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Editorial マイ・ファーストウォッチ

あるいは、祖父の忘れられたサブマリーナーの物語

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時計は我々より長生きする。それは時計を収集し、所有し、受け継いでいくという魔法の一部だ。私は初めて手にした時計を17年間所有してきたが、その時計は我々が存在を知るまでにすでに約35年の時を過ごしていた。そして私がそれを発見する前に、失くされ、忘れられ、放棄され、死んでしまっていた。これは私のファーストウォッチの物語、それがどのように私の人生の一部となり、そしてなぜ決してそれを手放さないかについての物語である。 

 話はほんの少しだけ複雑だ。私は“マイ・ファーストウォッチ”という言葉を、ずっと比喩的な意味を込めて使う。文字通りの私のファーストウォッチは? それはベルクロストラップが付いたフリースタイル(というブランド)のシャークウォッチだった。子どもの頃、二段ベッドの上で、光を発するグローボタンで飽きもせずに遊んでいた。それは私のベッドルームと想像力の両方を照らしていた。 

 しかし、本記事はその時計の話ではないし、実際には1本の時計についての物語でもない。それはむしろ、つながり、記憶と経験を通して、時間の流れを追いかける何本かの線についてのストーリーだ。ここで呼び起こされる記憶のいくらかは悲しいものだが、それはすでに亡くなった、私にとって非常に大切な人物の記憶だ。それは私の祖父である。彼を通して、私のファーストウォッチをお見せする。 


ちょっとした裏話

 私自身や私の時計について詳しく話す前に、このストーリーのもう1人の登場人物、祖父のハリー・J・ミルトン(Harry J. Milton)を紹介をするのが良いと考えている。1909年生まれの祖父は魅力的な生活を送っていた。1912年に兄弟たちと一緒に母親に連れられて、「祖国」に戻った話を思い出す。彼らは最新の旗艦客船、タイタニック号でアメリカに戻る予定だったのだが、私にとって幸運なことに、土壇場になって計画を変更して、それほど豪華ではない船で故郷に帰ってきたのである。 

 祖父のハリー・J・ミルトンは大恐慌の頃にはもう成人しており、デュケイン大学のスターテニスプレーヤーだった(祖父は88歳になるまでテニスをしていた)。1940年、彼は当時のピッツバーグパイレーツというプロサッカーチームの新しい名前を決めるコンテストの受賞者の1人だった。祖父が考えたチーム名? それはピッツバーグスティーラーズだ。賞品は、当時のシーズンチケットが2枚。それだけだった。 

 祖父は第2次世界大戦のためにアメリカで最初に徴兵されたグループだったのだが、興味深いことに、年齢と既婚であることが考慮されて入隊を免除された。とはいえ、31歳の時に陸軍に入隊し、インドとビルマで従軍した。終戦後間もなく外交部(FSO3)として国務省に加わり、私の父が生まれた。それからは、世界のいろいろな場所へ家族を連れて行った。彼らはニューデリー、アテネ、パリ、ナイジェリアなどに住んでいたことがある。父の高校のプロムはエッフェル塔で行われたそうだから、私が地元のタウンホテル自身のプロムで訪れた時の気持ちは想像できるだろう。

この写真は、第2次世界大戦中に軍事訓練施設、キャンプ リッチーで撮影された祖父、ハリー・J・ミルトン。

1974年に掲載されたこの記事は、祖父と、彼がピッツバーグスティーラーズの命名に関わったことを紹介している(記事:Pittsburgh Post Gazette)。 

 祖父はいつも優しかったが、真面目な人でもあった。話上手であり、それは独特の静かな語り口だった。私は祖父が世界中を旅して本当に素晴らしい人生を送ったことを知っていたし、彼は非常に多くの事柄を目にしてきた。祖父は2つの世界大戦と、世界恐慌、そして9・11を経験した。 

 さて、私は平凡で好奇心旺盛な子どもだった。アクションフィギュアで遊んでいないときは、物置にある箱の中に入ったり、屋根裏部屋に上がったりして、古い写真や新聞の切り抜きや、他のいろいろなものを眺めていた。12歳の時、私は祖父の人生や家族の歴史についてインタビューし、その様子をビデオカメラで撮影した。当時の私はそれが家族にとってどれほど重要な記録になるかなど分かっていなかった。我々はよく、ある人を失うとどれほど多くのことを失うかということに、その人が亡くなるまで気づかないものだ。 

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 私は祖父が大好きだった。そして、祖父が亡くなった日は一生忘れられない日となった。2002年12月14日、93歳だった。家族ぐるみの友人宅でのパーティーを終えて帰宅する途中で、連絡を受け、病院に駆けつけたが、間に合わなかった。1人の医師が我々を部屋に連れて行ってくれ、父が祖父の手首から時計を外したのを覚えている。父の目からは涙があふれていて、私の方へ向き直り、私の手を取って、時計を着けてくれた。白地のダイヤルに華やかなアラビア数字を配した、ゴールドトーンのシンプルなタイメックス クォーツだった。ダイヤルには耐水性を示す小さな波のモチーフが飾られ、金色のバックルに合う黒の艶っぽいレザーストラップが取り付けられていた。

 祖父がこの時計を着けていた理由はただひとつ、時刻が読みやすかったことである。視力が時と共に衰えて、いくつか所有していた高価な時計では、もはや時を知ることが出来なかったのだ。私は悲しみながら座り、その夜ずっと、そして続く数日間その時計を身に着けていた。しかし、この記事はその時計についての話ではない。正確には、少なくとも、その時計だけの話ではない。


2本のサブマリーナー

 父と2人で祖父の持ち物を整理し、アパートを掃除する日が来た。好奇心旺盛な私は、何から手をつけたらいいのか分からず、古い写真を集めたり、古い小物や8mmのホームビデオの箱を調べたりしていた。こうした品々は私の注意を引き付け、整理は全く手につかなかった。私は整理が下手で、何も箱詰めできていなかった。 

 祖父のベッド横のナイトスタンドのところに行き、一番下の引き出しを開けた。たいしたものはないだろうとっていたのだが、見ると、引き出しの奥の方に時計のようなものが鎮座している。それを手に取って文字通り、埃を払った。それが何なのか私は分からなかった。ステンレススティールの時計で、ブレスレット付きだ。裏返してクラスプを調べる。ロレックスのオイスターだと分かった。再び時計をひっくり返す。ベゼルはなかったが、以前はあったようだ。風防にはたくさん傷がついていて、曇っている。ダイヤルは錆びていて、ほとんど何もはっきり見えない。もっと近づいて見てみる。明るい窓際に持って行く。すると、水でひどく損傷したダイヤルにロレックスのロゴが認められ、アワーマーカーや、私は当時そう呼ぶのが好きだったのだが、大きな円や長方形が、見え始めた。

 私はこの時計を知っていた。父が全く同じような時計を持っていて、子どもの頃からそれに夢中だったからだ。父と祖父のサブマリーナー、1982年製のマットダイヤルをもつRef.5513には鮮明な記憶がある。父が着けていたその時計をじっと見つめたものだった。円や長方形の白、そして上部の三角形がいつも私の目を引き付けた。父がそれを外す時、私がそれを着けるのだ。私は若い頃、ロレックスのことを、父のその時計を見て知ったのだ。 

父の1982年製サブマリーナー Ref.5513。 

私の時計(左)と父の1982年製サブマリーナー Ref.5513(右) 

 祖父のベッド横の引き出しで見つけた時計を手に取り、私は混乱でいっぱいになった。これの時計のベゼルはどこだ? これはサブマリーナーなのか?  飛び上がって父のところへ走って行き、見つけた時計を見せた。父は見たものが信じられなかったようだ。その時計のことを全く知らず、祖父がそれを着けているのを見たこともなく、存在さえ知らなかった。祖父が亡くなったことで、謎はより深まった。

 それから数年、私はこのミステリーウォッチの歴史を少しばかり調べてみた。1968年、祖父は外務官の退職を間近に控えていたため、ナイジェリアを離れてワシントンD.C.に戻った。道中、ドイツのシュトゥットガルトに立ち寄り、1969年モデルのメルセデス250(黒。内装は赤)を購入し、アメリカに送った。(政府割引で、価格はわずか5000ドルだった)。祖父は次に、ジュネーブに行って2本の時計を入手したのだと、我々家族は考えている。1本めはシャンパンダイヤルでツートンカラーのロレックス デイトジャスト1601で、大学卒業祝いに父にプレゼントしたものだ。2本めが、まさにこの時計だった。父の時計と全く同様、これもロレックスのサブマリーナー Ref.5513だ。シリアルナンバーからすると、このモデルは1967年まで遡ることができ、元の状態ならメーターファーストのマットダイヤルモデルだった可能性が高い。祖父のベッドルームに鎮座していた2002年当時、私はこうしたことを何も知らなかった。 


復活

 この話の続きは、ある人たちを動揺させ、またある人たちを怒らせ、現在の基準で培われたコレクターの良心に真向から逆らうかもしれない。気持ちがエスカレートしてしまう前に、これはほぼ20年前の話だということを覚えておいていただきたい。当時の素人だった私にとって、一番の情報源はロレックスそのものだった。私は若すぎてフォーラムに参加できなかったのだ。もし父にフォーラムについて尋ねたとすれば、レイカーズの試合やローマの歴史について話しているのだと思われただろう。とにかく、時計のことをあまり知らなかったである。

 こうした事情もあり、父は私が発掘した時計を手に取り、ロレックスに電話した。ご想像通りかもしれないが、ロレックスからの提案は、修理することだった。ダイヤル(判読不能で、水のダメージで腐食している)は交換が必要。同じく欠落したベゼルは交換。針もダイヤルと同様の状態で、リューズ、ブレスレット、クラスプ、クリスタル風防も全部交換。ムーブメントも完全にオーバーホールされ、ケースにも何かなされたはずだ。…私は確かに(耳をふさいでください)ケースが磨かれたことを確認している。 

 さて、これでこの話の厄介な部分は終わりだ。

 2003年春のある日、父がベッドルームの私のところにやってきた。寝室でスターウォーズのシーンをアクションフィギュアで再現していた私に父が近づいてきて、“ロレックス サービス部門”と書かれた緑と金の箱を見せてくれた。我々はベッドに座った。箱の中には、ボタンで閉じられたグリーンのヴェルベット素材のポーチがあった。我々は一緒にそれを開けて、時計を取り出した。 

サービスボックスの上の私の時計。17年前に届いたものだ。

 衝撃的な瞬間だった。その言葉は最も前向きな意味においてだ。手の中にあったのは、事実上、まっさらな時計だった。マーカーはより小さく、塗装ではない、ホワイトゴールドの縁取りが施されていた。ダイヤルはマットではなく、暗い光沢のあるブラックだった。“サブマリーナー/ 660フィート= 200m”と書かれたダイヤルの文字はとても小さかった(もちろん、フィートファースト)。ダイヤル下部には単に“スイス”と書かれていた。ブレスレットとクラスプは、引き出しで見つけたものとは異なっていた。元はオイスターのシングルロッククラスプだったが、新しいブレスレットは父のものと全く同じ、今では特徴的なダブルロッククラスプだった。

 私は長い間時計を見つめた後、振り返って父を見上げたのを覚えている。正確な言い回しは思い出せないが、父はその時、この時計はお前のものだと言ったのだった。父は私が父の時計をどれほど気に入っていたか、そして祖父をどれほど愛していたか知っていた。これがマイ・ファーストウォッチだ。 

 時の過ぎるまま、忘れられ、打ちのめされていた失われた宝物を手に取り、可能な限りの新たな形に復活させたことを、父は誇りに思った。確かに、以前のものとはまるで違って見えるが、それでもやはり注目に値するものだった。私はそれを着けて、この圧倒的なつながりが自分を貫くのを感じた。いろいろな意味でこの時計は自分よりはるかに大きいと感じたが、それでもやはり私にぴったりのものだった。私はこの時計を丁寧に扱い、身に着け、そして大切にしていきたいと思っている。


時計と私について

 私のサブマリーナーとの最初の思い出の1つは、父のものとは違って、夜光が機能するのを知ったことだ。シャークウォッチの思い出がよみがえってきた。レストアの際、従来のトリチウムの代わってスーパールミノバを満たしたマーカーが、ダイヤルを装飾するよう設置されていた。時が経つにつれ、私はこのことを父に自慢し、私の時計の方が優れているとよく言ったものだ。 

 その後、何かが起こったのだ。それが10代というものなのだろうか。私には分からないが、人前に着けていくことを考えたとき、突然、この時計の真の重みに気づいたのだ。当時、14歳か15歳だった。ロレックスを着けて、みんなにからかわれる子どもになりたいだろうか? 私はこの最初の時計とそれが表す全てを愛していたし、祖父の思い出を胸に抱き続けていたが、どういうわけか、着けることができなかった。誰かが同様の難問に直面したことがあるかどうか分からないが、私の場合はそうだった。時計をペルソールのサングラスケースに入れて、他でもない、ベッドサイドにあるナイトスタンドの引き出しの中に置いたのを覚えている。何年も前からそうであったように、時計はそこに鎮座し、ムーブメントは暗闇の中で身動きせずにいた。 

 ティーンエイジャーの頃、人生は本当にゆっくりしている。1年は10年のように、2年は一生のように感じられる。マイ・ファーストウォッチにもう1度手を伸ばしたのは、17歳の時だった。どのようにしてか、なぜかは分からないが、自分の内の何かが、もう着けてもよいと教えてくれたのだった。まだ時計の方が自分より大きいと感じたが、それでも準備は出来ていた。学校で、デートで、そして父のそばにいるときに、それを着けた。父と私、そしてそれぞれのサブマリーナーだ。もちろん、私の時計の方が優れている。高校時代はロックバンドをやっていて、学校のカーニバルで演奏したのを覚えている。当時、私はドラマーだったのだが、大きなパフォーマンスでこの時計を手首に巻いていた。私は、自分自身の思い出を作り始めていた。 

 私はこの時計と過ごし17年めを迎えた。

 私が最初に見つけた時のような状態になるまでに、この時計にどんなことが起こったのか、誰に分かるだろうか。家族の歴史について祖父にインタビューしたとき、悲しいことにこのサブマリーナーのことは全く話題に上らなかった。その存在を知らなかったのだから、私もそれについて尋ねることはできなかったのだ。 

 時に人生において、謎は楽しみの半分であり、本当の答えを知れば失望するだけなのかもしれない。私が見つける前、この時計がどこにあったのか、それが導いた人生の真実を私は知らない。祖父は知っていた。時計は世界中を飛び回ったが、いつしかしまい込まれてしまった。好奇心旺盛な少年が再び連れ出すまで、何年もの間、その音は聞かれなかった。 

 だれがどんなに否定しようと、私に手渡されて新しくなったこの時計を、私は持ち続ける。私は子どもなりに、現代のコレクターがユニークな作品について考えるような仕方で、この時計について考えていた。今ではそうではないと知っているものの、この時計はロレックスが私だけのために復元した時計なのだとよく考えたものだった。そして、この時計が大好きだった。私より前に幾千もの冒険をした時計であり、水に飛び込んだり、登山をしたり、ドラムセットのシンバルを叩いたりするときに躊躇する必要のない時計なのだ。 

 今でも祖父のタイメックスを時々眺め、手首に着けては祖父を思い出す。それが自分の手首に巻かれると、何年も前のあのつらい夜の記憶が波のように押し寄せてくる。それから、私のサブマリーナーに目をやり、2つをつなぐ物語を想う。そしてそれ以上に、自分がこの物語で果たした役割について考える。何かを特別なものにしているものを見失うのは簡単だ。時計愛好家の世界に深く入り込むと、サブマリーナーがどれほど一般的な時計か、誰もがそれを所有しているというつぶやきを聞くようになるだろう。でも、この時計はそうではない。これは私のもので、これは特別なものなのだ。 

 この時計はどこへも行かない。その価値はドルやセントで表すことは決してできない。これは私のファーストウォッチで、私の思い出の時計だ。時計に関して私が大好きなことの全てを思い出させてくれるし、そしていつの日か、私はこれを別の冒険人生を歩むよう誰かに託すことだろう。結局のところ、それが全てではないだろうか? 

 写真:カシア・ミルトン