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※本記事は、US本国版にて2016年8月に公開されたもののの翻訳版です。
今でもセーリングは近代的なテクノロジーの進歩にあまり頼らないものだが、1960年代にはさらにそうだった。通信(衛星通信以前)は無線であり、天気予報は大部分が推測であり、ナビゲーションは19世紀的なものだった。GPSは何十年も後のことで、海上での航法にはまだ六分儀や海図、そして非常に正確な時計を必要としていた。そのため、フランシス・チチェスター卿がおよそ50年前の今日、1966年8月27日にイギリスのポーツマスを出発したとき、まるで前世紀のような航海をしていたのかもしれない。
信じがたい話だが、60年代半ばには超大国が月に行くための競争をしていたが、有名な「クリッパー・ルート」を使って単独で世界一周をした人はまだいなかった。これは間違いなく、アポロ11号以前の最後の偉大な航海であり、しかもテクノロジーに依存していなかったのだ。この偉業には、肉体的な持久力、技術的なノウハウ、不屈の精神、そして不測の事態にあっても的確に行動できる能力が不可欠だった。チチェスター卿の努力は報われた。高齢(66歳)ではあったが、飛行家として記録を残し、熟練した航海士であり、大西洋横断の勝利を収めたセーラーとしても、彼は輝かしい経歴をもっていたのだ。しかし、ストイックで実利的な英国人ということを考えると、これは彼の最も野心的な挑戦だったに違いない。
クリッパー・ルートとは、18世紀に長距離航海をしていた帆船(=クリッパー)が通っていたことからその名がついた。ルートはヨーロッパから始まり、アフリカの西海岸を下って喜望峰を回り、インド洋を横断し、オーストラリアのルーウィン岬を通過する。その後太平洋を横断し、南洋のホーン岬を回り、北上して大西洋を上ってヨーロッパに戻るというものだ。パナマ運河が開通するまでは、これが世界一周の一番速いルートだった。しかし、これには大きなリスクが伴い、特にアメリカ大陸の南端、いわゆる「吠える40度」周辺は危険だった。巨大な波と強風が吹き荒れる氷のように冷たい海で、長年にわたり数え切れないほどの船や船員が失われていた。
数々の困難にも関わらず、チチェスター卿はやり遂げた。54フィートのケッチ船ジプシー・モスIV号でクリッパー・ルートを単独で航海し、イギリスに帰還するまでの2万8500マイルを、途中オーストラリアに一度寄港しただけで、226日間で走破した。彼が持っていった重要な装備の一つは、1965年製のロレックス オイスター パーペチュアルだった。型番はRef.1003か1007だったと思われるが、これは単なる装飾品ではなかった。チチェスター卿はこの腕時計を、六分儀と組み合わせて航海用の計器として使用していた。その性能に非常に満足した彼は、イギリスに戻った日にシンガポールのロレックスに代理店に宛て、簡潔な電報を送った。
「今日、プリマス2203に到着しました。世界一周の航海中はずっとロレックス オイスターパーペチュアルを身に着けていました。チチェスター」
第二次世界大戦中に航海術の先駆者として活躍した英国空軍出身の チチェスター卿は、時計の正確さに価値を見出し、ロレックスは戦後のイギリス軍で人気を博した。その有名な防水ケースは、クロノメーター認定と共に本格的な航海に適するものとして当然のように選ばれた。彼がこの最も過酷な航海のために、よりドレッシーなジュビリーブレスレットのオイスター パーペチュアルを選んだのは、どことなくチャーミングだ。興味深いことに、1966年の出発の1週間前に撮影された写真には、航海用により適すると思われるGMTマスターを提供してくれたロレックスへの感謝の言葉が写されている。また別の写真では、彼がドックサイドで、片方の手首にGMTマスターを、もう片方にはブレスレットのオイスターを着けてヨットの艤装をしている様子が収められている。しかし、航海中に撮影された写真にはオイスター パーペチュアルしか写っていない。おそらくGMTマスターは、チチェスター卿には大きすぎて派手に感じられたのだろう。結局のところ、彼は66歳の質実剛健な英国紳士だったのだ。
しかし小さい方の時計は、ドーフィン針、アプライドマーカー、エンジン回転式ベゼルを備え、苦難の時も見事にもちこたえていた。ある写真には、チチェスター卿がロレックスを着けたままドリルを手に船の砲身の損傷を修理している様子が写っている。写真の上隅には 「ジプシー・モスIV号はタスマ海で転覆したため修理が必要だが、ロレックスは元気に動いている」と書かれている。これは、インスタグラムで見るリストショットより半世紀前のもので、ハッシュタグはまだ無い時代のことだ。
このような航海には頑丈で防水性の高い時計が必要なのは明らだったが、頑丈で「かつ」正確な時計の方はさらに価値があった。デッキウォッチのコンセプトは19世紀にまでさかのぼる。今ではほとんどの計時愛好家は、経度の測定を可能にし航海術を発展させたマリンクロノメーターの開発の話を知っている。マリンクロノメーターは、LORAN(長距離航法)が軍事以外にも使用されるようになる1970年代まで、広く使用されていた。
しかしマリンクロノメーターは、正確で価値があっても海水を浴びるピッチングボートの甲板には適さなかったので、普段は操縦室や海図室に保管されていた。デッキウォッチは、マリンクロノメーターにセットされ、六分儀の測定値を測るために甲板上で使用されるが、その精度は正確な時刻を知ることに大きく依存する。1900年代初頭まではデッキウォッチは懐中時計で、航海士の上着に装着され、太陽光があるときに注意深く確認するものだった。しかし、1914年、イギリスのキュー天文台が初めて腕時計に「A級クロノメーター」の認定を与えた。その腕時計はもちろん、ロレックスだった。
ロレックスのクロノメーター認定の精度と、後に開発されたオイスターケースとねじ込み式リューズのおかげで、完璧なセーラーズウォッチが完成した。マリンクロノメーターの代わりに、あるいはそれに加えて、手首に装着するだけのシンプルな時計が、荒天の海でも航海の計時に頼りにされるようになったのである。チチェスター卿はロレックスを使って毎日の六分儀を読み、慎重に正確な時間を記録し、太陽の角度を手引書や海図と比較して正確な位置を判断していたのだろう。彼は時計について、1968年に手紙でこう書いている。
「ジプシー・モスIV号での世界一周の航海中、ロレックスは何度か手首から叩き落とされましたが無傷でした。私はこれ以上頑丈な時計を想像することはできません。六分儀での計測や、甲板上の作業中、頻繁にぶつかったり、波をかぶったりしたが、この時計は全く気にならないようでした」。
1967年5月、チチェスター卿はイギリスに凱旋帰国した。何千もの船や航空機がジプシー・モスIV号をプリマス港にエスコートし、彼は英雄的な歓迎を受けた。後にその功績によりナイトの称号を授与され、チチェスター卿の単独での世界一周航海は翌年の有名なゴールデングローブレースにも影響を与えた。世界一周航海はノンストップで完全にアシストなしで行われることが要求されたのだ。あるGMTマスターがその冒険にも登場したが、それはまた後日の話にしよう。残念なことに、フランシス・チチェスター卿は歴史的な冒険からわずか5年後に肺がんで亡くなった。
チチェスター卿の時計は、ロレックスを限りなく魅力的で、時計愛好家の間で人気のあるブランドにしている数々の伝承の一つとなった。ヒラリーやメスナーがエベレストで、イェーガーが空で、無数の探検家や軍のダイバー達が海洋で成し遂げた20世紀の偉業の多くは、ロレックスの時計を着けて遂げられたのである。これらの物語はまた、かつての人々が電子機器やソーシャルメディアの更新に執着することなく、賢さと不屈の精神、そしてもちろん信頼できる機械式時計だけを使って、偉大な功績を残したことを思い出させてくれる。
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