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セイコー 5718-8000、日本のすばらしいオリンピックの歴史を示すセイコーの希少なヴィンテージモデル

1964年の東京大会で誕生した偉大な発明はプリンターだけではなかった。セイコーの5718-8000 カウンター クロノグラフを紹介しよう。

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1964年の東京オリンピックは初めての衛星で生中継されたオリンピックだった。会場で競い合う各国の選手の姿が突然、8億人の視聴者の前にリアルタイムで映し出された。東京の街や住民、優れた技術が世界の目に晒されたのである。すでに復興を成し遂げつつあった国にとって、この大会は大きな恩恵をもたらした。

 真のグローバルブランドになるというセイコー経営陣の願いを叶えたのは同社の重要人物だった。1960年のローマオリンピック閉会直後、セイコーは64年大会の準備を最優先事項とし、技術面での膨大な努力によって数々のタイマーや時計、ストップウォッチを生み出す一方、セイコーを世界レベルに押し上げるためのマーケティング活動にも従事した。「Plus9time」のアンソニー・カブル(Anthony Kable)氏が64年大会で使用された計時機器についてすばらしい分析を行っている。一読の価値ありだ

 セイコーと1964年の東京オリンピックにまつわるものはすべてコレクション価値が高いが“欲望の金メダル”に相当する希少なモデルがある。それこそがセイコー 5718-8000 カウンター クロノグラフだ。12時位置に2桁のカウンターを備えたユニークなデザインが目を引く。カウンターはケース左側の2つのプッシュボタンで操作する。10時位置にあるボタンを押すと1の位の部分が進み、7時位置のボタンを押すと10の位の数字が進む。これは独自の機能であり、こうした機構はセイコーしか実現していない。カブル氏が発見した諏訪精工舎の1964年11月の社内報によると、カウンターはカレンダーとして使用できるのだという。カウンターの数字はもちろん“99”で終わる。このモデルはなんと3万8000円という価格(参考のために言うと、これは当時のロレックス サブマリーナーよりも高い)で売り出され、オリンピック村で販売されたそうだ。背面には象徴的なオリンピックトーチのモチーフが刻まれている。

 5718-8000はセイコー初のクロノグラフキャリバーである5719が使用し、その上に機能を追加している。5719はクラウン クロノグラフと呼ばれていた(セイコー初のクロノグラフでもあった)。「History of the Seiko Speed-Timer」(流郷貞夫著)によると、5719キャリバーに機能を追加してオリンピックタイマーを生み出したのはクラウン クロノグラフの父である大木俊彦氏ではなかった。上司のオノ・ツネヨシという人物だったのだ。

 このモデルの生産数は非常に限られている。正確な数字は不明だが、5718を2種類(シルバーとグレーのダイヤル)所有しているエリック・ストリックランド(Erik Strickland)氏はおよそ100本と見積もっている。販売されたのはわずか15日間(オリンピック期間中)だったため、大量生産できなかったのだろう。

 彼は既知のモデルを両方とも所有しているが探すのは大変だったという。彼は探索の様子についてこう記している。「せっせと時間をかけた。チャコールのモデルだけでも3年ほどかかった。保存した検索結果を再確認し、探索を続けた。とても長い時間に思えるだろうが、たくさんの物を探して学んでいるときは退屈ではない」。本稿のため、彼の2つのモデルを撮影させてもらった。

 彼にとって、この時計は何年もかけて探し求めたものであるだけでなく、セイコーが最も熱心に検討したデザインも象徴している。「クロノグラフの針は通常の針とは違う色合いで、ダイヤルとのコントラストが強くなっている。グレー地に白、白地に黒といった具合に。世の中のデザイナーたちはこの点を大いに誤解している。また視線を移すと磨き上げられた針やディテール、角度のあるトラックが光を捉える。すばらしい配色によって単調さが解消されている。だがよく見ると、カウンターのホイールがサンレイ仕上げのダイヤルと調和するように磨かれているのだ(グレーのモデル)。こんな製品が1964年につくられていたとは」

 もちろん、こうした経歴を持つからこそ、この時計は数多のセイコーコレクターにとって垂涎の的となっている。1964年は、アジアの国で初めてオリンピックが開催された年だった。それは第二次世界大戦によって世界全体がバラバラとなってから20年足らずというタイミングで、東京はまだ復興の途上にあった。ある意味では日本が世界の舞台に躍り出た瞬間だった。そしてセイコーにとっては、現在我々が知る「世界のセイコー」というブランドになった瞬間でもあったのだ。