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Adventure Time 時間に対する認識を一変させた、3度の雪崩と心臓発作

2度めの登場となるHODINKEEのコラムでは、偉大な米国人アルピニストが、一瞬が如何にして生死の分かれ目となるかについて解説。そして、登山中に心停止した時に、彼が脈拍をモニターするために使った時計を紹介する。

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時間は相対的なものだ。我々は全てを同じように覚えているわけではない。我々の心に刻まれる瞬間とは、何かが変わる瞬間である。

 アルピニストとして、我々はそれが頂上を極めた瞬間であることを願っている。雲が切れ、一筋の太陽の光が降り注いで我々の額を照らし、チームメイトと喜びを分かち合う瞬間である。登山は本質的に取るに足らないもので、危険であり、利己的な追及である。もしあなたが山で人生を過ごし、それでもこれを読むことができるなら、自らを危険にさらすことの価値を理解し、受け入れている人であろう。そして、我々は山頂でのわずか数分間の歓喜のために山を登るのである。

 しかし、我々が覚えている瞬間は、必ずしも幸せなものとは限らない。山では人が死ぬという現実がある。そして、時に我々の心に残るのは、死の瞬間、あるいは死にかけた瞬間であることもある。

 私はこのような瞬間を何度か経験した。物事が全くうまくいかず、時計の針を元に戻すことができない瞬間である。

 私は、カリフォルニア州トゥオルミ郡にいた子供の頃、そんな経験をした。毎年秋になると、家族で薪を切りに出かけ、祖父母と一緒に過ごす時間や電動工具に触れる機会があり、また楽しいピクニックもした。私たち子どもは祖父のピックアップトラックの荷台に座って、「いい子にしていなさい」と言われていた。私もいつも新鮮な空気を求め、荷台の端に座るようにして、レールの上に腰かけたかった。舗装されていない悪路を走っていると、トラックが急に傾き、私は振り落とされてしまった。どういうわけか私の猫のような本能が開花し、足から着地することができた。この出来事は家族の間で今も語り継がれている。

 そして、私は雪崩を引き起こしてしまったことがある。

 私は当時10代で、アゾロ エクストリームのテレマークブーツにフィッシャー ヨーロッパ 99のスキニースキーを履いて、意気揚々としていた。私は自分自信にチャレンジしようとしていた。パートナーのセス(Seth)と私は、コンディションの良い南向きの斜面を登っていた。太陽と夜の気温差が、私たちを支えるクラスト(凍結雪面)を作っていた。登りのルートを横殴りに吹いた風が、風下の方に雪の吹き溜まりを作っていた。これから楽しむパウダースノーのことを考え、雪のダイナミクスのことは頭の片隅に置いていた。不運にも、最初のターンは、厚さ2feet(約60cm)の雪崩を惹き起こすのに十分なエネルギーがあった。その結果、瓦礫の山を作ってしまうことになったのだが、もし私が雪崩に捕まっていたら、間違いなく死んでいたに違いない。今にして思えば、特に今日我々が理解している状況を考えると、あの日の私の行動は全て間違っていた。

1987年、絶壁に吊り下がるとは向こう見ずである(Photo by Bob Ingle)。

 このような瞬間は痕跡を残す。登山をする人でなくとも、感じることがある。瞬時の判断で交通事故を間一髪回避して、アドレナリンが湧き出てくるのを実感したことがある人もいるかもしれない。その経験から学び、それをコミュニティで共有することで、他の誰も同じような経験をすることがないよう願うのだ。そして、人の命は、数分、数時間、数年、数十年ではなく、数秒、数分の一秒にかかっていることに気づくのである。

 だが、時に我々は学ばない。過ちを繰り返してしまう。1992年に、私はまた別の雪崩を引き起こしてしまった。今度は南極だ。私のパートナー、ジェイ・スミス(Jay Smith)は、山の片側を登っていたのだが、我々は経験したことのない新しい局面に放り出されようとしていた。私は圏谷(けんこく)に降りて行き、10代の頃に起きたのと同じ状況が繰り返されることになった。雪が崩れ始めたので、私は、雪の裂け目の線より上にいるジェイを見ようと振り返った。ほんの一瞬、私は雪の外に出れば全てがうまくいくだろうと思っていた。悲しいかな、重力は私の心よりも強かった。

 私は2000feet(約600m)滑り落ちた。最初はゆっくりと、そして次第に速度を増しながら転がり落ちた。私は雪に翻弄され、埋もれてしまい、真夏の南極で光のない世界に閉じ込められてしまったのである。雪の動きが止まれば死んでしまうかもしれないと思い、私は必死で雪面近くにいようともがいた。私は死ぬかもしれない。ある時点で、光のトンネルから明るい死の閃光が見えてきたとき、私はこう自分に言い聞かせた。「今日がその日じゃないぞ」と。雪や氷は動きを止め、私は自分が引き起こしてしまった瓦礫の上にいた。私はその場を去り、我々はプロジェクトを断念した。

 それから7年後。3度めの雪崩だが、今回は私が引き起こしたわけではない。我々のチームは、8000mの山頂でのスキーと撮影をするという野心的な目標を掲げていた。シシャパンマはチベットにある世界で14番めに高い山である。このルートでは、隣接する山頂での高地順化が必要だった。ヒマラヤの巨大な壁の堆積区(なだれ落ちた雪が堆積するところ)を縦走している途中、雪と氷の津波が我々に押し寄せ、「しまった」という瞬間に見舞われることになった。雪崩を引き起こした原因は分からない。風の影響なのか、太陽による温度の変化なのか、それともかすかな地震のせいなのか? 単に、我々がたまたまその場に居合わせたのかもしれない。デビッド・ブリッジズ(David Bridges)とアレックス・ロウ(Alex Lowe)は命を落とし、私はその場を立ち去った。それは、この瞬間を生きるという教訓を得るために支払った最も高価な代償だった。

南極大陸での山スキー。1997年。(Photo by Conrad Anker)

私の登山家としてのモチベーションは、“今、この瞬間 ”を増幅させる体験を探し求めることだ。そのためには、死につながる瞬間もあることを認めるしかない。

 私は死後の世界は信じていない。死は偉大な命の回収者、死神だと思う。私にとって死を目前にすることは、この死神の訪問を受け、会話をし、そしてそれぞれ別の道を歩むことのような気がしている。

 2016年以前は、私の死神との会話は怒鳴り合いのようなものだった。あっという間に状況は悪化し、私の人生は終わったかのようだった。同じ一瞬の内に私は試練を乗り越え、まだ息をしていた。死神は私の命を求めて叫び、私がより大きな声で叫び返す。「今日じゃないぞ!!」 私は、死を睨み倒したことで、少し強くなったような気になって立ち去る。しかし、2016年11月16日、死神はもっとじっくりとした会話を求めてきた。

 私はもっとよく知っておくべきだった。54歳でテクニカルな高地登山に挑戦するには、私は最盛期を過ぎてしまっていたことを。

 この遠征では2つの時計を併用した。低地ではアナログ、高地ではデジタルである。デジタル時計は、以前に記事「エベレスト登頂に携行した2つの時計」にも書いたスントの高度計である。アナログは、時計ブランドのチューダーが、映画『Meru/メルー』の公開を支援してくれたこともあり、実用的なブラックベイをプレゼントしてくれた。アプローチの際には、休憩の間の時間を記録し、チューダーのナイロン製ストラップを小川ですすいだりしていた。秒針の機能は、私が予想もしていなかった点で役に立つことになった。

2016年当時の私のチューダー。

 ウィルダネス・ファースト・レスポンダー(主にアウトドアでの事故発生時、医療従事者でない人が医療体制へ引き継ぐための野外救急法)として、我々は、10秒、15秒、60秒間隔で心拍数を測り、掛け算することで、人の心拍数を測定する方法を勉強し、練習し、実行している。私の安静時の脈拍はここ数十年の間ほぼ60、つまりおよそ1秒に1拍である。運動や感情の変化で心拍数が上がったとき、私は、右手の橈骨動脈拍動を見つけ、人差し指と中指を動脈に当てて、拍動を数えながら秒針を見る方法を頭の中で思い浮かべる。

 この頂上を目指すのはこれが2度めだ。2015年には、パートナーのデビッド・ラマ(David Lama)と私は登頂できずに引き返している。我々の2度めの挑戦は、季節が遅かった。気温は下がり、貧弱な氷は、毎日、強烈な日差しで溶けて穴が開いては再び凍り、威嚇的で不吉な雰囲気を漂わせていた。死神がやって来て会話するようけしかけるような雰囲気である。落ちてくる岩の破片群ではなく、この時の会話は、私の左胸骨を叩くという形でやって来た。

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 最初の数ピッチを登っている途中、冠動脈の左前下行枝が血栓で塞がれてしまった。心臓発作は、私と同年代のアメリカ人男性の100人に2.1人が経験すると言われている。心停止が始まると、それは尋常ではない痛さである。心臓にかかる“負荷”と肺機能の低下は、2万feet(約6000m)ではさらに倍加する。選択肢が一つしかないことは痛いほど明らかだった。一刻も早く下山しなければならない。

 死神が私に話しかけてきた。デビッドと私は急斜面をラッペリング(懸垂下降)して、氷河をクライムダウン(ロープ懸垂をせずに、岩場を自分の手足のみで下りること)しているときも、その会話が続いた。私は何とかテントにたどり着き、衛星電話で一緒に取り組んできた協力者であるジバン(Jiban)に連絡を取った。その後、地元の輸送用ヘリコプターでカトマンズまで乗せてもらい、7時間後に着陸した。カトマンズの病院で、私は血管形成手術を受けた。この厳しい試練の間中、私はブラックベイで自分の脈拍をモニターした。一秒一秒が重要だった。

 発症から手術までの9時間に及ぶ会話では、死神は礼儀にかなった会話を続けた。怒鳴ることもなく、「生きるか死ぬか」の瞬間もなく、むしろ淡々とした対話で私をあの世へと誘うのだった。内なる清算である。

 体がぐったりして、体調は悪化していった。もうダメだ、と思った。しかし、現代医学と献身的な医師たちのおかげで、我々は死神にドアから出て行ってもらうことができたのだ。

After surviving the heart attack. (Photo by Norbu Tenzing Norgay)

人生には様々な章がある。最初の20年間は、両親の助けを借りながら、私は自立する術を見つけ出した。それからの30年間は世界中を旅し、急峻な山々を探して冒険を繰り返した。58歳になった今、私は諦めなければならないところまで来てしまった。肉体的には、かつてのレベルには及ばない。そして精神的には、報酬を正当化できるほどのリスクを受け入れることはできないのだ。

 最近の死神との会話はうなずけるものだった。私は明快な呼びかけを聞いた。もう辞めるべきだと言う。お前はこれまでに楽しい思いをしてきたが、それはもう終わりだと。自らに証明するものは何もない。もう終わりにしろ、と言うのだ。

 私はそのやり方を学んでいる。しかし同時に、次のピッチに向けて一休みしながら、風に激しく吹かれ、凍てつく寒さにさらされながら、切り立った峰々の頂を見渡すときの激しさに憧れている。私はいつも、たとえそれがせいぜい数分しか続かないとわかっていても、次の栄光の瞬間ために全てを賭けたい誘惑に心駆られるのだ。

コンラッド・アンカーは、世界で最も栄誉を受けたアルピニストの一人で、生涯にわたり、南極からザイオンまでさまざまな山頂を極めてきた。彼は、26年間にわたりザ・ノース・フェイスのアスリートチームを率い、1999年には『The Lost Explorer(ザ・ロスト・エクスプローラー)』を共著、2015年にはドキュメンタリー映画『Meru/メルー』に出演した。モンタナ州在住。

Hero photo by Seth Shaw