2022年3月20日の週、我々はスウォッチとオメガのInstagramの投稿から、ソーシャルメディア上の不可解な会話に注目した。「3月25日、あなたのスウォッチを替える時が来た…あなたのオメガを替える時が来た」。これには時計業界も少なからず困惑した。
その後、ニューヨーク・タイムズ紙に週末の発売と公開を予告する全面広告が掲載された。
噂は絶え間なく拡散された。時計マニアたちは、自分たちでモックアップを作り始めたのである。スピードマスターなのか? 名前はどうなるのか? スウォッチマスターなのか?
発売日の2日前、何の前触れもなく、インターネット上でニュースが流れ、我々はついにその姿を目にすることになった。バイオセラミックのスウォッチはムーンウォッチのほぼカーボンコピーでありながら、スウォッチのフォーマットを採用している。その名も“ムーンスウォッチ(Moonswatch)”とあった。
この時計はオンラインでは販売されない。スウォッチショップのなかでも、選ばれた店でしか買えないのだ。
興奮は高まった。世界中のスウォッチブティックの前に、熱狂的な時計コレクターがテントを張ったという話も聞いた。スウォッチを買うために24時間以上並ぶなんて、想像もつかないという同僚もいた。
しかし、多くの、本当におびただしい数の人々が行列に並んだ。世界中で数千人。この数十年で最大の時計のリリースであったことは間違いない。
行列は、スウォッチがInstagramでアナウンスをしなければならないほどにまで膨れ上がった。もし、あなたが店舗に来る予定があるなら、ムーンスウォッチを2本だけ購入することができるとのことだった。それでも、列はさらに長くなった。
東京からロンドンまで、群衆(暴徒さえも)が形成され始めた。東京やロンドンでは、暴徒化した群集を鎮めるために、警察による取り締まりが必要な場所もあった。スウォッチは、またしてもメッセージを送ってきた。どうやら群衆の規模が大きくなりすぎたため、基準を見直す必要が出てきたようだ。ムーンスウォッチを買いに来た人は、1本しか買えないと通告した。
各店舗にその旨の張り紙がされ、18時間待ち続けた人たちに、たった1本の時計のためであることを通知した。
シンガポールのように、開店直前に警察が出動する店舗もあった。ロンドンも例外ではなかった。まるで春のブラックフライデーのように、誰もが時計マニアだったということなのだろうか?
HODINKEEでは、世界各地にフォトグラファーを派遣し、ムーンスウォッチ発売の興奮を写真に収めた。
2022年の現在、ムーンスウォッチはフリッパーズ(転売屋)と呼ばれる、この時計を売って暴利を得ようとする業者たちを引き連れてきた(彼らの読みは正しかった)。
HODINKEEは、ロンドン、シンガポール、マイアミ、トロント、ラスベガス、そしてニューヨークにフォトグラファーを派遣した。3大陸で、ひとつの時計のために。私はタイムズ・スクウェアの現場で、2ブロックを超える長蛇の列を目の当たりにした。2000人近い行列で、在庫は300本にも満たなかった。手に持っているのは、自分の居場所を示すシール。なかには、そのステッカーと引き換えに現金を渡される人もいた。まさに大混乱である。
ムーンスウォッチ狂騒の現場に戻る
ムーンスウォッチが時計界を席巻してから2カ月が経とうとしている。店頭にはまだ在庫がなく、需要も高い。そんななか、今週に入り、この時計はオンラインでは販売されず、店頭でのみ販売されるという噂が流れ始めた。
発売時に少し見ただけなので、この1週間をふたつのモデルで過ごすことができるのは、とても楽しみだった。ミッション・トゥ・マーズとミッション・トゥ・ジュピターである(ミッション・トゥ・アース、ザ・ムーン、ジュピター、ウラヌス、サン、マーズ、プルート、サターン、ネプチューン、マーキュリー、ヴィーナスの計11モデルが展開されている)。しかし、もちろん、ほかの時計と同じように身につけるわけにはいかなかった。私は、この時計を体験する必要があったのだ。すべての始まりの場所、ニューヨークのタイムズ・スクウェアに戻る必要があった。
私はふたつのムーンスウォッチとマイクを手に、スウォッチブティックの前に陣取り、立ち止まる通行人やウィンドウに飾られたブリーフケースに目をやる通行人に質問をする準備をした。私の使命は、行列がなくなった今、この不合理な熱狂がどのような状況にあるのかを知ることだった。これは一瞬の出来事なのか、それとも私たちの記憶に残り、クォーツ危機のように語り継がれるような、足跡を残した真の時計史の1ページなのかを知りたかったのだ。
私が話した内容は、動画レビューでご覧いただけるが、いうまでもなく、ムーンスウォッチに無知な人から“本が書けそうだ”という人まで、さまざまな人がいた。そのなかで、この時計がある種の神秘性を保ちながら、興味と関心を集め続けていることに疑いの余地はない。
私は、両腕に1本ずつムーンスウォッチをつけてタイムズ・スクウェアを歩き、それから自分の考えに戻った。時計を持っていることで、リリースに対する考え方が変わった。もう、腕時計を身につけたらどんな感じだろうと考える必要はなく、2本の腕時計と同時に1週間を過ごすことになったのだ。
1週間、腕につけて
この時計から学んだことは、不合理な熱狂というものは、本質から目を逸らすものだということだ。真実が見えなくなるか、少なくとも目の前にある現実から目をそらすことができるのだ。スウォッチとオメガのスピードマスターのコラボレーションは、いうまでもなくパンチの効いた衝撃的なものであり、幅広い層の人々の興味をそそるものだ。行列の長さがそれを証明した。
しかし、その場に足を運び、購入し、家に持ち帰り、そして所有することができた幸運な購入者はどうだろうか? 本当に手に入れたものは何なのだろうか?
あなたは、広告に掲載されていたものをそのまま持っている。オメガ スピードマスターをスウォッチ化したものだ。メタルケースではなく、スウォッチが開発したバイオセラミック(プラスチックとセラミックを混合して作られた複合素材)が採用されている。マットでざらざらとした質感で、ありえないほど軽い。チタンの軽さではなく、プラスチックの軽さだ。スティールフォークとプラスチックフォークの違いのようなものといえばわかりやすい。
私は公平さを保ちながら体験に臨んだが、そんな私でもこの時計の感触には少しがっかりしたと言わざるを得ない。3万3550円(税込。北米では260ドル)は決して高くはないが、時計学的にいえば、決して小さな額ではない。セイコーのようなブランドが同価格帯でどんなことができるかを知っているだけに、ケースの質感に物足りなさを感じたのが正直なところだ。
3Dプリンター撮って出しで、プロトタイプがそのまま作られ、それを最終製品にしてしまったかのようである。しかし、このような要素はプラスに転じることもある。これこそ両ブランドが目指したものだと考えている。
スピードマスター ムーンウォッチについてはA Week on the Wristのアーカイブから詳しくご紹介しよう。
ここでは、その内容をご紹介したい。ムーンウォッチの安価なスウォッチ版を作ることは、オメガのようなブランドにとって危険なゲームになる可能性を秘めている。同じデザインのDNAを300ドル以下で手に入れられるなら、なぜ本物を6000ドル以上も出して買うのか説明できないからだ。
ふたつのモデルを区別するためには、認識される品質の明確な区分けが必要だ。ムーンスウォッチを買って、“これさえあればいい”と思う人はいないだろう。
むしろムーンスウォッチは、本物を知るための完璧なパートナーなのだ。ムーンスウォッチとムーンウォッチは調和して共存しているのだ。初めて時計を購入される人にとっては、将来的にスピードマスターを購入するための入り口として、このスウォッチをお使いいただけるだろう。現在スピードマスターのオーナーには、コレクションに加える素晴らしいアイテムとなることだろう。ひと言で”楽しい“のである。
前述したように、私はふたつのモデルだけで過ごした。ミッション・トゥ・マーズは、発売当時、カルト的な人気を博したモデルだ。赤いケースとカプセル型の針が、スピードマスター アラスカプロジェクトにまつわる伝説を語らせたのだ。誰もがこの時計を欲しがったのは当然である。
一方で今回、私も試着したサンドカラーのミッション・トゥ・ジュピターについては、誰も多くを語らなかった。しかし、私はジュピターのほうに引かれた。派手なマーズとは対照的に、落ち着いた色合いで、より楽しい体験ができたからだ。オレンジのアクセントは、あのウルトラマンのスピードマスターを彷彿とさせる。
この2モデルの明確な違い、ダイヤル、針、ストラップカラーの違い以外には、ほぼ同じ仕様となっている。
直径42mmのケースは、オメガのスピードマスターと同じデザインで、バイオセラミックでプリントされている。リューズガードから竪琴式ラグ、“ベベル(傾斜)”に至るまで、すべてがこのケースに組み込まれている。サイズ的にもスピーディと同じように装着することができる。唯一(というかかなり)違うのは、重さだ。ムーンスウォッチをつけていると、時計をつけていることを忘れてしまいそう。それほど軽いのだ。
スピードマスターが最新の手巻き式Cal.3861であるのに対し、ムーンスウォッチはクォーツ式だ。ムーンスウォッチを裏返すと、電池蓋がその時計の天体を模したデザインになっていることに気づくだろう。このムーブメントを採用することで、クロノグラフ機能にはスイープ運針ではなく、ステップ運針する秒針が採用されている。また、時刻表示は、クロノグラフが停止した後に再開する。クロノグラフをリセットすると、すべての針がくるくると回って元の12時位置に戻るという、ちょっと楽しい仕様となっている。
ムーンスウォッチシリーズは、ダイヤルのディテールも従来のスピーディとは異なっている。ひとつは、共同ブランドの表記がダイヤル(とストラップ)に直接プリントされていることだ。また、表記の配列も通常のスピードマスターとは異なる。
身につけると、純粋な喜びがある。これは私が久々に接した最も真面目な時計だ(私はスペースジャムの記事を書いた当人だが)。スピードマスターのデザインDNAは、もはやNASAを愛する宇宙マニアにとどまるものではない。これはもう、大衆向けのデザインなのだ。
歩いていると、通行人が私の腕にこの時計があることに気がつく。タイムズ・スクウェアでインタビューした人たちに見せると、とても喜ばれた。まるで宝物を腕につけているような誇らしさ。ティファニー・ノーチラスやリシャール・ミルを身につけると、こんな気分になるのだろうか。でも、この時計はたった3万3550円だ。これはすごいことだし、気分がいい。
ムーンスウォッチと過ごした1週間は、時計というより、その瞬間に対する私自身の瞑想のようなものだった。もしスウォッチがこの作品を実店舗に並べ続けるなら、潜在的な購入者の列は途絶えることがないだろう。
今回の発表で私が感じたのは、時計にはまだ魔力が残されているということだ。Appleが新しいiPhoneを発表するのと同じように、興奮を呼び起こす力がある。ムーンスウォッチは、現在進行中の時計の歴史に新たな1日を刻み込んだ。しかし、その新章が何を意味するのか、疑問が残る。ムーンスウォッチが時計にとって福音となるのか、それとも禍をもたらすのか。我々は、もう一歩踏み込んでこう考える。それでも、時計にとって素晴らしいことだと。
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