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Second Opinions 時計について母から聞かされたことを今でも引きずっている

問題なのは私が母の意見に反対だということではない。母の言うことが正しいのではないかと思うと怖いのだ。

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私が子供のころから母は「男は2つのものを持っているべき」と力説していた。それはいい時計といい香水だ。私は現在34歳だが、ジェンダーは有害な社会構造であり、特に男らしさは口に出すものも出さないものも含めて救済の余地がないほど暴力的な力であると確信している。私は4種類の香水と6つの時計を持っている。この点では母の勝ちだろう。

 しかし、いい時計から連想される男性的なかっこよさは私を常に引きつけてやまない。もう何年もそうだ。何十年も前から。ビギー(※)が「Mo' Money, Mo' Problems」のなかで、本物のモテ男たちにロレックスを空に向かって振るように指示したときから、時計が自分を際立たせてくれることはわかっていた。持っているだけで一目置かれ、高価で羨望の的となるものだと。

※ノトーリアス・B.I.G.(The Notorious B.I.G)のこと。1997年にこの世を去ったニューヨーク州ニューヨーク市出身の伝説的MC、ラッパー。

 母は男らしさにはこだわらなかったが、立派さにはこだわる人だった。私が10歳になったころから、ほぼ毎年クリスマスに新しい時計(と香水)を買ってくれ、私がティーンになると、ゴムやプラスチックのモデルからレザーストラップや金属のケースバックのものへと変わっていった。これは私がどんな人間になることを望んでいるのか、彼女が教えてくれた、いや、願望としての贈り物だった。つまり清潔感があって、洗練されていて、教養があり、身なりがきちんとしていて、言葉づかいが上品で、給料がよく、成功していて、プロフェッショナルで、(時計の本来の機能を忘れずに)時間を守る、そんな時計にふさわしい男性という意味である。

 私には…そのうちのいくつかは当てはまる。私と母ではきちんとした身なりの定義が異なる(母は私がいつ“スラックス”を買うのかずっと気にしているし、ジョーダンの何がそんなに魅力的なのか、いまだに理解していない)。それよりも彼女は私が大学で過ごした4年間の成果を示す学位があることを望んでいるだろう。しかし私はプロフェッショナル(作家、教師)であり、10年働いて、成功したと言えるほど自分の業績に納得している。Facebookを立ち上げたとかDestiny's Childのリードシンガーだったとかいうのなら別だが、ミレニアル世代に高給取りはいない。私にとっての成功とはやりがいがあり、自分の才能を生かし、自分が重要だと思うアイデアに貢献し、さらに自分の野心を伸ばす余地を残したキャリアを切り開いたということだ。

 2020年秋に受賞した文学賞の賞金は5万ドル。この話をした理由の2割は自慢であり(私はヒップホップで育ったので、多少自分のことを話しても許してほしい)、残りの8割は私が賞金で最初に買ったものが時計だったからである。具体的にはハミルトンのカーキ フィールド デイデイトだ。私にとって初めての“いい”時計だ。私が“いい”と強調して言うのはいいかどうか疑っているからではなく、ハミルトンは時計愛好家のあいだで評判の高いブランドであり、何よりグリーンのダイヤルと迷彩柄のストラップが気に入っているからだ。とにかく、私のこれまでの時計とは一線を画すものなのだ。

 私はいつも腕時計をしている。腕時計がないと裸になったような気がするからだ。しかし賞金を使って今までの時計よりもっといいものを買おうと思うまでは時計についてあまり知らなかった。購入するまでの数ヵ月間、さまざまなセイコー、ティソ、フレデリック・コンスタント(私の価格帯のもの)のリンクを指定のフォルダにブックマークしておき、いろいろと見て回った。何度も何度も見返して、何度見ても気になるもの、そして何よりいちばん自分らしいと思えるものはどれかを確認した。ハミルトンにしたのはグリーンのダイヤルが目を引き、少し冒険的な感じがしたこと、そして迷彩柄が私の好きな柄だったからだ。この時計は今の自分の興味とこれから自分がどうなっていくかという新しいアイデアを融合させたものだ。ジーンズとヘンリーネックのシャツ、寒いときにはパーカーなどと合わせて普段使いできるものだが、十分にお洒落で目立つので人に注目される。そして私が最近ハマっている香水、メゾン・マルジェラのジャズクラブともよくなじむ。

 私は長いあいだ時計が好きだったが、手の届かないもの(前述のロレックスやJay-Zの歌詞のなかで出てくる時を失ったオーデマなど)や、メイシーズのガラスケースのなかに置かれたいわゆるファッションウォッチ(この言葉は詳細なリサーチを始めるまで聞いたことがなかったが、それまで私が買った時計はどれもこの分類に入る)のほかに世界があることを知らなかった。メイシーズが悪いわけではないが。

 私はこれまで“いい”時計を持ったことがなく、いつか手に入れたら、それが自分の成功の証になると思うほどだった。すべての“ベスト・ウォッチ・ブランド”リストを読みあさり、複雑機構、ベゼル、クロノグラフ、ラグ、ムーブメント、パワーリザーブなど新しい用語を覚え、今まで使っていた時計を全部合わせたよりも高価な、しかし一生大切に使える時計を購入した。その過程で、私は時計というものを単に時を告げる道具やファッションアクセサリーとしてだけでなく、人間の創意工夫や職人技の産物、そして伝統を守るものとして、より高く評価するようになったのである。

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 なぜなら熱烈な時計愛好家なら誰もが認めるように、我々はもはや時計本来の機能を必要としなくなっているからだ。私は毎日腕時計をしているのに、それでも時間を知りたいときにはスマートフォンやノートパソコンの画面を確認しまうことに、いまだに罪悪感を感じている。今、我々が時計に求めるものはその美しさはもちろんだが、我々に与えられた最も貴重な資源を正確にとらえ、手に届き、身につけられ、読み取れるパッケージにした何世紀にもわたって培われてきた技術に対する尊敬の念なのだ。時計の設計と製造には、とてつもない技術、忍耐力、ディテールへの執拗なまでのこだわり、そして正確さが求められる。それは人間が成し遂げた偉業に対する驚きであり、我々の現実に根差す伝統でもある。

 また技術的なものであると同時に実存的な伝統でもある。時計は自分が何者であるか、いや、何者でありたいか、あるいはそれ以上に他人からどのように見られたいかを教えてくれるものだ。ハミルトンは私の優れたセンスと完璧なスタイルを示すだけでなく、どこにでもあるような平凡なものを新鮮な視点で捉え、革新的なものに見せてくれることを求める。私がG-SHOCKに求めるのは内心不安を抱えている私を頑張りすぎず、カジュアルでクールに見せてくれこと。スカイブルーのダイヤルのセイコープレザージュに求めるのは冗談抜きの洗練を見せてくれることだ。

 我々は自分が欲するもの、消費するもの、所有するものを通して自分自身を定義している。これは決めつけというより観察だ。時計はどのようにして男性的な誇りを定義する方程式の一部となったのだろうと考える。時計は人間をはじめとする世の中のあらゆるものと同様に、本来は性別がないにもかかわらず性別がつけられてしまった。さらに不思議なのは、かつて男性が懐中時計を好んだように女性的な贅沢品と考えられていた腕時計が母が私にいつか体現してほしいと願った(今も願っていると思うが)男らしさと関連づけられるようになったことである。

 それは第一次世界大戦を契機に腕時計が主流になったことを知れば納得がいく。戦場では正確な時間を刻む必要があったが懐中時計では不便であったため、兵士は腕時計を着用することが一般的になり義務化されたのである。帰還兵は腕時計を愛用し、女性らしさとの関連は薄れ、戦争という男尊女卑のヒーローの手首を見ることで彼らを模倣するようになった。技術的な必要性が実存的な欲望を生んだのである。ライフルを持って敵を殺す必要はないかもしれないが、この殺傷能力のない戦闘用具を身につけることはその覚悟と意志を示すことになるのだ。

 そして、ここでまた私の難問に戻る。私が愛する腕時計の革新は私が道徳的、政治的に反対しているものと直接結びついているのだ。自分が完全な平和主義者だとは思っていないが、私の世代にとっては人生の大半において祖国は戦争をしていた。そして私は国民がその影響に無関心になり、戦争継続の曖昧で矛盾した理由を受け入れ、失われた命や生き残った人々の精神的・感情的負担にほとんど関心が払われないのを見てきた。

 話がそれたが言いたいことがないわけではない。時計がもたらす喜びとその歴史に縛られた感情を調和させるのは難しい。民族的な暴力と密接に結びついたものに憧れるのは不安である。時計メーカーは戦時中の技術革新と結びついた遺産を今でも誇りに思っているし、多くの時計コレクターも同じようにミリタリー仕様の時計を自慢している。こうして思い出さずにはいられない。そして、そのことを少し切り離したとしても、熟練した職人技の伝統は何十年にもわたって時計のマーケティングやプロモーションで示されてきたように家父長的、超男性的価値観の表現としての時計の伝統と依然として並行していることに変わりはないのだ。1950〜60年代の男性用腕時計の広告は主婦を対象にしたものが多く、一家の大黒柱にその地位を強化するような時計を身につけさせるよう暗示するものだった。一方、私が覚えている90年代のコマーシャルや印刷広告はほとんどが非のうちどころなく着飾った男性モデルで、腕時計と女性はアクセサリーとして身につけるものだった。私はモノとしての時計を楽しむために、こうした考えから距離を置きたいのだが、このような考えこそがこのモノに意味を与えているのだ。

 それでも私の愛は続いている。その理由のひとつは若いころの私には理解できなかった、男性的なかっこよさを連想させるからだ。しかし私の愛情はもっと深い。それは時計が装いに与える影響、時計が人間に与える影響、そして時間そのものがとても貴重であり、時計を身につけることでその時間を少しでも有効活用できるからだ。

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 この葛藤を有意義に解決するための答えは持ち合わせていないが、私の考えが現在どこにあるのかは言える。私は不本意ながら男である。それは私がどのように認識され、どのような特権を与えられているかを最も正確に言い表している。そして私は部分的にそれを受け入れている(胸と肩の幅が大きく見えるシャツは好きだし、レブロンがトマホークを決めたときは許容される範囲よりもやや大きな声で叫ぶ)。それが本当に好きだからか、“男の子”のものが好きな男の子として育てられたからかは別として。それ以外にも受け入れがたい部分があり、それを元に戻そうと日々努力している。それは長いあいだ、他人に危害を加え、何よりも権力と支配を求め、利己的で暴力的であり、他人の完全な自己表現の自由を否定してきた部分である。私は男という属性にあって(これからもそうだだ)、他者が自由に生きる権利を踏みにじってきた部分を理解し、それを放棄し、修復するためにできる限りのことをしたいと思っている。

 また、男らしさとは何かをさらに解きほぐし、再定義し、リミックスする方法として、男らしい伝統に引かれる自分の面倒で複雑な部分を受け入れたいと思う。そして時計を身につけることは少なくとも、他人の時間をどれだけ真剣に受け止め、その時間を無駄にしないかということを反映することができるはずだ。ロンジンのヘリテージ 1945やGMT機能を搭載したグランドセイコーに見とれている自分を責めるのではなく、欠点も含めて自分の欲望を認めてあげたい。そして時計を身につけ、一人の男として生きていく。母が望んだような男ではないかもしれないが見習うべき男でありたいと思う。

マイカル・デンゼル・スミス(Mychal Denzel Smith)氏は、最新作『Stakesis High』を含む2冊のノンフィクションを執筆している。

Illustrations by Najeebah Al-Ghadban