何年も前になるが、あるパイロットウォッチのブランドが、ダイヤルに三日月型の開口部を設け、そこに正しい日付を示すマーカーが付いた、いわゆる“高度計型”のデイト表示を採用し始めた。当時、私はこれを不可解に感じ、イライラした。正直言って頭に血が昇ったものだ。
パイロットウォッチとは、余計な装飾を排し、シンプルで見やすく正確なものでなければならないのに、コクピットの計器盤を模した機能を搭載することはパイロットウォッチというジャンルを根底から冒涜しているような気がしたのだ。なぜ、このデイト表示窓が気になるのか、その理由をはっきりさせるのに時間がかかった。それはパイロットウォッチを本物ではなく、“パイロットウォッチらしきもの”に変えてしまったからだ。
私はこの無性に腹立たしい気持ちを10年近く持ち続けたが、ここ数年寛容にもなってきた。高度計式のデイト表示窓は、多くの人にとって“航空機”、それもガーミンに代表されるデジタル表示コックピット以前のアナログ式が主流だった時代の航空機を象徴しているのである(ガーミン社製デジタルメーターディスプレイを搭載した小型航空機の前席に座った経験を踏まえ、デジタルコックピットは視認性と安全性において、紛れもなく改善されたと考えていることを付け加えておく)。また、パイロットウォッチメーカーにとっては、より幅広いデザイン要素を活用できるようになった。IWCはどうすればよかったというのだろうか? 潰れるまで愚直にマークXIIを作り続ければよかったわけではないだろう。
数十年前、時計専門ウェブサイトTimezoneのウォルト・オデッツ(Walt Odets)は、マークXIIを“パイロットでない人が好むパイロットウォッチ”と揶揄した(彼はパイロット免許を持ち、元商業飛行士であることから、この言葉はさらに真実味を帯びたものだった)。現代のテクニカルウォッチは、そうなってから久しいが、もはや特定のプロフェッショナル集団のために存在するのではなく、特定のプロフェッショナル集団との絆を感じさせるために存在するのである。
そこで、今回はヘリウムエスケープバルブ(HEV)について考えてみることにしよう。
その理由は簡単だ。ヘリウムエスケープバルブは、飽和潜水の黎明期に遭遇した課題に対する解決策である。飽和潜水は極限の深度で実施されるため、減圧に時間がかかると実際の水中作業時間が極端に短くなってしまう。そこで、ダイバーたちは支援船の甲板上にあるチャンバー(加減圧室)に入り、徐々に作業深度の圧力に近づけていく。作業現場へは、加圧された潜水ベルで降下し、ベルを出て作業を行い、再び潜水ベルを経由して居住チャンバーに戻る。任務を終えると、チャンバー内部は徐々に減圧され、海面と同等の気圧になり、安全に外に出ることができるというわけだ。
一見非常に恐ろしく危険に感じるが、一般的にダイバーは一連の手順に耐えられるようだ。居住チャンバーと海面との圧力差は非常に大きいので、万が一、壊滅的な減圧事故に巻き込まれたら、“ジャック・クストー”と言い終える前に気を失うだろう。
では、なぜヘリウムが関係するのだろうか? 我々が呼吸している空気は、約78%が窒素、21%が酸素(残りは微量ガス)である。窒素を高圧で吸うと、窒素酔いという一種の錯乱状態に陥ることがあり、これが標準的な混合ガスを利用して到達できる深度の限界の一因となっている。ヘリウムは窒素の代用となる、ドナルド・ダックのような声が出るというわずかな代償で、窒素と酸素の混合ガスで呼吸するよりも数百フィートも深く、長く潜っていることができるのだ。
へリウム原子(ヘリウムは単原子であり、それ自身と結合することもない)は、防水パッキンを透過して時計ケースの内部に入り込むほど小さい。ヘリウム自体は何も損傷しないが、減圧時には、海面気圧の数倍の圧力がかかるガスが、外圧の低下と同じ速さで内部から排出されず、時計から風防クリスタルを吹き飛ばしてしまう。ロレックスがシードゥエラーを一般に販売し始めたとき、飽和潜水士で後にロレックスの重役となったT・ウォーカー・ロイド(T. Walker Lloyd)が広告でそう証言した(2012年にシーラブダイバーのボブ・バース〈Bob Barth〉氏もジェイソン・ヒートン〈Jason Heaton〉とのインタビューの中で確認している)。
ヘリウム原子は水分子よりはるかに小さいと長年書いてきて、それ以上深く追究することはなかったが、時計愛好家になって数十年、ようやく調べてみたので報告する。ヘリウム原子の原子半径0.49オングストローム(Å)に対し、水分子(分子がV字型なので測り方にもよるが)の原子半径は約2.75Åである。オングストローム(Å)は10の-10乗、つまり100億分の1mである。ロバート・バーンズ(Robert Burns)の詩「二十日鼠へ」で、“Wee, sleekit, cowrin, tim'rous beastie[小さく、滑らかで、すばしこく、臆病な小動物よ]”を思い浮かべる人もいるのではないか。あるいは、自分が思ったより早く歳をとってしまったと感じるのに似ているかもしれない。
風防が破裂する問題にはふたつの解決策がある。ひとつは、ヘリウムが入らないようにケースを徹底的に密閉することだ。このため、しばしば特別なパッキンを採用している。私が見たいくつかの資料によると、ニトリルゴムはヘリウムの透過係数が非常に低いそうだ。また、モノコックケースはセイコーやオメガ(プロプロフ)、シチズン(現在生産中のプロフェッショナルダイバー300Mはケースバックに“飽和潜水専用”と刻印されている)などが採用している解決策だ。
一般消費者に売りやすいようケースをあまり大きくせずに取りうる第2の方法として、減圧時にケース内の過圧ガスを外気に放出する放出弁を採用することである。
現代の時計愛好家の多くは、このヘリウムエスケープバルブの有無を気にかけることはない。理由は簡単で、現代のダイバーズウォッチを購入する人に、HEVは必要ないからだ。これは、完全に隙のない議論と言えるかもしれない。ダイバーズウォッチを購入した人が実際にHEVを必要とする確率は、雷に打たれる確率、隕石にぶつかる確率、宝くじに当たる確率よりも低いだろうから、ケースに別の開口部を設け、時には不必要な外部突起を設けることは、よくて無意味なことに思えるのだ。
しかし、現代のダイバーズウォッチを購入する人に、本当に必要な人はまったくいないのが実情だ。ダイバーズウォッチの規格であるISO6425に準拠した200m防水ですら、ヘリウムエスケープバルブと同じように、オーバースペックなのだ。あなたも私も200mまで潜らない。しかし、それは傍に置いておこう。この時計があれば、たとえ潜らないとしても、潜ることができるという安心感が得られるのは素晴らしいことだし、究極的には実用的ではないにしろ、数十年の歴史を誇る深海における人類の冒険を象徴しているのである。
ヘリウムエスケープバルブは、飽和潜水においてのみ純粋に役立つものかもしれない。しかし、自分の時計が飽和潜水に使われる可能性があるというのは、純粋に楽しいことだ。正真正銘のフルスペックの飽和潜水用時計を身につけることは、誤算が瞬時に命取りになるような、しかし人間にはほとんど見ることのできない世界を体験できる、別世界への切符なのだ。ひと言で言えば、本物志向と誠実さの象徴であり、私たちの生活のなかでその両方がいかに欠落しているかを考えると、私はファンのひとりであり続けたいと思う。HEVよ、あなたに敬意を表したい。いつまでもオナラ(失敬!)を排出し続けてほしい。
飽和潜水についてより深く知りたい方は、Technical Perspective 飽和潜水の真の意味とは? (そして時計職人はそれにどう対応したのか)、生涯現役ダイバーによるHEVの紹介は、ジェイソン・ヒートンのToo Much Hot Air About The Helium Escape Valve(巷に溢れるヘリウムエスケープバルブに関するデタラメ)(英文)をご覧いただきたい。ダニー・ミルトンのTalking Watches ロレックスCOMEXダイバーズの伝説的コレクター、グラハム・ファウラー(英文)では、飽和潜水用に作られた腕時計のコレクションを詳しく紹介している。そして、ルイ・ウェストファーレンのReference Pointsロレックスのシードゥエラーを理解する(英文)も必見だ。
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