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オリジン・ストーリー
その日はWatches & Wondersがあった忙しい週だったが、以前Instagramで見かけた時計職人と会うために、私はホテル ラ レゼルヴで行われていたミーティングにこっそり参加していた。日本における販売パートナーの代表である素敵な日本のビジネスマンが、手を振りながら私に追いつこうと廊下を走ってきた。その先にある部屋に入ると、そこには何人もの日本人男性が壁にへばりつくようにして、時計職人の関口陽介氏がある顧客との打ち合わせを終えるのをじっと見守っていた。
日本生まれでスイスに拠点を置く時計職人の関口陽介氏は、初めて市販された腕時計、プリムヴェールの新たな顧客をまた見つけたようだった。しかし関口氏の笑顔は、よくも悪くも彼の年産の4分の1を占めるかもしれない注文の可能性よりも、顧客が見せてくれた情熱に興奮しているように見えた。スイス人のビジネスパートナーで友人のジュリアン・ヴァロン(Julien Vallon)氏というもうひとりの男性がその顧客をロビーまで案内しているあいだ、関口氏と私は彼の時計について話せるのを楽しみにしていたが、私は日本語もフランス語も話せないし、また彼の英語もたどたどしいという事実を乗り越えるために、あらゆることを試みた。しかし私たちのあいだには共通の認識があり、彼が時計製造への情熱を追い求めるためにそれを克服していたことに驚嘆した。
「高校生のとき、友人が壊れて動かない時計をくれたんです」と関口氏は話す。「16歳のある日、時計を開けてムーブメントを見てみたら、それがとても魅力的に映りました。それで父に、時計学校に入れないかと相談したら“ダメだ”ときっぱり言われたんです」
「彼は、“行きたいのなら大学に進学してからいつでも行けるが、まずはほかのことをやり遂げてからだ”と言いました。それでもいいなら協力するよと。それでフランス語を学ぶために、まずはフランス文学を勉強しました。というのも、いつかスイスに移住して学校に通ったり仕事をすると思っていたからです」
19年前、関口氏は23歳のときに日本を離れた。その理由のひとつは、(少なくとも当時は)日本の時計製造が非常に厳格で精度にこだわるあまり、自分が探求したいと思っていた芸術性に富んだ伝統的な時計製造のスタイルは受け入れていなかったのだと彼は語った。しかし4年間はスイスで仕事を探すのに苦労し、適した免許を取るのに(時計について教えてくれる)支援してくれる人も見つからなかった。
結局2008年にムーブメント製造会社のラ・ジューペレに就職し、3年間勤めたあと、2011年にクリストフ・クラーレに入社した。やがて関口氏はジュリアン・ヴァロン氏と出会い親友に、そしてビジネスパートナーとなる。アンティークウォッチをこよなく愛するふたり。関口氏は500以上のキャリバーを収集し、さらにヴァロン氏のショップでアンティークウォッチの修理を行うなど活動を広げて絆を深めた。現在では、(ヴァロン氏のショップが)関口氏が持つふたつの販売パートナーのうちのひとつとなっている。2015年、プロの独立時計師のキャリアとして初めて腕時計を完成。それは手書きの図面から起こした、完全にゼロから製作したデテントエスケープメントのトゥールビヨン懐中時計だった。このとき、関口氏の独立時計師への道が形になり始めた。
我々が彼を好きな理由
未来的なデザイン言語が好きな私にとって、関口氏のプリムヴェールのようなクラシックスタイルの時計は、どこか故郷のようにも感じられて、そこには私を魅了する何かがある。ホワイトゴールドまたはローズゴールドのケースは39.5mm(直径)×12mm(厚み)ととてもよく腕になじみ、同時にグラン・フー・エナメルダイヤルも素晴らしく控えめで大変華やかだ。このスタイルの時計は、スイスの時計職人が作業台に座って、コツコツと年に数本しかつくらないような時計を想像させる。そして関口氏がル・ロックルの工房でたったひとりで仕事をしながら、このような伝統的な手法でそれを実現しているのだ。
彼のデザインでまず明らかなのは、ほかの偉大な人物たちと同様、関口氏もこれまでの成功を積み重ねた上に立っていて、それを称え、改良を加えているということだ。さらにいうと彼はそのインスピレーションを得るための例を気軽にボランティアで教えてくれる。私がプリムヴェールを撮影したとき彼は最初に、1870年につくられた似たような外観を持つ時計、ユール・ヤーゲンセン(Jules Jürgensen)のキャリバー ポントアロンディ(丸いブリッジを持つキャリバー)を取り出した。このキャリバーはヤーゲンセンのような腕時計に搭載された当時としてはよく使われていたもので、のちに関口氏が腕時計のケースに収めたものだった。
図面がないまま関口氏は、手作業で“ヤーゲンセン キャリバー”と呼ばれるものを分解し、イチから設計し直す作業に取り掛かったという。このプロトタイプをもとにCADで改良を重ねた最終デザインに比べれば粗削りだったが、彼のウォッチメイキング技術の高さを示すものだった。そしてその技術はコレクターにも認められている。そのプロトタイプを積極的に売り込むことなくブランドは軌道に乗り、年産20本しかないオーダーブックを埋めるほどの成功を収めた。
技術以上に関口氏の情熱と謙虚な人柄も尊敬する。私たちが懐中時計のムーブメント、バルジューのクロノメーター、エナメルなどについて話しているとき、彼は終始、私が見たなかで最も大きな笑顔を見せていた。私が英語でゆっくりと何かを言うと、彼は力強くうなずいて微笑むのだ。それはまさに時計づくりと歴史を愛する人々の共通語のようだった。
謙虚な性格の関口氏は、“私が見せた時計は完全なものではない。例えば黒い文字盤には白い文字をもっと目立たせたい”と、必死に私に言い聞かせていたが、でも私にはとても素晴らしいものに見えた。すべての時計は関口氏の工房で手作業で製作から組み立て、仕上げを行っている。年に20本しか作っていないのに8万スイスフラン(日本円で約1237万円)という相当な価格なので、時計のあらゆる部分を改良するという関口氏のこだわりが理解できる。「完璧ではありません」と同氏。続けて「しかし不完全であることも、心が何かを感じることができる大切なことなのです」 と話す。完璧であろうとなかろうと魅力的なパッケージだ。
最後に、私の心が引かれたのは彼のクリエイティブな精神だ。関口氏は熱狂的な音楽家で、トロンボーン奏者でもあり、時計づくりを音楽として捉えている。すべての音はすでに演奏され、またほとんどすべての組み合わせは録音されている。そこからアイデアを取り入れて自分のものにするだけだという。この独創的な世界観は、モデル名の名前であるプリムヴェール(春の最初の花)の由来にもなっている。ラグのひとつには3つのハートでできた小さな花と、家族や伝統、新たなスタートを象徴する、そして関口氏の名前を表す無限大の形をした“S”を組み合わせたロゴが刻印されている。
次に来るもの
1年のあいだに20本しか販売しないがゆえに、自分の時計を待つ人のために未着手のままにしたくないと関口氏は考えている。これはあまり意欲的な将来計画ではないが、しかし関口氏と日本・スイスの販売パートナーは来年に向けて注文をこなすことを想像できるようになってからのみ、注文を受け続けることにしている。彼が年に20本ではなく10本の注文しか得られなくても、それはなんら問題ない。彼は人が興味を持ってくれることをただただ喜んでいるだけで、それは表情にも表れている。
「自分に正直で誠実であれば、人生は正しい方向に進むと信じています」。関口氏は満面の笑みで話した。今のところその方向性はプリムヴェールに受け継がれている。彼がいつ再び注文を受け付けるかははっきりしていないため、もしあなたが(ウェイティング)リストに載りたいのであれば、チームとしての最善策は彼のInstagramページを常にチェックしておくことだと言っておこう。
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ヨウスケ・セキグチ プリムヴェールについての詳細は、彼の公式ウェブサイトをご覧ください。
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