハイエックに欠けているのはそれだ」と彼は訴えた。「闘いがないんだ」 

 27年間、彼を取材していると、時折、リングに上げられてスパーリングをせざるを得ないことがあった。1992年には、私が書いた記事を不当だとして、彼が激怒したことがあり、我々は電話や無駄な手紙のやりとりで議論し、彼は暫くの間、私と絶縁していた。最終的には仲直りしたが、その時の経験は不愉快なものだった。

 スウォッチ・グループの社名変更問題で、また同じことが起こった。 


名称問題

 事の発端は、SMH社が1997年の決算といくつかのニュースを発表した1998年2月19日だった。この年、SMH社は素晴らしい業績を収めた。売上高は初めて30億スイスフランの大台を超え、営業利益は53.6%増、純利益は24.5%増と、過去最高の売上高を記録したのだった。 

 また、ハイエックの息子、ニック・ハイエック・ジュニアがスウォッチブランドのトップに昇進したことも発表された。

 そして、こんなことが発表された。「本日の取締役会において、SMHの名称を“The Swatch Group of Switzerland SA”、または“スウォッチ”の名称を含む別の名称に変更することを株主総会に提案することを決定いたしました。 グループ経営委員会は、提案を提出することを求められています」

モデルのタイラ・バンクスがスウォッチ・スキンの時計だけを身につけている、前年のSMHの年次報告書の表紙(左)と、スウォッチ・グループの初年の年次報告書(右)。

 これら3つの文章を読み解くのに1分ほどかかった。つまり、ハイエックはSMHという名称を捨てることを決めたということなのだ。彼と取締役会は、SMHの10名の委員からなる経営委員会に新しい名称を提案をするように命じたのだった。この経営委員会には、ブランパンのジャン・クロード・ビバーCEO、ラドーのローランド・ストルーレCEO、ETAの実力者トニー・バリー、法務担当のハンスペーター・レンチなど、SMHのトップや、さらにはハイエック親子も名を連ねており、最終的な選択は、6月に開催される株主総会で承認される予定となっていた。 

 新しい名前を探すにあたり、“スウォッチ”という言葉が入っていなければならないというルールがあった。 その理由は、声明にこのように書かれている。「現行の名称は非常に複雑で、様々な主要言語では略語が理解しづらいものとなっています。スウォッチをグループの名称に加えることで、世界全域におけるこのブランドの悪名[原文ママ](“悪名”とは、ドイツ語の原文が不適切に訳されたものだ。スウォッチは有名であっても、悪名高いものではない)が考慮されました」と説明されている。 

 私にはこの考えが多くの面で賢明ではないと思えた。当時、私はアメリカンタイムという時計業界誌の編集者だった。また、姉妹誌である宝飾業界のニュースタブロイド紙、ナショナルジュエラー誌の各号の腕時計のコラムも執筆していた。私は、同誌のコラムで提案された名称変更について取り上げることにした。 

ADVERTISEMENT

スウォッチの常識

 私は、スウォッチというブランドが、ハイエックにとって特別な意味をもっていることをよく知っていた。1980年代のスイス時計の復活とSMHの隆盛には、スウォッチが重要な役割を果たしていたが、発売から15年が経過し、もはや話題の腕時計ではなくなっていた。1990年代後半になると、フォッシルやゲスなどの香港製ファッションウォッチとの激しい競争にさらされ、売り上げが伸び悩んでいた。(ピエール=イヴ・ドンゼ教授が2014年に出版した著書、『A Business History of the Swatch Group』の中で、「全体的に見て、スウォッチの売り上げは、ブランド誕生から10年間と同じレベルでは続かなかった」と指摘されている)。

第1世代の1983 スウォッチ(画像:swatchandbeyond.com提供)

初期のスウォッチ・オートマティック(画像:SwatchAndBeyond.com提供)

 しかも、1998年には機械式時計の再興が始まっており、ハイエックは、もちろん、そのことを知っていた。彼とスウォッチはその再興に関与していたのだ。1991年にスウォッチ・オートマティックを発売したのは、クォーツ時代の低迷期にSMHグループのニヴァロックス・ファーでヒゲゼンマイの生産を続けるためだったと、彼は何度か話してくれた。 

 同じ頃、彼はジョージ・ダニエルズが15年間にわたりスイスで買収することができなかったコーアクシャル技術をオメガのために取得することに同意した。
 クォーツショックで壊滅的な打撃を受けたオメガは、機械式時計で復活を遂げようとしていた(次の10年間の後半には、SMHグループの時計販売の売り上げの3分の1を占めることになる)。 実際、1998年にSMHはオメガの150周年を祝い、その目玉として487ページのハードカバーによるブランドの歴史本『Omega Saga』を出版した。 私には、名称変更のタイミングが奇妙に思えた。

透明なスウォッチ・フォン。

 また、スウォッチがハイエック個人にとってどのような意味をもっているかも知っていた。スウォッチは、確かに高収益で革命的な製品だったが、彼にとってはそれ以上のものだった。スウォッチは産業哲学であり、先進国の経済が産業基盤を犠牲にすることなく低賃金のメーカーに対抗できる方法のモデルを表していた。

 「スウォッチは、ヨーロッパや北米の先進国の産業基盤を維持し、職人の伝統を守ることを支持する説得力のある主張となっています。もし、工場を移転させ、ノウハウを持ち去らせてしまったら、我々は独立性を完全に失ってしまいかねません。スウォッチは、イマジネーション豊かな創造力と成功への意志があれば、世界のどこよりも優れた製品を国内で生産し、より良い価格で提供することが可能であることを何度も証明してきました」と、ハイエックは1992年に書いている。

SMHとダイムラー・ベンツが開発したミニカー、スマートにサインするハイエック。

 100%スイス製のスウォッチで極東のメーカーに対抗することに成功したハイエックは、財界や政界のエリートたちの間で名声と評価を得た。1993年10月、ハーバード大学の経営大学院で「The Rise of Swatch and the Revitalization of Western Competitiveness.(スウォッチの台頭と西洋の競争力の再生)」と題した講演を行った。(私はその場にいたが、彼はビジネスマンを前に1時間、メモを見ることなく壇上で話し、最後にはスタンディングオベーションを受けていた) 。また、ジャック・ドロール事務総長(当時)の招きで、ブリュッセルの欧州委員会でも同様のスピーチを行ったことがある。 

 1990年代に入ると、ハイエックはこのモデルを他の分野でも再現しようと試みた。スウォッチ・フォンやスウォッチ・テレコムという会社を立ち上げ、ドイツのダイムラー・ベンツ社と合弁でスウォッチ・モービルと呼ばれる都市型の小型車を開発し、また、ビエンヌに本社を置くマイクロ・コンパクト・カー社では、現在のスマート・カーのプロトタイプの製作を手がけた。

スマート・カー:この名前は“Swatch Mercedes art”の頭文字をとったものだ。

 ハイエックはまた、世界各地のイベントでミスター・スウォッチの役割を演じることも楽しんでいた。最も有名なエピソードは、白髪のひげを生やし、洋梨のような体型をした68歳のSMH会長が、オメガやロンジンではなく、スウォッチが初めて公式タイマーとして採用された、1996年夏季オリンピックの聖火をアトランタのオリンピックスタジアムまで運んだときのことだ。彼の個人的なスウォッチブランドとの一体感は根強いものだった。大会終了後、彼は聖火のルート上で “ミスター・スウォッチ”を応援してくれた人々との会話をどれほど楽しんだかを私に語ってくれた。

アトランタでオリンピックの聖火を運ぶ“ミスター・スウォッチ”(1996年)。

 私にはその全てが分かっていたが、スウォッチがほとんどの人にとって、人生の哲学でもなければ、西洋の勝利の経済モデルでもないことも分かっていた。スウォッチは楽しく、ファンキーで、安価なだけのクォーツのファッションウォッチだった。それだけだ。だからこそ、私はビエンヌの本社ビルの看板にスウォッチの名を掲げてはいけないと言ったのだった。 

ADVERTISEMENT

エイプリルフール

 このコラムは1998年4月1日発行のナショナルジュエラー誌に掲載されたものだ。タイトルは、「SMH To Become 'The Swatch Group, Or Something Like That(SMHがスウォッチ・グループ、もしくはそれに類する名前になる)」というものだった。 以下の抜粋で要点が分かるが、このコラムは次のようにして終わった。

 ニック会長と取締役会がSMHの名称に不満をもっていることは理解できる。SMHとは、Société Suisse de Microélectronique et d'Horlogerieの頭文字をとったもので、それだけではディズニーやナイキ、Gapなどとは違って、何の意味もない。また、短くパンチの効いたスウォッチという名称は、時計の名前としても素晴らしい。

ナショナルジュエラー誌の1998年4月1日号に掲載された著者のオリジナル記事の冒頭部分。

 しかし、1980年代半ばのスウォッチブーム以来、SMHは何にでもスウォッチを付けたくなってしまったのだ。スウォッチUSAの初代責任者である聡明なマックス・イムグリュースは、Tシャツ、傘、ペン、ウエストバッグなど、ありとあらゆるものにスウォッチのマークを貼り付けた、スウォッチで初めブランド拡張に着手したエクステンダーとなった。

 しかし、スウォッチブランドのトップエクステンダーは、ハイエック自身である。彼は、スウォッチ・フォン、ポケベル、そして、オメガやロンジンの名称で、運動競技会の計時計測を担っていたスイスタイミングに取って代わり、スウォッチ・タイミングをもたらしたのだ。彼はまもなく車にこのブランドを付けるだろう。ただし、スウォッチをグループ全体の名称とするのは行き過ぎだ。私はスウォッチがSMHのドル箱であることを知っているし、時計の歴史を形作ったことを知っている。また、ミスター・スウォッチ(またの名をニック・ハイエックという)がどれだけスウォッチを愛しているのかも知っている。

「ハイエックは、スウォッチ・フォン、ポケベル、そしてスイス・タイミングに代わるスウォッチ・タイミングをもたらした。彼はまもなく車にこのブランドを付けるだろう。しかし、スウォッチをグループ全体の名称とするのは行き過ぎだ」と私は書いた。 

 それでも、オメガ、ロンジンやブランパンを擁するスイスのトップ時計メーカーのグループは、革新的とはいえ、45ドルのプラスチックウォッチとして有名なアイテムの名前を採用するよりも、もっと良い方法があるのではないかと考えている。

 古臭いと言われてもいい。 

 スウォッチの名前付けコンテストの勝者(スウォッチ・アンリミテッド? マイクロ・スウォッチ? それともスウォッチザらス?)は、6月24日の株主総会で発表される。

 さあ、選挙を始めよう! SMHの株主の皆様、団結して6月24日に反対票を投じましょう! 


スイスからの電話

面白くなさそうにしているハイエック。

「何も提案しないくせに、我々のアイデアを批判してくる。よろしい。私のアイデアがダメだというのなら、教えてくれ。私の会社の名前は何にすればいいんだ?」とハイエックは叫んだ。

 イースターの翌日、1998年4月13日、月曜日の朝、私が事務所で仕事をしていると電話が鳴った。私が出ると、スイス-ドイツ語訛りの女性の声で「トンプソンさん、ハイエックさんにおつなぎしますのでお待ち下さい」と言われた。 

 おっと困った!

 彼が私に電話をかけてくるのが初めてではなかった。滅多にあることではなかったが、かかってくることがたまにあった。今回の電話は私が書いた記事についてかもしれないし、他のことについてかもしれない。だが今回は、私が書いた記事に関する電話だと分かった。

 数秒後、彼は「こんにちは、ジョー・トンプソン君!」と一言言った。

 「こんにちは、会長。イースター・マンデーにお仕事ですか?」 スイスでは、イースター・マンデーは休日なのだ。 

 「いや、私はカップ・ダンティーブの自宅にいるんだ。天気がいいからプールに入っているし[急に敵対モードになり]、会社にどんな名前をつけようかと考えているところだよ!」 

 「ああ、コラムをお読みになったんですね。」

[雄叫びモードになり] 「ああ! あの記事は全く否定的なものだ。君はこの問題に大きな関心をもっているようだし、君は我々のアイデアを批判するだけで、自分の考えを提案してくれないね。いいか、教えてくれ。私の会社にはどんな名前を付けたらいいと思うのかね?」
 

 この電話は突然だった。私は、1950年代のシットコムのハネムーナーズ(アメリカで放送されていたテレビ初期のホームコメディ)に登場する無気力なラルフ・クラムデンがいつもピンチに陥ったときのような反応をしてしまった。
「うぬぬぬぬ・・・」 

 ハイエックの言い分はもっともだった。私は、新しい名前をつけることについて熟考したわけでもなく、事実、何も考えていなかった。ただ、スウォッチという選択肢は間違いだと思っていただけだ。 

スウォッチ・グループのオフィスにいるハイエック・シニア。スウォッチの時計を身につけ、スウォッチ・フォンで話し、窓辺にはスウォッチ・モービルの模型があり、机の上にはもうひとつのスウォッチ・フォンがある(また、オメガのシーマスター・チタンも着けている)。

 予想外の質問に言葉を失ってしまった私の脳に、時計の神様が手を差し伸べてくれた。どこからともなく「私ならハイエック・グループと呼ぶと思います」という自分の声が聞こえてきた。

 そして沈黙。(彼はどこに行ったんだ?) そうしているうちに、優しく「それはいい考えだ」と言った。しかし、それもつかの間、怒りが戻って来たようだった。「でも、そんなことはできないんだよ! ハイエックプールは36%しか株をもっていないから僕の名前をグループに入れることはできないんだ」(ハイエックプールとは、ハイエックを中心とした投資家グループのことで、1998年には合計35.5%の議決権を支配しており、ハイエック自身は28.5%を保有していたが、それがきっかけで億万長者になったのだ)    

 「では、オメガ・グループというのは? オメガはスウォッチと同じくらい有名ですよ。」 

[また雄叫びモードになり] 「これで君が自分で何を言っているのか分かっていないことがわかったよ! とても多くの会社がすでにオメガという名前を登録している。だから我々はその名前を使うことができないんだ」 

 「では、どうして全てを変更する必要があるのですか? SMHの何が問題なんです?」

[さらに大声で叫んで] 「誰もその意味を理解しないじゃないか! しかも、頭文字は他の言語での名前と一致しないフランス語の単語なんだよ!」

 これで、私は役にも立たない提案を出し尽くしてしまい、ハイエックは自分の主張を押し通したのだった。試合は第1ラウンドでのTKOという短いものだった。 

 チャンピオンが踊りながらコーナーに戻り、私がリングから這い出てくるとき、彼は衝撃的なことを言った。20年経った今でも、信じられない。彼は親しみを込めた口調でこう言ったのだ。「でも、君には俺たちを殴り続けてほしい。それが必要なんだよ」

 そう言って彼は電話を切り、私はハイエック・グループと答えたことに対して時計の神様に感謝の祈りをつぶやいた。ハイエックの怒りが少し和らいだのは確かだ。そして、私はまた命拾いをしたのだった。 

 これで終わりだと思っていたが、私は間違っていた。

ADVERTISEMENT

選挙遊説

 その9日後、バーゼルフェアが開催された。当時、SMHはフェア直前にスイスで国際マネージャー会議を開いていた。その時、何人かのSMHの幹部から、ハイエックがスピーチの中で社名変更に反対する私の言葉を紹介したと聞いた。社名変更を理解していない人がいる。それに関する質問を想定し、答えられるように準備しておくべきだ。理解していない人とは、私のことだと言ったのだという。その言葉は敵対的ではなかったと聞いた。ただ、質問されることを想定して、きちんとした答えを出すようにという警告だった。つまり、私は6月の投票で「反対」に投票するための広告塔になっているのだと思った。奇妙なことだ)

 事態はさらに奇妙になった。5月になって、またSMHから電話があった。今度は、ニュージャージー州ウィーホーケンのSMHグループU.S.本社にいるヤン・ガマールCEOからだった。ヤンのことはよく知っていたが、これまで私に電話をかけてくることはなかった。 

 「こんにちは、ヤン。どうしたんだい?」

 「選挙がどうなっているかを確認しようと思って電話したんだ」

 私には彼が一体何を言っているのか、さっぱりわからなかった。私はすでに他の記事や他のコラムに着手していたのだ。選挙戦? 彼は、私が当時住んでいたカンザス州オーバーランド・パークの保安官に立候補したとでも思ったのだろうか。 

 「選挙って、ヤン? どういうこと?」

ハイエックとSMHの米国法人のCEO、ヤン・ガマール(右)。

 「社名変更に反対する選挙のことだよ。ハイエックさんと電話で話したところ、この件について君に確認してほしいと言われたんだ」

 私は戸惑った。確かに、コラムは「Let the campaign begin!(さあ、選挙を始めよう!)」と締めくくられていた。 まさかそれを真に受ける人がいるとは夢にも思わなかった。また、私がこの選挙の先頭に立っているとも思っていなかった。私はガマールに選挙がなかったこと、そして私によるものは確実になく、また、他の誰かによるものもほぼ確実にないことを説明した。私はSMHの株も、議決権も、影響力ももっていなかった。  

 しかも、名前の変更は既成事実となっていた。SMHではハイエックは望むものを何でも手に入れることができる。SMHという頭文字がSa Majesté Hayek(ハイエック陛下)だと冗談を言ったのは彼自身だった。

「ただのコラムだよ、ヤン」と私は言った。「ちょっとしたオピニオン・コラム、それだけだよ。 新しい名前に反対する選挙はしていない」

 彼はハイエックに伝えると言った。

 6月24日、SMHは正式にスウォッチ・グループとなった。会長は大きな安堵のため息をついたことだろう。 

 こうして、このエピソードは終了した。 

 そんな感じだ。追記がある。実は2つあるのだ。

 そのわずか15ヵ月後、スウォッチ・グループはバーレーンの投資会社、インベストコープ社からブレゲ・グループを買収した。これを機に、会長は社名変更を後悔していたという。 


「ミスター・ブレゲ」

 ブレゲの買収が発表された1999年9月14日、ジャン-クロード・ビバーは会議に出るためにミュンヘンに滞在していた。そのニュースを聞いたビバーは、すぐにハイエックに電話をかけ、「私にやらせてくれ!」と言った。

ジャン-クロード・ビバー(1997年の写真)は、買収したばかりのブレゲのブランドを運営したいとハイエックに伝えたが、「いや、ブレゲは私のものだ」とハイエックはビバーに言った(この話はハイエックから聞いたが、後でビバーにも確認を取った)。

  「いや、ブレゲは私のものだ」とハイエックはビバーに言った(この話はハイエックから聞いたが、後でビバーにも確認を取った)。 

 2004年、ハイエックは私にこう言った。「私は、私自身の直接な管理のもとで、ブレゲに何ができるのかというビジョンをもっている。インベストコープのチーム全体を実質的に入れ替え、CEOの地位を引き継ぐことにしたのだ」つまり、「これは私のビジネスだ。このようなブランドで何ができるのかを見せてやろう」というのがハイエックの姿勢だった。 

 実際、スウォッチ・グループの噂によると、ハイエックが本当に欲しかったのはブレゲではなく、ブレゲグループの一部門であり、オメガのムーンウォッチのムーブメントを製造していた、ジュー渓谷にあるムーブメントメーカー、ヌーベル・レマニアだったという。ハイエックの狙いは、オメガにとって重要な供給源を確保することだった。私がハイエックにそのことを尋ねると、彼は少しためらいながらも、「レマニアとブレゲの両方が欲しかった 」と言った。

1999年9月にスウォッチ・グループがブレゲを買収すると、ジャン-クロード・ビバーはすぐにハイエックに電話をかけて「私にやらせてくれ!」と言った「いや、これは私のものだ」とハイエックは断った。

 しかし、ハイエックは当初、ブレゲの可能性を十分に理解していなかったことを認めている。「買収後に突然、ここには貴重なものがあることに気づいたんだ。きっと愛することのできる対象がここにある。ブレゲとは何かをご説明しよう。私にとってブレゲとは、テクノロジーとアートの最高のマリアージュなんだ」とハイエックは話してくれた。

ハイエックは、ジュウ渓谷にあるヌーベル・レマニアをマニュファクチュール・ブレゲへと変えた。  

 熱心な実業家であるハイエックは、ブレゲの虜になっていた。ブレゲがブランパンが成し遂げられなかったハイメカニックな高級時計のスーパースターになれると考えたのだ。 

 インベストコープはブレゲを潰した。彼らはブレゲをスポーツウォッチとして販売していたのだ。広告の80%は、1950年代に発表されたパイロットウォッチのタイプ XXクロノグラフのものだった。また、その商品の多くをグレーマーケットのルートに流していた。 

 ハイエックは、このブランドを復活させ、創業者である天才時計師にスポットライトを当てることに大金を投じた。アブラアン=ルイ・ブレゲをトゥールビヨンの発明者として宣伝し、トゥールビヨンブームを巻き起こし、ヌーベル・レマニアをマニュファクチュール・ブレゲに改称し、工場の拡張とアップグレードを次々と開始した。パリにブレゲ・ミュージアムを設立し、オークションでブレゲのオリジナルモデルを積極的に購入した。ハイエックは、マニュファクチュール・ブレゲに、1983年にエルサレムの美術館から盗まれて行方不明になっていた(後に回収された)伝説の1827年製グランドコンプリケーション懐中時計“マリー・アントワネット(No.160)”の正確なレプリカを製作させた。

1983年に盗まれた、1827年製の時計“マリー・アントワネット”を忠実に再現したブレゲ No.1160を手にする、モントル・ブレゲ社のCEOを務めるハイエック。

 2002年までには変身が完了した。その年の5月、ハイエックはヴェルサイユ宮殿で、アブラアン=ルイ・ブレゲによるトゥールビヨンの発明200周年を祝うガラパーティを開催し、「起業家となった芸術家ブレゲ」を称える感動的なスピーチを行った。

 「私にとっての起業家とは、常に芸術家であり、創造者であり、革新者であり、周囲の全ての人々のモチベーションを高め、新たな富と職場を創造する人のことです」と、イベントでのスピーチで述べた。「アブラアン=ルイ・ブレゲは、美、喜び、幸福を創造する方法を知っていましたが、ブレゲはまた、膨大な数の人々に新たな仕事と新たな富を生み出し、社会の発展に直接貢献したのです」

 ブレゲの中に、起業家のハイエックは自分自身を見た。ミスター・スウォッチがミスター・ブレゲになったのだ。

 2003年、ハイエックはスウォッチ・グループのCEOを退任し、ニック・ジュニアにその任を譲ったが、ブレゲのCEOの座を譲ることは決してなかった。

ADVERTISEMENT

心変わり

 数年後、ローザンヌで25年来の知り合いであるブレゲのトップの方と食事をすることがあった。彼は他の有名なスイスブランドで働いた経験があり、そのうちの1社ではアメリカでのブランドマネージャーを務めていた。ハイエックは、ブレゲの再生のために彼を起用したのだった。夕食の席では、必然的にハイエック・シニアの話になり、ある時点で、1998年の社名変更の話になった。 

 「今となっては後悔しているだろうね」と友人は言った。 

 皮肉が効いていて、我慢できなかった。「ほら、ハイエックがアメリカのあの頭の悪い時計ジャーナリストの言うことを聞いていれば、今頃は何の後悔もしていないだろうに」と私は言った。「でも、言うことを聞かなかったんだよねー」と友人は笑った。 

スイスのビエンヌにあるスウォッチ・グループ本社。

 もちろん、これは人から聞いた話だ。ハイエックが名称変更を後悔しているかどうか、確かなことはわからないが、この憶測はしっかりとした情報源からのものなので無意味なものではない。ブレゲをグループの頂点に据えた後、ブランドが1998年以降に大衆向けのスウォッチの二の舞になってしまった、SMHのCEOたちと同様のフラストレーションを感じていた可能性は確かにある。 

 2つ目の追記はこのようなものだ。2014年、ブランパンのCEOでハイエックの孫、マーク・ハイエック(祖父の後を継いでブレゲのCEOも務めた)は、フランスのカップ・ダンティーブにあるハイエック家の屋敷で、ブランパンのプレスイベントを開催し、そこで彼は、ブランパン フィフティ ファゾムス オーシャン コミットメント バイスケープ フライバック クロノグラフを発表した。私は、他の多くのプレス関係者と一緒に招待されていたが、そこで私は、ハイエック・シニアがイースター・マンデーに私に電話をくれたプールに出くわした。私はプールサイドに立ち、微笑みながら、ミスター・スウォッチの水泳を台無しにしてしまった日のことを思い出していた。