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カルティエ タンクのインスピレーションの源となった戦車、戦時中から時計の時代へ

初の近代的な戦車が、いかに最高のエレガンスを生み出したか。

カルティエ タンクは、発売から1世紀のあいだほとんど変わることはなかった。タンクは、1919年当時も今も、これまでにデザインされた中で最もエレガントな腕時計のひとつである。しかし、そのインスピレーションの源となったのは、残忍な人間の創造力が生み出した最恐の兵器だった。

 軍用の戦車は第一次世界大戦のさなか、1916年に行われたソンムの戦いに当時新兵器として投入された。終戦までには機械化された近代戦争の強力な象徴となった。砲弾が飛び交う泥まみれの大地に残した足跡からは、美しさや優美さの前身になろうとはとうてい思えないものだった。

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戦いの野獣

私が実際に戦車の中に座ったのは、あのときが最初で最後だった。アメリカ独立記念日の1972年7月4日、場所は米ゲティスバーグだった。その戦車(M60パットン)は、巨大でただ置かれているだけでも威圧感があった。球根状の砲塔からは、重量感のある大砲が突き出ている。それはまるで、こちらを脅しにかかる大型の雄象の硬い鼻のようだった。

 今まで私は、なぜ州兵が完全に稼働する戦車に子供たちを登らせて遊ばせるのか、よくわからなかった。それは一見すると、恐ろしい発想のようにも思える(それでも当時、遊び場の地面はアスファルトで固められ、あちこちで喫煙する姿があり、シートベルトでさえあとから普及したものだった。時代が違ったのだ)。私は戦車の外殻部をなんとかよじ登り、内部に入ったのだった。

フォートルイス軍事博物館で展示されるオリジナルの戦車M60A1。画像: Articseahorse(Wikipediaより)

 操縦席に座るとワクワクしたのを覚えている。自分の指先に巨大な力があるのだと思うと、まだ10歳の子供だった私の想像力をかきたてた。何も起こらないことはわかっていた。おい、イグニッションにキーは入っていないよな?….私は、目の前のスイッチの一つを何気なくいじってみた。

 するとすぐに、ファンが回り始めた。換気装置のスイッチを入れたに違いない。次に私がしたことは、“ヤケティ・サックス”のBGMを聴きながら、南北戦争の戦場で嬉々として、破壊的だが無害な大暴れをしたのだ…と言いたいところだが、実際にはひどく恐ろしくなって、スイッチを切り、震える足で鎧を着た野獣の腹のなかから外に逃げ出したの。

「悪魔が来たぞ」

つまり戦車は、恐怖を与えるものなのだ。初めて戦場に投入された第一次世界大戦中には、敵味方の区別なく驚異の対象となった。1916年のソンムの戦いで、イギリス軍側の兵器として初めてこの戦車が使われたが、バート・チェイニーという名の通信部隊将校は、後にこう振り返っている。

「奇妙な音が聞こえてきたかと思うと、それまでに見たこともないような巨大な機械の怪物が3体、ゆっくりと我々の方へ。私の第一印象は、今にも倒れそうだということでしたが、2つの小さな後部車輪が車体をしっかりと保持し、水平な状態を保っていました。2組のキャタピラホイールがボディをぐるりと囲むように付いた、まさに大きな金属の塊でした….」

1916年、ソンムでのイギリスのマーク1戦車。写真: アーネスト・ブルックス(Wikipediaより)

 連合軍にとって、戦車は渡りに船だった。ドイツ軍にとっては、士気を失わせるほどの恐怖であった。ソンムでは、一人の兵士がこう叫んだという。「悪魔が来たぞ!」

 戦車は、ほとんど連合国側によって使用された。終戦までにドイツが生産できたのはわずか20台。連合国は何千台も作っていた。フランスだけでも3600台以上のルノーFT戦車が製造され、国民の誰もがひと目でその外観を認識した。そして、控えめな軍の運転手だったルイ・カルティエもその一人だった。

人間と機械

ルイ・カルティエは幸運にも、かなり静かな戦争を経験した。フランチェスカ・カルティエ・ブリケルの『The Cartiers』によると、彼は1915年に戦争に動員されたが(すでに40歳だった)、医学的な見地から特例を得て補助隊にとどまった。しかし、何度か戦地へ送り込まれている。カルティエ・ブリケルは著書のなかで、「ルイ・カルティエは、戦地訪問の際に、のちにカルティエの最も象徴的な作品の一つとなるタンクウォッチのアイデアを思いついたのだと語っている」と記している。

ルイ・カルティエ

 最前線に配備された戦車のうち、具体的にどの戦車が“タンク ウォッチ”の発想の源となったのかは、我々には確かなことは分からない。だがカルティエは、常にそれはFT戦車だと言っている。ルイ・カルティエは1917年春に兵役を解かれた。最初のFT戦車は、1917年に生産されたが(この戦車はFT-17と呼ばれることもあるが、その名が付けられたのは戦後である)、その年に生産された数は少なく、カルティエが実物の戦車を目にしたのは運がよかったに違いない。しかし、休戦協定が結ばれた1918年11月には数千台が生産され、カルティエをはじめとするフランスの誰もが、少なくとも新聞でその1台を目にしていた。

実弾訓練中のルノーFT。Getty Images

 近代戦車の先駆けとなったFT。20世紀初頭の工業デザインを代表する戦車である。砲塔は完全に回転し、主砲を搭載していた。エンジンは後部に、乗員室は前部にそれぞれ配置されていた。このFTの車体設計は、1917年以降に造られたあらゆる戦車の基本となった。

 とはいえ、最もよく知られている要素の一つは、外殻部の両側にある2つの突き出たトレッド(踏み板)だ。タンク ウォッチでは、この特徴的な部分が、“ブランカード”、つまり時計両側が細長く伸びた形状のケースになったのだ。

ルノーFTの乗員室。写真: J. T. Seabrook, National Archives

 “ブランカード”はフランス語で「担架」を意味するが、戦場で死者や死者を運ぶために使われていたものと高級時計を結びつけるのは、あまりポジティブな宣伝にはならないだろう。一方、軍用戦車は連合国の勝利の象徴であり、特にフランスの戦場での強さを象徴するものだった。

 ルノーFTが登場するまで戦車は、機関銃と大砲を大量に備えた巨大な金属の箱だった。だてに“陸の戦艦”と名付けられたわけではなかった。しかし、こうした戦車はスピードが遅く不格好な上、大量の武器のために頭でっかちで不安定だった。対照的にFTは、軽量かつ機敏で、優雅だった。イギリスのマーク1のような戦車がプロボクサーのソニー・リストンだとすれば、FTはモハメド・アリだった。

ごく初期のタンク「ノルマーレ」(1920年)。

カルティエ・ブリケルは次のように記している:

 「ルイの新しい腕時計のアイデアが本当に戦争で使う戦車に由来したのか、あるいは初期のサントスの進化系だったのか否かに関係なく、この腕時計を“タンク”と呼んだことは、セールスの視点から言えば天才的なひらめきでした。ルイは、タンクの初期のプロトタイプを戦争勝利に貢献した伝説的なアメリカ軍人であるジョン・ジョゼフ・“ブラック・ジャック”・パーシング将軍に提供したと言われています。アルベルト・サントス=デュモンが、タンク発売の10年前に自身の名を冠した時計の普及に貢献したように、パーシング将軍はタンクにとって、国際的なブランド価値を確立する上で完璧なアンバサダーになったのでしょう」

 1919年に発表されたタンク ノルマーレは、最初のタンクとなった。このルノーFTという戦車は、軍事ハードウェアとしては驚くほど長いあいだ現役で活躍し、第二次世界大戦後まで使用され続けた。だが、タンクは、そのFT戦車の寿命をはるかに上回っている。ほぼ無敵の動く砦であり、結果として砲火攻撃と猛威を与える「タンク(戦車)」は、戦争の合言葉かもしれない。しかし、腕時計のタンクは、そのインスピレーションを、抽象化という錬金術によって、美の代名詞へと昇華させたのだ。

 もしどなたか、パーシング将軍のプロトタイプのタンクを密かに所有し、それを印刷物として永遠に残したいと望んでいるのであれば、ぜひ私にご一報いただきたい。それは私にとって一生の幸せである。その時計は歴史上、行方不明になっている偉大な腕時計のリストの一つなのだ(記事「姿を消した最も偉大な12の腕時計」参照)。