trophy slideshow-left slideshow-right chevron-right chevron-light chevron-light play play-outline external-arrow pointer hodinkee-shop hodinkee-shop share-arrow share show-more-arrow watch101-hotspot instagram nav dropdown-arrow full-article-view read-more-arrow close close email facebook h image-centric-view newletter-icon pinterest search-light search thumbnail-view twitter view-image checkmark triangle-down chevron-right-circle chevron-right-circle-white lock shop live events conversation watch plus plus-circle camera comments download x heart comment default-watch-avatar overflow check-circle right-white right-black comment-bubble instagram speech-bubble shopping-bag

Four Revolutions Part 3:機械式時計革命の簡潔な歴史(1990年~2000年まで)

機械式時計は、歴史の霧のなかに消え去ろうとしていた。だが、そうはならなかった。


ADVERTISEMENT

※本記事は2017年12月に US版で公開された記事の翻訳です。掲載されている相場も執筆当時のものです。

 この記事は現代の時計業界を作り上げた、過去40年間のなかで起こった4つの革命を紹介するシリーズの第3部である。これまでの記事では、ジョー・トンプソンによるシリーズの紹介と、“クォーツ革命の簡潔な歴史(大きな4革命の第一部)”、そして“ファッションウォッチ革命の簡潔な歴史”を紹介した。第3部となる今回は、前後編の2部構成でお届け。前編と合わせてご覧いただきたい。

 2部構成の前編は、1989年4月にサタデー・ナイト・ライブのデニス・ミラー氏がウィークエンド・アップデートの中で、300万ドルを超えた金額で落札されたばかりのスイス製機械式時計について、皮肉を言ったところで幕を閉じた。

 パテック フィリップの創業150周年記念につくられたCal.89は、33もの機能という驚くべき数のコンプリケーションを搭載し、さらにその落札額の高さから世界中の話題をさらった驚異の時計である。

 そして、機械式時計が持つ優れた耐久性を改めて実感させるものだった(誇張なしに4種類のチャイムが搭載されていた)。クォーツウォッチの時代になって20年、機械式時計は消滅しなかったし(1970年代には誰しもが終焉を迎えるかと思っていた)、まさに復活を遂げようとしていた。500年前の技術にしては悪くない結果だ。

 「機械式時計は、市場の上端でラザロ(イエスの手により死からよみがえった男)のような復活を遂げた」と、私は1990年の春のレポートでこういっている。「そしてこれはスイスルネッサンスの大きな特徴となっている。機械式時計の輸出は、過去2年間で44%増の15億ドルに達し、これはスイスの輸出売上高の39%を占める結果となった。パテック フィリップやロレックスは、スイスの伝統的なハンドメイドクラフトマンシップの威信、価値、希少性に則って、現在も自社で機械式ムーブメントを製造しており、過去最高の売り上げを記録している。現在ほかのブランドも彼らのあとに続いている。今年(2017年)のバーゼルワールドでは、多くのブランドが久しぶりに自動巻きムーブメントを披露し、会場中に新しい機械式時計による音色を演奏した。機械式時計の復活は、大衆向けのマーケットにも向かうかもしれない。SMH(現在のスウォッチグループ)は、今年中に機械式のスウォッチを発売する予定だからだ」

初期のスウォッチ オートマティック(Photo Courtesy SwatchAndBeyond.com)

 それについて、私はふたつの点で間違っていた。ETA社の自動巻きムーブメントを搭載した、85ドル(日本円で約1万1000円)のプラスチック製ウォッチ、“スウォッチ オートマティック”が登場したのは、1990年ではなく1991年だった。もうひとつは、機械式時計が大衆向けのマーケットに進出しなかったことだ。またSMHのCEOであるニコラス・G・ハイエック・シニアはこの時計をローンチしたとき、そのような意図を持っていなかったという。当時ハイエックは時計用電池の入手が限られているため、クォーツウォッチがまだ珍しかった多くの第三市場のためにつくったと語っている。なお本当の理由は、業界唯一のひげゼンマイの供給元であったSMHによるニバロックス社のヒゲゼンマイの生産を増やしたかったからだと、のちに彼は教えてくれた。1990年の機械式時計の数量はまだ200万本にも満たず非常に少ないものだった。実業家だったハイエックは、もし機械式が復活するのであれば、この最も重要なムーブメントパーツに、より高い生産性とそれによる生産コストの節減を望んでいたのだ。いずれにせよ自動巻きのスウォッチは機械式にとってはいい前兆だった。

 はっきりいうと、1990年のバーゼルワールドで大きな話題を呼んだのは機械式ではなかった。スイスメイドのクォーツウォッチで成功したのである。クォーツ技術がいまだ世界をリードしており、スイスは新世代のヒーローブランドでそれを修得していた。アメリカのゲリー・グリンバーグが所有していたモバードは、1983年に200万ドル(日本円で約4億7500万円)だった売上が、1989年には7000万ドル(日本円で約96億5720万円)にまで上昇している。またレイモンド・ウェイルのクォーツウォッチの生産量は、過去2年間で76%増加して1989年の売上高は9000万ドル(日本円で約124億1640万円)に達したし、グッチウォッチのライセンスを持っていたセヴェリン・ワンダーマンは、1983年以来、2年ごとに売り上げを倍増させ、3億3100万ドル(日本円で約456億6475万円)にまで達していた。1980年代初頭に、クォーツショックでつまずいていたスイスが、日本の配下になるのではという懸念はすでに消えていた。

復活しはじめた機械式時計への関心が急拡大していくなか、ロレックスのデイトナは大きな役割を果たしてきた。

 そして機械式時計も流行に乗りつつあった。それは1990年に開催したバーゼルワールド、グロセール・フェストハレのボールルームでのこと。同イベントの運営は、ウォッチオークションの権威であるオズワルド・パトリッツィ氏に400点ものオークションを開催することを許可したという異例の展開となった。6時間にも及ぶイベントには、1000人近くの人が参加した。驚くべきことに、パトリッツィ氏はオークションの冒頭で「現在のコレクションから」と言い3本のロレックス デイトナを出品。機械式時計回復のきっかけとなったクロノグラフの流行が、脚光を浴びたことを証明したのだ(前編参照)。このブームはデイトナマニアに牽引されながら、その後も続いていく。1992年に私は「ロレックス デイトナ クロノグラフは依然として大流行している」とレポートした。「ロンドンにある王室御用達の宝石商、ガラードには、1日に8~10件の時計の依頼が入る。ただしガラードに渡るデイトナの割り当ては半年に1本のみだ」

ADVERTISEMENT

Cal.89がもたらしたもの

ユリス・ナルダン テリリウム ヨハネス ケプラーで天文三部作シリーズの完成に至り、現代の時計業界に新風を吹き込んだ。(Photo: Courtesy Sotheby's)

 1990年代初頭の機械式時計業界ではもうひとつ、コンプリケーションブームが到来している。Cal.89を皮切りに、10年前の機械式時計のパイオニアたちから、次々ととてつもないコンプリウォッチが登場したのだ。これらの時計は、(さまざまな機能を組み合わせて)クロノグラフをはるかに超える複雑機構を備えていた。1991年、IWCは世界初のグランドコンプリケーション腕時計を発表、その価格はなんと15万ドル(日本円で約2020万円)だった。しかしその値段だとしても、数カ月で350件の注文が入り、なかには7年待ちという人もいた(スイスの伝統に従っていうと、グランドコンプリケーションには永久カレンダー、ミニッツリピーター、クロノグラフが含まれていなければいけないもので、さらにピュリストはスプリットセコンドであることにもこだわる。残念ながらIWCのモデルはそうでなかったが)。

 1992年、ブランパンはコンプリケーションウォッチだけのコレクション、“時計職人の芸術品ともいえるシックス・マスターピース”を発表し、そしてその6つの複雑機構を1本の時計に集約させた“1735”を発表している。1735は、世界では2番目となるグランドコンプリケーションウォッチ(クロノグラフはスプリット仕様)だった。ブランパンはこれを、1本60万ドル(日本円で約7600万円)の価格に設定し、6年間で30本作ると宣言。それは見事完売している。

このスリムなミニッツリピーターは、1992年にブランパンが発表したシックスマスターピースのうちのひとつ。

 同年、ユリス・ナルダンは1985年作のアストロラビウム・ガリレオガリレイから始まる天文三部作シリーズ、トリロジー・オブ・タイムの最終作であるテリリウム・ヨハネスケプラーを発表した。

 1993年、IWCはさらに壮大で、当時最も複雑なグランドコンプリケーションウォッチ、イル・デストリエロ・スカフージア(イタリア語で“シャフハウゼンの軍馬”を意味する)を発表。これはスプリットセコンドクロノグラフ、ミニッツリピーター、永久カレンダー、ムーンフェイズ、トゥールビヨンなど、合計21もの複雑機構を搭載していた。価格は35万ドル(日本円で約3895万円)で、125本の数量限定生産、さらにこの時計には750点もの部品を使用していた。

イル・デストリエロ・スカフージアは、1993年に発表された当時、その複雑さゆえに機械式時計業界に激震が走った。現代の水準からしても、非常にハイレベルな時計だと思う。(Photo: Courtesy Sotheby's)

 IWCのヘッドウォッチメーカーであるクルト・クラウス氏は、CADの技術を駆使してムーブメントを設計していた。Cal.89にも見られるようにCAD(設計や製図をコンピュータで行うこと)は機械の超小型化という、新しい世界を切り開いたからだ。IWCは1988年にCAD/CAM技術を導入している。私が1996年にIWCを訪問した際、「クラウスのデスクにルーペがない。彼はパソコンを2台、モニターを2台、そして電子パッドとタッチペン、計算機を駆使して仕事をしていたのだ。これらが、今日の“マスターウォッチメーカー”のマストツールなのだ」と執筆している。

 これらの時計はハイコンプリケーションの新潮流の代表格であり、その勢いは腕時計コレクターの増加にもつながり、彼らを喜ばせた。1993年になると、実はスイス国内では複雑時計の急増に不満の声が上がっていた。その年、パテック フィリップのチーフを務めていたスターン氏は「市場に負荷がかかっていると感じる」と私に言った。「パテック フィリップのコンプリケーションの展開はこの1年で減少しました。私たちは量ではなく質にこだわっているのだと伝えたいのです」と同氏は話す。スターン氏は量だけが増えていて、クオリティが低下していると感じていた。ミニッツリピーターが5万(日本円で約375万円)から50万スイスフラン(日本円で約3765万円)で売られているのを見て、コレクターたちが何を感じ取っていたかはわからないだろうと彼は言う。

1990年代半ばに、トゥールビヨンはきっちりと再登場を果たしていた。(Photo: Courtesy Sotheby's)

 パテックはコンプリケーションの生産量を減らしたが、業界はその流れにはならなかった。翌年、当時新しいコンプリケーションとして注目されていたトゥールビヨンを搭載した時計が6社から発表されたのだ。複雑機構の製造経験のない会社がクリストフ・クラーレのような時計師などからトゥールビヨンのムーブメントを手に入れることができるようになっていた状況だったのである。例えば1996年、フィリップ・シャリオールは11万ドル(日本円で約1495万円)のトゥールビヨンウォッチを発表し、それにトゥールビヨンマニアが食いついている(それはその後10年間で瞬く間に普及する。あるデータでは2004年から2005年の2年間だけで117本ものトゥールビヨンモデルが発表された)。

 機械式の復活は、トップの市場だけに混乱を招いていたわけではない。多くの消費者にとって昔の技術は実は目新しいものだったのだ。1993年、ジュネーブで開催されたSIHHにてカルティエのCEO、アラン・ドミニク・ペラン氏は異例の訴えをした。それは機械式時計とクォーツウォッチはまったくの別物であるということを、一般の人々、そして業界の一部の人々に発信してほしいとジャーナリストたちに伝えたのだ。ペラン氏は「何千ドルも出して買ったこの機械式時計が安い時計と比べて性能が悪い! というクレームの電話がかかってくるんです」と語った。

ADVERTISEMENT

復活を遂げたグラスヒュッテ

A.ランゲ&ゾーネのトゥールビヨンモデル“プール・ル・メリット”。1994年に登場した、同ブランド最初のコレクションのひとつだ。

 このような事態となっているスイスの一方で、国境を越えたドイツでは脚光を浴びることなく、別の機械のリバイバルが始まっていた。1991年9月15日、ザクセン州グラスヒュッテで新設された時計会社ランゲ・ウーレンGmbHでは15人の従業員が働き始めた。新しい機械式時計の生産地が誕生したのである。

 その前年、東西ドイツが統一され、その結果、共産主義の東ドイツに資本主義が戻り、グラスヒュッテには高級時計の製造業が戻りつつあった。この街は1845年にドイツの高級機械式時計製造の中心地として誕生した歴史がある。しかし共産主義者のもと、第2次世界大戦後に残ったこれらの産業は、最初は機械式、次にクォーツという安価な時計をつくる巨大な団体へ変貌を遂げる。統一後、その団体は眠りについた。その代わりグラスヒュッテには、機械式時計のみにこだわって製造する5つのブランドが誕生した。それがA.ランゲ&ゾーネ、グラスヒュッテ・オリジナルとその姉妹ブランドであるユニオン、ミューレ グラスヒュッテ、ノモス グラスヒュッテである。

ドイツによる時計製造は、19世紀から続く伝統に根ざした、独自のテクニカルコードと異なる美学を発展させた。

 そのなかで最も有名だったのがランゲだ。ドイツのVDO社(主にスピードメーターを手がけるブランド)はランゲを復活するべく、いち早く動いた。VDO社はスイスにあるジャガー・ルクルトや、IWCシャフハウゼンのブランドを持っており、時計産業にも精通していた。そしてIWCのCEOであるドイツ人のギュンター・ブリュームラインを新CEOとして、新生ランゲ・ウーレンGmbHの責任者に任命した。ブリュームラインとVDO社は、ランゲの創業者であるフェルディナント・アドルフ・ランゲの子孫、ウォルター・ランゲを新ランゲ社の会長として故郷に呼び戻す。彼らの目標はランゲが“グランド・トラディション”と呼ぶハイメカニカルな腕時計を作ること、さらにブランドの美学と理想的な技術を復活させることだった。その後4年にわたり、VDO社は1000万ドル(日本円で約13億4700万円)をランゲに注ぎ込んだ。オフセンターの分表示、大きな日付表示、“アップ/ダウン”パワーリザーブ表示を有する、ランゲ1を筆頭とした4モデルが1994年にデビューを果たす。ほかのモデルにはサクソニア、アーケイド、プール・ル・メリット トゥールビヨンがあった。

ほかにもノモス グラスヒュッテのように、ベルリンの壁崩壊後の旧東ドイツで立ち上がったブランドも存在する。

 10年後には、独自のスタイルと製造技術を持つグラスヒュッテの各社が年間4万本の機械式時計を生産するようになる。高級機械式時計は、もはやスイスだけのものではなくなっていた。共産主義の苦しみから抜け出したグラスヒュッテは現在も続いている機械式時計奇跡の復活の、もうひとつのマイルストーンだったのだ。

ADVERTISEMENT

マスターズ オブ コンプリケーション

時計職人のフランク・ミュラー氏は、自身の名を冠したブランドで、より精悍で複雑な時計製造のスタイルをスタートすることになる。

 1989年、いまやスイスの生ける伝説となった時計職人フィリップ・デュフォー氏は、初めて腕時計を作ることを決意する。それまでは懐中時計一筋で、主にその修復を中心に仕事をしてきた。コンプリケーションを搭載した腕時計が登場したことで彼は創作意欲をかき立てられ、ミニッツリピーターの腕時計を作りたいという創作意欲が湧いてくる。それからはCADソフトを購入し、独学で使い方をマスター。それから2年半、彼はこの時計に徹底して向き合い1992年のバーゼルワールドで発表をした。このときのことをヨーロッパスター誌に「私は荷物をまとめ、時計を持ってシンガポールに向かいました。10日後、2本が売れ、さらに5本の注文が入りました。それが本当の意味でのスタートとなり、それから修復業をやめて自分だけの時計づくりに没頭しはじめました」と語っている。

ドバイ・ウォッチ・ウィーク2016でみかけた、時計職人フィリップ・デュフォー氏。

 デュフォー氏だけではない。時計職人のダニエル・ロート氏も1989年にブレゲを退社し、自身のブランドを立ち上げている。1992年、ペンシルベニア州ランカスターにて時計職人のローランド・マーフィー氏は、ハミルトン社でクォーツウォッチを扱うことに嫌気が差したとき(詳しくは前編参照)、同社を退職し、ランカスター近くのマウント・ジョイにて機械式時計ブランド、RGMを立ち上げている。そして同年、ジュネーブで開催されたSIHHに33歳のフランク・ミュラー氏がはじめて出展し、そこで自社初となる8本の時計を発表した。

 コンプリケーションブームに呼応するかのように独立時計師のブームが生まれる。知名度もなく、資金力もない人たちが自身のブランドを立ち上げていった。“インディーズ“ムーブメントが始まったのだ。

いつ最初に公開したか不明だが、フランクミュラー ギガトゥールビヨンは発表当時、この手の複雑機構を搭載した腕時計としては最大サイズのモデルだった。

 インディーズブランド最初の大スターがミュラー氏である。同氏はジュネーブの時計学校を首席で卒業。その後個人でコンプリケーションウォッチをつくったのち、共同創業者であるジュネーブの時計ケースメーカー、ヴァルタン・シルマケス氏からの資金援助を受けて、自身の会社を設立した。ミュラー氏は、大きなトノーケースやアール・デコの大きな数字を使い、1920年代を思わせる独特のレトロスタイルで大きな話題を呼ぶ。彼が手掛ける象徴的なルックスは、みっつの軸で湾曲した珍しいトノウ・カーベックスシェイプのケースだった。

 またミュラー氏はマーケティングの才にも長けていた。当時の多くの時計メーカーとは異なり、彼は自らの手でブランドを宣伝していた。彼は“マスターズ・オブ・コンプリケーションズ”と呼ばれてさまざまなクライアントと会い、エルトン・ジョンといった著名人にも受け入れられた。シルマケス氏とともに展開したイベントマーケティングにより、セレブリティウォッチメーカーという新しいトレンドを生み出していく。

 1990年代、ニューヨークのグラン ハバナ ルームで行われた、フランク ミュラーのイベント(ブランド名にはウムラウト/変母音を示す二点記号 がない)にひと晩だけ参加したことがある。ミュラー氏はこの日のために、スイスから駆けつけてくれた。マカヌード(シガー)の香りが漂う暗い部屋のなか、時計愛好家たちはカクテルを楽しみながら、展示ケースに明るく照らされたフランクミュラーの時計に見入っていた。ミュラー本人はまだ来ていないが、もうすぐ到着するとのことだった。しばらくすると会場にどよめきが起こる。フランク氏が部屋にいたのだ。黒のタートルネックシャツにネオンイエローのジャケットを羽織ったハリウッドスターのような出で立ちで、笑顔を振りまき称賛を受け、ゲストとの写真撮影に応じていた。ミュラー氏は、時計職人は内向的でバルジュームーブメント程度の視野しか持たないという古い固定観念を打ち砕いた。機械式時計とそれを扱う魔法使いのような時計職人はとてもクールであるという新しい時代の流れを自らが体現していったのである。

1996年に発売されたパルミジャーニ・フルリエの最初の時計、トリック メモリータイム。

 彼は1990年代に活躍した勢力(好景気、誇示的消費、セレブリティカルチャー、ブランディング)を最大限活用し、急成長を遂げた。しかしその後、会社の戦略をめぐるシルマケス氏との確執や、ミュラー自身が仕事に支障をきたすと認めた個人的な問題などが重なり低迷していくことになる(2004年にシルマケス氏とは公的に和解している)。しかしミュラー氏には影響力があった。彼の商業的な成功(2003年、同社の売上高は4億スイスフラン/日本円で約344億3600万円 と推定されている)は、才能あふれる新しい時計職人たちに勇気を与え、彼に続くように自身のブランドを立ち上げている。例えば1996年にはミシェル・パルミジャーニ(パルミジャーニ・フルリエ)氏が、1997年にフェリックス・バウムガルトナー(ウルベルク)氏、1998年にヴィアネイ・ハルター、そして1999年にF.P. ジュルヌとリシャール・ミルなど、新世紀に多くの時計師が登場している。

ADVERTISEMENT

高度な時計製造技術(オートオルロジュリー)

カルティエは“オートオルロジュリー”という考え方を、積極的に広めていった最初のブランドのひとつ。

 1991年、リシュモングループはバーゼルワールドに対抗してジュネーブでイベントを始める。SIHH(Salon International de la Haute Horlogèrie)と呼ばれるこのイベントはカルティエCEOのペラン氏とバーゼルワーゼルのあいだで長年にわたり続いていた確執によって生まれたものだった。ペラン氏はラグジュアリーブランドがきちんと新製品を発表できて、しかも小売店のクライアントを受け入れるにはこの街とイベントの重苦しい雰囲気は向かないと感じていた。バーゼルを長年批判してきた結果、「ホールにはソーセージの香りが漂っている」などの悪口を言い放ち、自らイベントを立ち上げたのである。このイベントはスイスの時計ブランドからの支援はほとんどなかった。第1回目はリシュモングループの3ブランド(当時はカルティエ、ピアジェ、ボーム&メルシエしかなかった)、ジェラルド・ジェンタ、ダニエル・ロートの5社が出展していた。

 この結果は関係なかった。ペラン氏はスイス人に、自分たちは今やラグジュアリー産業に参入したのであるということを否が応でも教えようとしたのだ。クォーツ技術が登場する前、機械式時計はあらゆる価格帯で販売されていたのだが、クォーツの世界においては必然的に高級品に位置付けられてしまっていた。

SIHHがスタートして以来、カルティエはその時計製造技術を新たな高みへと導き続けているにすぎない。

 1994年に「私たちはオートクチュールとオートジュエリーについて話しています」と、ペラン氏は私にこう言った。「高級ブランドが“オートオルロジェリー”と呼ばれるカテゴリーに入るのは、自然なことだと思ったのです。これらはバーゼルではなく、パリかジュネーブのような世界に属する夢のような時計です。世界中どこへ行っても、“世界でいちばんいい時計は何ですか”と聞けば、“スイス”と返ってきます。さらに“どこで作られているのか”と聞くと、“ジュネーブ”と言うんです。パテック フィリップ、ヴァシュロン・コンスタンタン、カルティエ、ロレックスなど、彼らは品質以上のものを与えてくれます。ステイタスや輝きといった魔法をかけてくれるのです!」

 そのために、機械式時計のビジネスには新しいアプローチが必要だとペラン氏は主張した。スイスのメーカーは自身の製品に対して時代遅れの工業的な考え方を改める必要があったのだ。オートオルロジュリーとは、卸売や小売店のクライアント、マーケティング、マーチャンダイジングなど、すべてにおいてより高いレベルのアプローチを意味する。「彼らはそれをやらなければならないでしょう」とペラン氏。「いつか彼らはナイキの靴とエルメスの靴の違いを示さなければならない。私たちは時計業界にラグジュアリーなビジネスがあることをいち早く見出しました。そして私たちが正しかったことを未来が証明してくれていると信じています」

 実際、彼のこの新しいアプローチは高級時計の売上を大きく伸ばすことにつながる。そしてもうひとつの新しいカタチ、巨大な高級腕時計グループ発足にもつながっていく。

ADVERTISEMENT

狂乱する企業買収

今では信じられない出来事だが、巨大なラグジュアリーグループの体制は、時計の世界では比較的新しいものである。

 機械式ブームの進展は10年後になるとさらに加速した。手っ取り早い例を挙げよう。

 1995年、『ロッキー』のスター、シルヴェスター・スタローンはフィレンツェにある時計店に立ち寄り、地元のオフィチーネ・パネライが製造した大型の(44mmで当時としては大振りなものだった)黒いダイバーズウォッチに目を留めた。彼はこれを自分が作っていた映画『デイライト』の水中シーンで着用するのに、ぴったりだと思ったのだ。彼は200本購入し、そしてさらに200本追加した。このようにスタローンのほかオーデマ ピゲのファンであるアーノルド・シュワルツェネッガー、エルトン・ジョン(1997年、自身の50歳の誕生日パーティーにてゲストにフランク ミュラーを贈呈している)といった著名な時計コレクターをきっかけに、時計にスポットライトが当たり、ブームに大きな拍車をかけていく。

L.U.Cの登場により、ショパールは高級時計製造の分野に足を踏み入れた。

 1996年、ハッピーダイヤモンドのジュエリーと時計のヒットで知られるショパールが、初の時計用ムーブメントを開発したと発表した。超薄型のL.U.C. 1.96(現在のL.U.C. 96.01)は、翌年のL.U.C. 1860ウォッチに搭載された。こうしてショパールは、少なくともひとつのムーブメントを自社で設計・製造するスイスマニュファクチュールの仲間入りを果たしたのだ。この呼称はスイスの時計製造において、高い技術を持つ実力のあるブランドとそうでないブランドを分けるものとなった。1990年代半ばはスイスメーカーの多くはまだクォーツが主流だった。そして機械式が増えると、ほとんどの会社がETA社製のムーブメントを購入するようになる。しかし機械式ブームの到来とともにマニュファクチュール(手作業でつくりあげられたもの)の称号を獲得するべく、ひとつまたは複数のムーブメントを自社で作るようにした会社もあった。

1996年、ヴァシュロン・コンスタンタンはヴァンドーム、ひいてはリシュモンに買収されている。

 また1996年には、サンフランシスコにある時計販売会社リチャード・ペイジ氏が、シンガポールのウェブサイトデザイナーからTimezone.comというウェブサイトを買収。このサイトは瞬く間に世界で最も利用される時計情報サイトとなり、公開フォーラムやブランドフォーラムには熱心な時計コレクターによるコミュニティが形成されていった。同サイトにより時計の世界における情報の普及が一変し、機械式時計をインターネット時代の憧れとしたニューメディア革命の幕開けとなっていく。

 そして同年にはリシュモンが設立したばかりのラグジュアリーグループ、ヴァンドームがサウジアラビアの元石油相であるシャイフ・アハマド・ザキ・ヤマニからヴァシュロン・コンスタンタンを買収している。これが火種となり、その後4年間にわたる統合再編の争いを引き起こす。1997年、ヴァンドームはパネライを買収した(1999年5月、ヴァンドームはパリの宝飾店ヴァンクリーフ&アーペルの株式の過半数も取得している)。

ADVERTISEMENT

 この出来事は、ほかのラグジュアリーグループも注目した。

 特に注目したのがスウォッチグループだ。世界最大の時計会社でありながら高級時計の勢いはなかったのだ。高級ブランドのブランパンをひとつだけを所有していたハイエックは、1992年にブランパンの姉妹会社であるフレデリック・ピゲを4400万ドル(日本円で約55億7260万円)で買収。それ以来、ハイエックは残りのブランドラインナップ、特に市場のローエンドに位置するスウォッチと、ミドルレンジに位置するオメガに注力してきた(1993年にハイエックがジョージ・ダニエルズからコーアクシャル・エスケープメントの権利を買い取ったのも、オメガの機械式時計への信頼性を高めるためだった。結果、その時計師は革新的なレバー脱進機を時計メーカーに売り込むという、苦難の道を歩むことになる)。だがリシュモンの動きによって、ハイエックは高級時計に目を向けざるを得なくなったのである。世界最大の高級品グループであるLVMHも同様にだ。機械式時計の復興をすっかりないがしろにしていて、時計ブランドをまったく持っていない状態だった。これがきっかけで両グループとも高級時計ブランドの買収をするようになっていく。

オメガは1993年に、ジョージ・ダニエルズから同軸のレバー脱進機の技術を買い付ける。そしてその後数十年にわたり、オメガの自社製ムーブメントの主な特徴のひとつとなった。

 1999年9月13日、LVMHはタグ・ホイヤーを8億1400万ドル(日本円で約1065億5250万円)で買収すると発表。その翌日、スウォッチグループはブレゲとヌーベル・レマニアを約1億1000万ドル(日本円で約144億円)で買収すると発表した。10月、LVMHは再びエベルを推定4億6000万ドル(日本円で約602億1400万円)で買収した(この買収にはフランスの宝石商であるショーメが含まれていた)。LVMHの買い付けはさらに11月にも続き、ゼニスを未公開の金額で買収。LVMHは、たった3カ月のあいだに3つの時計会社を買収したのである。

 2000年に入っても買収の旋風は続く。スウォッチグループは4月にジャケ・ドローを傘下に収め、ブルガリは6月にジェラルド・ジェンタとダニエル・ロートのブランドを買収。そして7月、リシュモンはジャガー・ルクルト、IWCシャフハウゼン、A.ランゲ&ゾーネに、16億8000万ドル(日本円で約1810億3680万円)という莫大な金額をつぎ込み、業界に反響を呼ぶ。10月にはスウォッチグループがグラスヒュッテ・オリジナルとユニオンを非公開で買収し、ブランドの買い占め合戦は(ひとまず)幕を閉じる。

 新世紀が幕を開けると、機械式時計は完全に復活を果たしていた。機械式時計の需要と、機械式時計メーカーの勢いはうなぎ登りだった。機械式時計の輸出はクォーツ時代の1987年の170万本から、2000年には250万本と47%も急増したのだ。2000年、機械式はスイスの時計生産量の9%、販売量の48%を占めるなど、クォーツとほぼ同量のシェアを獲得している。

 それ以来、機械式時計の回復はさらに奇跡的なものとなっている。1990年代に見られたトレンドはさらに発展して統合が進み、オークションの記録の更新、ハイメカニカルな時計の研究(シリコン製パーツなど)もさらに進行した。また新しいメディア(ブロガー、インフルエンサー、ソーシャルメディア)も増え、ヴィンテージウォッチに対する関心も高まりつつあった。これらの事象すべてが機械式時計の市場を劇的に拡大させたことは間違いない。2016年、機械式時計はスイス時計の輸出本数の27%(696万本)、総売上高の80%(147億スイスフラン/150億ドル、日本円で約1631億8500万円)を占める結果となった。

 この物語を一巡させるために、最後にもうひとつ(前編冒頭を参照)。1999年、オメガはジョージ・ダニエルズのレバー脱進機を搭載した新ムーブメント、コーアクシャルCal.2500を搭載した、99本限定のデ・ヴィルウォッチを発売した。「我々は250年ぶりに、実用性に富んだ新しい機械式時計の脱進機を発表した」と、オメガは自慢気に言った。当時72歳だったジョージ・ダニエルズは、まさに電気屋に仕返しができたのである。