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Editorial ヴィンテージロレックスのパーツとすべてオリジナルについての筆者の考え

ヴィンテージロレックス収集においては、目に見えているものが手に入るわけではない場合があるのだ。

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10年間でヴィンテージロレックスの腕時計の市場は、歴史を通じてほとんど他の資産タイプでは見られないほど活性化し、情熱を持つコレクター、ディーラー、学者が密に結束したコミュニティが生まれた。そうはいっても、比較的新しいファンの間で懐疑的な見方が高まった。市場の盛況は明らかに奇妙な変遷をたどり、さらに利益に動かされた詐欺事例にあおられた。一般的にそういった疑念は、夜光塗料が塗りなおされただとか、文字盤はリダンされているのかという問い合わせの形をとるが、実はその二つの部分だけでなく、全体としてはもっと多くのものがある。

好まれるレファレンスによって意のままになる部分の数は増え続け、レストア作業はますます大胆になり、新品同様でポリッシュもされていない時計が次々に製造され、それらが発掘された遺物のように売られている。私たちは今や、古い世界のノウハウと現代技術の驚異を融合し、思いのままにトロピカルダイヤルを製作したり、ラジウムの夜光塗料を塗布しなおして正確なガイガー測定値を生み出したり、微細溶接した合金でポリッシュされすぎた個体にオリジナルの見た目を復活させることができるのだ。

虚偽という要素を除外すれば、これらのプロセスはすべて技術的な見地からは客観的に見て非常に印象深いものだ。もっとも今日の議論の話題ではないが。

まさに今、十分な資金を持っている人なら誰でも、ヴィンテージ ロレックスに対して思い浮かぶほとんどどんな魅力的なパーツだって購入することが可能だ。文字盤、針、ケース、ムーブメント、その他、時計を組み立てるのに必要なすべての部品だ。疑われるのであれば、ぜひ少し探してみて欲しい。ヴィンテージロレックスの部品市場は、思ったほどそんなに秘密主義ではないことがすぐにお分かりいただけるだろう。eBay、InstagramやFacebookのいくつもの取引グループでは、主にディーラーを対象に、専用パーツの取引は日々公開され、古くなった部品などがアップロードされている。

もちろん誰もが求めるモデル向けの部品については、かなりの価格で販売されており、ヴィンテージロレックスを取引する人にとっては、重要な役割を果たしている。例えば、初期のデイトナRef.6263を格安で偶然見つけたとする。ケースには傷が全くなく、文字盤や針も真新しく、クロノグラフのプッシャーやベゼルは明らかにどこかの時点でサービスに出して取り換えられているものだ。怖れることなかれ――ただ時間をかけて必要な部品を探して、交換するのみ、そうすれば話は早い。

ここで、作業の学術的、そしておそらく際どい美的感覚の側面が現れる。サブマリーナーのベゼルインサートをGMTマスターのものに眉ひとつ変えずに付け換えることができないように、Ref.1675 MK5のマキシダイヤルに赤いGMTの針を取り付けることはできない。つまり「すべてオリジナルの」腕時計の装いを作り出すためには、正確さ、製造時期の正しさを確認しながら、一定の部品に連動する特定の通し番号の範囲を綿密に考慮しなければならないのだ。同様に、全体的に本物のオリジナルらしい見た目にするために、 経年変化の度合いも考慮しなければならない。

これはすべて、ロレックス自体のおかげで事実上可能だ。パーツ交換の容易さは、最終的には設計によるものだった。正確さ、信頼性さらに普遍性は、今日我々が称賛するリファレンスを担当した才能のあるデザイナーと時計職人によるものなのだ。

これは、熱心な愛好家にとっては時間がかかるが簡単な作業のように聞こえるかもしれないが、実は骨の折れるプロセスであり、さまざまなバリエーションが存在するリファレンスについての非常に詳細な知識が必要なのだ。つまり、色々な時計のモデルを扱い、その明確に定義された特徴に注意しながら、ロレックスのカタログの進化を何年もかけてじっくり研究して得られる知識のことである。

また、このような行いが「すべてオリジナルのまま」という魔法のような言葉を使ってよく売られている時計を生みだしているということを知らなければ、時計を忠実に元の栄光を取り戻すために費やさなければならない時間と努力は、文句なしにとてつもないものだ。 

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では、これらすべては、何が問題なのだろうか? 端的に言えば、ディーラーやオークションハウス側の内容開示の問題、あるいはその不十分さの問題だ。苦労して稼いだお金を投資しようとするコレクターに開示されている限り、個人的には私はその行為は何も間違っていないと思う。立派な修復を、時間の効果に反する異常な希少価値のあるものとして売り込むべきではないだろう。明らかに、また単純にそれは嘘だと分かっているからだ。それに、現実の状況に向き合うことが必要でもある。というのも時間の力でこれらの時計はどんどんと古びていくからだ、時を経て現在の状態に至ったのと同じように。

この考え方はきっと、自らを別の時代の自動車の守護者と考えるクラシック・カーの世界の人々に理解されるだろう。初期のクラシック・カーの内部が、乗る人や何年もの使用に耐えて汚れてくると、元の活力を取り戻すために必要なことをする。それは最終的に価格に影響するのか?  もちろん、だがそれは、ヴィンテージのダイバーズウォッチの取り換えられた針と同じ嫌悪感を持ってみなされはしない。別の言い方をすれば、申し分のない修復を何かあざ笑う対象のように見るべきではない。今後何世代にもわたって何かを楽しめるように、ただ必要なことをしているだけなのだから。

パーツ交換を問題視するのは、時計をこれまでと違うものに高めようとする場合だ。もう一度GMTマスターRef.1675を例に挙げよう。取り立てて書くほどではない、とても標準的なモデルを持っていたとする。ただ通し番号を見ると遥かに魅力的なレアモデルと共通していることに気づく。ケースは程良い厚さで、文字盤は全体的にきれいだが、ただ不思議な魔力がない。そして先述の赤いGMT針、あるいは鮮やかな青い色調の特定のベゼルインサートに偶然出会ったとする。それらを方程式に加えれば、その昔工場を出た元々の姿とは全く違う時計を生み出せることになるのだ。これがまさに時計を修復することと、誰かが好んで言うように「フランケンシュタイン」時計を作り出すことの差といえる。

そうはいっても、この問題の全体的な認識は増していて、私たちは正しい方向に向かっていると思う。というのも、時計コレクターたちはオリジナリティを今日ほど重要視することは決してなかったからだ。このことの支えとなっているのは、オーナーが一人というモデルに支払われる、注目に値するようなプレミアムであり、「すべてオリジナルのまま」というタイトルにふさわしいヴィンテージロレックスを手に入れる唯一のチャンスだ。
誤解するなかれ、オーナーが一人の時計というのは決して真新しい現象ではない。ますます好まれているのは良い兆候と捉えるべきだが。つまり、シリアルコレクターは、市場の大部分を限定する馬鹿げた言動に気づいており、より多く質問し、下調べをするようにすることで、まさに最高のものを手に入れているのだ。

今後、特定のモデルがどのように作られたかを誠実に開示することは、単純にもっと広く行われなければならない。部品をまとめたものが書類上は正しくても、購入者は売上のために惑わされるのではなく、もっと良い扱いを受ける資格がある。思慮深く組み立てられた時計は真に元のままの時計と区別できないかもしれないが、鋭いコレクターは、驚くほど真新しく、かみそりのようにシャープなモデルを次々に提供する人と、もっと現実に根差したような在庫を持つ人を確実に見分けることができるのだ。

厳密な調査を増やすという精神が、大いにコレクターの世界における考え方のスタンダードにならなければならない。同時にディーラー、オークションハウスに透明性が期待されることを真摯に望んでいる。騙されるような仕打ちを受けるべき人など誰もいないのだから。